第5話:深夜の高級SUVと、最高級チャイルドシートの狂気
大規模な経理システムの検証テストがすべて終了したのは、夜の十九時を回った頃だった。
オフィスには達成感と、それ以上の疲労感が漂っている。
「う、うう……ママ……ねむいぃ……」
私の膝の上で、紬が限界を迎えてぐずり始めていた。
病み上がりで一日中、慣れないオフィス(それも課長室という緊張感のある個室)で過ごしたのだ。小さな身体には、相当な負担だったのだろう。
「紬、頑張ってくれてありがとうね。よし、お家に帰ろうか」
私が紬を抱っこして立ち上がると、すかさず隣のデスクから千石くんが立ち上がった。
「佐倉さん! 紬ちゃん、かなり眠そうですね。僕、駅の改札まで荷物持ちます! いや、なんならタクシー拾って一緒に家まで……」
「千石くん、気持ちは嬉しいんだけど、自分の片付けもあるでしょう? 私は大丈夫だから――」
「その必要はない」
低く、有無を言わせない大人の声が、私たちの会話を遮った。
振り返ると、いつの間にかスーツの上からチャコールグレーの上質なチェスターコートを羽織った神崎課長が立っていた。
「佐倉。私の車で送る。すでに地下駐車場にエンジンをかけた状態で回してある。すぐに動ける」
「えっ……!?」
私と千石くんの声が綺麗にハモった。
「か、課長、それは流石に悪すぎます! 私たち、電車で帰れますから……!」
「そうだそうだ! 課長、いくらなんでもやりすぎです。それに、佐倉さんの家、課長の自宅とは完全に逆方向じゃないですか!」
千石くんがここぞとばかりに食ってかかる。
だが、神崎課長は眉一つ動かさず、冷淡な瞳のまま千石くんを見下ろした。
「千石、お前は自分のデスクの上のゴミを片付けろ。……それと、佐倉。お前が断る理由は一つしかないはずだ。『子供を車に乗せるためのチャイルドシートがない』、そうだろう?」
「あ……はい。そうなんです。タクシーなら免除されますけど、自家用車だと違反になりますし、何より紬の安全が……」
「装着済みだ」
神崎課長は、事も無げに、まるで「明日の会議資料は印刷済みだ」とでも言うようなトーンで言い放った。
「……え?」
「一昨日、万が一の緊急輸送、および君たちの業務影響を最小限に抑えるための『備え』として、最新の安全基準を満たした最高級チャイルドシートを購入した。すでに私の車の後部座席に、ISOFIX規格で完璧に固定してある」
「……は!?」
千石くんが、あいた口が塞がらないといった様子で固まった。
私も頭の理解が追いつかない。
チャイルドシートを、一昨日、購入した……? 私と紬を送るためだけに……?
「公私混同ではありません。有能な主戦力である君と、その家族の安全を確保するのは、管理職としての当然の『リスクマネジメント』だ。……行くぞ」
有無を言わせない強引さ。けれど、その瞳の奥には、私と紬を絶対に千石くんには渡さないという、冷徹なまでの強い意志が宿っているように見えた。
「あ……はい。お言葉に甘えさせていただきます……」
「佐倉さん……!」
千石くんの悲しそうな声を背に受けながら、私は抱っこした紬とバッグを抱え、神崎課長に促されるままエレベーターへと向かった。
地下駐車場に停まっていたのは、神崎課長にふさわしい、黒塗りのピカピカに磨き上げられた高級SUVだった。
後部座席のドアが開かれると、そこには確かに、丸っこくてふかふかした、見るからに高そうな最新式のチャイルドシートが鎮座している。
「これに、乗せろ」
「あ、はい……」
ぐずる紬をそっとシートに乗せると、ベルトのロックがカチャリと心地よい音を立ててはまった。
「……ん、ふわふわぁ……」
紬は、まるで高級ホテルのベッドにでも包まれたかのように、乗せられた瞬間、一瞬でスースーと寝息を立て始めた。
「……本当に、お手数をおかけしてすみません」
「気にするな。……君は助手席に座れ。後部座席は子供のスペースだ」
言われるがままに助手席に乗り込むと、車内はほんのりと温かく、革シートの高級な香りが漂っていた。
静かに車が発進する。
その運転は、驚くほど滑らかだった。
仕事での神崎課長は、タイピングも意思決定も「光速」だ。なのに、彼の運転する車は、アクセルの踏み込みもブレーキの加減も、まるでガラス細工を運んでいるかのように慎重で、優しい。
「課長、すごく運転がお上手なんですね」
「……仕事に比べれば、物理的な移動など単純なタスクだ。制限速度を遵守し、慣性法則を最小限に抑えれば、乗員の疲労は最小化される」
相変わらずの「数字と物理」の理屈。
けれど、時折チラリとミラーで後部座席の紬の様子を窺う彼の横顔は、いつもの厳しい上司のものではなく、とても温かい、大人の男のものだった。
やがて車は、私の住むアパートの前に静かに停車した。
「ありがとうございました。本当に、何から何まで……。紬、起きようね」
「起こすな」
車を降りようとした私を、神崎課長の声が引き留めた。
「まだ寝かせておけ。……私が運ぶ」
「えっ、でも……!」
断る間もなく、神崎課長は車を降り、後部座席から手慣れた動作でベルトを外すと、紬をそっと抱き上げた。
三歳の、それなりに重くなった紬を、彼はまるで羽毛でも扱うかのように、軽々とその大きな腕の中に収めてしまったのだ。
「部屋は、何階だ」
「さ、三階です。エレベーターがなくて……」
「問題ない。案内しろ」
薄暗いアパートの階段を、神崎課長は紬を抱いたまま、足音一つ立てずに上っていく。
その後ろ姿を見上げながら、私は胸の奥が、かつてないほど激しく波立つ数字(鼓動)を刻んでいるのを感じていた。
広い背中。スーツ越しでもわかる、がっしりとした大人の男の体躯。
いつも冷たいけれど、この人は今、私の世界で一番大切な宝物(娘)を、誰よりも大切そうに、その腕で守ってくれている。
「……ここ、です」
私が鍵を開けると、神崎課長は静かに玄関に入り、私の案内に従って、奥の寝室のベッドへ紬をそっと横たえた。
布団を優しくかけ終え、彼はふぅ、と小さく息を吐き出す。
その瞬間、彼の耳の裏が、ほんの少しだけ朱に染まっているのが見えた。
「佐倉。……君の出す『数字』がどれほど完璧でも、君自身の『体力』には限界がある。子供を守るために、たまには他人に頼るという『論理的な選択』をしろ」
暗がりの中、切れ長の瞳が私をじっと見つめる。
「……はい」
「では、失礼する。明日も、一円のズレもない美しい数字を期待している」
踵を返して帰ろうとする彼のジャケットの袖を、私は無意識に、ほんの少しだけ掴んでしまっていた。
「神崎……課長」
神崎課長が立ち止まり、驚いたように振り返る。
「……ありがとうございました。私、今日……本当に嬉しかったです」
私の不意の言葉に、神崎課長は一瞬だけ目を見開いた。
そして、眼鏡の位置を少しだけ直すと、いつもの鉄面皮の仮面の裏から、消え入りそうな声で、ぼそりと。
「……私の数字に、狂いはない」
そう言って、足早に玄関を出て行ってしまった。
閉まったドアの前に立ち尽くしながら、私は赤くなった自分の顔を両手で覆った。
あの冷徹な課長が、今、私と紬の生活の中に、信じられないほどの体温を残していったのだ。
・・・・・・
――完璧な、計画だった。
地下駐車場から地上へ向かう車中、私はハンドルを握る指先に、微かに力が入るのを感じていた。
新卒の千石が、佐倉の娘を軽々と高い高いしていた、あの光景。
思い出すだけで、私の胸の奥で、システムが異常発熱を起こしたかのような、悍ましい「焦燥」と「嫉妬」が渦巻く。
(千石。お前に、彼女たちの領域へ踏み込む切符など、最初から渡してやるつもりはない)
だから私は、即座に動いた。
「万が一、佐倉の娘がオフィスで体調を崩し、緊急搬送が必要になった場合、チャイルドシートがなければ自家用車での輸送は法的に不可能である」
この完璧な「建前」を瞬時に構築し、私はその足で、ヨーロッパの最新安全基準(R129)をクリアした最高級チャイルドシートを自腹で購入した。適合確認は私の所有する高級SUVのシート形状と1ミリの狂いもなく一致している。
「これに、乗せろ」
佐倉が戸惑いながらも、娘の紬をシートに乗せた瞬間、私の計画は第一段階をクリアした。
助手席に座る佐倉の横顔を、運転席から盗み見る。
テストの疲れからか、彼女の目元には微かに陰りがあった。
(……もっと私を頼れ。千石のような未熟な男ではなく、すべてを解決できるこの私を)
信号待ちのたびに、助手席の彼女と、後部座席でスースーと眠る少女の姿がミラーに映る。
私の車の中に、私の愛する女性と、彼女が命がけで育てている小さな命がある。
その事実に、私の胸の奥が、経験したことのないほどの甘い「支配欲」と「充足感」で満たされていく。
絶対に、事故を起こすわけにはいかない。
私はゴールド免許を取得して以来、最も慎重に、まるで精密機器の輸送を行うかのような完璧な安全運転に徹した。時速は制限速度を1キロたりとも超えず、カーブでは減速Gを極限までゼロに抑える。
アパートへ到着し、眠る紬をこの腕に抱き上げた瞬間、私はその「重み」に息を呑んだ。
(これが……命の、彼女の生きてきた証の重さか)
私の硬質な腕の中で、少女は驚くほど柔らかく、そして温かかった。
階段を上り、彼女の「生活の匂い」がする部屋へ一歩足を踏み入れた時、私の理性の堤防は決壊寸前だった。
ここに、私の居場所を作りたい。この母子を、私の盾で、私の腕で、生涯守り抜きたい。
ベッドに子供を横たえ、立ち去ろうとしたその時。
クッ、とジャケットの袖が引かれた。
「神崎……課長。……ありがとうございました。私、今日……本当に嬉しかったです」
見上げると、佐倉が、いつもの「強がりの仮面」を完全に外し、潤んだ瞳で私を見上げていた。
その美しい、無防備な笑顔。
私の心臓の鼓動が、限界値を超えて急上昇する。
優しい言葉など、私にはかけられない。そんな気の利いた関数は、私の脳内には存在しない。
だから私は、ただ自分の胸の暴走を隠すように、いつもの不器用な言葉を吐き出すことしかできなかった。
「……私の数字に、狂いはない」
逃げるようにアパートを後にし、夜風に当たっても、私の腕にはまだ、あの温かく柔らかい少女の「重み」が残っていた。
そして、助手席で私を見つめていた、佐倉椎名のあの柔らかな視線が、私の脳裏から一瞬たりとも離れようとしなかった。
(佐倉。……もう、お前を誰の手にも渡さない)
私は車のキーを握りしめ、冷たい夜の空気の中で、静かに、けれど狂おしいほどの独占欲を自覚していた。




