表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/11

第3話:数字の盾と、容赦なき鉄槌

翌朝。

私は重い足取りでオフィスへと向かっていた。

昨日は、紬の発熱でパニックになり、神崎課長から「邪魔だ、さっさと帰れ」とまで言われてオフィスを飛び出してしまった。


(みんなに迷惑をかけてしまった。今日、どんな顔をして席につけばいいんだろう……)


経理部の扉を開けるのが、これほど恐ろしい日はなかった。

「おはようございます……」

消え入りそうな声で挨拶をして自席へ向かうと、驚くべき光景が目に入った。


私のデスクがきれいに片付いている。

それだけではない。昨日やり残した営業部の経費精算データの書類が、一枚残らず消えていた。


「あっ、佐倉さん! おはようございます。紬ちゃん、お熱大丈夫でしたか?」

隣から千石くんが、いつもと変わらない明るい笑顔で声をかけてくれた。


「千石くん、おはよう。紬は実家の母が来てくれて、すっかり熱も下がって……。それより、このデータ、千石くんが全部やってくれたの? 本当にありがとう」


申し訳なさと感謝で頭を下げようとした私に、千石くんは首を横に振った。


「ううん、違いますよ。僕、昨日佐倉さんが帰った後すぐに『やります!』って言ったんですけど、神崎課長に書類全部奪われちゃって。『自分の月次報告書をやれ』って怒られました」

「え……? じゃあ、この完璧な処理は……」

「はい。課長がご自分のデスクで、十五分くらいで全部片付けちゃいました」


(神崎課長が……私の代わりに……?)


信じられなかった。

あの冷徹な完璧主義者の課長が、一般社員の入力作業を自ら買って出ただなんて。

心臓がトクンと跳ねる。

「邪魔だ、さっさと帰れ」と言われたあの瞬間、私は冷たく突き放されたのだと思っていた。けれど、彼はただ、私が一刻も早く紬の元へ帰れるように、仕事を引き取ってくれただけだったのだ。


驚きで呆然としている私のもとに、どすどすと遠慮のない足音が近づいてきた。


「あー、いたいた。佐倉さん。昨日、途中で帰っちゃったんだって? 大変だねぇ、子持ちの時短勤務は」


声の主は、営業部の中堅社員・高橋だった。

いつも提出期限を守らず、他部署を見下すような態度を取ることで悪名高い男だ。

高橋はニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべ、私のデスクにバサリと分厚いクリアファイルを叩きつけた。


「これ、営業部全体の先月分の出張旅費精算。今日中に処理しておいてね。あ、また急にお子さんがお熱とかで帰られちゃうと困るから、今すぐ手をつけてもらえる?」


周囲の経理部員の視線が、一瞬で固まるのがわかった。

ファイルを開くと、領収書の日付はばらばら、金額の計算も合っておらず、明らかに社内規定の期限を大幅に過ぎている。


「あの……高橋さん。これは提出期限を一週間以上過ぎています。それに、この出張日、社内カレンダーでは営業部の会議の日になっていますが……」

私が指摘すると、高橋はあからさまに不機嫌そうな顔をして、デスクに両手を突いて身を乗り出してきた。


「細かいこと言わないでよ。時短の君がそんなくだらない指摘で仕事遅らせていいの? こっちは外で足稼いで数字作ってんの。経理はそれを黙って処理すればいいんだよ。やっぱり、これだからシンママの時短は融通が利かなくて使いにくいな。文句言う暇があったら早く打ち込めよ」


「っ……」


「シンママ」「使いにくい」というダイレクトな悪意に、喉がぎゅっと詰まる。

言い返したい。けれど、私がここで感情的になれば「やっぱりシンママは感情的で扱いづらい」と思われるだけだ。

悔しさに爪が肉に食い込む。


その時。


カツ、カツ、と、冷徹に整えられた革靴の音が、背後から近づいてきた。


「――高橋」


温度の一切ない、極低温の声。

振り返ると、完璧なスーツを纏った神崎課長が、腕を組んで立っていた。

その眼鏡の奥の切れ長な瞳は、まるでゴミを見るかのように冷たく高橋を射抜いている。


「神崎課長! ちょうど良かったです。この佐倉さん、時短だからって全然融通が利かなくて。ちょっと経理部で指導してもらえませんかね?」

高橋は味方を得たと思ったのか、得意げに言った。


だが、神崎課長の表情は一ミリも動かない。


「指導を受けるべきは、君の方だ。高橋」


「え……?」


神崎課長は、高橋が押し付けたファイルを、綺麗な指先でひらりと一枚めくった。


「佐倉。この書類を一時的に押さえろ。――高橋、今から私が言う『数字』を、このオフィスの全員の前で釈明しろ」


課長の声は、広く静かな経理部内に、驚くほどよく通った。


・・・・・・



オフィスが静まり返る。

私は、佐倉の前に立ち塞がる哀れな男――高橋を、ただ冷徹に見下ろしていた。


佐倉に「シンママ」「使いにくい」などという、下俗な言葉を吐きかけた瞬間、この男の社内生命は終わった。

私は、私の有能なビジネスパートナーに泥を塗る者を、一瞬たりとも容認するつもりはない。


「釈明、ですか? 何のことだか……」

冷や汗を流し始めた高橋に、私は経理システムをiPadで提示した。


「先月十四日、君は『大阪出張』として、往復のチケット代二万八千円と、現地での飲食接待費三万円を精算申請しているな。このファイルにも、その領収書が入っている」

「ええ、それが何か? 出張旅費ですが」


「だが、同日、君は営業部の勤怠管理システム上では『東京本社での会議に出席』となっている。さらに、君が申請した飲食接待費の領収書。発行元は大阪の居酒屋だが、宛名が空欄、かつ同席した取引先の担当者の名前が、同日、他社のイベントに登壇していた人物になっている」


「あ、いや、それは日付けの間違いというか……」


「間違いではない、意図的な『虚偽申請』――つまり、私的流用の疑いだ」


私の容赦のない指摘に、高橋の顔から一気に血の気が引いた。


「さらに」

私は追撃の手を緩めない。

「このファイルの二十七日、営業日報には『直行直帰でA社を訪問』とある。だが、君の社用車のGPS履歴を確認したところ、車は一日中、君の自宅近くのパチンコ店の駐車場に止まっていた。にもかかわらず、君はガソリン代と日当を申請している。これは、完全な横領行為だ」


「な……っ! なぜそんなものまで!」

ガタガタと震え出す高橋に、私は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たく微笑んだ。


「言ったはずだ。人間はいくらでも嘘を吐くが、数字は嘘を吐かない。君の出す数字は、君の『怠慢』と『犯罪行為』を完璧に証明している。佐倉に難癖をつけて仕事を遅らせていたのは、彼女の有能なチェック能力によって、自分の不正が露見するのを防ぐための時間稼ぎか?」


「そ、そんなわけ……っ!」


「お引き取りください。これより先は、経理部課長として、営業部長および人事部、監査役会へ、君の過去一年分のすべての精算データの監査請求を提出する。君の退職金がどれだけ残るか、今から計算しておくことだ」


「ひ、っ……!」


高橋は言い返す言葉を失い、真っ青な顔でファイルを掴むと、這う這うの体で経理部から逃げ去っていった。

静まり返るオフィスで、私は自分のデスクに戻ろうと歩き出す。


「神崎、課長……」


佐倉が、潤んだ瞳で私を見上げていた。

その瞳に宿る、安堵と、私に対する強い信頼の色。

それを目にした瞬間、私の胸の奥で、再びあの重苦しいほどの独占欲がうごめいた。


私は足を止め、周囲の部下たちにも聞こえるように、冷然と告げた。


「佐倉。君が昨日の時短勤務で残した経費データは、私が全て確認した。君の出す数字は一円のズレもなく、完璧に美しかった」


「……っ、はい」


「完璧な数字を出す有能な人間が、不正を働く怠慢な人間に気圧される必要はない。時短勤務だろうがシングルマザーだろうが、君はこの経理部において、誰よりも正確な仕事をする『主戦力』だ。自分の仕事の価値を、自ら貶めるな」


「――はい! ありがとうございます!」


佐倉が、今にも泣き出しそうな、けれど昨日よりもずっと前を向いた、美しい笑顔で返事をした。


「いやぁ、神崎くん。相変わらず、容赦ないねぇ。でも、佐倉さんを守るためとはいえ、一瞬で不正を見抜いて相手を社会的に抹殺しちゃうなんて、まるで執念深い旦那様みたいじゃないか」


大野部長がパーテーションから顔を出し、ニヤニヤと楽しそうに茶化してきた。


「大野部長。業務の邪魔です。……それと、監査役会への報告書、すぐに作成しますので、部長決裁をお願いいたします」

私は顔をそむけ、足早に自席に戻った。


タイピングを開始する私の耳に、佐倉が千石と楽しそうに話す声が聞こえてくる。


(……私の数字だけで、君を埋め尽くす。その日までは、私が君の絶対的な『盾』であり続けよう)


キーボードを叩く私の指先に、いつも以上に強い力がこもるのを感じていた。

お読みいただき、本当にありがとうございました!


もし「面白かった!」「もっと読みたい!」と思ってくださったら、ぜひ作品への応援をお願いいたします。


画面下部にある、

・【ブックマークに追加】

・【★★★★★】(ポイント評価)

をポチッと押して応援していただけますと、次回作や第二章?の執筆エネルギーが100倍になります!

皆様の評価一つ一つが、作者の何よりの支えです。

感想やレビューなども、一言でも大歓迎です!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ