第3話:数字の盾と、容赦なき鉄槌
翌朝。
私は重い足取りでオフィスへと向かっていた。
昨日は、紬の発熱でパニックになり、神崎課長から「邪魔だ、さっさと帰れ」とまで言われてオフィスを飛び出してしまった。
(みんなに迷惑をかけてしまった。今日、どんな顔をして席につけばいいんだろう……)
経理部の扉を開けるのが、これほど恐ろしい日はなかった。
「おはようございます……」
消え入りそうな声で挨拶をして自席へ向かうと、驚くべき光景が目に入った。
私のデスクがきれいに片付いている。
それだけではない。昨日やり残した営業部の経費精算データの書類が、一枚残らず消えていた。
「あっ、佐倉さん! おはようございます。紬ちゃん、お熱大丈夫でしたか?」
隣から千石くんが、いつもと変わらない明るい笑顔で声をかけてくれた。
「千石くん、おはよう。紬は実家の母が来てくれて、すっかり熱も下がって……。それより、このデータ、千石くんが全部やってくれたの? 本当にありがとう」
申し訳なさと感謝で頭を下げようとした私に、千石くんは首を横に振った。
「ううん、違いますよ。僕、昨日佐倉さんが帰った後すぐに『やります!』って言ったんですけど、神崎課長に書類全部奪われちゃって。『自分の月次報告書をやれ』って怒られました」
「え……? じゃあ、この完璧な処理は……」
「はい。課長がご自分のデスクで、十五分くらいで全部片付けちゃいました」
(神崎課長が……私の代わりに……?)
信じられなかった。
あの冷徹な完璧主義者の課長が、一般社員の入力作業を自ら買って出ただなんて。
心臓がトクンと跳ねる。
「邪魔だ、さっさと帰れ」と言われたあの瞬間、私は冷たく突き放されたのだと思っていた。けれど、彼はただ、私が一刻も早く紬の元へ帰れるように、仕事を引き取ってくれただけだったのだ。
驚きで呆然としている私のもとに、どすどすと遠慮のない足音が近づいてきた。
「あー、いたいた。佐倉さん。昨日、途中で帰っちゃったんだって? 大変だねぇ、子持ちの時短勤務は」
声の主は、営業部の中堅社員・高橋だった。
いつも提出期限を守らず、他部署を見下すような態度を取ることで悪名高い男だ。
高橋はニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべ、私のデスクにバサリと分厚いクリアファイルを叩きつけた。
「これ、営業部全体の先月分の出張旅費精算。今日中に処理しておいてね。あ、また急にお子さんがお熱とかで帰られちゃうと困るから、今すぐ手をつけてもらえる?」
周囲の経理部員の視線が、一瞬で固まるのがわかった。
ファイルを開くと、領収書の日付はばらばら、金額の計算も合っておらず、明らかに社内規定の期限を大幅に過ぎている。
「あの……高橋さん。これは提出期限を一週間以上過ぎています。それに、この出張日、社内カレンダーでは営業部の会議の日になっていますが……」
私が指摘すると、高橋はあからさまに不機嫌そうな顔をして、デスクに両手を突いて身を乗り出してきた。
「細かいこと言わないでよ。時短の君がそんなくだらない指摘で仕事遅らせていいの? こっちは外で足稼いで数字作ってんの。経理はそれを黙って処理すればいいんだよ。やっぱり、これだからシンママの時短は融通が利かなくて使いにくいな。文句言う暇があったら早く打ち込めよ」
「っ……」
「シンママ」「使いにくい」というダイレクトな悪意に、喉がぎゅっと詰まる。
言い返したい。けれど、私がここで感情的になれば「やっぱりシンママは感情的で扱いづらい」と思われるだけだ。
悔しさに爪が肉に食い込む。
その時。
カツ、カツ、と、冷徹に整えられた革靴の音が、背後から近づいてきた。
「――高橋」
温度の一切ない、極低温の声。
振り返ると、完璧なスーツを纏った神崎課長が、腕を組んで立っていた。
その眼鏡の奥の切れ長な瞳は、まるでゴミを見るかのように冷たく高橋を射抜いている。
「神崎課長! ちょうど良かったです。この佐倉さん、時短だからって全然融通が利かなくて。ちょっと経理部で指導してもらえませんかね?」
高橋は味方を得たと思ったのか、得意げに言った。
だが、神崎課長の表情は一ミリも動かない。
「指導を受けるべきは、君の方だ。高橋」
「え……?」
神崎課長は、高橋が押し付けたファイルを、綺麗な指先でひらりと一枚めくった。
「佐倉。この書類を一時的に押さえろ。――高橋、今から私が言う『数字』を、このオフィスの全員の前で釈明しろ」
課長の声は、広く静かな経理部内に、驚くほどよく通った。
・・・・・・
オフィスが静まり返る。
私は、佐倉の前に立ち塞がる哀れな男――高橋を、ただ冷徹に見下ろしていた。
佐倉に「シンママ」「使いにくい」などという、下俗な言葉を吐きかけた瞬間、この男の社内生命は終わった。
私は、私の有能なビジネスパートナーに泥を塗る者を、一瞬たりとも容認するつもりはない。
「釈明、ですか? 何のことだか……」
冷や汗を流し始めた高橋に、私は経理システムをiPadで提示した。
「先月十四日、君は『大阪出張』として、往復のチケット代二万八千円と、現地での飲食接待費三万円を精算申請しているな。このファイルにも、その領収書が入っている」
「ええ、それが何か? 出張旅費ですが」
「だが、同日、君は営業部の勤怠管理システム上では『東京本社での会議に出席』となっている。さらに、君が申請した飲食接待費の領収書。発行元は大阪の居酒屋だが、宛名が空欄、かつ同席した取引先の担当者の名前が、同日、他社のイベントに登壇していた人物になっている」
「あ、いや、それは日付けの間違いというか……」
「間違いではない、意図的な『虚偽申請』――つまり、私的流用の疑いだ」
私の容赦のない指摘に、高橋の顔から一気に血の気が引いた。
「さらに」
私は追撃の手を緩めない。
「このファイルの二十七日、営業日報には『直行直帰でA社を訪問』とある。だが、君の社用車のGPS履歴を確認したところ、車は一日中、君の自宅近くのパチンコ店の駐車場に止まっていた。にもかかわらず、君はガソリン代と日当を申請している。これは、完全な横領行為だ」
「な……っ! なぜそんなものまで!」
ガタガタと震え出す高橋に、私は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たく微笑んだ。
「言ったはずだ。人間はいくらでも嘘を吐くが、数字は嘘を吐かない。君の出す数字は、君の『怠慢』と『犯罪行為』を完璧に証明している。佐倉に難癖をつけて仕事を遅らせていたのは、彼女の有能なチェック能力によって、自分の不正が露見するのを防ぐための時間稼ぎか?」
「そ、そんなわけ……っ!」
「お引き取りください。これより先は、経理部課長として、営業部長および人事部、監査役会へ、君の過去一年分のすべての精算データの監査請求を提出する。君の退職金がどれだけ残るか、今から計算しておくことだ」
「ひ、っ……!」
高橋は言い返す言葉を失い、真っ青な顔でファイルを掴むと、這う這うの体で経理部から逃げ去っていった。
静まり返るオフィスで、私は自分のデスクに戻ろうと歩き出す。
「神崎、課長……」
佐倉が、潤んだ瞳で私を見上げていた。
その瞳に宿る、安堵と、私に対する強い信頼の色。
それを目にした瞬間、私の胸の奥で、再びあの重苦しいほどの独占欲がうごめいた。
私は足を止め、周囲の部下たちにも聞こえるように、冷然と告げた。
「佐倉。君が昨日の時短勤務で残した経費データは、私が全て確認した。君の出す数字は一円のズレもなく、完璧に美しかった」
「……っ、はい」
「完璧な数字を出す有能な人間が、不正を働く怠慢な人間に気圧される必要はない。時短勤務だろうがシングルマザーだろうが、君はこの経理部において、誰よりも正確な仕事をする『主戦力』だ。自分の仕事の価値を、自ら貶めるな」
「――はい! ありがとうございます!」
佐倉が、今にも泣き出しそうな、けれど昨日よりもずっと前を向いた、美しい笑顔で返事をした。
「いやぁ、神崎くん。相変わらず、容赦ないねぇ。でも、佐倉さんを守るためとはいえ、一瞬で不正を見抜いて相手を社会的に抹殺しちゃうなんて、まるで執念深い旦那様みたいじゃないか」
大野部長がパーテーションから顔を出し、ニヤニヤと楽しそうに茶化してきた。
「大野部長。業務の邪魔です。……それと、監査役会への報告書、すぐに作成しますので、部長決裁をお願いいたします」
私は顔をそむけ、足早に自席に戻った。
タイピングを開始する私の耳に、佐倉が千石と楽しそうに話す声が聞こえてくる。
(……私の数字だけで、君を埋め尽くす。その日までは、私が君の絶対的な『盾』であり続けよう)
キーボードを叩く私の指先に、いつも以上に強い力がこもるのを感じていた。
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