第8話:冷徹なる数字の鉄槌と、元夫の完全なる破滅
「――おい、椎名。ずいぶんといい暮らしをしてるじゃないか」
その声を聞いた瞬間、私の全身の血の気が一気に引いた。
土曜日の夕方。紬を連れてスーパーからの帰り道、神崎課長の高級SUVがいつも停まるアパートの前に、その「影」は立っていた。
元夫・靖史。
半年前に私にモラハラを繰り返し、「お前みたいな無能な女、離婚したら路頭に迷う」と言い放って一方的に離婚を突きつけ、養育費も一円すら払わずに逃げ回っていた男だ。
「な、何をしに来たの……?」
私は紬を抱きしめる腕に力を込め、一歩後ずさった。
「何って、復縁だよ。お前、男を捕まえて贅沢してるらしいな。母親のくせにだらしない。どうせその高級車も、汚い手で男をたぶらかして買わせたんだろ?」
下俗な笑みを浮かべ、靖史が私の腕を強引に掴んできた。
「離して……! 警察を呼びます!」
「呼べるわけないだろ。お前みたいなシンママ、世間じゃ誰も相手にしないんだから。いいから言う通りに――」
「――その汚い手を、佐倉から離せ」
冷徹極まりない、地を這うような低音が響いた。
黒いコートを翻し、影から現れたのは神崎課長だった。
眼鏡の奥の切れ長な瞳には、これまでの人生で見たこともないほどの暗い怒り(殺意)が宿っている。
「なんだ、お前が噂の『男』か? 警告しておくがな、こいつは俺の元妻だ。他人の使い古しに手を出して――」
「お前の発言はすべて録音している。刑法第223条の強要罪、および第233条の名誉毀損罪が成立する。……佐倉、紬を抱いて私の背後に下がれ。これより、害虫の『駆除プロセス』を開始する」
神崎課長は私を大きな身体で庇うように前に立つと、スマホの通話ボタンをタップした。
「弁護士の阿部か。……ああ、佐倉の未払い養育費の件だ。相手が目の前に現れた。即座に準備していた民事執行の手続きおよび、先ほど送付した『隠し口座』の差し押さえ命令を裁判所に申し立てろ」
「なっ……差し押さえ!? 何のことだ!」
顔を真っ青にする靖史に、神崎課長は不敵で冷酷な、美しい微笑みを向けた。
「お前が現在の会社で、経費の水増しおよび架空発注を行い、年間 1,200,000円以上の隠し資産を別口座にプールしている証拠を、私はすべて掌握している。お前の会社の経理システムは、私の前では砂上の楼閣に過ぎない」
「な……なんで、そんなこと……!」
「私の妻になる女性と、その娘の生活を脅かす者は、徹底的に排除する。お前がこれ以上、一歩でも彼女たちに近づくなら、このすべてのデータを、お前の会社の監査役会、および税務署に匿名で一括送信する。……社会的にも経済的にも、跡形もなく破滅したいか?」
神崎課長の圧倒的な威圧感と、逃げ場のない「数字の罠」に、靖史はガタガタと震え出し、最後は尻もちをついて「ひ、ひぃぃ!」と悲鳴を上げて逃げ去っていった。
「佐倉。怪我はないか」
振り返った神崎課長の瞳は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、ひどく優しく、そして私を心配そうに揺れていた。
「はい……。私、怖くて……」
こらえていた涙が溢れ出した瞬間、神崎課長は私と、腕の中の紬を、壊れ物を扱うようにそっと、けれど強く抱きしめてくれた。
「もう大丈夫だ。君たちの未来の安全は、私がすべて引き受ける」
公然と言い放たれた「私の妻になる女性」という言葉。
パニックだったはずの私の胸は、その狂おしいほどの独占欲に、激しく高鳴り続けていた。
・・・・・・
――不愉快、極まりない。
佐倉椎名という完璧なシステムに泥を塗った過去のバグ(元夫)が、目の前で彼女の腕を掴んでいた。
その下俗な言葉遣い、彼女を貶める視線。
私の脳内のあらゆるニューロンが、これまでにない怒り(エラー)によって臨界点を超えて焼き切れそうだった。
(私の佐倉に、その汚い手で触れるな)
私は、彼女たちの安全を脅かすバグを決して許容しない。
だから、前回の発熱トラブルの直後から、私は裏で動いていた。
彼女が元夫から被った不利益、すなわち「半年分の未払い養育費:月額50,000 円」および「離婚時の慰謝料:未払い額1,500,000 円」。これらを遅延損害金(年利15% )込みで算出した請求書は、すでに完璧に作成済みだった。
さらに、元夫が勤める会社の決算データ、および彼の個人的な銀行口座の資金推移を監査したところ、年間数十件に及ぶ「旅費精算の二重請求」という致命的なセキュリティホールを発見した。
逃げ道など、最初から用意していない。
「社会的にも経済的にも、跡形もなく破滅したいか?」
冷徹な事実を一つずつ突きつけると、哀れなバグは恐怖に顔を歪め、地に這いつくばって逃げていった。
これで障害の排除は完了した。
「佐倉。怪我はないか」
振り返ると、佐倉は涙をボロボロとこぼしながら、私を見上げていた。
その華奢な肩が、震えている。
私は考えるよりも早く、彼女と、彼女の腕の中の小さな紬を、私のコートの中に囲い込むように強く抱きしめていた。
胸の奥から、言葉にならない熱い執着がせり上がってくる。
「もう大丈夫だ。君たちの未来の安全は、私がすべて引き受ける」
私の、生涯をかけた「復旧プロセス」は、もう誰にも止められない。
彼女と、彼女が命がけで育てている少女を、一円の狂いもない私の完璧な腕の中で、永遠に守り抜くと、私はここに誓った。




