第7話:嵐の夜の課長室と、深煎りコーヒーの甘い熱
ザーザーと、窓を叩く激しい雨の音が、深夜のオフィスに響き渡っていた。
「……んぅ……ママ……」
課長室のソファの上。紬が私のコートで作った仮眠用スペースの中で、小さな寝息を立てている。
時刻は、夜の二十二時半。
経理部にとって一年で最も過酷な「決算最終突合」の夜。
他のメンバーも、千石くんも、先ほど大野部長から『これ以上は残業協定に引っかかるから強制退社!』と追い出され、オフィスは完全に静まり返っていた。
「佐倉、残っているデータはあと何件だ」
課長室のデスクから、神崎課長の声が静かに響く。
彼のジャケットはハンガーに掛けられ、白いワイシャツの袖は肘のあたりまで無造作に捲り上げられていた。
いつもは完璧に整えられた男の、ほんの少しだけ崩れたプライドと、浮き出た腕の筋肉。その無防備な大人の色気に、私の心臓はさっきから不規則な鼓動を打ち続けている。
「えっと、あと九件です。監査法人に提出する前の最終チェックなので、慎重に進めています」
「そうか。……手が止まっている。瞬きが増え、打鍵スピードが通常時より $15\%$ 低下している。目を閉じろ」
「えっ……?」
神崎課長は音もなく私のデスクの前まで歩み寄ると、私のノートパソコンをスッと手元に引き寄せた。
「残り九件は、私が巻き取る。お前はソファで紬の隣に横になっていろ」
「だ、ダメです! 私の担当分ですし、課長だってご自分の分のチェックを終えたばかりなのに、これ以上負担をかけるわけには――」
慌ててパソコンを取り返そうとした、その時。
コツン、と、温かいスチール缶が私の手元に置かれた。
「千石の持ってきたような、生温いカフェイン(缶コーヒー)とは違う」
「……え?」
神崎課長が差し出したのは、オフィス内の自販機には置いていない、少し高価なプレミアムブランドのブラックコーヒーだった。
手を通した熱が、冷え切った指先をじんわりと温めていく。
「これは、コロンビア産の豆をメインに、酸味を極限まで抑えて深煎りにしたブレンドだ。君の好みを数字(過去半年間のおねだりシートや、社内売店での購買データ、および自販機の選択傾向)から算出した。エラーの確率は $0.01\%$ 以下のはずだ」
ぽかん、と口を開けて、私は彼を見上げた。
「私の……好み……? わざわざ、調べてくださったんですか……?」
「『調べた』のではない。私の中に存在するデータベースから、最も適合性の高い最適解を『出力』しただけだ」
神崎課長は眼鏡のブリッジを少しだけ直すと、ふい、と耳を赤くして視線を逸らした。
冷徹な理屈。けれど、その裏にある、胸が苦しくなるほどの不器用な執念と優しさ。
第1話で、千石くんから手渡された温かい缶コーヒー。
神崎課長はあの時、何も言わずにそれを見ていた。ずっと、ずっと、胸の奥で、そのことにこだわってくれていたのだ。
「……ありがとうございます。いただきます」
プルタブを引き、温かい液体を口に含む。
彼の言う通り、驚くほど私の大好きな、深いコクと甘みを感じる苦味だった。
「美味しいです、課長」
私がふわりと笑うと、神崎課長は細く綺麗な指先で、自分のコーヒー缶をぎゅっと握りしめた。
嵐の音。暗いオフィス。缶コーヒーの熱。
世界に、神崎課長と、私と、眠る紬の三人しかいないような、ひどく濃密で静かな時間。
「佐倉」
「はい」
「私は、人間の言葉を信用していない」
神崎課長の声が、いつになく低く、熱を帯びて私の鼓動に溶け込んでいく。
「人は、保身のためにいくらでも嘘を吐く。千石のように、無条件で『頑張りを見ています』などと甘い言葉を並べることも私にはできない。……だが」
彼は一歩、私に近づいた。
彼の大きな体躯が、窓の外の嵐を遮るように、私の頭上に影を落とす。
「君の出す数字には、君がこれまで生きてきた『必死さ』が、すべて宿っている」
「……っ」
「時短勤務のプレッシャーに耐え、娘を守り、一円の狂い($\pm 0$)もない美しい帳票を出力し続ける。その数字の中に、君の『プライド』と『努力』が、完璧に証明されている。だから私は……お前という有能な戦力を、お前のその美しい数字(人生)を、誰の手にも渡したくないのだ」
「神崎……課長……」
それは、告白ですらなかった。
「好きだ」とも「愛している」とも、彼は一言も言っていない。
けれど、シングルマザーになってから、誰も認めてくれなかった私の「必死な毎日」を。
「時短で大変だね」という同情ではなく、私の戦ってきたプライドごと、彼自身の命をかけるように肯定してくれる、世界で一番甘くて、狂おしい、愛の宣言だった。
「佐倉。お前の復旧プロセスを実行する権限を、私に生涯、一任させろ」
熱い、眼鏡の奥の切れ長の瞳が、私をじっと射抜いている。
私はもう、この完璧で不器用な数字の支配から、一生逃れられないことを悟っていた。
・・・・・・
――システムは、とっくに臨界点を超えていた。
嵐の遮断された課長室。
ソファで丸くなって眠る幼い紬と、デスクで必死にまぶたを擦りながらキーボードを叩く佐倉。
新卒の千石が、かつて彼女に差し入れた缶コーヒーの存在が、私のデータベースの最深部に、消えないバグ(不快感)として残り続けていた。
千石の差し出した生温いカフェイン。
あんな安価な糖分で、彼女の張り詰めた神経が癒やされるはずがない。
だから私は、彼女が過去に売店で購入したレシートのデータを、経理システムのアカウント履歴からすべて監査し、彼女が好むコーヒー豆の割合と焙煎度を割り出した。
「佐倉。お前は目を閉じろ。残り九件は、私が巻き取る」
手渡した缶コーヒーを、彼女は不思議そうに受け取り、そして――。
これ以上ないほど愛らしく、ふわりと、私だけにその笑顔を向けた。
ドクン、と。
心臓のパルスが、論理的許容量を超えて跳ね上がる。
見つめ合う距離。
嵐の夜の暗がりの中で、佐倉の白い肌が、ほのかに朱を帯びて浮かび上がっている。
彼女が吐き出す甘い吐息、コーヒーの香ばしい匂い、そして彼女自身の甘い匂い。
私の完璧に統制された思考回路が、彼女の存在によって、ただの一秒で機能停止に陥っていく。
(お前を、誰の手にも渡したくない)
千石のような若い男に、彼女のこの美しい笑顔を掠め取られるなど、想像するだけで脳のニューロンが焼き切れるほどの焦燥に襲われる。
だが、私には「愛している」などという、曖昧で、何の担保もない言葉は吐けない。
私は、彼女のこれまでの「戦い」を知っている。
誰も助けてくれなかった暗闇の中で、一人きりで歯を食いしばり、娘を守るために、一円のズレもない完璧な数字を出し続けてきた、彼女の「生きてきた証」。
そのプライドごと、私は彼女のすべてを、私の盾(数字)で守り抜きたいのだ。
「佐倉。お前の復旧プロセスを実行する権限を、私に生涯、一任させろ」
私の不器用極まりない、けれど偽りのない本音の告白に、彼女は潤んだ瞳を見開いた。
彼女の小さな、少し冷えた手が、私の捲り上げたシャツの袖を、ぎゅっと、壊れ物でも掴むように握り返してくる。
「……はい、課長。……よろしく、お願いします」
かすれた彼女の声が、私の耳に、そして心臓の奥に届いた瞬間。
私の世界から、一円のズレを許さない「冷徹な数字」が、すべて一瞬で消え去った。
ただ、彼女の体温だけが。
私の冷たい世界の中心で、甘く、激しく、永遠の熱を灯し始めていた。
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