第4話:鉄面皮の牙城、幼き天使に陥落す
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本日の投稿は 18:10 20:10 21:10 の計4話となっております。
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週末。保育園でインフルエンザによる園閉鎖が発生した。
病み上がりの紬は熱こそ下がったものの、まだ登園はできない。
実家の母は仕事で都合がつかず、今日は経理システムの大規模な更新テスト当日。絶対に休めない日だった。
(どうしよう……。またみんなに迷惑をかけてしまう……)
頭を抱える私に、救いの手を差し伸べたのは大野部長だった。
『佐倉さん、今日休んだら他のメンバーが深夜まで残業になっちゃうよ? いっそ、紬ちゃんを連れておいで! 課長室を託児所代わりにしてさ、神崎くんに子守でもさせちゃおう!』
冗談だと思った。けれど、大野部長は本気で私と紬を会社へ招き入れたのだ。
「ご迷惑をおかけして、本当にすみません……」
オフィスの入り口で、周囲の目を気にして縮こまる私の手を、3歳の紬が不思議そうに握り返す。
「うわぁ! 佐倉さんの娘さんですか!? すっごく可愛い!」
隣の席から千石くんが目を輝かせて飛んできた。
「紬ちゃん、はじめまして。お兄さんは千石って言います。これ、良かったら食べてね」
千石くんが引き出しから取り出したアンパンマンのジュースを差し出すと、紬は嬉しそうに「ありがとう!」とはにかんだ。
その時。
カツ、カツ、と、冷徹に整えられた足音がこちらへ近づいてきた。
神崎課長だ。
その切れ長の瞳は、いつもと変わらず冷淡で、一切の感情を読ませない。
(やっぱり、子供をオフィスに連れてくるなんて、非常識だって怒られる……っ)
私が思わず紬を背中に隠そうとした、その時だった。
「佐倉。オフィスは遊園地ではない。子供をそんな騒がしい場所に置くな」
「……申し訳ありません」
「私の個室(課長室)へ入れろ。あそこなら静かだ。周囲の雑音が子供の情緒に影響を与える」
「え……?」
呆気にとられる私を置いて、神崎課長はすっと身を翻し、課長室の重い扉を開けて私たちを中へと促した。
「神崎、課長……」
「お前は外のデスクでシステムの検証テストを進めろ。……この子は、私がここで見る」
冷たい物言いのくせに、差し出された手は驚くほど紳士的だった。
私が躊躇していると、神崎課長はスッと膝を折り、紬と目線を合わせるために床にしゃがみ込んだ。
そして。
「……はじめまして、紬ちゃん」
神崎課長が、声のトーンを限界まで落とし、周囲の部下たちには絶対に聞こえないような極小の、ささやくような優しい声で――ふにゃりと、極上の笑顔を浮かべたのだ。
「っ……!」
心臓が、耳の奥でドクンと爆発しそうなほど大きく跳ね上がった。
冷徹な彫刻のようだった彼の顔が、一瞬にして「優しいお父さん」のような、あるいは「ただの愛おしいものを見つめる男」の顔に変わった。
そのギャップの破壊力に、私の呼吸が止まる。
「おじちゃん、だれぇ?」
人見知りするはずの紬が、吸い寄せられるように神崎課長の前にトコトコと歩み寄った。
「私は、神崎だ。君の母親の……上司をしている」
神崎課長はそっと紬の小さな手を、自分の大きな手で包み込んだ。その指先が、いつになく温かい。
「佐倉。システムテストの締め切りまで時間がない。早く作業に戻れ」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
私は真っ赤になった顔を隠すように、慌てて課長室を後にした。
それから一時間。
ガラス張りの課長室を、私はパソコンを叩きながらチラチラと盗み見ていた。
そこで繰り広げられていたのは、およそこの世のものとは思えない光景だった。
カタカタとブラインドタッチで超高速にキーボードを叩きながら、神崎課長は時折、隣のソファに座る紬に視線を送っている。
「つむぎちゃん、これ。折り紙だ」
神崎課長が真剣な顔で、コピー用紙をハサミで正方形に切り、紬に差し出した。
どうやら「折り紙の鶴」を折ってあげようとしているらしい。
だが。
「……なぜだ。なぜ、角と角が合わない」
仕事では一円のズレも許さない完璧主義の指先が、折り紙を前にして、驚くほどぎこちなく動いている。
眉間に深いシワを寄せ、まるで国家の安全保障に関する書類でも見るかのような超深刻な顔で、彼は折り紙と格闘していた。
最終的に出来上がったのは、くしゃくしゃに潰れた「羽の曲がった謎の物体」だった。
「神崎課長……それ、折り紙になっていません」
あまりのポンコツぶりに耐えかねて、私が個室のドアを少し開けて吹き出すと、神崎課長は耳まで真っ赤にして顔をそむけた。
「……立体幾何学的な誤差が生じただけだ。実務には影響ない」
「やれやれ。神崎くん、相変わらずお不器用だねぇ」
いつの間にか背後に立っていた大野部長が、楽しそうにパーテーションから顔を出した。
「でもさぁ、佐倉さん。彼、仕事は神だけど、家事とかこういう細かい『おもてなし』は本当にポンコツでね。でも、すっかりパパの顔じゃない。旦那さんにするには、これ以上ない優良物件だと思うよ?」
「ぶ、部長! 何を仰るんですか!」
心臓が口から飛び出そうになる私を、大野部長はニヤニヤと見つめる。
神崎課長は、真っ赤な顔のまま「大野部長。公私混同は業務の妨げです」と冷淡に言い放ったが、その指先はまだくしゃくしゃの折り紙を握りしめていた。
その時――。
「佐倉さん! 紬ちゃんにお菓子とジュース買ってきました!」
千石くんが、笑顔で課長室に飛び込んできた。
「わぁー! おにーさん!」
紬が嬉しそうにソファから飛び降り、千石くんの元へ走っていく。
「紬ちゃん、高い高いしてあげようか?」
「うん!」
「よーし、よいしょー!」
千石くんが紬を慣れた手つきで抱き上げ、高く持ち上げると、紬は「キャハハ!」と今日一番の大きな笑い声を上げた。
「千石くん、ありがとう。助かっちゃう」
私が柔らかく微笑むと、千石くんは照れたように「いや、佐倉さんのためなら、僕、なんでもしますから」と耳を赤くした。
――その瞬間。
課長室の中の空気が、一瞬にして極低温へと凍りついた。
ゆっくりと立ち上がった神崎課長の瞳から、先ほどまでの「ふにゃりとした温かさ」が、完全に消え失せていた。
・・・・・・
私の、完璧に統制された「課長室」という牙城に、二人の侵入者がいた。
佐倉椎名。
そして、彼女に酷似した、泣きたくなるほど愛らしい三歳の少女――紬。
仕事をしながら、私はソファで私のノートにいたずら書きをしている紬を、時折盗み見ていた。
佐倉にそっくりな、大きな瞳。その瞳が私をまっすぐに見つめた瞬間、私の胸の奥で、経験したことのないほど甘く、重苦しい「何か」が暴れだした。
(この子が、彼女の娘……。私のものではない、彼女の過去の、愛の証)
その事実に、わずかな胸の痛み(嫉妬)を覚えると同時に、それを上回る猛烈な「独占欲」が私を支配した。
この愛らしい少女ごと、佐倉椎名のすべてを私の腕の中に囲い込み、生涯、誰の目にも触れさせたくない――。
だが、私は自分の「不器用さ」に激しい苛立ちを覚えていた。
「人間は嘘を吐くが、数字は嘘を吐かない」
それが私の信条だ。数式や経理システムは、私の意志通りに完璧に機能する。
だが、この「折り紙」という、ただの紙ペラ一枚が、私の指先でどうしても思い通りの形(鶴)になってくれない。
「神崎課長……それ、折り紙になっていません」
ドアの隙間から私を見て、佐倉がくすくすと、悪戯っぽく笑った。
その瞬間、私の心臓はシステムエラーを起こしたように激しく脈打った。
いつもオフィスのデスクで、限界まで張り詰めた顔をしていた彼女が、私のポンコツな姿を見て、あんなにも柔らかく、愛らしく笑っている。
(……もっと、私を見て笑え。その笑顔を、私だけに向けろ)
そう告げたい衝動を、私は「実務には影響ない」という冷淡な言葉の仮面で必死に押し殺した。
大野部長が横から「旦那さんにするには優良物件だ」などと茶化してくれた時、私の心臓は完全に理性を失いかけていた。佐倉が慌てて否定する姿に、胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。
そこへ。
若い、不躾な侵入者が、土足で私の領域を踏み荒らしにやってきた。
「佐倉さん! 紬ちゃんにお菓子とジュース買ってきました!」
新卒の千石だ。
千石は、私にはできない慣れた手つきで紬を抱き上げ、軽々と高い高いをした。
「キャハハ!」と、私の前では見せなかった大きな声で笑う紬。
そして、それを見つめる佐倉の表情は――私が一度も見たことのない、完全に警戒を解いた、無防備で柔らかい母親の笑顔だった。
「千石くん、ありがとう。助かっちゃう」
「いや、佐倉さんのためなら、僕、なんでもしますから」
千石の瞳に宿る、隠しきれない、純粋で真っ直ぐな好意。
それが、私の神経を逆撫でする。
じわり、と、脳の奥からどす黒い焦燥感がせり上がってきた。
千石は若い。優しく、ストレートに感情を言葉にできる。
それに対し、私は彼女に優しい言葉一つかけてやれず、「邪魔だ、帰れ」などと言い放つことしかできない、鉄面皮の男だ。
(……気に入らない。極めて不愉快だ)
私はデスクの上に置いていた、歪んだ折り紙の鶴を、指先で静かに握りつぶした。
「千石」
私の声は、我ながら驚くほど低く、地を這うような冷徹さを帯びていた。
「は、はい! 神崎課長!」
千石がビクリとして、紬を抱き抱えたままこちらを振り返る。
「業務時間中だ。他部署への確認業務はすべて終わったのか? 終わっていないなら、自分のデスクに戻れ。……その子供は、私の管轄だ」
「あ、いや……まだ少し残ってますが……」
「なら、一秒でも早く席につけ。佐倉のフォローをする前に、自分の義務を果たせ」
千石は悔しそうな顔をしたが、私の放つ威圧感に抗えず、「……はい。失礼します」と紬をそっと床に下ろし、逃げるように課長室を出ていった。
ドアが閉まり、再び静寂が訪れる。
ソファに戻ろうとする紬を見つめながら、私は自分のデスクに戻り、キーボードを叩く指先にいつも以上の力を込めた。
(千石。お前がどれだけ優しく、彼女の隣に立とうと関係ない)
私は、彼女が安心して生きられる「絶対的な盾」になる。
そしていつか、彼女のその柔らかな微笑みも、その美しい数字(仕事)も、その愛らしい娘も――すべてを私という存在だけで、完全に満たしてみせる。
「佐倉。システムの検証が終わったら、そのデータを私の元へ持ってこい。一分でも早く、だ」
私は、パソコンの画面から目をそらさないまま、震える声でそう告げた。
ドア越しに見える彼女の、少し戸惑ったような、けれど信頼に満ちた瞳だけが、私の狂おしい焦燥を辛うじて繋ぎ止めていた。




