第1話:鉄面皮の課長と、強がりの夜
本作はオムニバス長編化に伴い、下記のURLへ移転しました!続きや全話はこちらでお読みいただけます
本作をブックマークされている方、★評価いただいたから、よろしければオムニバスの方もよろしくお願いします。
https://ncode.syosetu.com/n2011mm/
「佐倉さん、これ。今日の15時までに処理しておいて」
「えっ……あ、はい。わかりました」
机の上にドサリと置かれたのは、他部署から遅れて回ってきた、おびただしい数の領収書の山だ。
時計の針は13時を回っている。私の退社時間は、時短勤務のため16時半。
残り3時間半で、自分の通常業務を完璧にこなしながら、この山を処理しなければならない。
「時短だからって、甘えられても困るしね」
立ち去り際、他部署の先輩の小さな囁きが、冷たい風のように私の鼓膜を震わせた。
いつものこと。悪意はない、ただの『当然の疑問』としての棘。
(大丈夫。これくらい、私一人でちゃんとやれる)
私はギュッと奥歯を噛み締め、パソコンに向き合った。
半年前に離婚して、3歳の娘・紬を一人で育てるようになってから、私の辞書から「弱音」という言葉は消えた。職場で「やっぱりシンママは、これだから使いにくい」と思われるのだけは、絶対に嫌だった。
「佐倉さん、無理しすぎですよ。これ、半分、僕が手伝います」
キーボードを叩く私の手元に、不意に、ホットの缶コーヒーが差し出された。
見上げると、新卒の千石くんが、人懐っこい、けれど心配そうな笑顔を浮かべて立っていた。
今年の春、経理部に配属されてから半年。私が指導係としてつきっきりで教育してきた彼は、素直で仕事熱心な、部内一の好青年だ。
「ありがとう、千石くん。でも大丈夫。自分の仕事だし、千石くんも午後から月次報告書の作成があるでしょう? 自分の仕事に集中して」
「でも、佐倉さんの顔色、すごく悪いです。僕、佐倉さんが毎日どれだけ頑張ってるか、近くで見てるから……」
「本当に大丈夫! ほら、頑張って」
私は意識して、とびきり元気な『先輩の笑顔』を作って彼を促した。
これ以上、彼の優しさに甘えるわけにはいかない。
千石くんは、どこか切なそうな、何かを言いたげな瞳で私を見つめ、それから「……はい。無理だけはしないでくださいね」と小さく肩を落として自分のデスクに戻っていった。
千石くんの温かい優しさに胸が痛む。
私には彼のように若くて未来のある男の子に、これ以上甘える資格はない。私は、子持ちの訳あり女なのだ。
パチパチパチ、と静かなオフィスにタイピングの音だけが響く。
時間がない。焦りで指先が少し冷たくなる。
その時だった。
「――佐倉」
低く、硬質で、よく通る大人の声が頭上から降ってきた。
ビクリと肩を揺らして見上げると、そこには完璧に整えられたダークスーツに身を包んだ、我が経理部の課長――神崎彰人が立っていた。
冷徹な彫刻のように美しい顔。だが、その完璧な美形には、一切の感情が浮かんでいない。
知的で鋭い切れ込みの入った眼鏡の奥から、射すくめるような冷たい双眸が私を見下ろしている。
『鉄面皮の神崎』。
社内ではそう恐れられ、仕事に対して一切の妥協を許さないことで有名な、35歳の若きエリート課長だ。
「は、はい! 神崎課長、なんでしょうか」
「手が止まっている。その領収書は、営業部が提出期限を三日過ぎて持ってきたものだな」
「あ、はい。ですが、処理を急ぐとのことでしたので、私が引き受けました」
神崎課長は何も言わず、スッと細く綺麗な、しかし意外にも大きな指先を伸ばし、私の手元から領収書の束を奪い取った。
指先が一瞬、触れそうになって、心臓が跳ねる。
けれどそれは、甘いときめきなどではない。仕事のパートナーとして、この完璧主義の上司の『厳しいチェック』を受ける時の、心地よい緊張感。
彼と私の間に、まだ特別な感情(恋心)など、これっぽっちもありはしない。ただ、彼が私の能力を買い、私も彼の圧倒的な実力を敬愛している。そういう、120%の「仕事上の信頼関係」だけがそこにあった。
神崎課長は、その書類をトントン、とデスクで整えると、表情一つ変えずに千石くんを呼んだ。
「千石」
「はい、神崎課長!」
「この領収書一式を、営業部の担当者にそのまま突き返してこい。『経理部は君たちの怠慢を押し付けるゴミ箱ではない。期限を過ぎた書類は、事由書を添付の上、部長決済を取ってから持ってこい』とな」
「え……! あ、はい、わかりました。すぐに行ってきます!」
千石くんは驚いたものの、それが私の負担を減らすための指示だと気づいたのか、嬉しそうな顔をして書類を手に走り去っていった。
唖然とする私に、神崎課長は振り返り、やはり冷淡な、温度のない瞳のまま私を見下ろした。
「佐倉。君がそうやって他部署の尻拭いをするから、彼らの規律が乱れる。自分のキャパシティを超えた仕事を引き受けるのは、美徳ではなく、ただの怠慢だ。二度と余計な仕事に手を出すな」
「……っ、申し訳、ありません」
冷たい。
ピシャリと言い放たれた言葉が、私の張り詰めていたプライドに深く突き刺さる。
やっぱり、この人は相変わらず容赦がなくて、冷たい。
だが――。
「――人間はいくらでも嘘を吐くが、数字は嘘を吐かない」
「え……?」
「君が時短勤務でありながら、今月処理した経理データ。その正確さと処理件数は、部署内トップだ。君の出す『数字』が、君の有能さを完璧に証明している。だからこそ、私はその無駄のない数字の中に、他部署の怠慢によるゴミが混ざるのが不愉快なだけだ。……わかったら、自分の仕事に戻れ」
それだけ言うと、課長は踵を返し、すっと自分のデスクへ戻っていった。
(え……? いま、私のこと、有能だって……?)
冷淡な言葉遣いの奥に隠された、あまりにも不器用で、けれど圧倒的に説得力のある「肯定」に、私の胸は激しく高鳴った。
彼は口が裂けても「いつも頑張っているね」なんて優しい言葉は言わない。
でも、彼はいつだって、私の必死な頑張りを「数字」という絶対の事実で、誰よりも正当に評価してくれる。
この鉄面皮の上司の元だからこそ、私は「時短のママ」としてではなく「一人の優秀な戦力」として、誇りを持ってここにいられるのだ。
「おや、神崎くん。まーた佐倉さんに冷たい言い方をして。素直に手伝いたいって言えばいいのにねぇ」
その時、ひょっこりとパーテーションの影から顔を出したのは、私たちの直属の上司である大野部長だった。
今年55歳になる大野部長は、温厚で、部下思いで、経理部の『仏』のような人。
「業務効率の指導を怠らないのが、課長としての私の責務です」
「はいはい。相変わらずお硬いねぇ。せっかく能力も相性も抜群のお二人なんだから、仕事だけじゃなくて、もっとプライベートでも仲良くなればいいのに。ねえ、佐倉さん?」
「えっ!? ぶ、部長、何を仰るんですか! 私と神崎課長なんて、そんな!」
慌てて手を振る私。
神崎課長にいたっては、眉ひとつ動かさずに「部長、無意味な仮定の話は業務時間外にしてください」とバッサリ切り捨てている。
(そう、あるはずがない。私たちは、お互いを仕事のパートナーとして信頼し合っている。ただ、それだけ。……絶対に、それだけなんだから)
お茶目にニヤニヤと笑う大野部長の視線を受け流しながら、私は16時半の退社時間まで、ただ黙々と手を動かし続けた。
やっぱり冷たいけれど……でも、あの人は、私の頑張りをちゃんと「数字」で見ていてくれた。
――だが。
この時の私は、まだ知らなかった。
神崎課長が、他部署の嫌みから私を守るためにあえて厳しい言葉を使ったことも。
そして、その後、神崎課長が私のために裏でどれほど冷徹に、営業部の横暴を叩き潰してくれたのかも。
そして。
退社後、3歳の娘・紬を必死にお迎えし、お風呂に入れ、ご飯を食べさせ、寝かしつけた後。
「……はぁ」
夜の22時。
真っ暗なリビングで一人、体育座りをして膝に顔を埋め、静かに涙をこぼす私の「本当の弱さ」を。
あの冷たいはずの、鉄面皮の課長が――。
誰よりも深く、驚くほど大きな温かい手で、すくい上げてくれることになるなんて、この時の私たちは夢にも思っていなかったのだ――。
お読みいただき、本当にありがとうございました!
もし「面白かった!」「もっと読みたい!」と思ってくださったら、ぜひ作品への応援をお願いいたします。
画面下部にある、
・【ブックマークに追加】
・【★★★★★】(ポイント評価)
をポチッと押して応援していただけますと、次回作や第二章?の執筆エネルギーが100倍になります!
皆様の評価一つ一つが、作者の何よりの支えです。
感想やレビューなども、一言でも大歓迎です!




