第9話:『パパ修行データベース』と、小さな毛布の奇跡
「これより、紬ちゃんの『父親移行プロセス』を実行する」
元夫・靖史のストーカー行為から私と紬の安全を確保するためという「名目」で、私たちは一時的に、神崎課長が所有する都内の最高級セキュリティーマンションに身を寄せることになった。
なし崩し的に始まった、初めての「おうち同棲」。
神崎課長のマンションは、無駄なものが一切ないホテルのような空間だったが、その中に、突如として奇妙なものが現れた。
「佐倉、これを確認しろ」
神崎課長が真剣な顔で私に提示したのは、iPadに表示された、膨大な関数とグラフで埋め尽くされたExcelシートだった。
ヘッダーには【紬ちゃん・父親移行プロセス:適応化計画データベース】と書かれている。
「……あの、課長。これは何ですか?」
「紬ちゃんの『起床・就寝サイクル』『好む食材の栄養バランス』『泣きやむまでの周波数』『推奨される知育玩具の導入スケジュール』をまとめた最適化マニュアルだ。これを元に、私は今日から『パパ修行』を行う」
「ぷっ、あははは!」
あまりの「仕事並みの熱量」に、私はお腹を抱えて笑ってしまった。
「課長、育児はシステム開発じゃないんですよ?」
「だが、あらゆる事象は構造化できるはずだ。……実践する」
神崎課長は眉間にシワを寄せたままそう言い切ると、不器用ながらに本気で「パパ」になろうと動き出した。
180cmを超えるダークスーツ姿のまま、おもちゃの小さなピンクのティーカップを真剣に持ち、
「紬ちゃん、この紅茶の熱伝導率は……」などと紬に話しかけるギャップ。
最初は「おじちゃん」と呼んでいた紬も、神崎課長が毎日、お風呂上がりに真剣な顔で(しかし驚くほど優しく)髪を結んであげたり、絵本を不器用なビジネスロジックで読み聞かせたりするうちに、すっかり彼に懐いていった。
そして、同棲を始めて二週間が経った、ある金曜日の夜。
神崎課長は仕事のトラブル対応で帰宅が遅くなり、深夜の二十三時、疲れ果てた様子でリビングのソファに倒れ込むように眠ってしまった。
「おじちゃん、おねむねむ?」
パジャマ姿の紬が、トコトコと寝室から出てきて、眠る神崎課長の顔を覗き込んだ。
「シー。おじちゃん、お仕事頑張って疲れてるからね」
私が声をかけると、紬は自分の小さなピンクの毛布(お気に入りの、いつも抱きしめている毛布)を抱え、そっと神崎課長の大きな身体の上にかけてあげた。
そして、彼の耳元で、ぽつりと。
「パパ、おしごと、がんばってね。……つむ、パパ、だいすき」
「っ……!」
心臓がぎゅっと締め付けられた。
紬が、初めて彼のことを「パパ」と呼んだのだ。
ふと神崎課長を見ると、固く閉ざされていた彼の鉄面皮の目尻から、一筋の、綺麗な涙がスーッとこぼれ落ちるのが見えた。
彼は……起きていたのだ。
その涙を目撃した瞬間、愛おしさと胸の痛みで、私の目からも涙が溢れそうになった。
私はソファの横にそっと膝をつき、彼の大きな、少し震える手を両手で優しく包み込んだ。
「……聞こえましたか、課長」
「……ああ」
神崎課長はゆっくりと目を開け、潤んだ切れ長の瞳で私を見つめた。
「私の……計算領域外の、エラーだ。胸が、これほどまでに熱く脈打つ関数など……私のロジックには存在しない」
「ふふ、だから言ったでしょう? 育児は心なんですよ。……パパ」
私が柔らかく微笑むと、神崎課長は私の手をぎゅっと握り返し、私と紬を、これ以上ないほど愛おしそうに引き寄せた。
静かなリビング。小さな毛布の温もり。
私たちは、一歩ずつ、本当の「家族」になっていく。
・・・・・・
――システムは、完全に掌握された。
高級マンションの広すぎるリビングに、佐倉と紬の笑い声が響くようになってから、私の内的なデータベースは完全に書き換えられていた。
【パパ修行データベース】を作成し、食事、睡眠、情緒のパラメーターを 99.9% 管理しようとした私だったが、彼女たちの予測不可能な愛らしさは、常に私の予測(エラー許容量)を超えていった。
私のダークスーツの裾を掴んで「おじちゃん、これ、つくって!」と、ちぎった折り紙を持ってくる小さな手。
それに応えようと、私は深夜のオフィスよりも高い集中力で、おままごとに付き合った。
「このおままごとの紅茶は、適正温度 65度のコロンビア産と仮定する」などと解説する私を、佐倉はいつもくすくすと笑って見守っていた。
その笑顔を見るだけで、私の胸の奥の演算回路は、甘い処理オーバーを起こす。
そして、あの夜。
プロジェクトの緊急メンテナンスで、私の肉体的な体力値(HP)はほぼゼロだった。
ソファに横たわり、意識を一時的にスリープモード(仮眠)に移行させていた、その時。
カサリ、と、柔らかな足音。
そして、私の上に、信じられないほど小さくて、綿菓子のように軽い、そしてお日様の匂いがする桃色の毛布がそっと掛けられた。
「パパ、おしごと、がんばってね。……つむ、パパ、だいすき」
耳元で囁かれた、幼い、けれど確かな言葉。
ドクン、と。
心臓の鼓動が、これまでの人生で一度も記録したことのないほどの熱量で急上昇した。
(……パパ、だと?)
私が、彼女の、この愛らしい少女の「父親」になれたというのか。
数字や実績だけを追い求め、誰の体温も必要としなかった私の冷たい人生の中に。
こんなにも温かく、尊い「居場所」が、私を父親と呼んでくれる存在が、確かに生まれたのだ。
気づいた時には、私の完璧に統制されていたはずの涙腺から、熱い液体がこぼれ落ちていた。
冷徹な『鉄面皮の神崎』が、三歳児の寝言のような一言で、無様に、愛おしさに敗北して泣いていた。
「……聞こえましたか、課長」
佐倉が私の手を両手で包み込み、優しい、宇宙で一番愛しい笑顔で私を見つめている。
私は起き上がり、彼女たちの柔らかな体温を、私の腕の中に強く、強く抱きしめた。
「佐倉。……お前たちのいない世界など、もう一秒たりとも計算できない。私の生涯を、お前たちという『家族』にすべて捧げる」
彼女の甘い匂いに包まれながら、私は自分の胸の中で、静かに、けれど逃れられない永遠の愛を確信していた。




