カルロス編 第三章「本物」
他人の長所を取り込み、自分との差を埋め続けるカルロス。
いや。
もう、その名前すら本人の中では薄れ始めていた。
能力の覚醒によって、彼は他人の動きや癖、考え方を、見るだけで自分のものにできるようになる。
ダリオの説明力も。
レオの反応も。
マースの笑い方も。
できる。
全部、自分にもできる。
それなのに。
周囲はまだ、本物を呼ぶ。
「ダリオ、これ教えて」
同じことができる。
むしろ自分の方が上手くできる。
なのに選ばれるのは自分ではない。
そこで、彼の中の嫉妬は一線を越える。
本物がいるから、自分が選ばれない。
友人だったダリオを手にかけた後、翌日の教室で差し出されたノート。
昨日までダリオへ向けられていた「教えて」という言葉が、今度は自分へ向けられる。
そして初めて知る。
本物が消えれば。
自分が選ばれる。
罪悪感に震えながら。
泣きながら。
それでも彼はノートからダリオの名前を消し、
取得済
と書いた。
残り差分――31。
減っているのは、他人との差だけではない。
# 第三章 本物
朝、目を覚ました彼が最初に見たのは、薄暗い天井だった。
カーテンの隙間から細い光が差し込み、壁を斜めに切っている。
外で金属のシャッターが持ち上がった。
続いて、食器の触れ合う音。
誰かの一日が始まっている。
彼は枕に頭を沈めたまま、右手を持ち上げた。
指を開く。
握る。
もう一度、開く。
親指を曲げる。
手首を返す。
ただそれだけの動作なのに、以前とは感覚が違った。
失敗作の手首を掴んだ時の角度。
ダリオがペンを持つ時の指の形。
レオが笑いながら机を叩く時の力加減。
マースが誰かの肩へ手を置く時の軽さ。
全部、身体のどこかに残っている。
思い出している、という感覚ではない。
知っている。
やろうと思えば、すぐに出せる。
彼は身体を起こした。
乱れた前髪が目にかかる。
右手が上がった。
指先で髪を払う。
そこで止まる。
今の払い方。
誰だ。
少し考えた。
分からない。
「……まあいいか」
ベッドを降りる。
鏡の前に立った。
映っている顔は昨日と同じだった。
少なくとも、そう見える。
彼は鏡へ顔を近づけた。
瞳。
鼻。
口。
頬。
一つずつ確認する。
試しに笑う。
ふっ、と先に息が抜けた。
首がわずかに傾く。
目尻が柔らかく落ちる。
マースの笑い方だった。
表情を戻す。
今度は顎を少し引く。
相手の目を見る。
急かさない。
兄が誰かの話を聞く時によくする顔。
次。
口元だけを軽く上げる。
レオ。
「……すげえ」
思わず笑った。
その笑い方だけは、誰のものか分からなかった。
少し嬉しかった。
鏡の前で肩を動かす。
立ち方を変える。
重心を右へ。
左へ。
ダリオなら、もう少し肩の力を抜く。
やってみる。
できた。
簡単だった。
少し前までは、一つ覚えるために何度も鏡の前へ立った。
声の高さ。
首の角度。
目線。
手の置き場所。
翌日使って、相手の反応を見る。
修正する。
また使う。
今は必要ない。
見たものが、そのまま出る。
机へ向かう。
椅子を引く時、片足を少し後ろへ引いた。
それも誰かの癖だった。
机の上のノートを開く。
最初のページ。
『C』
指先が文字の上で止まった。
意味は分かる。
自分のことだ。
けれど、その一文字から自分の顔を思い浮かべようとすると、ほんの少し時間がかかった。
眉間に皺が寄る。
以前は何と書いていたのか。
カ――。
そこまで浮かんで、止まる。
指が無意識にペンを回した。
一周。
二周。
ダリオの回し方だった。
「……まあいいか」
ペンを置く。
困らない。
名前が分からなくても、数字は分かる。
『残り差分:34』
その数字を見た時の方が、肩の力が抜けた。
そちらの方が。
よほど自分自身を正確に示している気がした。
---
学校へ着く頃には、通りの店がほとんど開いていた。
焼いたパンの匂い。
コーヒー。
石鹸。
店先で交わされる声。
すれ違った女が、向こうから来た男へ笑いかける。
男も笑う。
少し先では店員が常連らしい客へ、注文を聞く前からカップを差し出した。
誰が誰を知っている。
誰が誰へ笑う。
誰が先に声をかける。
誰の隣へ立つ。
以前なら気にしなかった。
今は勝手に目に入る。
校門が見えた。
「カルロス!」
足は止まらなかった。
誰かを呼んでいる。
そう思った。
もう一度。
「カルロス!」
視線だけを動かす。
レオがこちらへ手を振っている。
そこで初めて、自分のことだと理解した。
「何」
「何じゃねえよ。聞こえてただろ」
レオが駆け寄り、肩を軽く小突いた。
彼の身体が半歩揺れる。
その手の強さ。
触れた位置。
レオはいつも同じだ。
「ぼーっとしてた」
「珍しいな」
レオは歯を見せて笑った。
彼の口元も、ほとんど同時に上がりかける。
途中で止めた。
レオは気づかない。
そのまま先に校舎へ入っていった。
彼も後を追った。
教室へ入る。
椅子を引く音。
紙をめくる音。
窓際では二人が机を寄せている。
後ろでは誰かが菓子の袋を奪い合っていた。
笑い声。
その中で。
ダリオが机いっぱいにノートを広げていた。
彼の机の横には、すでに一脚、椅子が寄せられている。
レオがそこへ向かった。
迷わない。
「ダリオ、昨日の課題ここ教えて」
カルロスは自分の椅子の背へ手をかけた。
少し浮かせる。
そのまま止まった。
持っていく理由がない。
静かに戻す。
椅子の脚が床へ触れた。
ダリオはペンを指の間で回し、ノートをレオ側へ向けた。
「どこ?」
「ここ」
レオの指。
ダリオの視線。
二人の肩が近づく。
胸の奥が、小さく疼いた。
昨日、自分も同じ問題を解いていた。
解き方だけではない。
ダリオがどう説明するかも、もう分かる。
どこで式を区切る。
どの例を使う。
相手の眉が寄ったら、一つ戻る。
瞳が式を追えなくなったら、言葉を変える。
全部知っている。
「ここは先に式を崩した方が早い」
やっぱり。
ダリオのペン先が式をなぞる。
レオが身を乗り出した。
カルロスの瞳が二人の間を動く。
レオの視線。
ダリオ。
ノート。
またダリオ。
それでも最初に呼ばれた名前は。
ダリオだった。
胸の奥がざらつく。
同じことができる。
自分にも。
いや。
今ならもっと上手くできるかもしれない。
「レオ」
二人が振り向いた。
カルロスは立ち上がる。
今度は椅子を置いていく。
二人の机まで歩き、横からノートを引き寄せた。
「そっちからやるより、ここまとめた方が分かりやすい」
ペンを取る。
言葉は詰まらなかった。
ダリオの説明の順番を使う。
余計な部分だけ削る。
レオの顔を見る。
眉。
瞳。
口元。
理解が止まった。
そこだ。
すぐ言葉を変える。
レオの眉が上がった。
「あ、そっちの方が分かりやすい」
胸のざらつきが消えた。
指先が軽くなる。
ほら。
できる。
ダリオでなくてもいい。
むしろ、自分の方が――。
「でもダリオ、やっぱ教えるの慣れてるよな」
レオが顔を上げた。
視線が。
カルロスを離れる。
ダリオへ戻る。
ダリオは肩を竦めた。
「こいつが途中で横取りしただけだろ」
笑う。
冗談。
ただの冗談だった。
カルロスはペンを握ったまま動かなかった。
親指の爪が、人差し指へ食い込む。
横取り。
違う。
自分にもできた。
同じことができた。
むしろ今の説明は自分の方が分かりやすかった。
レオが笑いながらダリオの肩を叩く。
ダリオも笑う。
二人の間へ自分の手が入る場所はない。
それなのに。
まだダリオなのか。
誰かに教える人間はダリオ。
頼る相手もダリオ。
人が椅子を寄せるのも。
先に名前を呼ばれるのも。
ダリオ。
自分が同じものを持っても。
名前は変わらない。
「……何で」
声が漏れた。
「ん?」
ダリオが振り向く。
カルロスは瞬間的に口角を上げた。
「何でもない」
マースの笑い方だった。
ダリオは少しだけ眉を寄せた。
それも一瞬。
すぐレオへ戻る。
カルロスは自分の席へ戻った。
椅子を引く。
座る。
さっきと同じ場所。
少し離れた席で、エミリアがこちらを見ていた。
目が合う。
エミリアの瞳が一度、カルロスの手元へ落ちる。
まだダリオのペンを持っていた。
カルロスはそれを見る。
ゆっくり机へ戻した。
エミリアは何も言わなかった。
昼休みになっても、胸に残ったざらつきは消えなかった。
机が動く。
椅子が動く。
人が人の隣へ集まる。
食事の匂い。
笑い声。
誰かが名前を呼ぶ。
呼ばれた人間がそちらへ行く。
カルロスはパンを持ったまま、それを眺めていた。
ダリオの机にも人が来る。
ダリオは何も悪くない。
呼ばれれば答える。
分からないと言われれば教える。
カルロスと目が合えば、普通に笑う。
だからこそ、嫌だった。
もし嫌な奴なら嫌えばいい。
偉そうなら反発できる。
見下されれば怒ればいい。
けれどダリオは。
ただダリオであるだけで選ばれている。
それだけだった。
---
放課後。
カルロスが鞄へノートを入れていると、机の横に影が落ちた。
顔を上げる。
ダリオだった。
片手で鞄を肩へ引っかけ、前髪を指で押し上げる。
「今日帰る?」
カルロスの瞳が、その指を追った。
前髪を払う角度。
手首。
指。
「……うん」
「途中まで一緒?」
ダリオが首を少し傾ける。
カルロスも。
同じ方向へ首が動きかけた。
止めた。
「うん」
二人で学校を出る。
夕方の住宅街。
開いた窓から料理の匂いが流れてくる。
店先では客と店員が話している。
子供が二人の横を走り抜けた。
「危ね」
ダリオが肩を引く。
カルロスも同じだけ引いた。
ダリオは気づかない。
課題のこと。
レオの馬鹿な話。
次のテスト。
ダリオは話しながらよく手を使う。
面白い話では右手が大きく動く。
考える時は顎へ触れる。
笑う前に少し鼻から息が抜ける。
全部。
知っている。
「お、ダリオ」
店先から男が声をかけた。
ダリオが振り向く。
「どうも」
足を止める。
カルロスは二歩先まで進んでから止まった。
振り返る。
ダリオが男と笑っている。
自分は呼ばれていない。
待つ。
手持ち無沙汰になり、片足へ重心を寄せる。
その瞬間。
気づいた。
ダリオと同じ立ち方だった。
カルロスは足を戻した。
「悪い」
ダリオが追いつく。
「別に」
また歩く。
「なあ」
ダリオが言った。
「最近ちょっと変じゃね?」
カルロスの足が止まりかける。
「何が」
「お前」
ダリオはまだ笑っている。
けれど視線はカルロスの顔から外れない。
「前より喋るようになったし、雰囲気も違うし」
「良くなったってこと?」
「まあ、そうなんだけど」
ダリオは前髪を指で押し上げた。
少し考える。
カルロスの右手が上がった。
同じように前髪へ触れる。
「誰かっぽい時あるよな」
手が止まった。
ダリオの瞳が。
カルロスの指へ落ちている。
カルロスはゆっくり手を下ろした。
靴底が、ざり、と路面を擦った。
「誰かって?」
「マースとか。たまにレオっぽいし」
ダリオは笑いながら自分の胸を指した。
「俺っぽい時もある」
喉が締まった。
「……嫌?」
「いや。別に」
即答だった。
「仲いい奴って似るし」
優しい言葉だった。
ダリオは笑う。
けれど。
歩き出した時。
二人の肩の距離は、さっきよりわずかに広かった。
カルロスはそこを見た。
責める気なんて少しもない。
なのに。
頭の中では違う言葉へ変わっていった。
似ている。
でも、本物はダリオ。
真似しているのは自分。
本物。
偽物。
「もしさ」
ダリオが振り向く。
「同じことできる奴が二人いたら、片方いらなくね?」
眉が寄る。
「何の話?」
「同じことできるんだよ。全部」
「だからって、どっちかいらなくなるわけないだろ」
「何で」
ダリオは立ち止まった。
カルロスも止まる。
ダリオの髪が風で揺れる。
目にかかった一本を指で払った。
「人間だから」
あまりにも簡単に答えた。
「同じことできるからって、同じ奴じゃないじゃん」
肩を軽く竦める。
カルロスの瞳が動く。
指。
髪。
眉。
肩。
立ち方。
全部、できる。
無意識に右手が上がった。
同じ角度で前髪に触れる。
肩が上がる。
ダリオと同じ高さ。
ダリオの表情から、笑みが消えた。
二人の目が合う。
カルロスは手を下ろした。
「……何」
「いや」
ダリオは先に歩き出した。
カルロスは動かなかった。
数歩分。
距離が開く。
同じことができても、同じではない。
能力も。
話し方も。
考え方も。
癖も。
全部持っていても。
まだダリオはダリオで。
自分は別の何か。
その差が残る。
消せない。
頭の中に数字が浮かんだ。
三十四。
残り差分。
三十四。
もし。
本物がいなくなったら。
何と比較する。
「カルロス?」
遠くから声がした。
反応が遅れた。
「何ぼーっとしてんの」
ダリオが戻ってくる。
顔を覗き込む。
カルロスはその瞳を見る。
そのまま視線が下がる。
肩。
腕。
脚。
いつの間にか。
自分の足の位置が。
ダリオと同じだった。
歩幅も。
肩の動きも。
呼吸も。
同じ。
「……いや」
歩き出す。
今度はカルロスが先だった。
本来の帰り道へ続く角を通り過ぎる。
「おい」
ダリオの声。
カルロスは止まらない。
「こっちだっけ?」
「近道」
嘘だった。
驚くほど自然に出た。
ダリオが小走りで追いつく。
住宅街から離れる。
一つ曲がる。
人の声が減る。
もう一つ。
料理の匂いが消える。
店の明かりがなくなる。
カルロスは歩く。
ダリオは後ろからついてくる。
その足音を聞きながら。
さらに人のいない方へ。
夕日が建物の向こうへ沈んでいく。
二人の影が長く伸びた。
並んだ。
二人分の足音が、同じ間隔で響く。
カツ。
カツ。
カツ。
倉庫街へ入る。
閉じたシャッター。
積まれた木箱。
壁際の台車。
油と埃。
ダリオが歩調を緩めた。
首を巡らせる。
「何か気味悪いな、ここ」
「そう?」
カルロスは振り返らない。
「お前平気?」
「うん」
本当に平気だった。
先を歩くダリオを見る。
肩。
首。
腕。
歩き方。
呼吸。
さっきまでは。
欲しかった。
今は違う。
右肩が動けば、次に腕が来る。
重心が左へ寄れば、右脚が出る。
振り返る前には呼吸が一度止まる。
全部分かる。
どこへ手を出せば。
どう反応する。
どうすれば声を出す前に止められる。
知っている。
カルロスの足が止まった。
ダリオとの距離が開く。
やめろ。
友達だ。
何も悪くない。
帰れ。
カルロスは一度、後ろを見た。
遠く。
住宅街の灯りが見える。
戻れる。
足先が、そちらへ向きかける。
「来ないの?」
ダリオが振り返った。
夕日の逆光。
髪の輪郭だけが光る。
「……行く」
足先を戻す。
一歩。
また一歩。
横へ並ぶ。
ダリオが何かを話し始めた。
内容は入ってこない。
唇が動く。
首が傾く。
腕が上がる。
息を吸う。
そこだけを見る。
だから。
どうすれば止められるのかも分かる。
できる。
簡単に。
「ダリオ」
「ん?」
振り向く。
身体が先に動いた。
片手で口を塞ぐ。
もう片方を首へ回す。
ダリオの瞳が一気に開いた。
「んっ……!」
肩が跳ねる。
肘が来る。
分かっていた。
半歩ずらす。
空振る。
脚を払う。
どんっ。
背中が壁へぶつかる。
前髪が額へ落ちる。
「っ……!」
ダリオがカルロスの手首を掴む。
爪が食い込む。
カルロスの手が一瞬外れた。
ダリオが大きく息を吸う。
「な、何――」
首を掴む。
強く。
指が食い込む。
ダリオの顎が上がる。
口が開く。
息が出ない。
瞳だけが激しく動く。
恐怖。
理解できない。
当然だった。
「カル……」
その名前が耳へ入った。
カルロスの眉が動く。
一瞬。
本当に分からなかった。
誰を呼んでいる。
指から力が抜ける。
ダリオが身体を折って咳き込んだ。
前髪が垂れ、表情を隠す。
「何してんだよ……!」
顔を上げる。
目が合う。
その瞳を見た瞬間。
カルロスの肩が落ちた。
「……ごめん」
本当に。
そう思った。
「ごめん」
ダリオは首を押さえたまま後ろへ下がる。
カルロスが一歩出る。
ダリオが一歩下がる。
「何で……何なんだよ、お前」
お前。
カルロスの足が止まる。
誰。
「俺だってできるんだよ」
「何が」
「お前ができること」
一歩。
「説明も、考え方も、喋り方も。全部できる」
ダリオの肩が引ける。
「だから何だよ」
「なのに」
声が震える。
指も震えている。
「何でまだお前が呼ばれるんだよ」
「……は?」
「俺の方ができる」
「何言ってんだよ」
「俺の方が」
息を吸う。
「昨日だって俺の方が分かりやすかっただろ!」
声が倉庫の壁へぶつかった。
ダリオの瞳が揺れる。
「カルロス」
また。
その名前。
今度はひどく遠い。
「落ち着け」
ダリオは顎を少し引いた。
声を低くする。
相手を刺激しないように。
知っている。
その顔。
その声。
その呼吸。
カルロスの顎も。
同じ角度へ下がった。
「その言い方もできる」
ダリオの瞳が止まった。
「……何?」
「それもできるんだよ」
カルロスは笑った。
息を先に抜く。
目尻。
口元。
ダリオと同じ。
ダリオの顔が歪んだ。
初めて。
明確な嫌悪。
身体がわずかに後ろへ逃げる。
「……気持ち悪い」
カルロスの笑顔だけが残った。
遠くを走っていた車の音が。
消えた。
ジョナの声。
カルロスじゃないみたい。
ダリオの声。
気持ち悪い。
笑顔が崩れる。
違う。
自分は良くなった。
出来るようになった。
足りないものを埋めた。
それなのに。
なぜ。
「……俺の方が」
ダリオが身体を翻す。
逃げる。
腕を掴む。
今度は考えなかった。
どんっ。
後頭部が壁へぶつかる。
髪が跳ねる。
鈍い音。
膝が崩れる。
まだ動く。
「待っ――」
もう一度。
どんっ。
身体から力が抜けた。
ずるりと壁を滑る。
膝。
肩。
最後に頭が傾いた。
前髪が目にかかった。
ダリオは払わない。
カルロスの手が止まる。
さっきまで。
あれほど動いていたのに。
指も。
瞳も。
肩も。
呼吸も。
何も返してこない。
「……ダリオ?」
しゃがむ。
肩へ触れる。
揺らす。
頭が力なく傾く。
髪が頬へ落ちる。
戻らない。
「おい」
もう一度。
「……嘘だろ」
手を見る。
赤い。
指が震える。
「違う」
息が浅くなる。
胸だけが速く上下する。
「違う、違う……」
ダリオを見る。
動かない。
前髪も。
指も。
瞳も。
さっきまで普通に話していた。
歩いていた。
笑っていた。
名前を呼ばれて。
返事をして。
友達だった。
「何してんだよ……」
両手で頭を抱える。
指が髪へ食い込む。
「ごめん」
涙が落ちる。
ダリオの袖へ一滴落ちた。
「ごめん……」
返事はない。
その時。
ポケットの中でスマホが震えた。
ぶぶっ。
カルロスの肩が跳ねる。
画面を見る。
レオ。
『ダリオ一緒?』
親指が画面の上で止まる。
ダリオを見る。
スマホを見る。
もう一度。
ダリオ。
その頭の奥に。
最低な考えが浮かんだ。
明日。
ダリオはいない。
誰かが数学を分からないと言う。
その時。
誰を呼ぶ。
胸が。
どくん、と鳴った。
吐き気とは違う。
カルロスは口元を手で押さえた。
そんなことを考えるな。
違う。
違う。
でも。
消えない。
本物がいなければ。
次は。
自分が選ばれる。
「……最低だ」
涙が落ちる。
本当に最低だった。
それでも。
震える指の向こうで。
口元が。
ほんの少しだけ。
上がりかけた。
---
翌朝。
教室には昨日と同じように朝の光が入っていた。
椅子を引く音。
紙をめくる音。
廊下を走る足音。
誰かの笑い声。
昨日とほとんど同じ。
一つだけ違う。
ダリオの席。
空いている。
椅子は机の下へ収まったまま。
誰も引かない。
「連絡つかねえ」
レオがスマホを握っている。
何度目かの画面確認。
ニナは自分の席に座りながら、何度もダリオの机へ顔を向ける。
エミリアは窓際に立っていた。
腕を組み。
爪先だけが一定の間隔で床を叩いている。
教師が入ってくる。
全員の視線が向く。
「連絡が取れていない」
それだけ。
教室がざわつく。
カルロスは俯いた。
机の下。
両手を握る。
指が冷たい。
誰かが歩くたび。
身体が強張る。
視線を感じるたび。
喉が狭くなる。
バレる。
バレる。
バレる。
「カルロス」
肩が跳ねた。
顔を上げる。
レオ。
ノートを片手に立っている。
「ここ、分かる?」
差し出されたページ。
昨日まで。
ダリオへ差し出していたもの。
同じページ。
同じ問題。
カルロスはノートを見る。
次に。
空席を見る。
そしてレオを見る。
レオの身体は。
自分の机へ向いている。
喉が鳴った。
「……うん」
ノートを受け取る。
指が触れそうになり、レオが先に離す。
説明する。
言葉は自然に出た。
順序。
例。
間。
レオの眉を見る。
理解が止まる。
言葉を変える。
ダリオと同じ。
いや。
少しだけ。
分かりやすい。
レオの瞳が明るくなった。
「ああ」
頷く。
「分かった。助かった」
その一言が。
身体の奥へ入った。
カルロスの指から震えが消えた。
嬉しい。
そう思ってしまった。
「……うん」
レオがノートを持って離れる。
カルロスはその背中を追った。
昨日なら。
あの背中はダリオの机から離れていた。
今日は。
自分。
机の上へ視線を戻す。
手が震えている。
吐きたい。
泣きたい。
なのに。
口元が。
上がっている。
カルロスは慌てて唇を手で覆った。
「……違う」
その時。
視線を感じた。
顔を上げる。
エミリア。
窓際からこちらを見ている。
目が合う。
彼女の瞳が。
カルロスの口元を覆う手へ落ちた。
また顔へ戻る。
表情が硬い。
「何」
エミリアは答えるまで一拍置いた。
「……別に」
目を逸らす。
けれど身体はすぐには動かなかった。
少しして。
ジョナが来た。
椅子を引く。
以前より少し離れた位置。
カルロスの目が、その椅子の脚を追う。
前は。
もう少し近かった。
「カルロス」
反応できなかった。
もう一度。
「カルロス」
ジョナが身体を少し前へ倒す。
髪が頬へ落ちる。
「……何」
「今、呼んだのに」
ジョナの眉が寄る。
「聞こえてた」
「嘘」
カルロスの指が机の端を掴んだ。
ジョナは黙って顔を見る。
目。
口。
頬。
何かを探すように。
「最近さ」
声が小さい。
「名前呼ばれても、すぐ反応しないよね」
胸が鳴る。
「気のせい」
「そうかな」
ジョナは目を逸らさない。
カルロスの方が先に逸らした。
しばらくして。
ジョナが身体を戻す。
椅子の背へ寄りかかる。
その距離は。
縮まらなかった。
まるで。
その顔の中に。
誰がいるのかを確かめるように。
---
その夜。
カルロスは机の前に座っていた。
窓の外を車が通る。
光が一瞬だけ天井を滑って消える。
ノートを開く。
『C』
指で触れる。
何も感じない。
ページをめくる。
ダリオ。
論理。
説明。
順序。
言葉の使い方。
カルロスはペンを持つ。
指の位置。
ダリオ。
握る強さ。
ダリオ。
ペン先を紙へ落とす。
ダリオ。
全部。
もう使える。
二本線。
ダリオ。
名前を消す。
胸が痛む。
手が止まる。
一滴。
紙へ涙が落ちた。
文字が少し滲む。
「ごめん」
それでも。
その下へ。
『取得済』
書く。
手が震えた。
怖い。
消したい。
親指が紙を擦る。
インクが少し伸びた。
でも。
消さなかった。
ページの下。
残り差分。
三十四。
見つめる。
ダリオはいない。
比較する相手がいない。
なら。
ペン先が数字へ触れる。
三十三。
違う。
三十二。
三十一。
そこで。
手が止まった。
「……違う」
ペンを離す。
机の上を転がる。
ころ。
鏡の縁へ当たって止まった。
カルロスの瞳が。
鏡へ向く。
同じ顔。
でも。
座り方はダリオ。
右肩が少し下がっている。
ダリオ。
ペンを持っていた指。
ダリオ。
考える時に目を細める癖。
ダリオ。
前髪が目へ落ちた。
右手が上がる。
払う。
途中で。
止まった。
朝と同じ。
誰の動きだ。
分からない。
手を下ろす。
鏡へ近づく。
瞳を見る。
鏡の男も。
こちらを見る。
「……誰だよ」
鏡の中の男は。
答えなかった。
カルロス編、第三章です。
ここからカルロスの嫉妬は、かなり危険な段階へ入ります。
これまでは、
「あの人の良いところが欲しい」
という形でした。
ですが今回は、
「同じことができるのに、なぜまだ本物が選ばれる?」
へ変わりました。
能力を得たことで、カルロスは本当に他人の長所を取り込めるようになっています。
だからこそ。
「自分が劣っているから選ばれない」
という言い訳すら、少しずつ成立しなくなる。
それでも選ばれない。
その時、彼が出した最悪の答えが、
本物を消すこと。
でした。
今回から、本文中でも「カルロス」という名前を少しずつ本人から遠ざけています。
周囲はまだ呼びます。
でも本人にとっては、それが自分の名前だと理解するまで、一拍かかる。
ノートに残っているのも、もう「カルロス」ではなく「C」。
そして最後には、友人だったダリオすら、
取得済
という言葉で処理してしまいました。
それでも。
殺した直後に泣いている。
謝っている。
罪悪感もある。
ここが、この人物の一番怖いところだと思っています。
完全に壊れたから殺したのではなく。
まだ人間の感情が残っているのに、それでも嫉妬を止められなかった。
残り差分は31。
ゼロへ近づくほど。
誰が残るのか。
次章も読んでもらえたら嬉しいです。




