第51話 密談 有友の目的 初出09.3.21
なかなか寝つけなかったせいなのか、オレが次の日、目が覚めた時には10時を過ぎていた。兄さんを起こしては悪いと思って目覚ましをかけなかったのがマズかった・・・兄さんはすでに起きてしまったようで布団は部屋の隅にたたまれている。今日は兄さんに朝ごはんを作ってあげようと思ってたのに・・・
急いで部屋着に着替えてから1階に降りると、リビングには麻衣しかいなかった。
「あれ? 麻衣だけなの・・・?」
「うん。」
「・・兄さんは?」
「もう出かけちゃったよ。」
「・・どこに・・・?」
「なんか、人と会うんだって。」
「え〜・・つまんないなぁ・・・」
1年ぶりなんだから、今日こそは兄さんと話しようと思ってたのに・・・いったい誰と会うんだろう・・・
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西鉄大牟田線久留米駅を降り15分ほど歩いたところに、白鴻女学園〈しらとりじょがくえん〉はあった。伝統ある学校らしい古い門は閉まっていて守衛に開けてもらわなければならなかった。本来は自由な校風なのだが、昨今の物騒な事件を鑑みれば仕方のないことなのだろう。夏休みの今日は遠くでスポーツ部の声が聞こえる以外は、校舎はひっそり静まり返っていた。
円形の石組みの上には大きなソテツが植えられていて昔の学校といった風情がある。正面玄関はその横にあり、玄関を入ると受け付けでノートに名前を書き、渡された入校章を首から下げなければ部外者は校舎に入ることは出来なかった。とはいえ、すでに連絡してくれていたため手続きはスムーズだった。
職員室を横目に見ながら受け付けで教えられたとおりに進むと、少し奥まったところに保健室はあった。光沢のある黒い木の板に白いエナメルで保健室と書いてある、懐かしくもとりたてて特徴のないごく普通の佇まいだ。
ドアをノックすると中から女性の声が答えた。
「はい、どうぞ。」
引き戸を開けると、そこには白衣を着た女医の姿があった。ほんの少し栗色がかった髪をきっちりと後ろに束ね、前髪だけが斜めに垂れている。
「初めまして、戸田有希の兄の有友です。」
「いらっしゃい、私は有希さんの体調の管理など任されている校医の白石香帆〈しらいしかほ〉です。ここの場所はすぐにわかった?」
「はい、受け付けで聞いてきましたから。」
「良かった、ちょっとわかりにくい所だから。」
それは女医のせいではないだろうが、女医は申し訳なさそうにした。
「でも中庭の前でいい環境じゃないですか。」
「まあね、ただ保健室の場所がわかりにくいのはちょっと困りものだと思うのよ。」
女医は簡素なカップにコーヒーを入れて持ってきた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
女医は自分のコーヒーをひとくちを飲んでカップを置いた。
「有希さんから話を聞いてて会ってみたいと思ってたの。電話もらった時は少し驚いたけど。」
「すみません、急に電話して。」
「いえ、いいのよ。夏休みはわりとヒマだし・・・大学院生ですって?」
「はい。来年で卒業です。」
「卒業したらどこかの製薬会社に?」
「いえ、まだ研究中なので大学に残ろうと思っています。」
「そう・・何の研究してるの?」
「インフルエンザです。」
「ワクチン?」
「いえ、抗ウイルス剤です。あまり詳しい話はできませんけど。」
「そう・・・新型は出て来そう?」
「・・そればかりは誰にもわかりません。今年出現するかも知れないし、10年後かもしれない。ただ、いつか出現するのは確かですから。その時にはワクチンじゃ間に合いませんからね。」
「・・・・・」
「まあ、出現したらいかに早く隔離できるかでが勝負でしょう。あと空港でどれだけ食い止められるか・・・」
「あ、ごめんなさい。有希さんの話だったわね。何か心配なことでもあるの?」
「はい。単刀直入に言うと、そろそろ次の段階を考えた方が良いんじゃないかと思いまして。」
「・・次の段階?」
「昨日、有希の身体を見たんですけど、もうかなり女性化してますよね。」
「見たの?」
「ええ、一緒に風呂に入って。」
「・・・無茶するわね。」
「でも兄弟ですから、風呂には以前からけっこう一緒に入ってましたし。」
「それはそうでしょうけど、有希さんは少し精神的に不安定なところもあるから、もう少し慎重に行動してほしいわ。」
「まあ、しかし他に方法もありませんし。有希もそんなに嫌がっていませんでしたよ。」
「でもねぇ・・・」
「まあ、それはそれとして、あまり長く女性ホルモンを使って副作用が出ないか心配なんです。出来るだけホルモン剤の使用は少なくした方が、長い目で見れば有希のためだと思うんですよ。」
「それは私も考えてたけど。この前の血液検査の結果は一応問題なかったけどね・・・でも良いのかしら? 実はそこまで決断していいものか迷ってたのよ。」
「決断は先生ではなく有希がすることだと思います。先生は有希にちゃんと説明してあげてください。有希は勉強はあまり出来ないようですけど、決して頭が悪い訳ではないんです。ちゃんと自分で決断出来ると思います。」
「ええ・・それはそうでしょうけど・・・」
「有希はもう女の子になる決心をしてるようですし、すでに後戻りは出来ないところまで来ているんでしょう?」
「ええ、そうね。」
「だったら、ちゃんと有希に決断させるべきだと思いますよ。有希のためにもそうした方が良い。」
「それはご家族の考え? それともあなた個人の考えなの?」
「私個人の考えです。決めたら有希が自分で家族に言うと思います。」
「・・わかった、考えとくわ・・・」
「でもあなたに会ってみて良く解った。有希ちゃんがお兄さんと会うの不安がってたワケ。」
「不安?」
「そう、きっと有希ちゃんはあなたのことが好きなんだと思うわ。」
「有希がおれを?」
「ええ、だってあなた、有希ちゃんが好きな男性のタイプにピッタリだもの。」
「有希とそんな話もするんですか?」
「いろいろ話すわよ。いまでは妹みたいな気がしてるくらい。夏休みはあまり会えないから淋しいわ。」
「妹ですか・・・おれにとっては今でも弟ですけどね。」
「・・・ほんとかしら?」
女医はいたずらっぽく微笑んだ。
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「ただいま。」
兄さんが帰ってきた時には、もう夕方になっていた・・・オレは兄さんの声を聞いて、急いで玄関へ駆けていった。
「兄さん・・どこに行ってたの?」
「ごめん、ごめん、急に友達に会わなきゃいけなくなってさ。」
「もう・・・兄さん明日までしかいないんでしょう?」
「いや、帰るのは16日だよ。」
「でも16日はお昼までじゃない・・・そんなの1日に入らないよ・・・」
「そうふくれるなよ。それじゃ、明日どこかに連れて行ってやるよ。」
「え?! どこに?」
「そうだなぁ、スペースワールドはどうだ?」
「スペースワールド?! うん、行きたい!」
オレはスペースワールドと聞いて一気にテンションが上がった。だってスペ−スワールドはオレが男の子のころから、いちど行ってみたかったところだ。今は女の子になっちゃったけど・・でも・・そんなの関係ない!
「それじゃ、麻衣と三人で行こう。」
「・・あ・・うん・・・」
それはそうだ・・・麻衣も連れて行くのは当り前だ・・・なのにオレは兄さんと二人でデートにでも行くような気になっていた・・・オレって最低だ・・・
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夜、オレの部屋でやっと兄さんと二人きりになった・・・今日は寝巻きがわりのベビードールは着ていない、だって兄さんにそんな姿を見られるのは恥ずかしすぎる・・・今日はちゃんとTシャツを着て、下にはホットパンツをはいていた・・・胸にはスポーツブラも着けている。 短いホットパンツから出た足が妙に女っぽくて、自分の足なのにドキッとした・・・こんな気持ちになるのはヘンだと思う・・・だって学校では体育の時、いつもブルマーをはいているのだから・・・
オレはベッドに腰掛けて、布団の上にあぐらをかいてバッグから着替えを出している兄さんを見ていた・・・
「ねえ兄さん・・あの・・男と女ってどこが違うのかな・・・」
オレは以前から気になっていたことを聞いてみた・・兄さんなら知ってそうな気がしたから・・・
「そりゃ、いろんなところが違うだろう。」
「・・そうだけど・・・でもさ・・男と女は考え方も違う気がするんだけど・・・」
「そういうことか。それじゃ聞くけど有希は人間の心はどこにあると思う?」
「心? えっと・・・心臓かな?・・・心のことハートっていうし・・・気持ちが動揺したりするとドキドキするし・・・」
オレはしょっちゅうドキドキしている・・・
「それは違うよ。心臓は血液を全身に送るためのただのポンプで、ドキドキするのは血液を大量に運んで体中の酸素濃度を上げるために馬力を上げてるだけなんだ。」
「・・・そうなの・・?」
なんだかそう言ってしまうと味も素っ気もない・・・
「現在では人間の心と言えるものは脳にあると言われてるんだ。」
「脳?」
「小脳の生物としての働きと、大脳の人間としての感情、それに貯えた情報や知識。そういうのが重なり合って心になるんだ。」
「・・・・・」
「だから性別の違いというのは動物としての考え方や行動の違いと、人間として生きてきた中で集めた情報の違いということになるかな。」
「・・・・・」
「解らないか?」
「・・うん・・・」
なんだかオレには難しすぎる・・・
「人間だけじゃなくて、生き物はだいたいオスは強くてメスは優しいだろう?」
「うん、そうかな・・・」
違う場合もある気がするけど・・・
「それはオスには種として自分の遺伝子を沢山残すという使命があるし、メスには環境に適応して生き残りそうなオスを選んでその子孫を大切に育てるという使命がある。もちろん人間はもっと複雑だし、文化によっても多様な考え方があるから一概には言えないけど、人間も一種類の動物としてみれば、他の動物と基本的には変わらないんだ。」
「・・・・・」
「ただ人間は他の動物とは違って文字や言葉を使って情報を共有することが出来る。そういう情報によって人間は、人間独自の男や女の定義をするようになってきた。」
「・・・どういうこと?」
「たとえば、有希は“女心と秋の空”って言葉、知ってるか?」
「うん・・・聞いたことあるかなあ・・・」
「これは女性が心変わりしやすいって意味の言葉なんだけど、でも昔は“男心と秋の空”って言ってたんだ。」
「へ〜・・なんで?」
「源氏物語なんかを読むとわかるように、昔の男はたくさんの女性と付合っていて、可愛い娘がいるとすぐ心移りしていたんだ。そのころの女性は男が来るのを家でじっと待ってることしか出来ない時代だったから、男が心変わりして来なくなっても我慢するしかなかったんだけど、今ではそんなことは無いだろう? 今の時代は男も女もどっちが恋愛の主導権を握ることも許されている。そういう同じ条件になってみたら女性の方が心移りするようになってことわざも変わっていったんだろう。まあ、今でも心変わりする男もたくさんいるけどな。」
「・・・・・」
「つまり人間の場合、男らしいとか女らしいとか言うのは文化の部分が大きいんだよ。同じ日本でも時代が変わり文化や価値観が変われば、何を男らしさや女らしさとするかということも変わっていくということさ。」
「ふ〜ん・・・」
なんとなくわかる気がする・・・でもオレが知りたいのはそういうことじゃない・・・
「でも・・あのね・・オレ、女の子の服着たり、女の子の仕草とか習って・・少しは女っぽくなった気がするんだけど、でも最近、このままで本当に女の子になれるのかなって思ってるんだ・・・」
「そうなのか?」
「うん・・オレ考え方とか男のままな気がするし・・・まわりのみんなはオレのこと女らしいって言うんだけど、自分では全然そんな感じがしないんだもん・・・さっきの兄さんの話でいうと、オレのは女の子の文化を習っただけなんじゃないのかな・・・動物としては男のままなんじゃないかな・・・」
「それは難しい問題だな。最近では男と女は脳が違うということは解ってきてるけど、どこがどう違うかまではまだはっきりとは解っていないんだ。ただ、使い方が違うらしいことは解ってきてるし、男と女は脳梁〈のうりょう〉の太さが違うという説もある。」
「のうりょうって?」
「脳梁というのは、左右に別れた脳をつなぐ橋みたいなものだ。それが女性の方が脳全体と比較して太いから、女性は左右の脳を一緒に使うのが上手いと言われてるんだ。」
「・・・・・」
「解りにくいかな・・・例えば、男は電話をしてると他のことが手につかなくなるけど、女性は電話をしながらでも色んな用事が出来るのは、左右の脳を情報が行き来しやすいからだと言われてるんだよ。」
「・・・うん・・・」
そういえば女の子ってしゃべりながら鏡見たり、雑誌読んだり、他のことも同時にやってるのを良く見る気がする・・・オレはいつも女の子に囲まれて生活しているから、そんなこと気にもしなかったけど・・・オレ自身はどうだっただろうか・・・
「一説では性同一性障害の人にも、そういう女性型の脳の人がいるって聞いたことがある。あくまで一説ではだけどな。」
「え? それじゃオレはどうなのかな・・・女性型なのかな・・違うのかな・・・」
「さあ、それは脳のCTスキャンでも撮ってみないと判らないな。」
「・・もし・・オレの脳が女性型じゃなかったら・・・オレ・・心までは女の子になれないのかな・・・」
「そうとは一概には言えないと思う。マウスを使った実験ではメスのホルモンをオスに注射すると、そのオスはメスのような行動をするようになったらしいけどな。」
「じゃあ、人間でも女性ホルモンを注射すると・・・女として行動するようになるの?」
オレは女性ホルモンを打ってるけど、そんな風には感じない・・・
「それも一概には言えないよ。マウスには人間のような意味での自我はないが、人間は自分という存在を感じることが出来る。生まれてから親や他の大人に教えられてきた事柄や、自分で考えた事などで個人の自我が造られる訳だけど、だからたとえホルモンの影響があったとしても、それによってこれまでの自分を忘れてしまうわけじゃない。過去の自分を憶えているということは、いくらホルモンの影響を受けたとしても自分らしい行動をしようとするんじゃないかな。」
「・・・・・」
「ただし、全く影響がないわけでもないと思うよ。人間だってホルモンは脳に働きかけているからね。たとえ脳の中にある情報は同じでも、それを使ってどういう選択をするかには、知らず知らずのうちに影響を与える可能性は十分ある。」
「・・じゃあ・・オレも・・・?」
「ああ、以前より女性ホルモンが多くなってるのは間違い無いことだから、少しづつは変わってくるかもしれないな。例えば好みとか、性格とか影響が出て来るかも知れないよ。いくつかのうちから選択する時なんかには無意識に影響を受けるかも知れない。思い当たることはない?」
「う〜ん・・・良くわかんない・・・そんなこと自分じゃわからないよ・・・」
オレはただでさえ自分のことが良く解ってないというのに・・・とはいえオレの部屋を見渡せば、以前とはずいぶん変わってしまっている・・・オレは女の子になったから自然にそうなったような気がしてたけど、もしかしたらこれも女性ホルモンのせいなのだろうか・・・最近のオレはいろんな色があれば、どうしても白とかピンクとかを選んでしまう・・・おかげでオレの部屋はすっかり女の子の部屋のようになってしまった・・・
「兄さん・・オレ本当に女の子になってもいいのかなぁ・・・」
「それはおれが決めることじゃないな。」
「・・それは・・そうだけど・・・オレ不安なんだ・・・最初のころは自分が女の子になることしか考えてなかったんだけど・・でも・・女の子になったら・・そのうち男の子を・・・好きになったりしなきゃいけないんじゃないかな・・・」
「べつにそうとは限らないと思うけどな。」
「・・うん・・でも・・オレ女の子なら・・やっぱり男の子を好きになったりするんじゃないかと思うんだ・・・」
「まあ、そうかもしれないな。」
「・・でもさ・・オレ・・・男の子と付合ったりできるのかな・・・」
「有希は、だれか好きな男の子でもいるのか?」
「いないよ! 好きな男の子なんて・・いるわけないじゃない・・・たとえばの話だよ・・・」
すると兄さんは立ち上がって、ベッドのオレのとなりに座った・・・急に動悸が激しくなる・・・
「有希は真面目なんだな。」
「そ・・そんなことないよ・・・!」
「おまえはまだ高校生になったばかりだろう? そんなに深く考えず、自分の気持ちに正直に行動すればいいんじゃないか?」
「・・でも・・・オレ・・付合ったとしても・・結婚とか出来ないし・・・」
「そんなこと気にしてるのか? 高校生で付合って、そのまま結婚するカップルなんてそんなにいないと思うぞ。」
「それは・・結果的にはそうかも知れないけど・・・」
「まあ、そうだな。最初から絶対結婚しないつもりで付合うものでもないかも知れないな。」
「・・でしょう?」
兄さんはオレの肩に手をのせた・・・ドキドキがバレそうで怖い・・・
「でも、まだ好きなコはいないんだろう? だったらそんなに頑にならずに、好きなコが出来た時に考えれば良いんじゃないかな?」
「・・・・・」
「そう思わないか?」
兄さんがオレを抱き寄せる・・・
「・・あっ・・・」
オレは兄さんの肩に頭をのせるかたちになってしまった・・・もう心臓は早鐘のように打ち、目で見てわかるほどオレの胸はドクドクしている・・・脳に命令されて心臓が身体中に酸素を送っているんだ・・・次の行動に素早く対処するために・・・・次の行動・・・?
しかし、オレが次の行動に移ることはなかった・・・兄さんもオレを抱き寄せたままだった・・・それだけだった・・・
・・・・べつに次の行動を期待してたワケじゃない・・・だってオレたちは兄弟なのだから・・・それでも少しガッカリしているオレって・・・やっぱりヘンだと思う・・・絶対ヘンだ・・・・
これも女性ホルモンの影響だったりするのだろうか・・・ホルモンがオレに女の子みたいな行動をとらせようとしてるとしか考えられない・・・そうじゃなきゃオレが兄さんに・・・少しでも何かを期待するなんて・・・ありえない・・・ありえないよ・・・




