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第2話:不器用な守り手と、鉄面皮の裏側

ごめんなさい、を繰り返す帰り道


ポケットの中で、スマートフォンが激しく震えた。

表示された『ひまわり保育園』の文字に、私の心臓が冷たく跳ねる。

この画面を見るたび、全身の血の気が引く感覚には、何度経験しても慣れない。


「――はい、佐倉です」

「あ、紬ちゃんのお母さんですか? すみません、紬ちゃん、お昼寝から起きたらお熱が三十八度五分まで上がってしまって。ちょっとぐったりされているので、お迎えをお願いできますか?」

「あ……っ、はい! すぐに行きます。申し訳ありません、よろしくお願いいたします!」


通話を切り、一瞬だけ目の前が暗くなる。

時計は14時半。退社予定の16時半まで、まだ2時間もある。

今日中に締め切らなければならない他部署の経費精算データが、まだ半分残っていた。


(どうしよう……。また、みんなに迷惑をかけてしまう)


離婚してから半年、どれだけ気をつけて体調管理をしていても、3歳児の発熱は防げない。

「すみません」と「ごめんなさい」が、喉の奥までせり上がってくる。

周囲のデスクに座る同僚たちの視線が、一瞬だけこちらに向いた気がして、私はギュッと肩をすくめた。


「佐倉さん、どうしたの?」

隣の席の千石くんが、心配そうに声をかけてくれた。


「紬が、熱を出して……。お迎えに行かなきゃいけなくて。千石くん、本当にごめんなさい。このデータ、半分までしかできてなくて……」

焦りで指先が震え、キーボードの上に涙がこぼれそうになる。

「何言ってるんですか! 紬ちゃんが大変なんだから、早く行ってあげてください。残りは僕がやりますから、気にしないで!」

千石くんはそう言って、すぐに私のデスクに手を伸ばそうとしてくれた。


だが、その温かい手を阻むように、冷徹な声が私たちの頭上から降ってきた。


「――佐倉」


神崎課長だった。

眼鏡の奥の切れ長な瞳には、やはり一切の温度がない。

冷たく、どこまでも知的なその佇まいが、今の私の罪悪感をさらに鋭く刺激する。


「仕事中に慌てるな。電話の内容は聞こえていた。子供の発熱だな」

「……はい。神崎課長、本当に申し訳ありません。まだデータの処理が途中なのですが、紬のお迎えに行かなければならず……」


頭を下げる私の頭頂部に、降ってきたのは驚くほど無慈悲で、冷淡な言葉だった。


「仕事に穴をあけるな」


「っ……!」

心臓を直接、冷たい氷で撫でられたような衝撃。

やっぱり、時短勤務で、さらに子供の熱で突発的に帰る私は、この完璧主義の上司にとっては「仕事に穴をあける足手まとい」なのだ。


「自分の私生活の都合を、オフィスの業務計画に持ち込むな。そんな状態でここにいられても、タイピングが乱れてデータの正確性が落ちるだけだ。邪魔だ、さっさと帰れ」


「……はい。申し訳ありませんでした。失礼します」


涙を堪えるために、唇を強く噛み締める。

千石くんが「課長! それは言い過ぎです、佐倉さんはいつも――」と怒ったように声を上げたが、私はそれを手で制した。

これ以上、この場にいたら本当に泣いてしまう。


私はパソコンをシャットダウンし、バッグを掴むと、逃げるようにオフィスを飛び出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


エレベーターの中で、誰もいないのを確認して、ようやく一粒の涙が頬を伝った。

神崎課長の言う通りだ。

仕事に穴をあけたのは事実。私は、母親としても、経理部員としても、どこか中途半端で、誰の役にも立てていないのではないか――。

そんな暗い感情に支配されながら、私は駅へと走った。


だが、この時の私はまだ知らなかった。

私が去った後、あの冷徹な経理部オフィスで、神崎課長がどんな行動をとっていたのかを。


・・・・・・


「課長! さすがに今の言い方は冷酷すぎます! 佐倉さん、毎日どれだけ頑張ってるか――」


佐倉椎名が逃げるように去っていったオフィスで、新卒の千石が、私に向かって珍しく語気を強めて食ってかかってきた。

若いな、と思う。

そして、その瞳に宿る、佐倉に対する隠しきれない「好意」と「庇護欲」が、私の胸の奥を酷く不快にざらつかせた。


「千石。感情で仕事を語るな。不愉快だ」

私は眼鏡の位置を指先で微調整しながら、冷淡に千石を見下ろした。


「ですが――」

「佐倉の残務は、どのデータだ」

「え? あ、この『営業部の経費精算データ』です。あと三十件ほど残っていて、今日の17時が締め切りです。僕がやりますから」


千石が書類を引き取ろうと手を伸ばしたが、私はそれを遮り、佐倉のデスクから書類の束をすべて回収した。


「お前は自分の担当している『月次報告書』の作成に戻れ。今日が締め切りのはずだ。佐倉のフォローをする余裕があるなら、なぜ自分の仕事がまだ終わっていない?」

「それは……」

「他人の心配をする前に、自分の義務を果たせ。……佐倉の残務は、私がやる」


「えっ? 課長が、ですか?」

千石が信じられないといった顔で目を見開く。


当然だ。課長である私が、一般社員の、しかも他部署の小口精算データの入力などという雑務を引き受けるなど、通常ではあり得ない。


「私の処理速度なら、佐倉が残していった三十件など十五分で終わる。全体最適の観点から言えば、これが最も効率的だ。……文句があるか?」

「……いえ、ありません」

千石は悔しそうに口を噤み、自分の席へと戻っていった。


私は自分のデスクに戻り、佐倉のパソコンから引き継いだ経理システムを立ち上げる。


画面に並ぶ、佐倉の入力した数字。

一円のズレも、一つの入力ミスもない、完璧に整えられた数字の列。

――だが、私は気づいていた。


最後に入力された五件だけ、入力のタイムスタンプが、いつもよりコンマ数秒、わずかに遅れていた。

おそらく、保育園からの着信を気にしていたか、あるいは、体調の悪い娘を思って、彼女の小さな指先が焦りで震えていたのだろう。


(強がりな、愚か者が)


胸の奥が、締め付けられるように疼く。

「大丈夫です」「やれます」

彼女はいつだって、あの愛らしい、けれど頑なな唇を真一文字に結んで、一人で全てを背負おうとする。


本当は、今にも泣き出しそうな顔をしていたくせに。

あの時、私が優しい言葉をかければ、彼女はオフィスで泣き出してしまっただろう。

「大丈夫ですか」「無理しないで」などという生温かい言葉は、張り詰めた彼女のプライドを内側から崩壊させる、ただの毒薬にしかならない。

だから私は、彼女が「仕事だから」という冷徹な理由で、躊躇なくこの場を去れるように、あえてヒール(悪役)を演じたのだ。


パチパチパチパチ、と、オフィスに私の打鍵音だけが高速で響く。


「人間はいくらでも嘘を吐くが、数字は嘘を吐かない、か」


ひょっこりと、パーテーションの向こうから大野部長が顔を出した。

その顔には、すべてを見透かしたような、なんとも意地の悪い、けれど温かい笑みが浮かんでいる。


「相変わらず、不器用極まりないねぇ、神崎くん」

「……部長、業務の邪魔です。話しかけないでください」

「はいはい。でもさ、あんなに冷たく『邪魔だ、帰れ』なんて言われたら、佐倉さん、傷ついて泣いちゃってるかもしれないよ? 『課長は私のこと、足手まといだと思ってるんだ』って」

「事実、あの状態の彼女は業務効率を著しく下げていました。ただの客観的な指摘です」


私の冷淡な返答に、大野部長は「やれやれ」と肩をすくめてため息をついた。


「君が裏で、営業部から回ってきた遅延書類を『佐倉の残業を増やすな』って冷徹に弾いて回っていることも。こうして彼女の残業分を、自分の時間を削って完璧に片付けていることも。彼女が知ったら、どう思うかねぇ?」

「知る必要はありません」

「千石くんは、ストレートに『僕がやります!』って優しく言える男の子だよ? あんなに格好つけて悪役ぶってたら、佐倉さんのヒーローの座、若者に奪われちゃうよ?」


タイピングする私の指先が一瞬、ぴたりと止まった。


千石が、佐倉の隣で笑っている姿が脳裏をよぎる。

佐倉が、千石の差し出した缶コーヒーを受け取り、はにかむように微笑んでいた、あの柔らかな表情。


じわり、と、胸の奥からどす黒い独占欲が鎌首をもたげる。


「大野部長。無意味な仮定の話は、業務時間外にしてください」


私はそれだけ言うと、さらに打鍵の速度を上げた。


――佐倉椎名。

君の有能さを、君の隣に立つ価値のある男が私であることを、その完璧な「数字」で証明し続けろ。


そして。

一刻も早く、君のその頑なな心を――。

私という「数字」だけで埋め尽くしてしまいたい。

お読みいただき、本当にありがとうございました!


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