33 その光を目指して(時の流れと共に)
○月×日
匿名X:俺、どうしてローム国騎士団所属なのに、王都騎士団に出向なんて形にさせられてるんでしょう。山賊の中に入り込むのなんてイヤだって言ってるのに、「なら、お前の妹に攫われてもらうか。ちょうど囮役でも仲間役でも入り込む奴が必要なんだが」とか言われたら、俺がやるしかないですよねっ!? 妹はどうにか年上の義弟に頼み込んで守ってもらえるようにしたら、今度は、あのクソ狂犬、「なら、エ○○ッ○にでも協力してもらうか」とか言うんだから、俺がやっぱりやるしかないじゃないですかっ。・・・誰か、あのクソ迷惑人間、どうにかしてください。
匿名A:健闘を祈る。・・・お前こそ真の勇者だ。
匿名B:あの狂犬の奥方に泣きついたらどうにかなるんじゃないのか? 唯一の弱点だろ?
匿名C:いやいや、奥方は弱点かもしれんが、同時に逆鱗でもあるだろ。もっとひどいことになったらどうすんだ。
匿名D:全力で逃げろ・・・。それしか言えない。お前の失策は、あのクソ○上に弱点を知られてしまったことだ。だが、お前の妹だけは守るから。
匿名E:すまん。その元凶からは、お前を王都騎士団に異動させろとうるさく言われているんだが、それでもまだ出向という形を維持することで、全面的にオモチャにされるのだけは阻止するから・・・。
カロンはかなり悩んでいた。
それは自分の屋敷に引き取ったミセルレッドのことだ。
幼い頃から体も弱く、長生きしないだろうと思われていたミセルレッドは、本人の強い希望により実の祖父であるカロンの屋敷で暮らしていた。
そこまではいい。
カロンと同じ屋敷で暮らしていても、ミセルレッドは寝台で一日のほとんどを過ごしており、けれども医師がつきっきりになる必要もなく、本当に手間のかからない子供だった。
(ミセルレッドも十七才。本来ならば社交界に出ていてもおかしくない)
王籍を離れたとはいえ、元王子であるミセルレッドだ。リガンテ公爵家からも、自分の所へ引き取っても構わないのだがと、何度も打診がきている。
なのにミセルレッドは、たまに王宮やリガンテ公爵家に遊びに行くことはあっても、あくまでカロンの屋敷で暮らすことを望み続け、それを実行している。
それが嬉しくて、つい、カロンも今まで目を逸らし続けていたが、いい加減に現実と向き合うべきではないのか。
「ミセルレッド。ちょっとこっちに来なさい」
「どうしたのさ、お祖父様?」
屋敷の裏庭で、馬の背にダラダラともたれて座っていたミセルレッドは、カロンの呼びかけに、ひょいっと飛び降りてやってくる。馬も、ミセルレッドを乗せたまま、のんびりと草を食べているのだから、長閑なものだ。
「ちょっとお前、服を脱いでみなさい」
「えっ? いやん、お祖父様のエッチ」
「ミーセールーレッド」
少し低い声になると、ミセルレッドは「はぁーい」と、からかったことを反省もせずに上着を脱ぐ。その上腕や胸筋に手を這わせて、カロンは、やはりなと思った。
ミセルレッドも、さすがにそこは分かっていたらしい。観念している様子である。
「本当に体の弱い人間がここまで筋肉をつけることはあり得ないだろう。しかもお前の骨格も決して病人の細さじゃない。・・・ミセルレッド、お前、本当に寝台の住人だったのか?」
カロンが仕事から帰ればミセルレッドが迎えてくれる。そして休みの日には一緒に出掛けたりもする。
そんな日々が幸せで、ミセルレッドの体が健康になったなら王宮に戻さねばならないのではないかと思うと、どうしても今まで向き合えずにいた。
「何が言いたいのさ、お祖父様。何、僕に寝台で寝てろっての? こんなに風が気持ちいい日なのに」
「そうじゃない。ミセルレッド、そうじゃないんだ。お前、俺が仕事に行ってる間、本当は・・・」
それでもミセルレッドも十七才。
彼の将来を思うならば王宮に王子として返り咲きさせるべきなのだろう。
カロンは、覚悟を決めようと思ったのだ。
「やっと分かったの? うん、お祖父様が仕事に行ったら、ちゃんとそれなりに体は動かしてたからね。不自然な程に鍛えるわけにはいかなかったけど、ま、そこそこにはいけるかな」
「体を動かしてたって、どうやって・・・」
だが、この屋敷には、元はトル・ソチエトの屋敷で働いていたという使用人達がいる。その使用人達は、亡き妻サーライナと同じ部族の出身で、かなり腕が立つ人間ばかりだ。そして、屋敷の門には、朝から夕方まで兵士が常駐している。
彼らから、ミセルレッドが日中そんなにも動いていたなどという報告はきていない。
しかし、ミセルレッドはそこで、可愛らしく小首を傾げて上目遣いになった。・・・男としてまだ不安定な時期にあるミセルレッドは、そうするとルイージア女王に似て可愛らしく映る。
「僕、怒られるのイヤだなぁ・・・」
勿論、男色の気はないカロンにとって、それは全く意味のないものだった。それでも、可愛い孫息子なので、妥協の余地がないわけではない。
「怒らないから正直に言ってみなさい」
「えー。嘘だぁ。お祖父様、そう言って、後で怒るくせにー」
「語尾を伸ばすのはやめなさい、ミセルレッド。怒らないから正直に言いなさい」
「はーい」
そう言いながら、ぴょんっと、そこの泉近くにあった岩に飛び乗って、ミセルレッドは腰掛ける。
「基本的に筋肉を弱らせない程度なら、部屋の中の運動でもかなり出来るもんなんだよね。・・・そしてね、お祖父様、・・・そりゃ騎士団からきてる門番の兵士達はお祖父様に対して忠実だろうね。だけど、彼らは門を守る兵士であって、裏庭はノーチェックなのさ。ここの裏庭は後ろが崖山だから、そっちからは不審者なんて入って来れないってんで、わざわざ彼らも見に来ない」
面白そうに、その緑の瞳を煌めかせてミセルレッドは説明する。そうしていると、やんちゃな青少年そのものだ。
やはり自分の目は節穴だったのかもしれないと、カロンは思う。
「で、忘れてるかもしれないけど、もう片翼にいる人達って、元はケリスエ将軍と同じ部族の人間だよね。それこそ、その血を半分ひくお父様に、それなりの思惑があって近づいてきた・・・・・・」
「何が言いたい?」
「僕はそのお父様の息子ってことだよ、お祖父様。・・・そして王族でありながら、その座を蹴って、お祖父様の所にやってきた人間。そして、そんな訳ありの僕が、説明もされていないのに、その部族のことを知っていたとして、・・・誰が手を出せると思う? お祖父様だって、僕を殺すのは躊躇った癖に」
カロンは右の片眉を上げて不快感を示した。
「そういうことを言うのはやめなさい、ミセルレッド。俺がどうしてお前を殺すんだ」
ぴょんっとその岩からミセルレッドがカロンの胸へと飛び込んでくる。もう子供ではないミセルレッドの体だが、年老いて尚たくましいカロンは、平然と受け止めた。
「僕も男なんだから、もっと太くなれるかなぁ。お祖父様みたいにもっと大きくなってもいいと思うんだけど」
「骨格的にそれは無理だな。・・・それより、お前は何かやったのか? どうして彼らがお前に手を出せないとか、そういう話になるんだ、ミセルレッド?」
勿論、ミセルレッドに対してそんな真似をさせることなど許す気はないが、それでもカロンはそう尋ねた。しかし、ミセルレッドはカロンから身を離して歩き出すと、ひょいっと振り返って笑う。
「決まってる。そこにいい訓練相手がいたら、相手になってもらうよね。・・・ちょーっと、脅しちゃったかも?」
「・・・・・・」
そこは、「ちょっと」じゃないんだろうなと、カロンは思った。
「だってお祖父様、真面目だもん。知ったら、僕を王宮に戻すなり、仕官させるなり、そういう風に動くでしょ。それは困るんだよ。・・・あのね、お祖父様。僕はあくまで体の弱い元王子なの。健康だなんて、そんな噂すらも立てられたくないの」
「王位争いのことを考えているなら、ミセルレッド、お前は三番目の王子だ。上に二人もいる。そうそう、巻き込まれることは・・・」
「違うよ、お祖父様。僕は以前から言ってる、僕は長生きしないんだって。これは本当。だから、そういうことにしておいた方がいいのさ」
長生きしないと言うが、その根拠は何なのか。
カロンは孫息子が理解できず、ただ困惑するばかりだった。けれどもミセルレッドは、目を閉じて腕を広げ、歌い始めた。
『我らが求めるは神の息吹。この身を持って地上にあらん。空より降りたるは神の恩寵にして、我らが住まう闇にその身を示さるる。されど我らが慢心はならず。なればこそ神の姿は遠くにありて、我らを導かん』
そこで、ミセルレッドは歌を止める。
カロンは目を見開いて孫息子を凝視した。
「ミセルレッド。どうしてその歌を・・・」
「これが答えだよ、お祖父様。僕が剣の練習相手を要求して、それをお祖父様に対して言わないよう口止めしても、彼らはこの歌を知る僕のお願いだから、きかないわけにはいかなかったんだ。・・・まあ、お祖父様も知ってる歌だけど、この場合、僕を好きに泳がした方がいいと判断したんだろうね」
ほら、僕ってばなんてったって元王子様だからぁと、ふざけたことをミセルレッドが言う。
そしてにっこりとミセルレッドは笑った。
「約束は守ってよ、お祖父様。僕をナリファ砦近くの村に連れて行って。一度、見てみたかったんだ。・・・健康になったからいいでしょ? だけど、それは内緒にしてね。特にお母様や兄様達にはさ」
「・・・エルセットには構わないのか?」
「んー? お父様は、あれでお祖父様を一人にしちゃってること、気にしてるからさぁ。だから僕には何も言えないと思うな。だからいいんだよ」
つくづくと賢い孫息子である。家族の性格も見切っているらしい。
そんな彼は、返事を待ってカロンを見ている。
「分かった。連れて行ってやる。だがお前、馬には・・・・・・」
「ああ、平気。お祖父様が留守の時には、泊りがけで遠乗りにも出てたんだよね。ほら、みんな、僕には協力してくれるし。あ、さすがに実戦は自信ないかな」
「・・・・・・」
屋敷の主でありながら知らなかったのは自分だけかと、カロンはがっくりと項垂れた。
しみじみと、自分も年老いたと、カロンは思う。
かつて若い日々があった。それこそ、若さというものを意識せずに生きていられた日々が。
「あ。お姉さん、その煮込み、お代わりもらえる? とっても美味しい。やっぱり美人が作ると味も格別だよね」
「やぁだあ、何言ってるの、このお兄ちゃんは。こんなおばさん、つかまえて美人だなんて」
「おばさんって謙遜しても、美人なのは見りゃ分かるさ。ほら、この手はこんな美味しいものを作り出す手だ。旦那さんもベタ惚れだろうね。それに、その瞳は誰もが有り難がる蒼天の色じゃないか。旅人にとっては天の恵みの色だよ」
王宮やカロンの屋敷でしか暮らしたことのない筈のミセルレッドだが、宿屋の女将さんをそうやって口説いているのか、お代わりをもらいに行っているのか、分からない有り様だ。カロンは嘆息した。
(最近の若い者は分からん)
そう思ってしまう自分は、やはり年なのだと感じる。・・・ミセルレッドのことなど、未だ一度も理解できた試しはないが。
「いい所のお坊ちゃんに、そこまで言われたら照れちゃって顔を隠すしかなくなるわぁ。ほらっ、お肉も大盛りねっ」
「それも嬉しいけど、豆ももうちょっと食べたい。こんなにもおいしく煮てあるなんて、ホント、料理上手だよね」
「あらまぁ。上流の人は豆なんて食べないと思ってたけど・・・」
「別に上流じゃないけど? ああ、この服は心尽くしの格好って奴なんだよね。親戚にお金持ちの家があってさ、そこのお下がりをもらったんだ」
「あらあら、良かったわねぇ」
「うん」
適当なことを言っている孫息子は、本当に調子がいい。
カロンの分までお代わりをもらってきて、楽しそうにぱくついている。
「食べないの、美味しいよ?」
「いや、食べるが、・・・どうして手慣れてるんだ、ミセルレッド?」
「何が? 周りの見よう見まねってとこかな。やっぱり頭で知ってるのと、体で知ってるのとは違うね」
たしかに、その傾向はあった。ミセルレッドは、誰かからその知識だけを得たかのように、色々と分かっているのに、実際の経験が追いついていないのだ。旅の途中もそんなアンバランスな様子があった。
こうやって行きずりの人ともうまくやっていく要領の良さを見せながら、それでいて行動する際にもたつくのは、自分でやったことがないからだろうと思わせる。
そして、宿屋の部屋でも、縄の結び方を練習しているのだから、どこまでも負けず嫌いらしい。
「別に、結び方なんて、そこまで極める必要はないぞ、ミセルレッド」
「お祖父様は黙っててよ。仮に鉄砲水が襲ってきたら、こういったことが生死を分けるんだからね」
のんびりと寝台に横になっているカロンと違い、ミセルレッドは、縄を即座に投げて結ぶ練習をしている。だが、そのタイミングがずれるらしい。
「頭で考えている速さと、実際のそれとが合ってないんだ。ゆっくりやってみなさい。それからスピードを上げていけばいい」
「うー・・・」
見かねてアドバイスすれば、不貞腐れたようにのっそりとしたスピードでやり始める。こまっしゃくれたことばかり言っているが、やはり子供なのだ。
休暇をとり、ミセルレッドを連れて王都を出てきたカロンだが、さすがに病弱なミセルレッドを連れて行くというので反対したのは、王宮サイドだった。しかし、ミセルレッド自身が王宮に赴いて母であるルイージア女王を説得した為、護衛をつけることで皆が折れた形になっている。
だからそんな縄投げが役立つことはないのだが、ミセルレッドは自分でやりたがるのだ。
(単にプライドが高すぎるだけか。自分に出来ないことがあるのが許せないんだな)
目的地が目的地である。離れて護衛しているのは、エルセットの従弟にあたるローランゲルド達だ。
彼を指名したのはカロンだが、ローランゲルドとミセルレッドの間で何かあったのか、ローランゲルドの方から
「離れて護衛しておきます。やはり、お二人とも水入らずの方がいいでしょうから」
と、言い出してきた。
ローランゲルドは口を割らなかったが、あの引き攣っていた顔を思い出すにつけ、ミセルレッドが何かやらかしたような気がしてならない。
エルセットと年の近いローランゲルドだが、少し甘めな顔立ちと皮肉のきいた性格の彼は、剣の腕がたつばかりか、舌戦でもまず負けない人間で、荒っぽく使っても壊れないとロメスのお気に入りだ。おかげでローム国騎士団の人間なのに、ほとんど王都騎士団の所属になっている。そんなローランゲルドが、自分の息子よりも年下な世間知らずの元王子程度にいいようにされる筈がない、・・・・・・ない筈なのだが、さすがにカロンも自分の孫息子が人畜無害とは思えなくなってもいるのである。
それは勿論、ぞろぞろ兵士達を連れて行くよりも、こうやって二人でのんびりと旅をしている方が気楽ではあるが、もしかしてミセルレッドは自分が思っているよりも性格が悪いのかもしれないと、そこもカロンにとって悩みの種だ。
(何かと出歩いていたエルセットや双子達にはそうでもなかったというのに、屋敷に引きこもっているミセルレッドの方が悩ましいというのは何なのか。・・・子供というのは、本当に分からん)
そんなカロンの思いをよそに、ナリファ砦の近くにある村に、二人は十日程で到着した。予定より日数がかかったのは、ミセルレッドが何かというと、
「あっ、お祖父様。ちょっと、あっちにある町にも足を延ばしてみようよ」
とか言い出して寄り道した為である。
予定とは違う街や村での滞在が増えたことに、護衛にあたっているローランゲルド達は、かなり胃が痛い思いだったに違いない。
ナリファ砦には連絡済みの為、砦の中に部屋は用意されている。だが、砦に向かおうとするカロンに、ミセルレッドは、その分かれ道で違う方を示した。
「お祖父様は先に砦に行っててよ。責任者の人もお祖父様に挨拶とかしなくちゃいけないでしょ。僕は、村の様子を見に行きたいな。・・・一人でも大丈夫、治安は悪くないし、それに僕、仰々しい挨拶されるの、苦手なんだ」
そう言って、砦ではなく村に向かう方への道へ、馬を走らせてしまう。
「待ちなさいっ、ミセルレッドッ」
「大丈夫―っ、ちゃんと後で行くからーっ」
カロンの制止など聞かず、ミセルレッドは馬を走らせていく。・・・この数日、どう見ても乗り慣れている手綱さばきだったが、ああして走らせている様子も堂にいっている。カロンは慌てて後ろから馬を走らせてきたローランゲルド達に、諦めの境地で命じた。
「ミセルレッドは一人で村を見に行きたいらしい。後から砦に来るそうだ。・・・誰か、適当に護衛しておいてくれ。俺は砦に行く」
「では、私が村の方へ行きましょう。他は、将軍と共に砦へ。ミセルレッド様が戻ったらすぐにお休みになれるよう手配をしておいてくれ」
そう言ってローランゲルドがミセルレッドを追いかける。
ローランゲルドならば安心だ。そう思って、カロンも砦へと向かう。
(しかし、どうしてミセルレッドはあんなにもあの村にこだわったのだろう。そりゃ両親が結婚するきっかけになった場所なのだから特別なのだろうが)
何にしても、村を探検したらミセルレッドも砦にやってくるだろう。せめて旅の疲れがとれるよう、部屋を調えてやっておこうと、カロンはそんなことを考えていた。
その村は、かなり広かった。道路は碁盤の目のように整備されている。とても分かりやすい。
「神殿? ああ、ここをまっすぐ行って、三つ目の道を左に曲がって、五つ目の角の所よ」
「そうなんだ、分かりやすい説明をありがとう」
「いいえ。あなた、旅人なの? 商売の人じゃないわよね?」
「ああ。霊験あらたかな神殿があるって聞いてやってきたのさ。じゃあね、可愛らしいお嬢さん」
適当な女の子に道を尋ねたら、あっさりと神殿の場所は判明した。背後から追ってきているローランゲルドに訊いても教えてくれただろうが、こういうのは、何も苦労せず案内してもらうのではつまらない。
ミセルレッドは神殿へと馬を走らせると、その敷地内にあった専用の金具に馬を繋いだ。そこには水場もあって、草も生えている。
「ミセルレッド、待ってください。あなた、そう、さくさくと行くもんじゃありませんよ」
「もう追いついたの、ローラン。別に僕だって女の子じゃないんだから、そうそう何か起こるもんでもないよ」
「あなたに何か起きた時点で俺達の首も飛ぶって、何度言ったら分かるんです」
「僕が死んだら生きていけないだなんて、熱烈な愛の告白だね。・・・けど、ごめんね? 僕、ローランの思いには応えられないかも」
「こっちも遠慮こうむります」
ローランゲルドも馬を降りて金具に繋ぐ。そこで、ミセルレッドは面白そうにくすくすと笑った。
「どうせ神殿なんて出入り口はここ一つじゃないか。何も心配いらないよ。・・・・・・ところでさ、ローラン?」
「・・・何です?」
その口調に嫌なものを感じつつ、ローランゲルドは尋ね返した。
「僕が乗ってきた馬、前国王陛下、つまりお祖父様から僕に賜った名馬でさ、盗まれようものなら一大事って馬なんだよね。知ってた? ローム王家の紋章も入ってるよ」
「え・・・?」
神殿で盗みを働くような人間はいない。が、絶対ではない。ましてや、ここは様々な商人が立ち寄る村でもある。当然、目の肥えた商人もいるだろう。馬の目利きも出来るような。
ローランゲルドもそれなりに馬を見る目はあるが、あくまで乗りこなせればいいという程度である。それにケイス将軍の屋敷に駄馬などいる筈がない。だから、その事実には気づいていなかった。
「じゃ、見張り番よろしくね。大丈夫、ここを通らずに出ることは出来ないんだしさ。ローランもゆっくり休んでなよ」
ひらひらと手を振ってミセルレッドは神殿へと入っていく。
(あんのクソガキがっ。本当にエルセットの子なのかっ!)
ミセルレッドが村に興味を持っているということ、そして何故かミセルレッドが部族のことを詳しく知っていること、そういった情報もあり、何かあれば内々に処理するつもりで単身追いかけてきたローランゲルドである。
だが、それは今、裏目に出ていた。
ローランゲルドは為す術もなく、ミセルレッドを見送るしかない。
(あんまり大人を舐めるんじゃねえぞ、クソガキ)
ローランゲルドは、仕方ないと決意を固めた。たかだか神殿参拝程度でこれを使いたくなかったが、ミセルレッドの好きにしっ放しというこの状況は、業腹に尽きる。
ローランゲルドは指を口に当てると、ピーィィッと、部族の人間に通じる回数と長さで、助けを呼んだ。
その助けを呼んだ理由が馬の番だなんて一発殴られるかもしれないと、そう覚悟しながら・・・。
ミセルレッドは、神殿の表祭壇の脇から、その奥へと入り込んでいた。
基本的に神官しか立ち入らない裏祭壇のある場所は、幾つもの扉を通り過ぎていかねばならない。幾つめかの扉で、ミセルレッドは女性の神官に制止された。
「お待ちなさい。こちらは一般の方が入り込んでいい場所ではありませんよ」
ミセルレッドはゆっくりと振り返る。
「それは失礼しました。ところで神官様、天の宮に参るにはこちらの扉で合ってらっしゃいますか?」
「え? ええ」
「見逃してください。他意はありません。ただ、鎮魂の祈りを捧げに参るだけでございます、神官様」
だが、金髪に緑の瞳をしたミセルレッドは、上質な衣服、訛りのないローム語、腰に提げた剣と、どう見てもこの神殿にやってくるような部族の者ではない。
女神官の戸惑う感情が、助けを呼んで広がる。その異常を察し、他の神官達が集まってきた。
「鎮魂の祈り、とな。・・・だが、見知らぬ青年よ。そなたが誰に鎮魂の祈りを捧げに参るというのだ? 我らが教えとは違う教えの下にいる者よ」
「信仰とは、産まれた場所に囚われるものではなく、心の内にあるものでございます、神官様。我が神は、私が洗礼を受けた神ではなかっただけのこと。・・・天の宮に参り、鎮魂の祈りを捧げさせていただきとうございます。お許し願えましょうか」
質問の形をとってはいたが、ミセルレッドは至極当然の要求をしているかのように泰然としていた。神官達も、その落ち着きぶりを見て、互いに目を見交わす。
「どなたへ祈ると言うのだ、青年よ」
「・・・・・・前神官長様、そして神官ファスレイジード様に」
ざわっと、全員が身じろぐ。どちらも亡くなって久しい。だが、そのファスレイジードの名は特別だ。彼は、とっくに神官の地位を返上して市井に紛れ、そして・・・・・・。
そこで、今の神官長が口を開く。
「その名を知る青年よ、天の宮へ参ることを許そう。だが、我らも同行するが、構わぬな」
「勿論でございます」
「名は何と?」
「ミセルレッドと申します」
そこで皆がミセルレッドに注目する。
ミセルレッド・パルシス・ゼル・ローミディス。
サーライナの忘れ形見であるエルセットの五番目の子供。王宮からカロン・ケイスの屋敷へと移り、そしてそこに住む部族の者からも要注意人物として、その名が伝えられている元第三王子。
神官以外は立ち入り禁止のそこへ行きたいと要望する彼の瞳に、神殿に対する敵意はないように見受けられる。だが、・・・彼の心はとても読みにくい。
神官長の視線に命じられ、一人の神官が案内に立った。
「どうぞこちらへ。天の宮にはかなり階段を上りますが・・・」
「はい。ありがとうございます、神官様」
そして天の宮へと、ミセルレッドは神官達と階段を上っていく。それこそ、神官しか立ち入らないその場所は、神殿の屋上を示す言葉でもあった。
(天の宮とはよく言ったものだ。・・・神殿の屋上で、彼らは遺体を火葬する。その魂を天へと、煙と共に昇らせるのだ)
「前神官長様はいつ、お亡くなりになったのでしょう。そしてファスレイジード様も」
階段をのぼりながら発したミセルレッドの質問に、神官長が答える。
「前神官長様は、この村にやってきて七つ目の春の日に。そして、・・・ファスレイジード殿はエルセット・ケイスの結婚が決まる少し前に。どちらも眠るようにお亡くなりになった」
「そうでしたか」
ミセルレッドは屋上に上がると、その遺体が焼かれる祭壇の少し手前で、一度両膝をついて頭を下げた。
全ての部族の者はこの祭壇で焼かれ、残った骨もまた、次の遺体と共に焼かれ、やがて全ては消えていく。
ぽたりと落ちた涙もそのままに、ミセルレッドは立ち上がると、その祭壇へと近寄って行く。今となってはもう、二人の骨どころか灰も残っていないだろう。
それでも、・・・ここにずっと来たかった。
ミセルレッドは震える声を、風に乗せる。
『来たれ、我らが光り輝く神の眷属よ。誇り高き魂を空に駆けさせる為に』
そこで、居合わせた神官達が、はっと息を呑む。それは鎮魂の歌だったからだ。
ミセルレッドは、目を閉じた。大丈夫、自分は歌える。静かに右手を反らしながら斜め上に伸ばし、反対に左手は反らしながらも斜め下へと伸ばす。大丈夫、自分は舞える。
ミセルレッドは、涙を拭うこともなく、天を仰いで再び歌い始めた。
『来たれ、我らが光り輝く神の眷属よ。誇り高き魂を空に駆けさせる為に』
その舞は、おそらく動きと共に翻る神官用の衣装であればどんなに良かったかと思わせるぐらいに、本当の神官のそれにひけを取らぬものだった。
くるりと翻る指先も、伸ばされた腕を従えて足の爪先までが反らされるそれも、本来はこの神殿で教わった者しか出来ぬ型の筈なのに。
(まさか・・・。やはり彼も異能の者なのか)
ミセルレッドの名は、エルセットの子として把握していた。その為、怪しみながらも案内した神官長達だったが、誰も教えてない筈のそれを歌う彼の姿に、魅入られずにはいられない。
けれどもミセルレッドは神官達の目などどうでもいいとばかりに、ただ祭壇にだけ心を向けていた。
『弓から放たれし命の矢は、今こそ燃え尽きぬ。
始まりの祝福は水と共に、大地の祝福は日々の営みに
終わりの祝福は炎と共に、風の祝福が魂を天へと誘う』
朗々と歌い上げる声、そしてその舞は一朝一夕に身につくものではない。
そして、神官だからこそ格の違いをまざまざと実感する。技巧ではなく、神の恩寵の差を。そう、既にミセルレッドは得体のしれぬ訪問者ではない。彼は、・・・紛れもなく自分達の神に仕える者の一人だ。
『我らが涙はこの地にあろうと、我らが思いはこの空に届く。
彼らの体はこの地にあろうと、彼らの息吹はこの空に届く』
神官長以外の神官達が左右に広がり、ミセルレッドを中心に円を描いて唱和していた。ミセルレッドの歌と舞は、彼らと同じものに属するものでしかなかったからだ。
『最後の星が彼らを導く。永遠の休息が彼らを迎える
今こそ、誇り高き魂を引き上げよ。我らが神の御許に』
舞い終えたミセルレッドが、祭壇前で力尽きたかのようにうずくまり、そして静かに涙を流し続けるのを、既に制止する神官はいなかった。
たとえ彼が何者であろうと、それはもう関係ない。あれ程に格別な、祈りの力を見せたとあっては。
神官長はミセルレッドに近寄り、慰めるかのようにそっと袖で彼の頭を包む。
『泣くな。・・・お二方とも満足して旅立たれた。今の歌も、喜んでおられよう。そなたが何故、あのお二方を知るのかは分からぬが、このままここにいるがよい。我らは喜んで迎えよう』
だが、ミセルレッドは下を向いたまま、首を横に振った。
『私は、・・・居たい場所があるのです。それはここではありません』
『・・・そうか。残念なことだ。だが、いつでもここに来るがいい。お前の前に閉ざされる神殿の扉はない』
ミセルレッドは涙に濡れた顔を上げた。
年老いた神官長は、その袖で涙を拭ってやる。
『懐かしい歌と舞だった。・・・そなたの歌い方と舞い方は、我らが誰よりも愛しんだ子を思い出させたよ。そう、神官長様とファスレイジード兄様が可愛がっていた我らが妹を。・・・そなたの、祖母にあたるのだが』
『兄、様・・・』
神官長はミセルレッドの頭を、かつて自分がよくそうしていたように撫でた。
『あの子も、そうやって私のことを呼んだものだ。・・・とても泣き虫な、それでいて強情で意地っ張りな子だったよ』
一方。
ローランゲルドは、神殿中を探し回っていた。
(どこへ行きやがった、あのクソガキ。出入り口は一ヶ所しかないってのに、どこにも居やしやがらねえっ。やっぱり目を離すんじゃなかったっ)
しかも、いつもはあちこちにいる神官が見当たらないというのはどういうことか。おかげで、神殿の裏側を探していても見咎められることがないのは有り難いが、まさかそれこそミセルレッドが問題を起こしていたりするからではないのかと思えば、それもそれで想像するだけで胃が痛む。
あんな性格のねじまがった子供が、よりによってエルセットの末っ子として可愛がられているというのはどういうことか。
自分の息子も性格は父譲りで少しひねてはいるが、まだ可愛いものだ。そんな自分の息子よりも年下でありながら、ミセルレッドはローランゲルドに対して年長者への敬意を持たずに接してくるばかりか、嫌なところをついてくる交渉能力すら見せてくる。
(王子様ってんで、人に命令することしか知らんバカだというのなら、そういうものと思えたんだが、あのガキは違う・・・)
カロン・ケイス将軍の屋敷に住み込んでいる部族の者達は、使用人としてミセルレッドにも仕えていることになっているが、要注意人物として監視にも当たっている・・・筈なのだ。なのに、どうもミセルレッドに取り込まれているのではないかと思わずにはいられない点が見え隠れしている。
「ここは神官以外、立ち入り禁止ですよ」
そこで、やっとローランゲルドに声が掛けられる。振り返れば、そこに神官が立っていた。
「申し訳ございません、神官様。ですが人を探しております。金髪に緑の瞳の、浮世離れした若者を見かけなかったでしょうか。茶色の上着に黒のズボンを身に着けており、剣を提げております。流暢で綺麗なローム語を話し、物腰は優雅で、見た目だけは華やかで可愛らしい青年ですが、相手を見て態度を変えるところがあり、口を開けば生意気で可愛げはありません」
そこにはかなり私情が入っていた。というより、人探しに内面は関係ないと思うのだが、・・・言わずにはいられない何かがあるのだろうと、神官は思った。
(どちらかというと、どの神官にも丁寧で礼儀正しく、口を開けば謙虚で控え目な、それこそ玻璃で出来ているかのように壊れやすそうな青年でしたがね)
神官は、雨に濡れて立ち竦む迷子のように、頼りなく神官長に縋って泣いていた青年の姿を思い返した。ここで暮らすこと自体は断られてしまったが、彼はもう自分達の弟だ。
それでも心配して探しているのが分かるローランゲルドに、居場所を伝える。
「・・・・・・お探しの人物ならば、表の祭壇の所にいらっしゃいますよ」
「ありがとうございますっ」
それを聞くと、すぐにローランゲルドは走り去る。それを見送って、その神官は一人呟いた。
「しかし、今はその格好ではないと言ってあげるべきでしたかね・・・?」
そして神官に教えられるまま、元の神殿の祈りの場に戻ったローランゲルドは、参拝している人々の中にミセルレッドがいないかときょろきょろ見渡していた。
表祭壇には、いつの間にか神官達が現れており、今から舞を神に捧げるらしい。しかも、見たところ、かなり大がかりな様子だ。
そういうことならば、ローランゲルドも久しぶりに見たい。だが、あの護衛対象を見つけないことにはどうしようもない。
(神官様が仰有った以上、その居場所に間違いがある筈はないんだが・・・。どこにいるんだ、あのガキは)
シャラーンと、鈴の音が高く響き渡る。
幾重にも重ねられた布で体の線が分からなくなる衣服を纏い、頭にも顔が見えぬ布を垂らした神官二人が、祭壇に祀られた神に一礼し、剣を持って舞い始めた。
(え・・・? あの、剣・・・)
いや、まさかと、ローランゲルドは首を振る。その舞い始めた二人の内、一人が持っている剣に見覚えがあったからだ。だが、・・・そう、あり得ないことだ。
祭壇脇にいる神官達が、鈴以外にも弦楽器を鳴らしていく。
「合奏まで出るだなんて、今日の舞い手は神官長様ではないのか」
「なんて綺麗な音なのかしら」
ひそひそと人々が囁き合っているが、たしかにこんなにも何らかの行事でもなしに神官が多く集まって奉納舞を行うのは珍しい。舞い手は二人だけだとしても。
しかし、その言葉もすぐに静まっていく。誰もが、その舞に魅入られていったからだ。
それはローランゲルドも同じことだった。ミセルレッドを探さねばと思っているのに、目が引きつけられる。
そして・・・・・・。
「おお」
「何てこと」
「まさか・・・」
「こんなことが」
舞っていた神官の一人の衣装が風もないのに吹き上げられたかのように膨れ上がり、頭に垂らされていた布がふぁさりと落ちていく。その露わになった顔は、人にはありえない優しくも穏やかな輝きを内包して周囲を照らし出した。
その金の髪も更に輝き、開かれた瞳は誰もが直視できぬ威厳と重みを持って人々を魅了する。
(これがっ、我らが神の、・・・降臨)
誰もが慄き、その場に跪く。ローランゲルドもすかさず頭を垂れた。人ではありえない、空気にすら重みを持たせる存在がそこに具現している。
『民よ・・・』
その日、その神殿に偶然参拝していた人々は、神官以外が目にすることはないと言われる神託が下りる瞬間を、目の当たりにしたのであった。
カロンは、ローランゲルドに抱きかかえられて砦に戻ってきたミセルレッドの姿に驚き、意識を失っている孫息子について、ローランゲルドに説明を求めた。
「眠っているだけです。気力が尽きただけで、眠りが足りたら目覚めると言われました。村で、・・・倒れられたのです」
「そうか」
健康になったとは言っていたが、やはり無理のきかない体なのだろう。そう思い、ミセルレッドを寝台に寝かせると、カロンはその目尻が赤く腫れていることにも気づいた。
手巾を水に浸して絞り、その顔を拭いてやる。そんな二人の姿をローランゲルドは見守っていたが、何度も迷い、そうしてやっと口にした。
「ケイス将軍・・・。ミセルレッドを、ここに残す気はありませんか?」
人前ならば、ミセルレッドを様付けで呼ぶローランゲルドだが、従兄エルセットの息子ということで、誰もいない時は普通に呼び捨てている。ミセルレッドも、そこは全く気にしていなかった。
「何の冗談だ、ローラン」
「本気です。・・・ミセルレッドはやはり伯母サーライナの孫です。今日、我らはそれを実感しました。これは、村の総意でもあります。大事にします、それこそ誰よりも・・・」
カロンはローランゲルドを見返した。
ミセルレッドに苦手意識が先に立っていたかのようなローランゲルドが、いきなり何を言い出したのかと、意味が分からなかったのだ。
しかし、誰にどんな思惑があろうとも・・・。
「断る。勿論、ミセルレッドがそれを望むのならば話は別だが、俺はミセルレッドを手放す気など・・・」
そこで、カロンは押し黙った。自分は何を言おうとしたのだろう。大体、この孫息子の為を思うのであれば、王宮に返すべきだと、そう思っていた筈なのに。
だが、ミセルレッドの意識は戻っていたらしい。そこで、話に割り込んでくる。
「それでいいんだよ、お祖父様。僕はあなたと一緒にいるって言ったでしょ」
二人が視線を向けると、ミセルレッドが、「ん・・・」と言いつつ、身を起こす。
「・・・ローラン、あんまり変なことをお祖父様に言うなら、ローランが三丁目の酒場で赤毛の美人と密会してること、奥さんにバラすからね」
「あっ、あれは・・・っ」
あれは密会じゃないっ、単なる情報屋だ、・・・と、言いたくても言えず、ローランゲルドは、思いがけない方向から一気に攻め込まれたことで目を白黒させる。
大体、何故そのことを知っているのか。
「ミセルレッド。起きたのか・・・」
「うん、お祖父様。よく寝た」
そんなミセルレッドは、ふわぁぁっと、両手を上に伸ばして欠伸をする。
それから横の椅子に座っていたカロンに甘えて抱きついているのだから、思いっきり猫をかぶっているとしか、ローランゲルドには思えない。
大体、あの年になってもまだそれが通じると思ってる所が、図々し・・・、いや、見た目が可愛いから通じているんだった、かなり。おかげでローランゲルドの言い分を誰も信じてくれない。
何にしても、カロンは分かっていないようだが、あれは孫を猫かわいがりする祖父に取り入っている、ただの狡賢い小僧だ。
「ひどいんだよ、お祖父様。ローランったらね、他にも四丁目の店では金髪の美女とも会ってたんだよ。そのくせ、自分の子供達には、自分達夫婦は仲良くて浮気なんてあり得ないって豪語してんの。最低だよね」
「おっ、おまっ・・・」
「何さ。本当のことじゃない」
その金髪は、調べ物の都合で会っていただけである。だが、その四丁目とは体を売る女性のいる酒場で、・・・たしかに二階の部屋で二人きりで会っていたことも否定は出来ない。しかし何故、ミセルレッドがそれを知っているのか。
べーっと、ミセルレッドが舌を出す。
本当に、何と可愛くないクソガキなのだろう。
『神託は本物だ。神はやがて長い眠りに入られる。ゆえに神は我らをこの国に混じらせたのだ。神の加護がなくても我らが生きていけるように。・・・神殿を閉じ、他の民族へ混じるがいい。神の眠りと共に滅ぶのではなく・・・。神が目覚める日に、我らは再び集うだろう』
カロンが、理解できない言語をミセルレッドが話すのを聞いて怪訝そうな顔になる。ローランゲルドは目を瞠った。
「ミセルレッド?」
「村でそんな言葉を聞いたんだ。抑揚が面白かったから丸覚えしたんだけど、どんな意味なんだろうね。不思議な言葉じゃない? ・・・ねえ、お祖父様、僕、お腹が空いたよ」
どう見ても嘘だ。だが、カロンは孫息子を問い詰めることはせず、そこで立ち上がった。
「・・・分かった。何かもらってきてやろう」
「ううん。自分で行けるからいい。食堂ってどこかな。美味しいといいな」
ミセルレッドも寝台から立ち上がって、その腕に自分の腕を絡ませる。
「だからお祖父様って好きだよ。お祖父様って、僕が何やっても全て無条件で許すって感じだよね。もしかして僕のこと、とっても愛してたりする?」
「いつか痛い目に遭っても知らんからな、ミセルレッド」
カロンも、そう言っておくのがせいぜいだ。自分でもミセルレッドに甘い自覚はある。彼の嘘も、我が儘も、自分は全てを許すだろう。全く、我ながら何たるざまか。
「えー。痛いのって嫌い。・・・ねえ、お祖父様。僕、王都のリスエル達に会いたくなったな」
「お前っ、ここに来たいってあれ程ごねておいて、もう帰りたいのかっ!?」
ここにミセルレッドを連れてくる為に、どれ程の嫌味と邪魔と抵抗を乗り越えてきたと思っているのか。ミセルレッドには言わなかったが、同じ孫の癖に、グレンフォース第一王子の邪魔はかなりしつこかった。あれが祖父に対する仕業だろうか。まあ、こてんぱんにしておいたが。
「うん。何か、もういいかなって感じ? けど、折角来たんだから、川で船に乗ってみてもいいかもね。お祖父様、僕、釣りもしたいな」
しかし、ミセルレッドにしてみれば、カロンと一緒に村の神殿にだけは近寄りたくない。とんでもない騒ぎになるのが分かっている。・・・先程のローランゲルドの言葉から察するに、自分はやってしまったのだろう。神官長と神官達は味方になってくれるだろうが、・・・カロンには知られたくない。まだまだ甘えていたいのだから。
とはいえ、たしかに折角来たのだから、色々と見ておかなくては損だ。村から離れた場所なら、問題ないだろう。カロンとどちらが多く魚を釣れるか、競ってみても楽しい筈だ。
「帰りたいのか、帰りたくないのか、はっきりしなさい」
そんな二人が食堂へと向かうのを見ながら、ローランゲルドは、カロンの屋敷にいるソチエト家の人々がどうしてミセルレッドに逆らえないのか、その理由を知った気がしていた。
たしかにあの存在に、・・・・・・手は出せない。そして恐らく自分もまた、・・・彼の願いを誰よりも優先せずにはいられなくなるのだろうと、確信せずにはいられなかった。
その冬、カロンはローム国騎士団の将軍の座をトレストに譲った。
従って、王都騎士団のロメス・フォンゲルド将軍、ローム国騎士団のトレスト・フォンゲルド将軍と、父子で将軍の座にフォンゲルド家は就いたことになる。
その王都騎士団の次の将軍には、かつてエルセットと共にナリファ砦に行き、その後、ロメスに気に入られてローム国騎士団から何かと王都騎士団に出向させられているローランゲルドが内定している。
ローム国騎士団の人間なのにいいのかと思ったが、ロメスの副官達に言わせると、
「あっさりと引退するわけないですからね、ロメス様が。あれだけ苛められても耐えていられるローランゲルド殿なら問題ないでしょう」
「カイエスの言う通りですね。そんなロメス様から逃げられない玩具に、うちの人間を据えられては王都騎士団が崩壊します。まあ、妥当なところではないかと。・・・骨は拾って差し上げますから」
である。
そして今やルイージア女王の夫となったエルセットは、再び近衛騎士団に所属している。王配という立場上、次の近衛騎士団の将軍か、大将軍の地位に就くことになることだろう。何にしても、次の世代の将軍達も親友同士なのだから、どこまでも仲が良いというべきか。
そんなカロンの屋敷には近衛騎士団の将軍であるセイランドが訪れていた。
「特に体を壊したわけでもないのに、引退などしなくても構わなかっただろう、カロン殿。何を考えて、いきなり・・・」
「いきなりじゃない。前から考えていた。正直、格下とされるローム国騎士団より、トレストには王都騎士団の方が良かったんじゃないかとは思ってたんだが、・・・本人が嫌がってな」
「・・・ああ。ロメス殿のところは、全く息子殿に信用がないからな」
セイランドも少し遠い目になる。
「息子殿と言えば、お宅の孫息子殿はどうした?」
「ミセルレッドか? 裏庭で遊んでる」
「やはりまだ体が弱いままか。せいぜい裏庭にしか出ることが出来ないとはお気の毒に。・・・ナリファ砦から戻った後も、体を壊して寝込んだとは聞いていたが、不憫なことだな」
「・・・体を壊したという程ではないんだが」
正しくは、ナリファ砦付近やその道中で沢山買い込んできたアレコレを整理するのに忙しくて、王宮からの呼び出しには全て「慣れぬ旅の疲れが出て、寝込んでおります」と、返事していただけである。
ミセルレッドは好奇心が旺盛で、変わった物を見つけては買い、そしてそれらを王都に戻ってから加工に出したり、工夫して違う使い道に活路を見出したり、調理したり、食べたりして色々とやっていたのだ。
おかげで今、この屋敷の台所には変わった食材が山と積まれている。・・・・・・運ばされたローランゲルド達の瞳がかなり切ないものだったことは、思い出すまい。元王子の護衛どしてつけられた精鋭の筈が、まさかの荷運び要員だったのだから。
彼らの選抜に、第一王子が立ち会ってまでの勝ち抜き戦があったと、・・・ミセルレッドだけが知らない。まあ、知っていても何も変わらなかっただろうが。
だが、それらの整理が終わってから、王宮やリガンテ公爵邸、姉王女達が嫁いだ貴族の邸、フィツエリ男爵邸、そしてリスエル達の家などに、ミセルレッドは土産を持って、出掛けていた筈だ。そういう点、彼は要領がいい。
(ミセルレッドは末っ子で、家族にも可愛がられているしな)
しかし、そんなことを近衛騎士団の将軍として王族と密接な関係にあるセイランドには言えない。世の中には言ってはいけないことがある。
「だが、ミセルレッド王子にこの屋敷は譲るんだろう? そろそろミセルレッド王子の縁談も考えねばならないんじゃないのか? ルイージア女王もその点が気がかりらしいぞ。本人は、両親を前にして『えー、イヤだよ。めんどくさいもん』と、言ってのけたらしいが」
「・・・あいつはそういう奴なんだ」
「体が弱くても、ある程度の旅には出て、そして散歩も出来るなら、結婚も出来るんじゃないのか? やはりそういった幸せを与えてやりたいと、女王も考えておいでだ」
「まあな。俺にもそれは言われちゃいるんだが、肝心のミセルレッドがなぁ。『えー。ムリ。僕、不能だもん』とか言うんだからどうしようもない」
「・・・・・・なるほど。それなら仕方ないな」
セイランドはさっとそこで話を引っ込めた。しかし、それが嘘だと、カロンは知っている。
(すまん、セイランド殿。許せ・・・)
実は裏庭で剣の稽古が出来る程に健康だと知った時点で、他言無用と言い聞かせて副官達にこの屋敷の周囲を見張らせて、ミセルレッドの行動を追跡させたのだ。
その結果、カロンが仕事に行くや否や、まさに好き勝手にミセルレッドは動いていたのだと判明しただけだった。若い男ならではの性欲も、きっちりと発散していたとか。
「将軍。・・・ミセルレッド様、どこが病弱なんですか。ヨイネも驚いてましたよ。堂にいった変装ぶりもさることながら、酒場では飲み比べにも参加してるし。あなたが遠征の時なんて、のんびりと旅にまで出てたじゃないですか。・・・ですが、あの費用はどこから出てるんでしょうね」
サフィヨールの甥であるリールス・グルイトが、苦々しげに報告する。
病弱なあまり、王籍から排除された不憫な王子と思って同情していたら、本人は全く違うステージで生きていたというところか。知らなければ知らないで済んだものを、尾行していたものだから、飲み比べの時は助けに行くべきかどうかで、かなりハラハラしたらしい。
旅先にも従者は屋敷にいた使用人一人しか連れていかないものだから、何かあったらどうしようと、どんな胃の痛む思いで、それを二名程度で追跡したと思っているのかと、何故かカロンが責められる。
「金、か。その辺りは調べておくが、まあ、若いんだからたまには羽目を外したいこともあるだろう。エルセットにも他の奴らにも、このことは黙っててくれないか、リールス」
「ですがねえ。ありゃどう見ても健康体ですよ。乱闘騒ぎ、何回起こしたと思います?」
乱闘、・・・そんなのもしていたのか。カロンが気づかなかったということは、顔だけは庇ったのだろう。屋敷では、虫も殺さぬような顔をして花を眺めている孫息子なのだが。
何にしても、大きな怪我をしないでくれて良かった。酒場には乱暴な男達も多い。母親似の可愛らしいミセルレッドなら絡まれることも多かっただろう。
カロンはそう思うことにした。・・・普通は、一度そういうことに巻き込まれたら二度と行かないものだという、分かりきった事実に目を逸らして。
「・・・まあ、若いんだから少しは羽目を外したくもなるだろう」
たまには、そういう猥雑な空気漂う酒場にデビューしたくなるのが若者だ。それは仕方ない。そして、育ちの良さそうな若者に対して、ガラの悪い人間が目をつけるのも。
そこで、「怪我するも何も、ミセルレッド様の方が相手を一方的にぶちのめしていましたが?」という台詞は聞かなかったことにする。それを受け入れてしまえば、それだけ腕力も反射神経もあるということになってしまうのだ。・・・そう、自分は何も聞かなかった。それでいい。
「ちょっとした冒険のつもりだったんだろう」
世の中には酒を飲んで暴れる人間もいる。そう思えば、さして特別視することではないだろうと、カロンは自分を納得させた。
そんなカロンに、リールスは冷たい視線を向ける。上司であり、昔から世話になっているカロンである。彼が言うのであれば全てにおいて従うつもりはあるが、・・・・・・だが、しかし、あの元王子はそんな可愛らしいタマではないと、今なら言いきれる。
自分達とて場数は踏んでいるのだ。暴力に慣れているかどうかなど、その視線や攻撃態勢を見れば分かる。あれは、・・・必要とあればもっと荒っぽいことすら出来る手合いのものだ。
「そう仰有るのでしたら、百歩譲ってそういうことにしておいても構いませんが・・・」
そう口では言いながらも、ミセルレッドが受動的な感じで被害に遭ってしまったんだろうと言わんばかりの現実逃避はやめてもらいたいと、リールスの瞳は雄弁に語っていた。
「娼館にも行ってましたが」
「・・・・・・」
酒場で絡まれるのは百歩譲ってあちらが仕掛けてきたことかもしれないが、娼館に行くのは本人の自発的意思以外の何物でもない。
リールスにしてみれば、「風が吹いただけでも寝ついてしまう元王子様」とやらを案じて、何かと王宮サイドの第一王子達がうるさいのにもムカついているのだ。
カロンが音をあげればミセルレッドは王宮に戻ってくると思っているのだろう。可愛いミセルレッドに嫌われたくない王子達は、ミセルレッドにバレないよう、代わりにカロンに対して王族の立場を利用して無理難題を言い出してくる。勿論、毎回、それを平然とカロンはかわすばかりか、お仕置きとばかりにあちらを痛い目にも遭わせているが、全く懲りないのだ、特にあの第一王子は。
だが、ミセルレッドのどこが、そんな壊れ物だというのか。
あの美女を侍らせていちゃいちゃしているのを、一度、グレンフォース第一王子も見てみればいいのである。あの手慣れた口説き文句と言い、しかも我先にと娼妓達が彼に群がる様子と言い、男なら殺意が芽生える人気具合だった。あちらもかなりの場数を踏んでいると、誰もがすぐに分かるレベルで。
「・・・・・・まあ、若いんだからそういうことも」
若い体はそういうのを求めたりもするだろうと、カロンは自分を納得させようとした。
「そうですね。たしかに普通の若者ならば当たり前のことですが・・・」
リールスが何を言いたいかなど、カロンも分かっている。屋敷の庭しか出歩けない、王宮の公式行事に出席することも出来ずに寝台で一日を送り続ける、そんな虚弱な元王子についての報告ではないことぐらい。
「あの顔を見て襲ってきた男は返り討ちし、必要とあれば殴り合いもして黙らせ、その日の気分で飲み比べをしては様々な情報を聞き出すのもお手の物。助けに入るつもりでいたら、その必要もない程に喧嘩も剣の腕も確かでした。腰のふらつきもなく、落ち着いたものでしたよ。しかも叩きのめした奴らはすぐに立ち上がれない程、腕力もありました。尚、馬を操るのも見事でしたね。ええ、それこそうちの騎士の条件は十分にクリア出来る程に。蛇足ながら、彼のお相手をした娼妓にも話を聞いたところ、お上手だそうです。・・・・・・分かっておいでですよね?」
大前提として、「体が弱くて長生きできない、ちょっと出歩いただけでも寝込んでしまう王子」だったから、王籍から外されて、ケイス将軍の屋敷に引き取られたことになっているのである。そう、大前提として。
野宿も狩りもこなせる時点で、体が弱いとは決して言わない。何より、あれなら十分騎士団でも勤まる。このケイス将軍の仕込みでないことこそが不思議な程に。
「・・・・・・・・・見逃してやってくれ」
カロンも、そう言うしかなかった。同じ部屋にいるジールス達、他の副官も呆れ顔だ。どこまで孫息子に甘いのかと思っていたに違いない。秘匿案件として副官達に他言無用で行わせた追跡だけに、彼らも順番でミセルレッドのそれを見ていたからだ。
トレストなど、かなり複雑そうな顔になっている。トレストはミセルレッドに顔が知られている為、そういった追跡につかなかったのだが、・・・こうなるとエルセットに対して何を言ったものやらと考えているのだろう。カロンがエルセットにも黙っておいてくれと言った以上、言いはしないだろうが、可愛い弟分の末息子のことだけに、どんな顔をすればいいのかも分からないらしい。
それ以前に、あの元王子の大嘘がいつから始まっていたのかは分からないが、誰もが「してやられた」気分だったのだろう。執務室内には、何とも言い難い空気が漂っていた。誰しも自分の力で道を切り開いてきた騎士達である。ある程度の話を聞き、自分でもその一端を見た時点で、ミセルレッドのそれが小手先のものかどうかなど、分からぬ筈がない。
それでもミセルレッドにカロンが何も言わなかったのは、そんなことをしてまで貫きたい嘘ならばミセルレッドの好きにさせてやりたかったからだ。
尚、資金については、カロンがそこで小遣いをやろうとして断られたことで、その出所は判明した。
「小遣い? いらないよ、お祖父様。僕、そっちはリガンテ公爵からもらってるもん。『気分のいい日に出掛けた先で見聞きしたこと』とやらを記述して持って行くと、お小遣いをもらえるの。まあ、僕に小遣いを渡す名目みたいなもので、パン屋でパンを買った程度でも良かったらしいんだけど。・・・僕のそれ、気に入ったらしくて、今じゃかなりの小遣いというか、報酬が出てるけど?」
「別に小遣いが欲しかったなら、言えば良かったものを」
そう言いながら、参考までにリガンテ公爵に渡しているという、その記述したものを見せてもらうと、とても具体的に物価と市民の消費貨幣平均、そして流通形態などが書かれていた。商人から聞き出した周辺地域の動向まで書かれている。
道理で、リガンテ公爵が、ミセルレッドを引き取っても構わないのだがと、かなりしつこかったわけである。というよりも、咽喉から手が出る位に欲しい人材だろう。
だが、王子達と共同戦線を張らないのは、ミセルレッドが王籍を離れていなければ自分の所に取り込めないからか。リールス達も、どうせ現在は特に王籍にあるわけでなし、どうせならローム国騎士団に入れろと、しつこかった。どうやら負け知らずだったらしい、この孫息子は。
「それを言うなら、お祖父様も、別に僕に尾行をつけるぐらいなら、はっきり訊けば良かったのに」
「気づいてたのか」
「一応。お祖父様は僕が屋敷にいると思い込んでたから、お小遣いまで考えつかなかっただけでしょ。気にしなくていいのに」
だが、自分はそんなミセルレッドが誰よりも可愛いのだ。
傍から見れば、ミセルレッドは得体のしれぬ存在だろう。けれど自分にとっては一緒に暮らしている孫息子だ。他の孫達をおおっぴらに可愛がれない分、今となってはミセルレッドがカロンの全てでもあった。
王族に戻りたいなら、貴族として生きたいなら、騎士として生きたいのなら、・・・それこそミセルレッドが望むならば、自分は全てを叶えるだろう。けれど、ミセルレッドはそれを望まない。
ナリファ砦のある地域に旅をした時、カロンはミセルレッドがそんなにも自分と一緒に何かをすることを喜ぶのなら、もう自分は軍を退いてこの孫息子の為だけに生きようと決めていたのだ。
カロンは、そんなことを思い返しながらも、セイランドに困った顔をしながら言ってみる。
「俺ももう若い時のガタが体にきている。後はお迎えを待つばかりの侘しい年寄りさ。だが、ミセルレッドの笑顔を見てるだけで、もう満足なんだ。・・・この年になって、こんな晩年を迎えられるとは思わなかったが、それでいいと思える」
「何を言ってやがる。まだまだ若い者に負けるようなもんでもないだろう。・・・だが、ミセルレッド王子は若い。もう少し、色とりどりの花に囲まれた生活をしてもいいとは思うんだがな」
「・・・乳母桜なら満開状態のようだが、たしかにな」
「乳母桜か」
セイランドも、何とも言えぬ顔になる。
「ああ。ルーナや、ジールフェイル殿の奥方や、グリスファンド殿の奥方や、・・・ロメス殿の奥方の所にもちょくちょくと行っているようだ」
「それは親の年、いや、もう祖父母の年と言わないか?」
「だから乳母桜だと・・・」
二人は理解しがたいと言わんばかりの顔になった。ゆっくりと頭を横に振る。
「ミステリアスな魅力のある王子だよな。あの若さで渋みがあるというか・・・」
「はっきり変人と言ってくれて構わん」
それでも、変わり映えしない穏やかさで、日々は過ぎていった。
カロンが引退してから四年後、その年の秋の訪れは遅かった。
「まだまだ夏っぽい気温なんだから驚いちゃうよね。・・・お祖父様、果物なら食べられそう?」
「ああ。・・・別にお前がそんなことまでしなくていい」
「何言ってるのさ。僕が果物も剥けないとでも?」
「そういうわけじゃないが・・・」
かなり体が動かなくなったカロンを、ミセルレッドは甲斐甲斐しく世話していた。
「俺の世話なら使用人にやらせる。ミセルレッド、お前は王宮に帰りなさい。俺を持ち上げられるぐらいに元気なお前が、今も病弱です、なんて通じると思ってるのか」
「大丈夫。不能なんだってお父様とお母様、そして兄様達の前で言ったら、王籍に戻らなくてもいいって言ってもらえたし、そこは心配ないよ」
「・・・・・・本当に言ったのか」
たまに、この孫息子が全く分からなくなるカロンである。よくぞそこまで捨て身の嘘をかませることが出来るものだ。男としてのプライドはないのだろうか。
しかし、この大嘘つきな孫息子は、そこまでしてずっと自分と一緒にいてくれた。
髪も色あせて皺も深くなった老い先短い年寄りに、この孫息子の大切な若い時間を添わせてまで。
「つまらないことを考える必要はないよ、お祖父様。こうして過ごせる時間を大事にしていれば、それだけでいいじゃないか」
そう言って、ミセルレッドが、「はい、あーんして?」と、果物を差し出してくる。「自分で食える」と、そのフォークを取り上げながら、それでもカロンは思うように動かなくなった体でも感じられる幸せを噛みしめていた。
だが、夏が長いと、一気に秋を飛び越えて冬がやってくる。
その年の冬は、反対にかなり冷え込んでいた。
「寒さというのは、人の体力を奪っていくものです。今の内に会いたい方に会っておかれた方が・・・」
医師の勧めもあり、その冬は、屋敷に来客が絶えなかった。エルセットも、何かというとやってくる。だが、その日は話が長引いてしまい、泊まっていくことになった。後になって思えば、わざとミセルレッドがそう誘導していたのだろう。
「お父様がこうやって屋敷で過ごすのって、かなり久しぶりなんじゃない?」
「そうだな。・・・だが、ミセルレッドがいてくれて良かった。お父さんとは仲良くやってるようだな」
「別に僕、仲悪い人なんていないけど?」
「嘘こけ。ローランに何をしたんだ、お前?」
さすがの鈍いエルセットでも、ミセルレッドのことになると、顔が引き攣るローランゲルドに気づいていた。それでいて、絶対にローランゲルドは口を割らないのだ。長い付き合いだ、ああなればミセルレッドがローランゲルドに何かをやったのだろうと、それぐらいは分かる。
「何もしてないよ。・・・あ、やっぱり僕がお母様に似て可愛かったのが原因?」
もしかして、ローランってばお母様のこと好きだったんじゃないの? と、ミセルレッドが真面目そうな顔で言う。
「アホか」
ローランゲルドの女性の好みは全く違っていることを知っているエルセットは、バカバカしいと却下した。そもそも、ローランゲルドはあまり外見を重視しない。
そんなことを、カロンの部屋でエルセットとミセルレッドはじゃれ合いながら話していた。親子三代、こうやって揃うのは本当に久しぶりだった。
(ああ、そうだ・・・。もう、頼んでおかねば・・・・・・)
カロンは、そう思って目を開けた。
エルセットも王配として女王の手助けをしている身だ。その焦げ茶の髪には白いものが混じり、落ち着いた貫禄が出てきている。それでも自分の父と息子の前では気負う必要がないからだろう。気楽にしているのが分かった。
カロンは、寝台に身を起こした。話そうとすると、ケフォッと咳が出る。何とも、一気に老いというのはくるものだ。肉も削げ、重ねた皺も深い。・・・そして、もう、自分は長くないのが分かる。
「どうしたの、お祖父様?」
「は、箱を、・・・ゴフォッ、とっ・・・」
「ああ、箱? ・・・宝石箱のことだね。ちょっと待って」
そう言って、ミセルレッドが暖炉の横にある隠し扉から綺麗な装飾がほどこされた箱を取り出す。
エルセットにしてみれば、どうして箱というだけでそれが分かるのか、・・・そこにカロンとミセルレッドの共に重ねた生活を見た気がした。
実の息子であっても、王宮で暮らし続けたエルセットに、今のカロンの気持ちは分からない。ほんの僅かな単語で察することなど、出来はしないのだ。かつて、あんなに大きくたくましかった父は、今や寝台から離れられない程に弱っている。
「はい、お祖父様」
カロンは、動かそうとすると震える手で、それを開けた。中から、そっと布に包まれた髪を取り出す。
「こ、こ・・・グッ、れを・・・い・・・ゴフォッ・・・」
「これを一緒に? ケリスエ将軍の遺髪だよね。お祖父様と一緒に・・・・・・埋めてほしいの?」
「あ・・・あ」
ミセルレッドは、父のエルセットを振り向いた。そして、ぽんっと、それを放り投げる。
「はい、お父様。お祖父様が亡くなったら、これ、お墓に一緒に入れてあげて?」
「え? お父さん、これ・・・。まさか、サーラお母さんの?」
「そうだよ。お父様を産んだ人ってことになるね。お父様を育てたのはルーナ姫だけど」
カロンが答えられる状態じゃない為、ミセルレッドが勝手に返事をする。カロンは何とも言えない気持ちになった。ミセルレッドに頼んだつもりが、なぜエルセットに渡しているのか。
(いや。この子はあまりライナの話を喜ばなかった。・・・なら、エルセットでいいか)
無造作に渡された遺髪に驚いて、エルセットはそれをまじまじと見直した。長い年月がたっている筈なのに、その間も手入れされ続けてきていたのだろう、今もしなやかさが残っている。
だが、それ以前に、自分の祖母の遺髪だというのに、ミセルレッドは扱いが乱雑すぎる。そのまま握ってぽんと放り投げるとは何事か。
叱ろうとしても、カロンは何か言おうとしているらしいから、邪魔も出来ない。
ゲフォッ、ゴホッ、コンコンッと、何度も咳をし続けて、痰がきれたのか、カロンの声が少し滑らかになる。そんなカロンの痰を取ったり、水を飲ませたりと、ミセルレッドはかなり手慣れた様子だ。
「ま、どを開けて、くれ」
「窓を? だけど夜だし、冷え込んでるよ。まあ、今夜は綺麗な満月が出てるから見る価値もあるかもね。だけど空気が澄んでる分、冷え込みも強い」
そう言いながら、ミセルレッドは躊躇いもなく木窓も全て開けるのだから、かなり乱暴だ。ここは、カロンの体のことを考えて、諦めさせるべきだと思うのだが。
しかし、エルセットには今まで実父のことを放置していた負い目がある。我が子といえど、今までカロンと暮らしてくれていたミセルレッドに、何を言えるものでもない。
窓の外には、大きな満月が輝いていた。壁に寄りかかりながら、寝台の上からそれをカロンは眺める。
「綺麗だね。・・・我らが神は、夜空で一番美しい」
ミセルレッドが、小さく呟く。そして部屋の方へと向き直った。窓の木枠に軽くもたれているかのようなミセルレッドは、金の髪、緑の瞳とあって、月というよりも太陽を思わせる容姿をしている。けれど今、月を背景に佇んでいる姿は、とても似合っていた。
「お祖父様。・・・他に心残りは? 分かってるでしょう? あなたの命は今夜で尽きる。したいことがあるなら今のうちだよ?」
「ミセルレッド!」
即座に、エルセットが立ち上がって叱りつけた。何ということを言うのか。
だが、窓から冷気が入るのもそのままに、ミセルレッドはカロンの所へと歩いていく。そして、カロンの背中に腕をまわし、その体をゆっくりと横たえた。
「お祖父様は馬鹿だね。・・・そんなにもケリスエ将軍に義理立てなんてしなくて良かったのに。最後の望みだって、そんなことを望まなくても良かったのに」
「ミ、セルレッド」
この孫息子は、本当にサーライナのことに関しては否定的だったなと、カロンは思う。嫌ってるわけではないようだが、何かというと、「そこまで気にしなくても」だった。実の祖母だろうに。
カロンが手を伸ばそうとする。ミセルレッドは、そんな祖父に囁いた。
「苦しいなら喋らなくていい、カロン。心で考えろ。それで私には分かるから。・・・知ってるだろ?」
ミセルレッドは微笑んだ。その緑の瞳から一滴の涙が滑り落ちて、カロンの顎に落ちる。
泣くつもりはなかったのにと、ミセルレッドは瞳を伏せた。ずっと言いたくて、言えなくて、それでも一緒にいたくて、彼と過ごしてきた。自分が笑えば笑い返してくれる、その姿を見ていたくて・・・。
けれど、彼の命は、もう終わるのだ。
(ミセルレッド・・・?)
祖父に対する敬語も何もないどころか、呼び捨てにしたことに、エルセットは耳を疑う。けれど、何故か邪魔できない空気がそこにあった。
そして、ミセルレッドはカロンの皺にまみれた手を取って、目を閉じながら自分の頬に押し当てる。
「最後の瞬間、褒美に一つだけお前と私の願いは叶えられたんだ。それが、我らが神の情けだった。カロン、私の願いは、私が死んでもお前が寂しくない人生を送ることだった。・・・そしてカロン。お前の願いは再び私と同じ人生を送ること、・・・そうだな?」
そこにいるのは紛れもなくミセルレッドなのに、口調も呼びかけ方も、一気にそれが変化する。
エルセットは、一歩後ろによろめいた。目の前で、何が繰り広げられているのかが分からない。
「お前は馬鹿なんだ、カロン。あのままルーナ姫と可愛い子供達と暮らしてりゃ何てことなかったのに、変な義理立てなんぞしてくれるし、しかもその体は無駄に頑丈すぎて長生きしすぎてくれるし。そりゃ、そう育てたのは私だが。・・・おかげで次の生まれ変わりに合わせるよう、私が一度産まれてくる羽目になったじゃないか」
カロンもその焦げ茶色の瞳を大きく見開く。
「まあ、お前の孫息子ってのも面白かったけどな。まさか自分の息子の子供に産まれてくるなんて思わなかった。エルセットなんて、昔はぐてっと寝てるか、草の上を転げてるかだったのに、偉そうに父親だぞって顔してるんだからやってられん。・・・ムカついたから、ローランを苛めてしまった」
「な、んでローランを・・・」
「私の種の方の父に、顔がよく似てたんだ。・・・ルースの息子なんだから、祖父に顔が似てたところで当然といや当然なんだが、やっぱり見てるとムカついてしまってな」
どうしようもない理由を、ミセルレッドが告げる。
カロンは絶句した。そうだ、そういう身勝手な人だったのだ。自分が恋した人は。
そこでミセルレッドはエルセットを振り返った。
「聞きたいことがあるなら、今の内だぞ、エルセット? どうせ私の命はカロンと共に尽きる。・・・だから私は、結婚も何もする気がなかったのさ。お前の父親の望みは、最初から最後まで私だったんだから」
「まさか・・・。あり得ない」
「・・・いいけどな。お前、誰に似たんだか、無駄に頑固だな。・・・って、父親似か、その融通のきかなさは。反省しろよ、カロン」
薄情にも、そこでミセルレッドは、エルセットには興味をなくしたらしい。
ミセルレッドは、カロンの寝台に腰掛けて体を捻りながら、左手はカロンの手を握ったまま、右手をその頬に伸ばした。
「だが、生憎、この体はお前の孫で、男だからな。いつものキスまではしてやらないぞ、カロン。・・・けど、そうなると、今度は同い年か、私の方が年下に産まれてくるんだよな。・・・お前、私より年下だった時ですら口うるさかったのに、今度は更に口うるさいんじゃないのか?」
「あ、なたが、大雑把すぎるん、です、よ、・・・・・・ラ、イナ」
「やれやれ。孫息子には激甘だったくせに、その正体が私だと分かるや否や、お説教か。・・・だから言いたくなかったんだ」
カロンは、その顔をもっとよく見ようとした。
それと察したのだろう、ミセルレッドが顔を近づけてくる。いつも自分に向かって笑いかけてくる誰より愛しい孫息子。だが、その涙に濡れた緑の瞳の奥には、懐かしい光があった。
かつて焦がれる程に望んだ黒い瞳も、焦げ茶色の髪も今はない。けれど誰よりも欲しいと願った魂がそこにある。
「ラ、イナ・・・」
「ああ。そうだな。結局、お前って私をずっとこの屋敷で囲っていただけだったな。サーライナの時も、ミセルレッドの時も。進歩がないというか、何というか・・・。お前、かなり人に対して執着が過ぎると思うぞ」
いや、王宮に帰れと言っても出て行かなかったのはミセルレッドの方だろうと、カロンは思った。だが、・・・そうかもしれない。ミセルレッドに帰れと言いながら、自分は本当にそう思っていただろうか。
そして自分が望めば、それをいつだって彼女は拒まなかった。いつだってカロンだけを彼女は受け入れた。
自分が彼女のどんな我が儘も受け入れたように・・・。
(手放せるわけがない。この愛しい存在を・・・)
エルセットは、冷気が入り込む窓を閉めた。そして暖炉に薪を放り込んで部屋を暖める。
いくら何でも自分の三男であるミセルレッドが、実母サーライナであるというのを信じるわけにはいかない。だが、それがミセルレッドの演技だろうが何だろうが、それで父カロンの心が救われるならそれでいいと思ったのだ。
「ずっと傍にいる、カロン。お前が願った心のままに」
ミセルレッドの瞳から流れる涙が、カロンの首や胸元に落ちる。
(ああ、そうだ。ライナ、あなたが涙を流すのはいつだって、・・・俺の為だった)
カロンは目を閉じた。
今も鮮やかに甦る想いがある。戦場で出会って、そして共に生きた日々。様々な時間を、彼女と過ごした。
いつしか彼女のいない年月の方が多くなってしまったけれど、それでも自分は彼女との約束を守り続けた。彼女に話そうと思って、見続けた子供達の日々。そして、誰よりも愛したこの・・・。
「そうだな、カロン。ありがとう、私の願った通りに生きてくれて」
彼女が死んだすぐ後で、自殺しようとしたのは伏せておくべきか。
カロンはそんなことを思う。だが、きっとそんな思考すらも彼女にはお見通しなのだろう。
目を開ければ、やはり鼻に皺を寄せて、ミセルレッドが考え込んでいる。・・・なるほど、いくら容姿が変わっても、この困った顔をしている反応はサーライナだ。
「まあ、いい。今更言っても仕方ないことはある」
ミセルレッドはそう言って、そこは不問に付した。カロンに、懐かしい思いが広がる。ちゃんと最後には許してくれるのだ、この人は。
そんなミセルレッドの正体がサーライナだったとしたら、年に似合わぬ行動も何もかも、全てが納得できる。
本当に困った人だと思って、カロンは微笑もうとした。無駄に演技力があるから困る。何も知らない孫息子を演じながら、本当に、もう、・・・どうしようもない。自分を振り回すことにかけては、相変わらずではないか。
カロンが何を考えたのか、分かったのだろう。
「ああ。そりゃあな。お前が死んだ後で、私が死んでからのことを聞かせてくれとは言ったが、・・・別に生きてるうちに聞いてもいいかと思い直したから聞いてたんだ。だが、お前の話って、ほとんどエルセットのことばっかりだったよな。しかもルーナ姫と結婚したっていうから仲良くなったかと思いきや、全く仲良くなってないし。・・・しかもルーナ姫なんて昔よりはるかにバージョンアップしてるんだから。この体じゃ、男だってんで門前払いされるのも覚悟してたが、そこは大丈夫だったのが救いか?」
複雑そうな顔になってミセルレッドが眉根を寄せる。しかしきっと、ミセルレッドがエルセットの息子じゃなければ門前払いだっただろう。
カロンは、つい嫌そうな顔になった。
あんな小娘のことなどどうでもいい。・・・彼女の心にいるのは自分だけで十分だ。
「お前も変わらんな。どうしてお前とルーナ姫って、いつまでも仲が悪いんだ」
「あ、なた、が、・・・原因で・・・しょ、が」
「人のせいにするな。というか、年くったんだから少しは丸くなれよ」
そう言って笑うミセルレッドの顔が、少しずつぼやけていく。
それでもカロンは、幸せな気持ちに包まれていた。瞳ではなく、今も尚、鮮やかにこの心に映る魂がある。
「エルセット、おいで。お父さんにお別れをしなさい」
ミセルレッドの言葉に、エルセットはその寝台へと近寄った。だが、どうして自分の一番小さな末息子に、子供に言い聞かせるかのような呼ばれ方をしなくてはならないのか。不惑の年を過ぎ、エルセットは女王の補佐を行う王配として、押しも押されもしない立場を確立している人間なのだが。
それでも、今はカロンのことが優先される。
ミセルレッドが、握っていたカロンの手をエルセットにも握らせた。
「お、父さん・・・」
「エ、ル・・・セット。し、あわ・・に・・・」
エルセットは叫んだ。
「お父さんっ、・・・早すぎますっ、お父さんっ」
まだ息はしているが、カロンの瞼が閉じられていく。エルセットの言葉にも、反応は薄い。
いつだって大きな体で、その目つき鋭い焦げ茶色の瞳で。全てを見据えていた力強い父。いつから自分は、父がこんなにも弱っていく日々に目を背けていたのか・・・。
ずっと、自分を愛してくれていた父を。エルセットの幸せの為に、息子に頭を下げる地位になることを受け入れた父を。
『我らが求めるは神の息吹。この身を持って地上にあらん。
空より降りたるは神の恩寵にして、我らが住まう闇にその身を示さるる』
エルセットが気づくと、ミセルレッドは小さな声で歌っていた。
『されど我らが慢心はならず。なればこそ神の姿は遠くにありて、我らを導かん。
勇ましき者よ、神の恩寵はそなたと共に在り。
賢き者よ、導く光はそなたと共に在り』
そこでエルセットの物問いたげな視線に気づき、ミセルレッドが歌うのをやめる。
「ミ、セルレッド。その、歌は・・・」
「ああ。カロンはいつもこの歌をねだったから。・・・本当は、こういう時には違う歌もあるんだが、カロンにはカロンの好きな歌を歌ってやりたくてな」
遠い昔、聞いた覚えのある歌だった。エルセットがナリファ砦に向かう時、カロンが歌い、ソチエトが教えてくれた歌だ。
エルセットはカロンの手を握ったまま、探るようにミセルレッドに問う。
「誰からその歌を?」
「部族の者ならば誰でも知ってる。私だけじゃない、リスエルもルースも、ローランだって知ってるさ。・・・それより信じられない気持ちは分かるが、そう疑うのはやめろ、エルセット。私とてカロンと一緒に死ぬんだ。この際、母に色々と訊きたいこともあるんじゃないか?」
「訊きたい、ことなど、別に・・・」
嘘だった。本当は一つある。だが、それは言うに言えない、聞くに聞けない質問だ。
「ああ、何だ。私がカロンとルーナ姫のどっちを愛してたか、か? ・・・お前なあ、どうしてそんな下世話な疑問を持てるんだ。信じられんな。大体、うちの部族に浮気はあり得ん。私が伴侶にしたのはカロン一人だ。それが全てだろう」
自分の年若い末っ子に、軽蔑の視線を向けられてエルセットも赤くなる。
何故、この三男坊は人の考えていることを読み取れるのか。いつもは、「お父様、元気だった?」とか言って、ルイージア似の顔で微笑んでやってくる癖に。
「大体、私のそういうのを疑うなら、ルースの方だろ? ルースはたしかに私の妹だが、母親は違う。だから、ルースは大きくなったら私と伴侶になるつもりだったわけだしな。・・・いやはや、人生ってどうなるか、その時になるまで分からんもんだよなぁ」
エルセットは、そこで固まった。何を言われたかが分からなかったからだ。
ルースとは、サーライナの異母妹であるルースレイル、つまりエルセットの叔母である。その叔母と、自分の実母サーライナが伴侶・・・? 伴侶って、配偶者、・・・つまり結婚相手、・・・・・・まさか、違う意味もあるというのだろうか。
エルセットの頭の中はかなり混乱した。
目を閉じたままだったが、カロンが何か思ったのだろうか。ミセルレッドは、カロンへと視線を移す。
「笑うなよ、カロン。大体、エルセットには教えたり教えてなかったりの差が激しすぎるから、こういう混乱が生じるんだ。・・・え? 私の説明は分かりやすいだろ? 失礼な」
そう言いつつ、ミセルレッドは身を乗り出すと、カロンの額に自分の額を当てた。
「さあ、カロン。見えるだろう? その光を目指して。大丈夫、私はお前と共に逝く。そして再び、私達は出会う。・・・今度はさすがに同い年だろうから、養子にはしてやれんけどな」
そうしてエルセットが握るカロンの手が、ゆっくりと力を失っていく。
カロンの顔がどことなく変化して、既にその魂が体から駆け去ったのが分かった。
ミセルレッドが、そっとカロンの唇に口づける。
「おやすみ、カロン。良い夢を」
そしてミセルレッドはエルセットに向き直った。
「病弱な元王子だ。祖父が亡くなるような冷たい冬の日に、一緒に亡くなってもおかしくない。・・・さようなら、エルセット。私は二度もお前を置いていくんだな」
そうしてミセルレッドはエルセットの額に口づけた。
いつもなら息子として父の頬にするキスを、今はまるで母が愛する息子にするかのように。
「愛してるよ、エルセット。ルーナ姫を母親として大事にしてくれてありがとう。そして、ソチエト殿の死を看取ってくれたことも感謝している」
あの人はずっと、あの人を忘れてしまった私といてくれたんだと、ミセルレッドが寂しそうに呟いた。
エルセットは目を見開いた。
トル・ソチエト、それは自分が産まれた時から可愛がってくれ、ナリファ砦にまできてくれた人の名前だ。そう、妻であるルイージアですら知らない、はるか昔に亡くなった、かつて亡き母ケリスエ将軍と共に戦ったというローム国騎士団の元第五部隊長。
(ミセルレッドが知る筈なんてない、・・・トルおじいちゃんの名を)
そしてミセルレッドの体がゆっくりと、カロンの方へと倒れていく。
「ミセルレッドっ、・・・お母さんっ!!」
その顔が、その言葉にそっと微笑んだように見えた。
エルセットが震える手で心臓に手を当てれば、二人の鼓動は共に失せている。
(ほ、んとうに・・・共に逝った、のか・・・・・・)
しばらくの間、呆然としていたエルセットは、ミセルレッドの体をカロンと並んで寝かせた。寄り添う二人は、仲の良い祖父と孫が一緒に眠っているかのようだ。
けれど、今のエルセットには、信頼し合った恋人同士が共に眠りについているかのようにも見えた。
こんな不思議なものを見せられては、息子のミセルレッドが、母サーライナだったというのを信じずにはいられない。
そして、それならば納得できる数々があった。エルセットとて、末息子ミセルレッドに対して何の調査もしていなかったわけではない。
(夜が明けるまで、まだ時間はある・・・・・・)
朝には、誰かがやってくるだろう。けれど、それまでは・・・・・・。
二人のたった一人の息子として、見届けたその死を悼んでいたかった。
翌日、ローム国騎士団前将軍、カロン・ケイスの死が発表される。
そして、病弱を理由に王籍を抜けたミセルレッド元第三王子の死も。
王都で大々的に行われた葬儀とは別に、ナリファ砦の近くにある村の神殿で鎮魂の儀式が行われた。
だが、その村でその頃、誰も亡くなった人はいない。怪訝そうに尋ねる村人に、神官長以下、その理由を話す神官はいなかった。
さやさやと、そよ風が過ぎ去る。
誰かに呼びかけられたような気がして、エルセットは振り返った。そこには誰もいなかったけれど。
―――エルセット。お前を産んだケリスエ将軍もお前を愛していたし、育てたルーナもお前を愛している。二人の母をお前が大事に思うのは、どちらに対しても裏切りになどならない。
かつて、実母サーライナのことを尋ねた自分に、父カロンが話した言葉が耳に甦る。
(そうだね、お父さん。その通りだった・・・)
あの時は、混乱して受け入れられなかったことが、今ならばすんなりと受け入れられる。
―――お前の母はどちらも立派で強く心優しい人だ。エルセット、そんな母二人を持ったことを誇れ。そして、・・・どちらかを選ぶ必要などないんだ。
今はもう、この屋敷に住む人はいない。
エルセットの父カロン・ケイスは、可愛がっていた孫息子であるミセルレッドと同じ墓に葬られた。
カロンがサーライナの為に手入れしたという裏庭。その泉の周囲に置かれた岩に、エルセットは腰掛ける。
死しても尚、共にあることを望んだ父の愛。
生まれ変わって尚、父と共にあった母の愛。
二人は幸せだったのだろうか。・・・幸せだったのだろう。
あの後、落ち着いてから叔母であるルースレイルを問い詰め、ナリファ砦の近くにある神殿にも行った。そして語りたがらない神官長を半ば脅すようにして、話を聞いた。
今の神官長が語るサーライナとミセルレッドの話に、・・・エルセットは自分が本当に何も知らなかったのだと痛感せずにいられなかった。
病弱を装いながら、ミセルレッドはどんな思いでカロンの傍にいたのだろう。そして全ての家族を手放したカロンは、どんな思いでミセルレッドだけを受け入れていたのか。
二人は運命に翻弄されながらも、互いだけを求めた。
「お父さん・・・、お母さん・・・」
エルセットの呼びかけが、空へと消えていく。
ぽたりと落ちた涙が、地面に吸い込まれていった。
けれど。
エルセットの瞼には、幸せそうに笑う二人が、振り返ってくれたのが映る。
(だけどサーラお母さん、あなたの顔が、息子のミセルレッドってのはナシです・・・・・・)
ルイージア女王の王配であるエルセットは、その後、ロイスナー城から一時的に借り受けた絵を元に、実父であるカロン・ケイスと実母サーライナ・ケリスエが共にいて微笑んでいる絵を描かせている。
やはり実の両親は特別なのだろうと、誰もが思っていたが、エルセットは妻のルイージア女王にだけはこっそりと理由を打ち明けた。
「記憶の上書きって、何なの、それ・・・」
「お願い、ルイージア。それ以上は訊かないで。僕、どうしても受け入れたくないことってあるんだよ」
父と母を思い返す時、やはり母の顔はミセルレッドであってほしくない。
エルセットにしてみれば、かなり切実な思いがそこにあったのだ。頭が固いと言われようが、絶対に受け入れられないことはある。
実父と共に三男を亡くしたものの、その三男の早すぎる死について、エルセットが終生語ることはなかった。
【時の流れと共に】
人は、経験を重ねて、技術も向上していくものだと思う。おかげで、毎回、捨て身でかかるしかない。
身長百八十センチのこの体は、日本人にしてはそこそこだと思う。生憎、筋肉自慢にはなれないが、そこまで恥ずかしい体ではないつもりだ。
そんなことを考えながら、西崎圭人は双眼鏡をバッグに入れ、帽子をかぶった。
「行ってきます」
「あら、圭人。あなた、またバードウォッチングに行くの?」
「うん。道場にも寄ってくるから」
「本当に好きねぇ、あなた。だけど、大学生の趣味じゃないんじゃないの?」
「ホットイテクダサイ」
呆れたような母だが、自分でも何とも根暗な趣味だなとは思う。だが、それもこれも全ては・・・・・・。何だか、たまに切なくなるのは気のせいだということにしておきたい。
そんなことを考えながら、圭人は外へと歩き出す。電車に乗って、山へ行く為に。途中のスーパーでペットボトルの茶を買い、そして山の中腹から鳥を探すのだ。
(回数を重ねる毎に、逃げるテクが向上してんだもんなぁ)
圭人は、愛とは何だろうと考え込んでしまった。
何度も何度も転生を繰り返し、自分と彼女は出会い続けた。その点は、彼女の部族が信仰していた神様に感謝感激どころか、永遠の忠誠を誓ってもいいぐらいである。
自分の前世を思い出すのは、自分が彼女と出会った年に設定されているらしい。さすがに十代前半で思い出すことによる精神的な混乱はアレなのだが、知恵熱程度で済むからそれは構わない。
ちなみに彼女は十代後半で思い出すらしい。問題は、そこだ。
(俺が、十代の思春期の頃、ずーっとずーっとあの人だけを思い返しているっつーのに。あの人ってば、ぎりぎり思春期を終えてるんだよな。おかげで毎回毎回、俺には他に違う恋人を見つける権利があるんじゃないかとか、そういうしょーもないことばっか考えて逃げやがってくれるってのはどうよっ)
彼女は、次の人生一度きりだろうと思っていたらしい。自分もそうだと思っていた。
だが、どうやら彼女の神様は、そういう覚醒と人生の終了設定だけして寝てしまったらしい。おかげで自分達の転生と出会いは、エンドレス状態になっているようなのだ。
自分と彼女は思い出す年は一定しているし、亡くなるのも同日もしくは数日違いと、ほとんど一緒だ。
だが、二人が出会う時期はバラバラである。多分、出会いさえすればいいと思ったのだろう。
(確実に出会うようにはしてくれている。だから、それにも感謝だ)
問題は、彼女だ。
彼女の能力は変わらないが、その時その時の人生でかなり強弱の違いがある。ほとんど使えない人生の時もあった。同時に恐ろしくなる位に強い力を使いこなす人生の時もあった。どちらにしてもあまり使わせるべきではないとも感じている。
ただし、彼女の身体能力はさほどでもない。やはり、あの部族だからこそ、あれだけの肉体を駆使できたのだろう。それ以降の彼女の体は、普通程度だった。時には虚弱だったり健康優良だったりもしたが、一般人の範疇である。それは自分も同じことだが。
(今回の、彼女の能力がどこまでか分からん。生き物を操れるなら、鳥を呼んだりと、不自然な動きがある筈だと思って、こんなバードウォッチングにまで手を出したというのに。少なくとも、こうやって鳥の動きに慣れ親しんでおけば、彼女が身近な場所でやったら気づける筈だ、・・・と信じたい)
そこまでしなくちゃならないのかと思うが、自分には彼女が分からないのだ。彼女には自分が分かるが。そして、いつも陰から見ているらしい。・・・繰り返して言うが、「自分には彼女が分からない」のだ。
勘弁してくれと思う。
前回は、盗賊に襲われて死ぬかと思った時に、獣達が盗賊共を噛み殺して救ってくれた。そこで彼女を捕まえられた。
前々回は、高熱を発して死ぬかと思った時に現れて、せっせと看病してくれた。だから捕まえることが出来た。
更にその前は、不自然に自分に色々な女性が紹介されるものだから、その黒幕を探って、彼女を見つけ出した。
(俺が死にそうにならなきゃ、自分からは出てこねえのかよっ)
前々回の経験から、わざと危険な場所に行って彼女を誘き出した自分の身にもなってほしい。
彼女の自分に対する愛はあると思う。だけど、自分の彼女に対する愛をもっと信じてほしいと思わずにはいられない。
(それとも・・・。こんなにも求めずにいられないのは俺だけなのか)
だけど、あまりにも焦らされ過ぎた分、毎回、彼女をひどく責めることになるので、出来れば最初から現れてほしいものである。
同じ山の頂上にある休憩スペース。そこのベンチに座って、同い年の彼女はぼそっと呟いた。
「その執着が分かってるから怖くて出て行けないだけだもん。・・・出会うや否や、片時も離してくれないくせに。こっちだって、出会ったその日はお互いに名乗り合って状況を報告し合う程度で、『じゃあ、また後日』とでもやってくれるなら、ちゃんと会いに行く・・・よ」
彼女は、そこで溜め息をついた。
自分でも、それは嘘だと分かってる。
彼を愛してる、それは嘘じゃない。だが、こんな自分に囚われることなく、普通の恋愛をしてもらいたいと思うのも、本当の気持ちなのだ。
だから、いつだって名乗り出ていく勇気が出ない。
そう。彼のせいにして、出て行かない理由を探し続けてしまうのは、どんな顔をして出て行けばいいのか分からないというのもある。
こうやって彼の気配を感じ続けずにはいられない程に、自分も彼を求めてはいるけれど。
圭人が社会人になり、一人暮らしを始めて二年がたった。
その日、友人の宮田修司と飲みに行った居酒屋でメールが入る。
「何だ、けー君、彼女?」
「んにゃ、メル友って奴か?」
「へー。女の子?」
「ああ。けど、紹介はしねえぞ。俺だってあまり会わないしな」
「会わないけどメールはするんだ? て、どーゆー仲よ」
メールの中身を確認し、圭人は修司を見返す。
「どーゆーって言われても・・・。昔、病院で会った子。口が利けないらしくてさ。まあ、それからメールを時々してるかな」
「ふーん。可愛い?」
「まあ、可愛いタイプだな。が、言っとくが、しゅー君、彼女に興味は持つな」
「何だ、好きなのかよ」
「別に。けど、口が利けないってのは、何かあっても主張できないだろ。・・・だから、あんまり彼女は人に紹介したくない。かなりいい子なんだ。食いもんにされたくない。しゅー君がどうというわけじゃなくてな」
「あー、なるほど」
そこは詳しく語らなくても修司も納得する。自分達はやらないが、大学時代の外部サークルでも、同じ学年の他のグループでも、恥知らずなことを武勇伝にしていた男達はそれなりにいた。
目をつけた女の子一人に対し、不誠実な付き合いをするグループもいた。男同士で付き合う分には悪い奴らではなかったが、そういう点は同性ながらあまり良くは思えなかったものだ。
人は、たまに弱い存在に対して残酷になることがある。知り合いだからこそ、そうなると紹介するのは慎重になってしまう。
「で、何をメールしてんのさ」
「うまかった店とか、面白かった本とか、人生相談とか。口が利けなくても仕事はしてるらしくてさ、何の仕事かは知らないが、うまくやってるらしい。大体、一週間に一回ぐらいのペースで、やり取りしてる」
「へー。いつから? ・・・そこまで仲がいいなら、ほとんど彼女じゃねえの?」
「いや。あちらも好きな男はいるっぽいしな。それに、俺も歌が上手なコが好みだし。・・・お互い、その気がないから会う必要もないわけで、同時にメールで友達繋がりは出来る、と。もう、かれこれ、何年になるかなぁ。五年前ぐらいから?」
「長すぎるっ。・・・て、お前、彼女いないのに、そういう好みはあるのかよ。歌なんてどうでもいいだろ」
「いや。それは絶対譲れない条件だね」
「馬鹿?」
そんな修司が、トイレに立った間に、圭人は返信することにした。
彼女、橋口絵麻からきていたメール内容は、法事とはいかに面倒でくだらない集まりかという愚痴だった。親戚に対する怒りもあらわなそれは、どこか軽妙で可笑しい。おじさんというのはいかにつまらないジョークを自分はさもウィットに富んだ言葉を言ったつもりになる生き物なのか、そしておばさんというのはいかに変わり映えしないセリフをさも上品そうに言ったつもりになる生き物なのか、そんなことを連ねてあった。
自分は今、居酒屋にいること。友人と飲んでいるけど、やはり義理の仲よりも自分が選んだ人と一緒にいるのが幸せで楽しいよねと、そんなことを入力しながら、辛いことですら面白い話に変換できる彼女のポジティブさに笑わせてもらったと、続けて入力する。
病院で出会い、友人になったのはいいが、そう言えば彼女のフルネームしか、自分は知らない。彼女も自分のフルネームしか知らないのだからお互い様だが。・・・まあ、世の中、そういう付き合いもあるだろう。時代は変わった。
(ライナ。・・・君はどこにいる? 君の歌が聞きたい。・・・君に、会いたい。どうして君は・・・)
彼女はどんな姿に転生しても、その歌と踊りだけは常に上手だった。きっと今も歌っていることだろう。
本当は、歌がうまいコが好きなわけじゃない。彼女を探す手がかりが、それしかないだけだ。
「って、けー君っ、お前っ、何を薄めず飲んでやがるっ」
「え? いや、何となく・・・」
「どあほーっ」
今回の体があまり酒に強くないことを、圭人は忘れていた。その人生それぞれに生活環境や肉体条件は異なる。自分達の性格も考え方も体格も容姿も、常に変化し続けていた。変わらないのは魂だけだ。
(ああ、だけど、彼女に送信しておかねば。送信は、・・・っと)
水割りにせず、つい、・・・いつまでたっても姿を見せない彼女に対する怒りでコクコクと飲み過ぎてしまった圭人は、そこでパタンと潰れた。
目が覚めたら、知らない天井があった。そこは八畳ぐらいの和室だ。
枕元には洗面器と水。タオルも置かれていて、まさに酔っ払い仕様となっている。同じ部屋で、隣の布団に寝ている修司は、まだ目覚める気配もない。
「って、ここ、どこだよ」
修司を揺り起こした圭人は、思いっきり反省の土下座をすることになった。
「信じられねえよ。普通、あんな飲み方するかっ? それこそ、お前のメール、最後に変な記号と文章メチャクチャ状態だったからって、絵麻ちゃんから心配メールが届きまくって、それで俺が返信してやったんだろうがっ。で、ここは彼女んちっ」
「はぁっ!? なら俺んちに運べばいいだろうっ。どうして彼女に迷惑かけやがったっ」
「お前のアパート、タクシー代いくらかかると思ってやがるっ。ここなら近かったんだよっ、あの店から」
がーんと、二日酔い以外の頭痛が圭人を襲った。まさかメールしかやり取りのない人間相手に、酔っぱらって迷惑をかけることになったとは。
しかも、五年の付き合いがある自分が「橋口さん」なのに、どうして修司は「絵麻ちゃん」呼びになっているのか。悔しすぎる。
「こ、こうしちゃいられん。まずは謝らねば・・・」
だが、その前に着替えというか、自分のパジャマは誰が着せたのか・・・。
「それは俺。俺は風呂もいただいたしな。お前が目覚めたら、シャワー使うなら案内してと、伝えられてるが、どうする? 下着は新品だから安心しろってさ。・・・・・・親御さんは留守だとか」
そう言って修司が示す先には、着替えのシャツや下着も用意されている。たしかに、汗臭いままでは嫌がられるだろう。・・・ここは大人しく借りておいて、きちんと洗濯から掃除から何からしてお暇すべきかもしれない。下着は買って返せばいいだろう。
「シャワー、借りる」
正しくは、親御さんは留守なのではなく亡くなった、だ。そう思いながら、圭人はそれを言わなかった。そんなこと、言う必要はない。
そこへ、コーヒーの香りが漂ってくる。二人の腹が、空腹を訴えた。
「今はタブレットがあるから、会話なんてそれでいけるもんね。絵麻ちゃんの彼氏って幾つ?」
【ふたりと同い年ですよ】
「へえ。俺達と同い年か。どんな人?」
【ナイショです】
久しぶりに会う彼女は、綺麗になっていた。肩より少し長い程度の緩くウェーブがかかった黒髪を、無造作に一つにまとめている。色白なのは、事務仕事のせいもあるだろう。日中はなかなか太陽の光を見る暇もないと、いつだったかメールに書かれていた。
百六十センチちょい程度の身長だが、女性としては少し高めということになるのだろうか。Tシャツにブルージーンズと、気楽な格好をしている。
二人にトーストとコーヒー、ハムエッグにヨーグルトという簡単ながらも十分な朝食を出してくれた彼女は、修司と仲良くタブレットに文章を入力することで会話していた。
しっかり薬まで用意してくれていたのが切ない。
「おっ、けー君、頑張れよ。俺は絵麻ちゃんとお喋りしてるから」
「へいへい。どうぞご勝手に」
【あの、私も手伝いますけど】
「いーから、いーから。絵麻ちゃんは座っときなよ。いや、絵麻ちゃんのおうちだけどね。ま、迷惑かけた分、やらせときなって。けー君だってその方が気楽さ」
楽しく二人がお喋りしているその横で、圭人は使ったシーツとパジャマを洗濯し、風呂場を掃除している。和室に掃除機もかけた。
使ったのは修司も同じことなのだが、そもそもの原因は圭人なのだから仕方ない。
(俺は馬鹿か・・・・・・)
しみじみと、圭人は自己嫌悪にはしる。
迷惑をかけたお詫びにと、三人で昼は外食に出掛けた。そこは勿論、圭人の支払いである。
【ご馳走様でした、西崎さん。・・・もう、無理な飲み方はしないでくださいね】
「本当にご迷惑をおかけしました」
「全くだぜ、けー君。反省しろよ」
「ごもっとも」
そこで三人は別れた。
(とりあえず、帰って寝よう。全てはそれからだ・・・)
よろよろと帰宅する。
そして圭人は次の週、お詫びの品を持って絵麻の家に向かった。
朝からやってきた圭人に、絵麻は目を丸くした。今日は部屋着で、ニット地のシャツにスパッツ姿だ。
お詫びの花束の豪華さに呆れていたのは、その表情で分かる。
さすがに玄関で追い返すのはどうかと思ったのか、そのまま招き入れられた家の中は、静けさに満ちていた。
キッチンで出された日本茶が美味しい。四人掛けのテーブルで、二人は、向かい合わせに座った。
「まず、先日はご迷惑をおかけしました。それは謝ります。謝るんですが・・・」
その椅子に座って一度は頭を下げる。その上で、先程から絶対に自分の方を見ない絵麻に、圭人は立ち上がって近づいた。
椅子に座ったまま、絵麻は小さくなって下を向いている。
「その前に謝ってもらうこともあるのは分かるよな?」
「な、ないもんっ」
いや、そこで否定されても。
圭人は脱力した。いや、そこで受け入れてはいけないのだ。
「やっぱりっ。おかしいと思ったんだっ。お前っ、喋れるだろうがっ」
「あの時は喋れなかったもんっ。あの時のは嘘じゃないっ」
病院で出会った時、話しかけた自分に彼女は首に指を当てて、×印を示した。そして、そこにあった紙にペンで文字を書いて会話したのだ。
あの時、彼女は両親を亡くした。
それでもその時、自分は初めて会う他人同士だった。だから、同情はしても何も出来なかった。せめて何かしてあげたくてメールアドレスだけを交換した。けれど、それが彼女だと分かっていれば、もっと・・・・・・。
圭人は、腰を屈めて彼女を抱き締めた。
「言えよ、ちゃんと。あの時、どうして言わなかった・・・。俺はなぁっ、俺だってお前が辛い時には助けたかったんだからなっ」
「だって・・・・・・」
言い逃れは許さないと言わんばかりに、しゃがんで目を合わせれば、絵麻はそっと視線をずらした。
「あの時、混乱してて、タイミングを逃して、・・・途中、あんな感じでバタバタしたから、余計・・・」
そうかもしれない。たしかに、あの時の彼女にそんな余裕はなかった。親が生きるか死ぬかといった時に、そんな余裕はないだろう。まだ、メールアドレスの交換ができただけマシだったのかもしれない。
どちらにしても、終わったことだ。
が、しかし。
「あんだけメールしてたんだ。言うチャンスはいっぱいあったよな?」
週に一回以上、それも五年近くのメール。・・・・・・どこまで焦らす気だったのか。
「それもなんだか、・・・今更、どこで言えばいいやらって・・・・・・」
それに、もうメールで繋がってればいいかなと思って・・・などとも言うのだから恐れ入る。
フッと、圭人は小さく笑った。もう、ここまでくると呆れるしかない。どこまで往生際が悪いのだろう、この女は。
圭人の怒りが伝わったのか、びくっと彼女が反応する。
「で、彼氏って? 君の家に、男物のパジャマや下着があるわけは?」
やはり思った通り、今回の彼女も感情を読めるらしい。言葉よりも先に怒りの感情を発したら、そちらに反応する。
「どうせいつかは気づくって分かってたから、だから・・・。サイズは分かってたし」
「なるほど」
つまり、自分用に買っておいてくれた、と。何とも健気なことだ。そういうことならば許せる・・・ものでもないが。
つまり、彼女の語る彼氏とやらは自分だった。それはそれでいい。
「勘弁してくれ。・・・どんなに君かもと思いたくても、喋れないんじゃ違うってんで、否定し続けた俺の想いをどうしてくれるんだ」
「ごめん、・・・ね? だけど、ほら、結局私の人生に付き合わせ続けるのもそれはそれでどうかなぁっていつも迷うというのか、やっぱり違う人生も・・・って・・・・・・・・・・・・ごめんなさいっ」
最後はかなり小さな声になっていた。圭人の怒りが伝わったのだろう。
言わなくても理解してくれるのは有り難いが、出来れば名乗る前からもそれを徹底してもらいたい。
あの日、部屋を掃除しながら、どう見ても彼氏がいるとは思えない、そして話せないとは思えない様々なことに気づいたから良かったものの・・・・・・。
(考えてみりゃ気づくチャンスはあったんだよな。口が利けないっていうので除外してたのが敗因か。彼氏がいて、会うわけでもなく、それでも俺とずっと関係を持ち続けようとしている時点で気づくべきだったんだ)
前回はかなり気が強かった彼女だが、今回は少し夢見がちな性格寄りのようだと、この一週間、今までのメールを読み返しながら考えていた圭人は、そこで許すことにした。
「まあ、いいよ。ライナ、・・・とりあえず、出掛けないか? せっかくだからデートでもしよう。俺は君と、そういう時間も楽しみたい」
ぱっと顔を上げて、絵麻が嬉しそうな顔になる。お説教嫌いは相変わらずだ。
「用意しておいで、絵麻。折角だから水族館でも行くか? 魚も好きだっただろ。それとも山の方がいいか? 動物園だと、囲まれちゃいそうだしな」
「水族館は混んでいそうだから、今度でいい。・・・あのね、ここから少し電車に乗るけど、小さな美術館があるから、そこに行きたい。でね、そこの近くにね、美味しいケーキ屋さんがあるの」
「そうか」
目的は美術館よりケーキ屋なんだろうなと思いつつ、圭人はその顎に手を掛けて軽くキスした。
「圭人、だ。言ってみな」
「・・・圭人」
「そう。さすがに、ここであっちの名前を呼ぶんじゃ目立ちすぎるだろ。ちゃんと呼べよ。・・・西崎さんなんて二度と呼ぶな」
「うん」
圭人の首に手をまわして頬にキスすると、ぱたぱたと絵麻は用意をしに部屋へと行く。圭人は、残された湯呑を洗いながら、しみじみと考え込んでしまった。
(やっぱり俺と一緒に過ごすのが好きなんだろうな。しかし、説教数時間コースのつもりが、結局すぐに許してしまう俺って何なんだろう・・・)
それでも彼女が嬉しそうにするから、それでいいかと思ってしまうのだ。
愛されている自信はある。けれど、ひどい目に遭わされていると言い切れる自信もある。
食器棚の中を見れば、色違いでお揃いの茶碗やカップがあったりもする。その内、使い込まれているのは一つだけだ。・・・そういういじらしさは、違う方に向けてもらいたい。
「お待たせっ、カロン、・・・圭人」
「家の中ならどっちでもいい。ああ、似合ってる」
薄い桃色のブラウスに紺のロングスカート、けれどスカートの上で金色のボタンがアクセントになっている。そうだ、彼女は自分と出掛ける時は背伸びする傾向があった。・・・きっと年上ぶりたいのだろう。
最初はそうでも、繰り返す人生では同い年なわけで、更に精神年齢では確実にカロンの方が年上だ。その事実を、彼女が受け入れてくれるのはいつのことなのか。
(そんなところも可愛いんだけど)
そう思いながら、圭人は、「じゃあ、行こうか」と、彼女に微笑んだ。
その日は健全にデートをして夜には彼女を家に送り届けたが、次の日は自分の実家に連れて行った圭人である。
「結婚っ!? いきなりっ」
「あらまあ。・・・付き合ってるお嬢さんがいるなんて知らなかったわ」
両親は驚いたが、さっさと圭人は話を勧めた。隣にいる絵麻は、冷や汗だらだら状態らしい。まさか、いきなり圭人の実家に連れて行かれるとは思わなかったのだろう。
しっかり彼女が用意するであろう手土産まで自分で購入しておいて渡すあたり、圭人も手抜かりはない。
「実は、彼女とは、彼女がご両親を亡くした五年前に病院で知り合ったんだ。それから俺はずーっとプロポーズしてたんだけど、なかなか頷いてもらえなかったんだよね。会ってももらえないし。で、この間、酔っぱらって彼女の自宅にタクシーで押し掛けて、泊めてもらったんだ。そして責任とって結婚することにした」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
両親の頭の中でどんなストーリーが繰り広げられているかは知らないが、彼女に対する同情、もしくは息子の行状に対する嘆きが渦巻いていることだろう。
絵麻も、何も言えない状態らしい。どこから訂正すべきか、悩んでいるのだろう。
しかし、こういうことは考えさせる暇を与えてはいけないのだ。
「じゃ、婚姻届にサインしてくれる? 俺の欄は記入してあるから。はい、絵麻も書いてね」
結婚雑誌をわざとらしく机に置き、親にサインを求める。印鑑も既に用意してある圭人だ。
どう見ても自分達の息子が強引に持ち込んだとしか思えない結婚だけに、両親も何とも言えない顔でサインする。絵麻も諦めの境地で、大人しく記入している。彼女の印鑑も用意している圭人の手際よさを考えれば、逆らうだけ無駄だと踏んだのだろう。
圭人に兄はいるが、姉や妹はいない。
そのせいだろう、母親は両親を亡くしたという絵麻に気の毒そうな目を向けている。
「じゃ、これ、今から提出してくるから。・・・さあ、行こうか、絵麻。海外挙式もいいよな。新婚旅行はどこに行く?」
「そんなの別にしなくていい・・・」
「絵麻は、式はしなくていい、指輪もいらない、旅行もしなくていい、だからな。・・・だけどせめて、指輪だけでも買いに行こう」
「ほ、本当にそんなの、別に・・・」
そこで憤然と母親が立ち上がる。
「いいえっ、絵麻さんっ。ちゃんとそういうのはさせるべきよっ。うちの長男の嫁なんて、どんなに自分の意見を押し通したことかっ。あなたもそこの馬鹿にちゃんと責任はとらせなさいっ」
「そうだよ、絵麻さん。うちのバカ息子と結婚してくれるのはありがたいが、・・・嫌なことは嫌だと言わないと」
「・・・いえ。本当に、何もいらないんです。それに、彼と結婚するのは、・・・嫌じゃありません」
そんな絵麻に、両親も今時珍しい奥ゆかしさだと思ったらしい。
まさか、圭人以外との結婚を彼女が考えもしないとは思いもしないだろう。そして彼女が結婚式や指輪に興味を示さないのは、彼女の信仰上、価値を見出していないだけだとも。
「本当にこのコ、可愛いだろ。じゃあ、そういうことで。あ、俺、彼女の家に引っ越すからさ」
その日の内に婚姻届を提出し、午後からは結婚指輪を買いに行く。
「圭人・・・。あまりにも急ぎ過ぎだと思うんだけど。大体、昨日、初めてのデートして、今日、婚姻届って何なの」
「そうか? どうせやることは一緒だろ。それに、俺はもう絵麻を一人にしておきたくない。だけど、一軒家で男を連れ込んでるだなんて言われたくないだろ? なら、先に結婚しておかないと」
「別にいいのに・・・」
「良くない。お揃いの結婚指輪は分かりやすい証拠だろ。さ、どういうのが好みだ? 俺の性格は知ってるだろ? 言わなかったら、適当に俺が決めるだけになる」
そこまで言うと、絵麻は自分の好きなブランドの名を答える。
「婚約指輪はゆっくり決めてくれ。結婚指輪は虫よけだから先な」
「婚約指輪はいらない。知ってる癖に」
「じゃあ今度、絵麻が好きなアクセサリーを贈るよ。考えておいて」
どうせ指輪に刻印など必要ない。自分達の絆は、物理的な全てを凌駕している。だから選んですぐに購入できた。
「引っ越しの荷造りは手伝ってくれるんだろ?」
「それは勿論・・・。だけどご両親、・・・放心してなかった? 大丈夫なの?」
「別にいいんじゃないか?」
今までの経験から、圭人はなるべく身軽に暮らしている。だから荷造りも早い。その日の内にある程度の最小限な荷物を運びこみ、引っ越しは次の週の土日で完了させた。
今回の彼は、なかなか悪くないと、絵麻は思う。
(今度の満月の日に結婚の誓いを二人でするまではって、・・・一緒に住んでいても、キスまでしかしてこないし。ちょくちょくデートしてくれるし、変な独占欲を全開にもしないし)
会社帰りに待ち合わせたりもするけど、先に帰ってきた方が食事の用意をしている生活も悪くない。
絵麻はほうじ茶を淹れてから、圭人の部屋へ持って行くと、そこで彼は床に座り、雑誌を広げて見ていた。
そのまま圭人に湯呑を渡すと、「ありがと」と、受け取る。絵麻は圭人と雑誌の間に入り込んだ。心得たように彼女を足の間に座らせ、彼女の膝の上に雑誌を置いて、一緒に眺める圭人だ。
「えへへー」
「どうした?」
「あのね、今日ね、テレビ見てたら、三十代ぐらいの外国人観光客にインタビューしててね、それでアナウンサーに答えていた人が、カロンにとーってもとっても似てたのっ」
「・・・・・・」
「もぉ、涙出る程懐かしかったぁ」
「・・・俺は何と言えばいいんでしょね、サーライナさん」
さすがにちょっと切なくなればいいのだろうか。それとも喜ぶべきなのか。
圭人は考え込んだ。
とりあえず圭人が目の前にある額にキスしたら、絵麻は賛同してくれないことに拗ねたらしい。ぷぅっと頬を膨らませている。
「だって、私、三十代ぐらいのカロン、見てないもん」
「俺だって、三十代のライナを見てないだろ。お互い様。・・・けど、少しは顔も気に入られていたなら嬉しいね」
「顔・・・・・・」
「ん? どした?」
「・・・そういえばっ、私、結婚してからカロンの顔ってあんまり見てなかったかもっ」
「はぁっ!?」
よくよく話を聞けば、カロンの感情が気持ち良かったので、自分が引き寄せられる感情の方に行けばカロンがいるという感じだったとか。だから、あまり見る必要もなかったらしい。
「いやいや。ライナ、たしか人の動きから何からかなり見てた筈だろ。表情なんて最たるものじゃないか」
「そうなんだけど、カロンの場合、絶対に私を傷つけないのが分かってたから、途中でノーチェックになってたのよ。大体、結婚した時に失敗したせいで、あれ以降、見るより感じた方が早かったし」
「・・・失敗って、そういう言い方やめてクダサイ」
この無神経さだけは変わらないのだろうか。とはいうものの、生まれ変わる度に色々と聞き出し、そして彼女相手に試し続けて、色々と分かったことも多い。
(やっぱり道場で精神鍛錬しておいて良かった。彼女が読めるのは感情の表面だけなんだな。・・・つまり強く意識に上らせなければ分からない。そして、俺が彼女を強く求めたら絶対に来ないけど、彼女に対して緩やかな感情を発散させたらトコトコと寄ってくる、と)
次回、生まれ変わったらそのことを念頭において動いてみようと思う圭人だ。というより、猫の飼育法の本でも読むべきだろうか。かまえば逃げて、放置すれば寄ってくるだなんて、猫そのものだ。
思えばミセルレッドも、放っておけば勝手にやってきて、帰れと言っても帰らずに居ついていた。
今回の絵麻にしても、思えばメールはいつだって彼女からだったし、メールのやり取りを見返せば、しっかり圭人の行動範囲を聞き出されている。今も、知らんぷりしていたら寄ってきたように。
「何か、変なこと考えてない?」
「バレた? 君に愛してるって伝えるには、どうすればいいか考えてたんだ」
赤くなって下を向く彼女に、かつてのサーライナと似たところはない。
リスエルードが言っていた通り、自分が出会ったあの孤高の将軍は、彼女の本来の姿ではなかったのだろう。
(それでも俺はきっと忘れないだろう)
あの容赦なく無表情で、全てを切り捨てていくかのようだった将軍の中に、こんなにも傷つきやすい彼女が隠れていたことを。
そして、ほとんどの感情を封じられていても尚、彼女は自分一人を選び取り、自分も彼女一人を望んだのだということを
「圭人?」
「ごめん。君への愛が止まらないかも」
怯えて逃げるかと思ったが、彼女は湯のみをミニテーブルの上に置くと、圭人の唇に、自分のそれをちゅっと重ねてきた。
「もう一回してもらってもいい?」
「・・・カロンならそういうこと、言わなかった。いつも、二回目は自分からしてくる癖に」
「今回の俺は圭人ですから。・・・こうして絵麻にキスしてもらうのは好きだな」
そう言うと、絵麻は笑ってもう一度ゆっくりとキスしてくる。
「私も圭人にキスしてもらうのは好き」
「じゃあ、お返しに」
護身術程度は身につけているらしいが、それでもかつての体よりはるかに柔らかいのは、今の時代に肉体的な強さを要求されることがないからだろう。自分達は、こうしてずっと時の川を二人で流れていく。
「ライナ。君がライナでも、絵麻でも、ずっと君を愛してる」
そうして次の満月の夜、二人は灯りを消して窓を開け、互いを伴侶とすることを天に誓った。




