第6話:私服エプロン&胃袋直撃:「体調管理も業務だ」押しかけ家庭訪問
「う、うぅ……頭が、重い……」
日曜日。カーテンの隙間から差し込む朝の光を浴びながら、私はベッドの中で泥のように重い身体を起こした。
体温計が示した数字は、三十八度二分。
病み上がりの紬の看病、そして経理部の大規模システムテストの激務。
張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、今度は私の方が倒れてしまったのだ。
「ママ、おねつちち(ちち=熱い)?」
元気になった紬が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫よ、紬。ちょっとゴロゴロさせてね……」
そうは言っても、冷蔵庫の中はほぼ空っぽだ。
紬に何か食べさせなきゃいけない。重い身体を引きずって起き上がろうとした、その時だった。
ピンポーン、と。
我が家の静かなインターホンが、遠慮がちに鳴り響いた。
(え……? 実家の母かしら。でも、今日は仕事だって言っていたし……)
ふらつく足取りで玄関へ向かい、液晶モニターをタッチする。
そこに映っていた「人物」を目にした瞬間、私の熱はさらに五度ほど跳ね上がった。
「か……神崎、課長……!?」
画面の向こうに立っていたのは、いつもの完璧なスリーピーススーツ姿ではない。
仕立ての良い上質な黒のタートルネックセーターに、チャコールグレーのロングコートを羽織った、信じられないほど色気のある「私服」の神崎課長だった。
眼鏡の奥の端正な顔立ちが、気のせいかいつもより少しだけ緊張しているように見える。
慌ててドアを開けると、彼は両手いっぱいに抱えた高級デパ地下の紙袋をすっと持ち上げた。
「佐倉。……業務連絡だ」
「は、はい……?」
「本日、大野部長より、君が体調を崩している可能性が極めて高いという報告を受けた。有能な主戦力である君が明日欠勤することは、経理部にとって多大なる損失、ひいては今週の決算スケジュールに壊滅的な狂いを生じさせる。したがって――私が君の復旧プロセスを直接実行する」
「ええっ!?」
頭がぼーっとする中で、私は彼の長文のロジックを理解しようと必死だった。
つまり……私の看病をしに、わざわざ家まで来てくれた、ということ……?
「あの、課長、でも……そんな、申し訳ないです!」
「廊下で押し問答をするのは非効率だ。通せ」
有無を言わせない大人の威圧感に気圧され、私は一歩下がって彼を室内に招き入れてしまった。
「おじちゃん、きたぁ!」
紬が嬉しそうにパタパタと玄関へ走っていく。
「ああ。……体調は、もういいのか?」
神崎課長はロングコートを脱いでハンガーに掛けると、スッと膝を折り、紬の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
そして、第4話の個室で見せたような、あの優しくふにゃりとした極上の笑顔を紬にだけ向ける。
(っ……、ずるい……。あの顔は本当に、心臓に悪すぎる……)
タートルネックセーター越しでも分かる、神崎課長のがっしりとした肩幅と、引き締まった身体のライン。
普段のスーツ姿よりも、さらに「男」としての圧倒的な体躯が強調されていて、狭い我が家のリビングが一気に彼の存在感で満たされていく。
「佐倉、君はベッドで横になっていろ。私がキッチンを使う」
「えっ、でも、お料理とか……」
「仕事に比べれば、ただの物理的調理など、手順化されたルーティンワークだ。問題ない。……ただ、服が汚れるのを防ぎたい。エプロンはあるか」
「あ、ありますけど……」
私が差し出したのは、ピンク地にフリルがついた、いかにもファンシーなマイメロディのエプロンだった。
「これでいい」
神崎課長は眉一つ動かさず、そのエプロンを受け取ると、大きな身体に無理やり身に付けた。
180センチを超えるクールなエリート経理課長が、ピンクのフリルエプロンをつけて真剣な顔でキッチンに立っている。
そのポンコツ可愛い姿に、私は熱の苦しさを忘れて、思わず「ぷっ」と吹き出してしまった。
「……何か問題があるか?」
「いえ、とってもお似合いです、課長」
私がクスリと笑うと、神崎課長は耳の裏を少し赤くして、慌てて背を向けた。
だが。
「完璧な手順」を豪語していた神崎課長の料理は、開始五分で完全に暗礁に乗り上げた。
「なぜだ……」
キッチンの前に直立不動で立ち、鍋を睨みつけている神崎課長。
「熱源の出力を『極小』に設定し、水分量も適正値を算出して投入した。にもかかわらず、白米が急速に炭化、いや、鍋の底に固着している。熱伝導率の計算が合わない。システムエラーか……?」
眉間にこれ以上ないほどのシワを寄せ、まるで国家予算のズレでも追及するかのように超深刻に呟いている。
「課長、お粥は焦げ付きやすいから、時々こうやって、お玉で優しく混ぜてあげないとダメなんですよ」
「なっ……。マニュアルには『弱火で十五分加熱』としか書かれていなかったが……」
見かねた私が横に立ち、彼の持っていたお玉にそっと手を重ねた。
「ほら、こうやって……」
「……っ」
重ねた手の平から、神崎課長の熱い体温が伝わってくる。
ふと見上げると、間近にある彼の綺麗な切れ長の瞳が、じっと私を見つめていた。
眼鏡の奥の瞳が、いつになく熱を帯びていて、私の鼓動がうるさいほどに跳ね上がる。
「佐倉。……近い」
「あ……! す、すみません!」
慌てて手を離し、赤くなって俯く私。
神崎課長は小さく咳払いをすると、お玉を握り直して、私の指示通りに優しく、ぎこちなくお粥を混ぜ始めた。
「佐倉。……君は、座っていろ。私のせいで君の復旧が遅れては本末転倒だ」
「……はい。ありがとうございます」
ソファに腰掛け、キッチンで慣れない手つきでお粥を作る神崎課長の背中を見つめる。
広い背中。マイメロディのエプロン。
いつも冷徹で怖い課長が、今、私のために、一生懸命お粥をかき混ぜてくれている。
「おじちゃん、これ、よんで!」
いつの間にか、紬が自分の大好きな絵本を持って、神崎課長のセーターの裾を引っ張っていた。
「紬、課長はお仕事……じゃなくて、お料理中だからダメだよ」
私が止めようとすると、神崎課長は火を止め、「いや、お粥は現在蒸らしのフェーズに入った。十分間のインターバルがある。問題ない」と、絵本を受け取った。
そして、紬を自分の隣に座らせると、まるで重要書類を査読するかのような真剣な顔で、絵本を開いた。
「『ももから生まれた、ももたろう』か。……初期設定から遺伝子情報が完全に果実のそれだが、どうやって人間としての成長プロセスへ移行したのか、極めて非論理的な始まりだな」
「ふふっ、課長、ツッコミどころはそこじゃないです」
私がソファから笑うと、神崎課長は一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
そして、紬が「おじちゃん、ももたろう、つよい?」と目を輝かせると、神崎課長は、その幼い頭をやさしく、大きな手でそっと撫でた。
「ああ。彼は、自分の目的(鬼退治)を達成するために、有能な部下(犬、猿、キジ)を適正なインセンティブ(きびだんご)で雇用し、完璧なプロジェクト管理を行った。強い男だ」
「ぷ……っ! くすくす、あははは!」
お粥の湯気と、おかしな「ももたろう」の解説。
私と紬だけの、いつもは静かで少し寂しいアパートのリビングが、今、信じられないほど温かい「家族の温度」で満たされていく。
胸の奥が、じんわりと、甘い痛みで満たされていくのを感じていた。
・・・・・・
――私は、己の愚かさに絶望していた。
「なぜだ。なぜ白米が、鍋の底に張り付く」
経理システムであれば、一ミリの狂いもなく正確な数字を出力できる。
だが、この「料理」というタスクは、熱効率、鍋の材質、白米のデンプン質など、変数(エラー要素)が多すぎる。私の完璧なロジックが、ただのお粥一杯を前にして完全に機能停止していた。
「課長、お粥は焦げ付きやすいから、時々こうやって、お玉で優しく混ぜてあげないとダメなんですよ」
隣から、佐倉の鈴を転がすような、柔らかな声が聞こえた。
そして、私の手の上に、彼女の小さくて温かい、少し冷えた手が重なる。
ドクン、と。
心臓が、システム限界を超えるほどのビートを刻んだ。
見下ろすと、彼女の顔が熱のせいで、あるいは私の至近距離にいるせいで、ぽっと桃色に染まっている。
普段、オフィスで見せる完璧な「戦力としての仮面」はどこにもない。
ただの、守ってやりたくなるような、華奢で、愛らしい一人の女性。
(……理性が、狂う)
彼女の手の温もりを、このまま握り潰して、私のものにしてしまいたいという悍ましい衝動が脳裏をよぎる。
私は慌てて視線を逸らし、不自然な咳払いでその暴走を隠した。
大野部長から、彼女が倒れたと聞いた瞬間、私の理性のシステムは完全にシャットダウンしていた。
週末、彼女がこの狭いアパートで、一人きりで高熱に耐え、幼い娘の世話をしているのではないか。
そう想像するだけで、胸の奥が、千千に引き裂かれるような強烈な「焦燥」と「恐怖」に支配されたのだ。
気がつけば、デパ地下で最高級の食材を買い込み、彼女のアパートの前に立っていた。
初めて入る、彼女の生活空間。
使い込まれた家具、子供のおもちゃ、そして――佐倉椎名の、甘く優しい匂い。
私のような冷徹な男が立ち入るべきではない、神聖な場所。
けれど、私の本能は、この空間の全てを、私という存在で塗りつぶしたいと叫んでいた。
「おじちゃん、これ、よんで!」
小さな紬が、私のセーターの裾を引っ張る。
佐倉にそっくりな、澄んだ大きな瞳。
私がしゃがみ込み、その柔らかい髪に触れると、紬は嬉しそうに私の膝に体重を預けてきた。
(温かいな……)
こんな温かさを、私は三十五年の人生で一度も知らなかった。
ただ無機質な数字だけを愛し、他人を排除して生きてきた鉄面皮の私。
だが、今、私の目の前には、愛らしい少女と、ソファで私を見て柔らかく笑う、愛しい女性がいる。
「強い男だ」
絵本の『ももたろう』を、私の拙いビジネスロジックで解説すると、佐倉が声を上げて笑った。
その鈴の鳴るような笑顔が、私の胸の奥に、一滴の、ひどく甘くて強烈な毒(恋)を注ぎ込む。
(佐倉。……お前を、もう誰にも渡したくない。
この温かい光の中に、私の生涯の居場所を作らせてくれ)
お玉を握る指先に、無意識に力が入る。
私は、彼女が安心して寄りかかれる、一円のズレもない「完璧な男」になってみせる。
不器用な手で作った、少し不格好なお粥を彼女の前に差し出しながら、私は自分の胸の中で、静かに、けれど逃れられない確信を持って、その「狂おしい独占欲」を深めていた。




