31 夜空の星に願いをこめて(恋は涙のように)
「私、以前から思ってたのよ・・・」
ルイージア王女は、その緑色の瞳を少し伏せて、大人びた憂鬱さを醸し出しつつ、そう言った。
そこを通りがかったというだけで、虫よけ的な役割をルイージア王女に一方的に押しつけられたロメスは、「ほう」と、頷いてみせる。本来のロメスなら、いくら王女といえど、「忙しいのですよ」と、そのまま放置していくのだが、今日はいささか思うこともあって、捕まることにしたのだ。
だが、ロメスが何を思っていようが、自分が本音で話せる人間が近くでいてくれるというのは、ルイージア王女にとって有り難い。人には言えないことも言えるからだ。
「アディーネって、みんなに控え目で清楚だって思われてるけど・・・・・・、その実態は、目的の為なら障害になる木をも押し倒して突き進む、熊みたいな王女なんだって」
「・・・・・・」
ロメスは、目の前に広がる舞踏会の様子をわざとらしく眺めた。
普段なら舞踏会といえば、着飾った紳士と淑女が笑いさざめき、光と音楽に包まれて踊り、恋を囁き合う大人の社交場だ。だが、アディーネ王女の誕生会でもあるこの舞踏会に、そんな舞踏会らしさはカケラもなかった。
着飾った紳士と淑女はいる、・・・ただし、それは「未来の」と注釈がつく。
光と音楽もある、・・・ただし、それは幻想的な灯りではなく、暗いところがあっては危ないからというものだ。そして流れているのも、ロマンチックなワルツではなく、愉快な子供が好きそうな明るい音楽だ。
囁き合う声もある、・・・ほとんど、「そんなことをしてはいけません」とか、「お行儀よくしなさい」とかいうレベルで。
「さすがにリハーサル舞踏会でそこまでするわけにもいきませんでしたからね」
そう、わざとらしくロメスは肩を竦めてみせた。
一ヶ月前に、このアディーネ王女の誕生日を祝う舞踏会のリハーサルは開いたが、あくまでそれはリハーサル。それは、子供抜きで行われていた。
実際の今日になって、リハーサルよりも三倍の人数を軍も出している。・・・ただし、それは警備の為というよりも、迷子の保護が主な目的だ。
「これじゃアディーネの婿探しなんて到底無理よ。分かっててやったのよ、あの子。・・・なのに、どうして私にはそんな我が儘なんて誰も認めてくれないのに、あの子だけは大丈夫なのっ」
さすがに他人に聞こえてはまずい内容だけに、小さな声ではあるが、ブツブツとルイージア王女は愚痴をこぼした。
「当たり前ですわ。正統なる王妃様がお産みになったお姉様と、側室の産んだ第二王女が同じレベルで扱われるようなことなどあってはなりません。・・・全く、どこで何をしているかと思えば、またこんな所でサボっていらしただなんて。まさか未だにご自分の立場に対する自覚がおありではありませんの、お姉様?」
そこへ、銀の鈴を振るかのような優しい声が後ろから掛けられる。その接近に気づいてはいたが、面白いので黙っていたロメスは、
「これはアディーネ殿下。本日はおめでとうございます。まさに銀の月のようなお美しさでございますね」
と、微笑んで礼をとった。
自分に掛けられた言葉に、「ぅげっ」と反応したルイージア王女は、びくっと後ろを振り返った。
「あ、・・・アディーネ。ほほ、いやぁねえ。サボってたんじゃないのよ? フォンゲルド将軍と警備についての話をしていたのよ。ほら、やっぱり何かあったら大変じゃないの」
勿論、嘘だ。だが、どんな嘘だって、押し通してしまえば本当になるかもしれない。
そう、そこで怯んではならない。ルイージア王女は頬を引き攣らせながらも、にこっと笑ってみせた。
「まあ、そうでしたの。・・・さすがですわ、お姉様。やはり人を統治する立場にあればこそ、人々に目を配ろうと常々お考えになっていらっしゃいますのね」
「も、・・・勿論よ。当たり前じゃない」
ほほほと、ルイージア王女は胸を張りつつも、広げた扇で口元を隠す。
アディーネ王女は、「よろしゅうございましたわ。お姉様にも自覚が出てくださって」と、やはり広げた扇で口元を隠しつつ、尋ねた。
「で、お姉様。・・・どうして私が熊になるんですの?」
「・・・・・・・・・」
ルイージア王女の背中を冷や汗がタラリと流れた。
(聞かれてたぁぁぁっ)
この場合、どうすれば誤魔化せるだろう。それこそ、後で誰もいなくなった時が恐ろしい。
ルイージア王女は、ダラダラと心の汗を、ヘビに睨まれたガマガエルのように流した。きっと今ならどんな怪我もたちどころに治る薬が出来上がるに違いない。
そんなルイージア王女に、アディーネ王女はフフと笑いながら近づいた。
「ね、お姉様。・・・今からちゃんと適齢期以上の男性十人と踊ってくるのと、私と二人っきりで内緒のお喋りするのと、どちらをお選びになります?」
「・・・っ! 踊りに行って参りますっ。ええっ、ちょうど踊りたい気分だったのよ。ほら、とても素晴らしい夜なんだものっ。・・・じゃあねっ、アディーネ。ちょっと踊って来るわっ」
ささっと、ルイージア王女は舞踏会の会場へと身を翻して逃げていく。それを見送って、ロメスはアディーネ王女に手を差し出した。
「エスコートいたしましょうか、アディーネ殿下? わざわざルイージア殿下を追い払うようなことをなさったのは、私にご用事があるのでしょう?」
「・・・さすがね。どうして分かったのかしら?」
ロメスは答えなかった。その表情を見て、それを問い詰めることこそが子供の振る舞いかと思い直し、アディーネ王女は、「踊ってくださるかしら、将軍?」と、小さな声で問いかける。ロメスは、「密談はダンスと共に、ですか」と、面白そうにその紺色の瞳を煌めかせると、アディーネ王女の手を取って踊り出した。
周囲には誰もいないのでそのまま話していても良かったのだが、アディーネ王女はあくまで目立たぬように事を運びたい様子だった。
案の定、踊り始めると背の違いもあって、アディーネ王女の顔はロメスの胸あたりで隠れる。王女が何を話していても、その唇が動いていることなど、誰も気づかないだろう。
アディーネ王女は、ロメスにだけ聞こえるよう囁いた。
「今日は私の誕生日だもの。・・・お願いをきいてもらえないかしら、将軍?」
「・・・私に出来ることであれば」
「ケイス将軍の息子だという、・・・エルセット・ケイスがどこにいるか、教えてほしいの。今日、来ているんでしょう? 私はあまり会ったことないから分からないのよ」
「エルセット・ケイスなら、舞踏会の終わりあたりで、陛下に挨拶する段取りをつけております。それに殿下も同席なさったらいかがですか」
「それじゃ駄目よ。お父様やお姉様抜きで、彼を見てみたいの」
ロメスはしばし考え込んだ。アディーネ王女の目的は何なのか、と。
その自分に向けられた疑念を感じたか、アディーネ王女が慌てて言葉を重ねる。
「他意はないわっ。ただ、お姉様が・・・、あれ程に心を痛めていたんですもの。どんな騎士なのか知りたいだけなの」
嘘だなと、ロメスは思った。アディーネ王女は隠しているつもりだろうが、体の力の入りようから何からが、それを嘘だと告げている。
何と言っても、ルイージア王女に対して忠実なアディーネ王女だ。・・・恐らく、エルセットがルイージア王女の為にならないと見切ったなら処分するつもりなのだろう。その為に、エルセットに自分から接触したいと考えたのか。
ルイージア王女が平民の恋人など作ることなどあってはならないと、アディーネ王女は思っている筈だ。その為にエルセットを見極め、その結果によっては殺すつもりだろう。一時的な帰還とはいえ、彼を王都に戻すにはまだ早すぎたか。
(別になぁ・・・。面白いことに、あのガキ共を突っこませるのはいいが、こういう潰され方は面白くない。トレストも強くなって帰って来たし、エルセットも面白い感じで一皮剥けたって話だしな。・・・だが、アディーネ王女も分かっちゃいねえ。人の心なんてコントロール出来ると思いあがった時点で、それは失敗するってことをな)
何より、息子を僻地に左遷させてまで王の機嫌をとったと言われているカロンだが、そのエルセットに同行したトレストがどんなに成長して帰ってきたかを見れば、カロンがエルセットに用意した左遷地とやらがどれ程に良い環境だったかなど、一目瞭然である。
アディーネ王女は分かっていないのだ。そんな思惑が先に立っている時点で、物事を客観的に見る冷静さを欠いているということを。
そしてエルセットを手にかけるつもりならば、あのカロンを本気で怒らせるのだということを。
(あいつ、普段は何を言われてもされても怒らんが、・・・やるとなったら容赦ない奴だしな)
このローム王国全土に散らばるローム国騎士団。それを束ねる、常に穏やかで温和だとされるカロン・ケイスが、暴れ狼とも称された過去をアディーネ王女は知らない。あの男が見境なく暴れたのは、そのエルセットを産んだケリスエ将軍が侮辱された程度のことだということも。・・・その彼女が産んだ唯一の子であるエルセットに何かしようものなら、どんなことが起こるやら、である。
さすがのロメスも、年を重ねて丸くなっている。若い頃なら面白がって放置していただろうが、自分の息子よりも年下の少女に、そこまで大人げない真似はしない。
「悪いことは言いませんよ、アディーネ殿下。エルセットに手を出すのはおやめなさい。あなた一人で責任をとれるものではありません」
びくっと、アディーネ王女の肩が震える。だが、すぐに気を取り直したのだろう。強い口調で問い返してきた。
「別にっ、何もしないわよ。・・・だけど、フォンゲルド将軍。聞き捨てならないわ。たかが平民の騎士如きに、どうして王女である私が責任を持たねばならないと?」
その通りである。貴族ですら、平民を斬り殺してもさほどの罪には問われない。ましてや王族であれば尚更だろう。しかし、・・・エルセットは、カロン・ケイスの息子なのだ。あの男が、ローム国騎士団を率いて王族に反旗を翻したらどうなるかを考えるべきだろう。
(ま、王族の怒りを恐れて長男を僻地にとばした腰抜け将軍とまで言われてるしな。アディーネ王女もそう思ってるから、カロン殿を恐れる理由はないと思ってるんだろう。だが、あの時点ではエルセットに何も起きてはいなかった。・・・誰か先走ってエルセットに手を出す奴が一人いてくれたら、あの野郎がどこまで息子絡みでもキレるのか、判断できる材料になったんだが。・・・なんにせよ、王族が手を出しちゃぁヤバイ、か)
それに、ロメスも困るのだ。エルセットはトレストが弟のように可愛がっている存在だ。エルセットは常にトレストと共にいる。
それこそ、エルセットに何かあればトレストも巻き添えになるか、一蓮托生だ。エルセットはともかく、トレストの命をそんな理由で失うなど、ロメスは認めたりしない。
王女の判断でトレストの命が巻き添えになるぐらいなら、この王宮を血に染めてもトレストを守る気概は持ち合わせているつもりのロメスだった。
苛めるのは楽しいが、殺したいとは思わないのだ。カレンが産んだ自分の息子達を。
「それはそうでしょうね。・・・ですが、殿下。世の中には、そういった身分の違いや権力にこだわらぬ人間もいて、そういう人間は突然何をやらかすか分からないものです。・・・エルセットには、短絡的な思考で手を出すべきじゃありませんよ。あなたは、まだ所詮は何も分かっていないお子様だ」
「・・・っ!」
口惜しさからか、アディーネ王女の頬が紅潮する。「お子様」などと言われて、ムカついたのだろう。だが、ロメスにしてみればかなりの親切心を発揮したつもりだった。
(何より俺も、・・・トレストが巻き込まれるなら、話は別だ。俺は、頭を下げる王族が、あんたじゃなくても構わないんだよ、お嬢さん)
ローム国騎士団と王都騎士団のトップを敵に回して、この王城が何日持ちこたえられるかを試してみるという意味では楽しいかもしれない。
ロメスはそう思ったが、すぐに考えを改めた。一日もたたずに落とせると、そう結論づけたからだ。
そんな結果が分かりきった戦にもならない戦など、何の楽しみもないだろう。何より王族とそれを支持する貴族全員を殺してしまったら、仕事が激増してしまうではないか。
よその王族なら城ごと落としても構わないんだがと、自分の幸せ生活設計を考慮しつつ、ロメスは少しずつアディーネ王女と踊りながら会場の中心地へと入り込んでいく。
目的の人間が自分の姿を捉えたことを確認して、ロメスは誰にも気づかれぬよう小さく口角を上げた。
そんな物騒なことを考えてダンスを踊っているカップルがいる会場で、ほのぼのとした一行もいた。
「エルお兄様。私、咽喉が渇きましたわ」
つんとお澄ましして、そう言うのはエルセットの妹アレナだ。双子の兄であるファレンは、エルセットに負けずしっかりしている所を見せようと、背筋を伸ばして立っている。
「そうだね。じゃあ、ファレン、アレナ。お庭に行こうか。飲み物を持ってさ。会場もいいけど、お外でお星さまを見上げて休むのもいいと思うよ」
エルセットは、弟妹にそう提案してみる。二人は、「お外っ? 行く行くっ。エル兄様っ、お菓子も持っていっていい?」「エルお兄様、私も行くぅっ」と、嬉しそうに頷いた。
外を提案したのは、外なら双子がはしゃいでも問題ないとふんだからだ。エルセットには、こんなにも年少の貴族子弟や令嬢を集めた舞踏会という時点で、作為的なものを感じていた。それは、近衛騎士団にいたこともあるエルセットだったからなのだろう。
(つまり、・・・本気で婿探しをする気はないってことだな、第二王女は)
カロンに子供達のお守りをしている余裕はない。だから妹であるアレナのエスコートを任されたエルセットだが、周囲も子供が多い為、大人の愛の駆け引きは気がそがれるのか、全く芳しくないといった有り様だ。一夜の恋を求めて出席していた大人の紳士淑女は、今日は早々と見切りをつけて帰宅することだろう。
「ねえ、早くぅ。エルお兄様。ファレンもお菓子を取りに行きましょ」
「待ってよ、アレナ。あ、干しリンゴも食べたい」
そんな弟妹達の希望を聞きながら、「どれがいいの? どれくらい食べられるかな?」と、エルセットは美しく皿にお菓子や軽食を盛りつけていく。
そこへ、トレストの声が掛けられた。
「よう、エルセット。大変そうだな」
「トレスト兄。・・・まあね、これから庭に連れ出そうと思ってさ」
「ああ、なるほどな」
久しぶりに見るトレストだ。双子達も、「あっ、トレストお兄様」「トレスト兄様っ。兄様もうちに来ればいいのに、どうして帰ってこないのっ」と、はしゃいで纏わりつく。
「ファレンもアレナも大きくなったなぁ。二人とも立派な紳士淑女じゃないか。どれ」
まるで親戚のおじさんみたいなことを言いながら、トレストは二人を交互に持ち上げた。だが、ここは王宮の舞踏会会場である。あまり目立つこともできない。
すぐに下ろして、二人の肩をそれぞれ手で確保してあまり騒がないよう軽く押さえつけると、トレストはエルセットに、連れていた銀髪に緑の瞳の少女を紹介した。
「イレニア姫。こちらがケイス将軍の長男、エルセット・ケイス殿。そして、こちらの双子がその弟君と妹君でいらっしゃるファレン殿とアレナ殿ですよ。・・・エルセット。こちらが、カンロ伯爵の孫姫でいらっしゃるイレニア姫。本来は次期カンロ女伯爵の姫君であるルイーザ姫が出席すべきところなんだが、ルイーザ姫はうちの兄上と婚約中で忙しい。だからうちの弟とイレニア姫が参加してるんだ」
「初めまして。ルイーザ・ファスロと申します。エルセット様と可愛い双子さんのお話、いつもトレスト兄様は話していらっしゃいましたの。お会いできて嬉しゅうございます」
「お初にお目にかかります、イレニア姫。エルセット・ケイスと申します。・・・カンロ領が誇るルイーザ姫とイレニア姫は、祖母君、母君方の美貌と共に有名だと聞いておりましたが、まさにお美しくていらっしゃる」
そこは素直に感嘆の言葉を漏らしたエルセットだった。エルセットとて、王都で綺麗な女性を見慣れて育った人間である。だが、北国ならではの美しい白い肌を持つイレニア姫は、まだ少女ながらも王都で暮らす姫君に勝るとも劣らぬ美しさがあった。
「あ、トレスト兄上、ニーア。やっと見つけた。・・・あれ、もしかして?」
「ああ、レイル。こちらがエルセット・ケイス殿。エルセット、これがうちの弟のレイル」
そこへ、トレストと同じく黒髪に紺の瞳を持った青年がやってくる。自分の弟分と、実の弟である。今度はざっくばらんにトレストも紹介する。
「お父上のケイス将軍にはお世話になりました。レイル・フォンゲルド・ロイスナーです。お噂はかねがね」
「エルセット・ケイスです。こちらこそ、いつもお話は伺っておりました。私もお父上のフォンゲルド将軍にはお世話になっております。・・・こっちは、うちの弟ファレンと妹アレナです。ほら、二人ともトレスト兄にひっついてないで、ちゃんとご挨拶しなさい。こちらは、本物のトレスト兄の弟さんなんだから」
「こんばんは。ファレンと申します」
「アレナと申します。いつもトレストお兄様にはお世話になっております」
そこで、緊張した面持ちで礼を取るファレンとアレナに、レイルは「凛々しい弟さんと可愛らしい妹さんですね」と、声を掛ける。
トレストにしがみついている双子は、まるで昔、兄リルドレッドを取り合っていた自分とルイーザ姫を見ているかのようだ。どれだけ兄トレストが、二人に信頼されているかが分かる。
「あまり堅苦しく考えないでください。トレスト兄上も気にしないタイプですし」
「ありがとうございます。うちの弟達も、トレスト兄、・・・いえ、トレスト殿にはいつも可愛がってもらっていたものですから、久しぶりに会えてとても嬉しいようでして」
エルセットとレイルは、そこで固く握手を交わした。
レイルは、エルセットの為にトレストがナリファ砦に同行したことも聞いている。最初、それを聞いた時は、いくらケイス将軍の息子とはいえ、どうしてトレスト兄上がと思ったものだったが、たまに送られてくる手紙を読むにつれ、そんな反発はなくなっていた。
何より、エルセットがトレストを見上げる瞳には、絶対の信頼がある。レイルはそこが気に入った。
そしてエルセットも、トレストのカンロ領に暮らす兄弟のことは、よく聞いていた。だから、初めて会ったとはいえ、好意以外の感情をレイルに抱きようがなかったのである。
「ファレン、アレナ。庭でそれ、食べるつもりだったんだろう? うちもちょっと疲れたってんで、イレニア姫と外で休もうかと話してたんだ。レイル、こっちも一緒に休憩しようぜ」
「あ、それならトレスト兄。穴場があるから、そこに行かない? 結構、みんな、南の庭に出て行くんだけど、西にある青離宮の内側に小さな庭園があるんだ。かなり穴場なんだよ。石で出来たベンチとテーブルはあるし、繁みもあるんだけど、公園のようになっててさ。あそこ、巡回後の近衛騎士団の休憩所も兼ねてるから、誰かいても安心安全だよ。変な目的で近寄る人がいないし」
「へえ。青離宮、ね。じゃあ、その皿を先に持って行っとくよ。ファレンとアレナは俺が連れて行こう。二人とも、もう疲れてるっぽいしな。・・・ニーア、レイル。エルセットと一緒に料理を選んでからおいで。エルセットはかなり王宮のことにも詳しいから安心さ」
器用にもエルセットが持っていた皿を三枚持つと、トレストは双子に「ほら、行こう。ファレン、アレナ」と、声をかけて外へと出て行く。残された三人は、お互いに微笑んだ。
「俺は飲み物を取ってきますよ。子供が好きそうな果汁もね。・・・ニーア、エルセット殿と料理を選んでおいで。エルセット殿はワインでいいですか?」
「いえ。俺もトレスト殿も後で陛下にご挨拶しなくてはならないので・・・。果汁か水をお願いします。あと、俺のことはエルセットと呼び捨ててください」
「なら、俺もレイルと呼んでください。トレスト兄上から話を聞きすぎてて、今更初めて会うって感じもしないんですよね」
そう言うと、レイルはひらりと優雅な動きで飲み物を用意している小姓の所へと去って行く。
それを見送り、エルセットはイレニアに微笑んだ。
「あまり詳しくはありませんが、料理の説明ぐらいは出来ますよ。イレニア姫はお嫌いな食べ物とか、苦手なものはおありですか?」
「いいえ。こちらのお料理はカンロ領と違っていて、どれも面白うございます」
「そうらしいですね。トレスト殿は、カンロ領だとこんな食べ方はしないと文句言いつつ、それでもこの魚を食べるんですよ。慣れるとクセになる味なんだとか言って。試してごらんになりますか?」
「えっ、トレスト兄様が? 食べますっ」
かつてルイージア王女の為に、色々な料理を綺麗に盛り付けてあげたことを思い出しつつ、エルセットはイレニアに料理を説明しながら、料理を取り分けていった。
エルセットは見つかった。だからアディーネ王女に「彼がエルセットですよ」と、教えてあげたまではいいが、ちょうどそのエルセットの姿を、ルイージア王女も違う場所から見ていた。
そして現在、ロメスは一人ぼっちだ。
何故か。
さっと足早に立ち去ってしまったルイージア王女をアディーネ王女が追いかけていってしまったからだ。つまり、置いてけぼりにされたのである。
(ま、いいけどな。追いかけるのにまで付き合わされるんじゃ、やってられん)
薄情なことを思いつつ、ロメスは踊り終えたらしい、黒い巻き毛を結い上げた貴婦人に近寄っていく。
「お疲れでないようでしたら、一曲、私とお相手願えませんか?」
「ええ、よろしくてよ」
二人は慣れた様子で踊り出した。
「で、王女様はどうしたの?」
「さあ。どっかに行っちまったな」
「ふふ。本当にどちらもタイプが違うけど、綺麗な王女様よね」
彼女がくすくすと楽しそうに笑うものだから、ロメスは何だか当てが外れた気分で尋ねた。
「何だ。妬いてくれないのか?」
「あら、妬いて欲しかったの?」
ころころとカレンが笑う。
当たり前である。その為だけに、見た目だけは悪くない、あの王女達と一緒にいたのだ。ルイージア王女もアディーネ王女も、どちらもタイプは違うが美少女と名高い。
わざわざロメスがアディーネ王女と踊っているのをカレンの目に触れさせようとしたのは、そんなくだらない理由だった。
「ああ。して欲しいね、とっても」
少し真面目な口調になってロメスは肯定した。更にカレンを引き寄せて踊る。いつだってカレンの心は自分が占めていたい。そんなこと、当然ではないか。
「馬鹿ね」
子供を三人も作っておきながら、今更ロメスは何を言っているのだろう。しかも王女は自分達の子供のような年ではないか。
カレンは、そう呆れ返った。
「大体、それを言うなら、私だって色々な人と踊り続けていたけど?」
「それはいいんだ。お前にはずっとうちの奴らをつけてる。うちとカロン殿以外の男は近づけるなと厳命してあるし、お前を誘おうとした不埒な男共は全て阻止された筈だ」
「・・・ロメス、あなた、・・・本気で馬鹿でしょ。大体、私みたいな年になって、今更、ダンス程度で浮気も何もないじゃないの。ああっ、もうっ、恥ずかしい。きっとこんなおばさん、誰も相手にしないのに自意識過剰とか思われてたわよ、きっと」
カレンは羞恥で赤くなった。久しぶりの舞踏会と思ったら、夫は何をアホなことをやらかしてくれているのか。若い乙女ならばともかく、自分のような年増など、誰が誘うかと思われていたに違いない。
だが、ロメスは踊りながらそっとカレンの指に口づけた。
「お前はいつだって綺麗だ。カレン、この会場で一番美しい女を挙げろと言われたら、俺はお前の名を挙げるだろう。・・・で、お前に妬いてもらいたいが為に、あんなガキの相手をしていた俺に、お前は嫉妬もしてくれないのか?」
「・・・・・・馬鹿」
そんなことを真顔で言う夫に、何を妬けるというのか。カレンとて、ロメスがそこまでなりふり構わず大事にするのは自分だけだと、自覚している。嫉妬する暇もないぐらいに、ロメスはカレンだけを常に自分のテリトリーに置くのだ。
「もうすぐ、城に泊まる人間と帰宅する人間とでごった返す筈だ。カレン、俺の城にある部屋に子供達といろよ。俺はまだガキ共に付き合わなきゃならないんでな」
「あら。そういえば、レイル達はどこにいるのかしら。あまり監視してたらつまらないだろうと思って、わざとはぐれてあげたんだけど」
「大丈夫だ。レイルにもちゃんと部屋は教えてある。はぐれたらそこに行けと言ってあるしな。イレニア姫も、レイルがついてりゃ心配ないさ」
「あなた、トレストを連れて王様にご挨拶するんだったわね。・・・その場に王女様もいらっしゃるのかしら。あんなに綺麗な王女様達を間近に見ちゃったら、トレストも見惚れるわよね」
あの子、恋人いるらしいのに大丈夫かしらと、カレンが心配そうな顔になる。そんな妻を、ロメスは呆れて見下ろした。
たしかに結婚間近な男女が、いきなり違う恋人に走ることはある。それは結婚という一大事を前に、頭が混乱して刹那的な恋愛に逃げてしまうからなのだろう。だが、あのトレストが今更、美少女だからとよろめく筈もないことも分からないのだろうか。
そもそもトレストの日頃の趣味やセンスを見れば、通常とかなりずれているのは確かだ。
「・・・何を心配してるか知らんが、男にとって観賞用と自分が惚れる女は別だぞ、カレン。王女達は確かに見た目は悪くないが、それこそ観賞用だ。ま、俺はどちらもお前一人だけどな」
「・・・っ。どうしてロメスってば恥ずかしいことばっかりっ」
「恥ずかしいか? 俺はそう思わないけどな。愛してるって心をそのまま伝えることの、どこが恥ずかしいんだ?」
「・・・・・・っ」
その話題となっている二人の王女が立ち去ってしまう原因になったのは、自分の姪にあたるイレニア姫とエルセットが仲良く二人っきりで語らいながら料理を取り分けている様子を見たからだとも知らず、カレンは赤くなった顔を下に向け続けていた。
三年は長い。誰かと出会い、恋に落ち、そして愛を育むには十分な時間だ。
(自惚れていただけよ。ケイス将軍に、彼の初恋が私だと言われたから・・・)
自分だって、彼を本気で想っていたわけではない。少女時代に誰もが経験する、淡い気持ち程度だったではないか。それもとっくに忘れ去った筈の。
なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。切なさに流れそうになった涙を隠そうとして、足早に会場を立ち去ったルイージア王女は、私室にある鉢に入った水で顔を洗っていた。
(そうよ。あり得ない夢を見てただけ。彼がああやって料理を取り分けるのも何もかも、・・・他の人にだってやるんだってことを、私は分かってなかったの)
彼の手が何かを差し出すのは、いつだって自分にだけだと思っていたのだ。そんなこと、あるわけないのに。
部屋は静まり返っている。そんな中、ぽちゃっぽちゃっと、水音だけが響いた。
侍女達も、今日は華やかに盛り上げる為、舞踏会に美しいドレスで参加している。この部屋の前には護衛騎士が警備しているばかりだ。
(きちんと顔を拭いたら化粧もしなおさなくては。・・・常に泰然としていること、それが王女の義務。そうよ、ルイージア。いつだって私が私でいられないことなど、あってはならないの)
そんなルイージア王女に、後ろから声が掛けられる。
「お姉様・・・」
「あら、アディーネ。ごめんなさいね、ちょっと目にゴミが入ったのよ。洗い流したら、すぐ会場に戻るわ」
振り返ったルイージア王女は、濡れた顔のまま、そう微笑んだ。
その微笑に何を読み取ったのか。アディーネ王女は何か言いたげだったが、色々迷った挙句、
「それでしたら、私は会場に戻っておりますわ。早めにお戻りになってくださいましね、お姉様」
と、扉から出ていった。
もう一度、顔をパシャパシャと洗いながら、ルイージア王女はそこに誰にも見せられない涙を混じらせていく。王女が誰かの為に泣くことなど、あってはならないからだ。
(誇り高く顔をあげて常に微笑んでいなくては。弱みなどあってはならない、それが国に対する私の義務)
・・・だけど今は、誰も傍にいてほしくなかった。
レイルとイレニアが、ファレンとアレナをフォンゲルド将軍の部屋で見ていてくれると言うので、トレストとエルセットは連れだって国王への挨拶に赴いた。
「大体、平の騎士なのにね、僕達・・・。どうして陛下が名指しなんだろう」
「うん。時々、お前のその鈍さが羨ましいよ、エルセット」
王都に戻ってきた途端、毎日がドタバタの連続で、その僻地にとばされた原因が王女だということを忘れ去っていたエルセットである。王都に戻ってきたその日には、申し訳なさから涙を流したりもしたが、フィツエリ邸で両親や弟妹と過ごす日々は、することが山積みだった。離れていた分を取り戻そうと、ルーナも双子達もエルセットに朝から晩までべったりだったからだ。
そしてナリファ砦の話をしていたら、皆が目を輝かせて聞きいってくれたこともある。
エルセットにとって、ナリファ砦の日々は家族と離れているのは寂しいが、しかしその寂しさを感じる暇もないぐらいに忙しく楽しい日々でもあった。
どんな冒険をしたか、何を見つけて何を作ったか、どんな罠を仕掛けてどんな成果をあげたか、そんな話をエルセットは皆に聞かせた。そして同じように、自分がいなかった間のことを聞く。
カロンと共にローム国騎士団に顔を出せば、以前よりも強くなったエルセットに、打ち合いを求めてくる人もいて、そういったやりとりも刺激的だった。
それでも、母サーライナと同じ部族の人々については、カロン以外に話さなかった。カロンは皆が寝静まった中、目を細めながらエルセットの話を聞いていた。
「あっちでの日々が長かったからさ、ちゃんとご挨拶出来るか、自信ないかも。トレスト兄、いざとなったら助けてよ」
「アホか。そういうのは、ケイス将軍に頼め」
トレストが、指定された部屋の扉前に立っている、二人の男を示す。そこには、ロメスとカロンがいた。二人は、息子達を待ちながら、何やら話している。
「遅いぞ、トレスト。上司と父親を待たせるとは、お前も偉くなったもんだな」
「息子殿を苛めるなと言っただろう、ロメス殿。・・・トレスト、エルセット、気にするな。まだ時間には早いから」
父親二人も相変わらずだ。どうして誰も彼もがマイペースに生きているのだろう。トレストは真面目な自分が虚しくなった。きっとこんな自分の気持ちを分かってくれるのは、ケイス将軍だけだ。
「お父さん。あのね、ファレンとアレナは、トレスト兄の弟さんのレイルと、イレニア姫が見てくれてるんだ。イレニア姫って、カンロ伯爵のお孫さんにあたる姫君なんだって」
「そうか。・・・すまないな、トレスト。ロメス殿も、帰ったら奥方にお礼を伝えておいてくれ」
カロンも、イレニア姫が、ファスロ領主の次男とカンロ領主の次女との間に産まれた姫だという程度の情報は頭に入っている。そしてイレニア姫が、カレン・ロイスナーが産んだ三兄弟と仲が良いことも。
「気にするな。レイルもたまにはお兄さんっぽく振る舞えて嬉しいんじゃないのか? といっても、今回、レイルはうちじゃなくカンロ邸に滞在してんだよな。イレニア姫が一人で滞在するのは寂しがるからっつって」
せっかくうちがあるのに、どうしてどいつもこいつも屋敷に居つかないのかねと、ロメスはぼやく。自分に理由があるとは全く考えもしないのだろう。
トレストは父親の言葉を無視して、カロンに話しかけた。マイペースな人間にはマイペースに対応するしかないと、学んでいるからだ。どうせ息子に無視されたところで、この父親に傷つくような神経の持ち合わせなどない。
「ケイス将軍。・・・そろそろ帰る人が増えています。今回、かなり小さなお子さん方まで出席を認められていることから、かなり馬車置き場はばたついているようです。陛下の用があるのはエルセットだけでしょうから、俺はそちらの手伝いに行った方がいいのではと思ったのですが・・・」
「いや。トレストもいた方がいいだろう。分かっていないようだが、トレスト、お前もフォンゲルド将軍の息子として注目されている。今や、お前はいずれ王都騎士団を率いるのか、ローム国騎士団を率いるのかと、ロメス殿や俺に直接訊いてくる人もいるくらいだ」
「はぁっ!?」
「すっごーい。さすがトレスト兄。どっちの騎士団の正装でも似合うよ。トレスト兄、カッコいいからさ。僕が女の人だったら、きっと惚れちゃうね。だってフォンゲルド将軍の色違いって感じでしょ? 将軍と並んで立ってたら、王都中の女性が卒倒しそう」
エルセットが目をキラキラとさせてくることに、トレストはげんなりとした。この太平楽なお子様は、どの将軍の正装が似合うかしか考えていないのか。なれるわけがないとか、考えないのだろうか。
そこへ、面白そうにロメスが口を挟む。
「おっ。何だ、エルセット。それは俺の顔を褒めてくれているのか?」
「勿論です。お父上だけあって、フォンゲルド将軍もトレスト兄そっくりのお綺麗な顔立ちですよね」
「ああ。まあ、この場合、トレストは父親の俺そっくりですねと、そう言われるもんだと思ってたよ」
「普通はそうでしょうが、僕にとってはトレスト兄が基準なんです」
トレストは、エルセットの頭をグリグリしたくなった。何て可愛い弟分なのか。本当にエルセットは、こうと決めたらブレない一途さがある。
そこへ、国王の護衛騎士の一人がやってきた。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
案内され、一行は国王よりも先に部屋で待つこととなった。
そこには、とても和やかな時間が広がっていた。
ロメスは扉を小さく開け、外側にいる護衛騎士に声を掛ける。
「妻と息子が、俺の部屋にいる筈なんだ。そこに使いを出して、先に帰宅するよう伝えておいてくれ。そこにはカンロ領の姫君、そしてケイス将軍のお子さん方もいるから、王都騎士団の責任者を捕まえて護衛につかせるよう手配してもらってほしい」
「かしこまりました、フォンゲルド将軍。そういうことでしたら、こちらからも護衛を出しましょう」
「ああ、頼む。特にケイス将軍のお子さん方には気を遣ってくれ。フィツエリ領のお子さん方ということにもなるからな」
「はい」
カレンとイレニア姫はレイルがついている。それに、カレンはイレニア姫のおねだりに弱いのだ。どうせ屋敷ではなくカンロ邸に帰ることだろう。カンロ領の使用人もついている為、そちらはあまりロメスも心配していなかった。
「あと、話が長引いている。陛下と殿下方にお飲み物を」
「かしこまりました」
そして席に戻ると、エルセットは楽しそうに話しているままだった。
今回、国王に対して、トレストとエルセットは挨拶と少しの会話をしたら終了となる予定だった。だからそのつもりでいたのだ、ロメスもカロンも。
なのに何故、こんなことになっているのかと、ロメスは天井を仰いだ。カロンを見遣れば、肩を竦めてみせる。
「そこで、その場所だけ土が痩せていくというのは、水が不十分ということもあるのかと思い、その土地に川の水を引きこめるようにしてみたわけです。すると、その土地はなかなか水が浸み込まないのだと分かりました。つまり、土の下に岩盤があるのでしょう。ですから、そこに耕作地としての見切りをつけたわけです」
王と一緒にやってきた王妃は、そんな話に全く興味はないらしく、とっくに適当な理由をつけて退席してしまった。王妃と共に側室も一緒に退出してしまったのだから、どうも我が国の側室は国王よりも王妃に忠実な気がしてならないトレストだ。
だが、国王と二人の王女は身を乗り出して聞いている。エルセットの話は、とても興味深いものだったらしい。
アディーネ王女が、そこで質問する。
「ですけど、他の使い道などありませんでしょう? その土地は手つかずで置いておくしかないのでは?」
「ええ、その通りです。通常、そんな土地は手を掛けるだけ労力の無駄とされます。ですが、ちょうどトレスト殿と私達は、大きな岩をどうやって運べるか、その場合の岩の断面をどうやって組み立てるかを、話し合っていました。それは既に遺跡となった過去の神殿を見て閃いていたことですけども」
「遺跡? 過去の神殿ならロームにもあるわよ。ああいうものなの?」
「いいえ、ルイージア殿下。あちらの神殿は、ロームにあるものとは全く違う神を祀ったものでございました。従って造りが全く異なるのです。それを書き写したものは、今、持ち合わせておりませんが、かつてそこでは岩を切りだし、それを組み合わせて神殿を作っていたのです。日干し煉瓦でもなく、またロームにあるような石を彫りこんだものでもなく、岩そのものの質が違いました。こちらで認識している岩石より柔らかく、加工しやすいのです。そして私達は岩で囲いこんだ、魚を放流させておくスペースを作りました。川から水を引きこみ、そしてその水を反対方向から少しずつ川へと戻す、常に水の動きのある入れ物を、岩で作ったことになります」
「ほう。そして、それは何になったのだ?」
「はい、陛下。川で釣ってきた魚の保管場所となりました。魚など、釣ったら日干しするか塩漬けにするか、そしてその後は油漬けにしておかないと日持ちはしません。ですが、釣り過ぎてもその魚を生きたまま置いておける場所があるのなら、いつでも新鮮な魚が食べられます。が、そこには失敗もありました」
「ほう。どんな失敗があったのだ?」
エルセットは悪戯っ子のように目を真ん丸にして答えた。
「そりゃ勿論、自分がとった小さい魚じゃなく、人がとった大きな魚を食べちゃうことです」
なるほどと、国王も膝を叩く。
ロメスとカロンだけでなく、トレストも目が泳いでいた。
どうして国王と二人の王女はエルセットの話に興味津々なのか。決まっている、エルセットはそういった庶民の作業を知らない国王一家にすら分かりやすいように、詳しく話をしているからだ。
どうしてエルセットは知りたがる国王と王女達に詳しく話すのか。決まっている、エルセットは知識とは人から教わり、人に教えるものだと思っているからだ。
(父上なんて、俺達の戦い方にしか興味を示さなかったから忘れてた。考えてみりゃ、俺達、何もない場所に村一つ作り上げてんだよな。しかもロイスナーが絡んでるから、更に他国への貿易にもしっかり噛んでたりするし)
何もない場所に村を作る作業を、それこそエルセットが居住する家から何からを区分けして配置した話から始めたものだから、そこに国王がいたく関心を示したのだ。それに対し、エルセットは自分が知る限りの文献を引用してまで、過去の事例を挙げて説明していく。三人の王族はかなりエルセットの話に身を乗り出していた。
トレストにとっては既に終わった話である。魚のプールは自分も泳げて楽しい、その程度だ。ついでに川と違って流されることがないので、子供達もそこで安心して泳げる。村人にも好評といった認識しかない。
(この四人だけ、どこぞに押し込めて好きなだけ話させておけばいいんじゃないか・・・?)
きっとそう思っているのは自分だけではないだろう。部屋の隅で佇んでいる護衛もそう感じている筈だ。そして、二人の将軍も。
しかしトレストは、同じく部屋の隅で控えている高官が気になっていた。表情には出さなかったが。
顔を動かさず、ちらりと視線を向ければ父ロメスも瞳だけで頷いてくる。そして、どうやらカロンも気づいているらしい。
日頃、自分達に向けられる視線など数えていられるかと無神経な二人の将軍だが、エルセットに対して向けられる視線にはちゃんと反応しているようだった。
(てか、気づいてないのはエルセットだけか。・・・どう見ても話に夢中だしな)
後で、その高官が誰なのか父に訊かねばと思いつつ、トレストは何も気づいていないフリをする。やがて様々なことを聞きだし、国王も満足した様子だった。
だが、トレストは気づいていた。何でもかんでも問われるままに喋っているようなエルセットだったが、ロイスナーが絡む貿易や、そしてあの村に住むケリスエ元将軍と同じ部族の人間については全く触れなかったことを。
それどころか、かなりそこは念入りに誤解を招くように真実とは違う話をしていたと言っていい。
「ところで、将軍達の息子もこれ程立派な青年に成長したのだ。結婚などは考えておらぬのか?」
さすがにトレストもエルセットも、その国王の質問に対しては父の顔を仰ぐしかない。どう答えていいか分からなかったからだ。
まず、ロメスが答えた。
「基本的に当家では、自分の妻は自分で見つけてくるものと考えております。その気概なくして、我が家の敷居をまたがせるつもりはございません。長男も自分で婿入りを決めましたし、ここにおります次男にも三男にも、人の紹介などといった受動的な婚姻など許す気はない、自分の目で妻は見極めろと常々言い聞かせております」
「ほう。・・・そうなのか、トレスト・フォンゲルド?」
見事な大嘘だった。長男リルドレッドは従妹に押し切られて結婚に持ち込まれただけだし、そもそも妻を見極めろも何も、そんな話などロメスが息子達にしたことはない。だが、父がそう言い切るということは、自分に持ち込まれる縁談がありかねないということか。それも国王に牽制しておかねばならない、つまり貴族からの話として。
そこで、トレストは爽やかに笑ってみせた。
「はい、その通りでございます。父が母と出会い、運命の恋に落ちたことは幼少の頃より聞かされておりました。私も常々、そのような恋をしたいものだと子供心に感じていたものでございます。・・・ですが、長じて人の気持ちは変わるもの。私も今となっては理想の花嫁像がございます。その理想像を追い求め、探し尽くす所存です」
「何と。どのような花嫁像だ? 聞かせてくれぬか?」
国王だけでなく、二人の王女も興味深そうにトレストを見た。人のそういう話は誰でも気になるものだからだ。
ロメスそっくりの顔立ちをしたトレストは、ロメスと違った爽やかな雰囲気のある好青年だ。どんな理想の花嫁像があるのか。トレストの母カレンは、華やかな美女で有名でもある。
「はい。父ではなくケイス将軍率いるローム国騎士団に入ったのも、実はそれがあったのですが・・・」
父に倣って、そこは大嘘をトレストもかます。ローム国騎士団に入ったのは、父から逃げる為だ。それ以外の何物でもない。しかし、そんないらぬことを言う必要はない。嘘も方便と言うではないか。
「女性でありながらローム国騎士団を率いたケリスエ将軍。お会いしたことこそございませんが、その方のお話はずっと両親より聞かされておりました。そして私は誓ったのです。いつか自分が妻を迎える時は、彼の将軍のように剣を振るい、自分と同じように戦える女性にしよう、と。ケイス将軍のように、そんな女性を妻に迎えるのだと。少なくともそこらの騎士程度では敵わぬ剣の腕を持つ女性、そして自分が愛を捧げて悔いなき女性、そんな女性を私は手に入れるつもりでございます」
その場に沈黙が満ちた。
尚、ローム王国に、現在、女の騎士などいない。
戦場での囮や刺客として女の兵士が存在したりもするが、それとて普段は農民のように振る舞う程度の、それこそ、「ザ・おばちゃん」といった感じだ。だが、大勢に影響しないそんな存在など、国王や王女達が知る筈もなく、トレストが言ったその女性に対する条件は、「あり得ない」としか言いようがないものだった。
「そ、それはまた・・・。なかなか変わった、・・・いや、思いがけない理想像だな」
国王がそう呟く。トレストは、はいと、にっこり笑ってみせた。
「私程度の腕では相手にもしてもらえなかったでしょうが、父と同じ時代に産まれていなかったことが悔やまれてなりません。ケイス将軍がライバルでは勝ち目無しと分かってはおりますが、私が父でしたら、ケリスエ将軍にこそプロポーズし、ケイス将軍と決闘に持ち込んででも愛を乞うたことでしょう」
カロンは呆れ顔だが、ロメスがかなり嫌そうな顔になるのを確認して、トレストはちょっと溜飲を下げた。どうやらロメスにとって、とても嫌なことを想像させる仮定だったらしい。
エルセットなど、顎が落ちている。・・・そりゃ自分の記憶にもない、亡くなった母親を理想像と言われたらそんなものなのかもしれない。
だが、これで自分に持ち込まれそうな縁談はシャットアウト出来る筈だ。・・・そんな女性など、貴族にはまず存在しないのだから。さすがに王の声がかりの縁談を出されては、断るのに苦労する。母カレンと同じ轍を踏む気はない。
トレストは、ナリファ砦で待っている兄妹の顔を思い浮かべた。剣を持てば強いくせに、意地っ張りでいつも背中を向けている少女。それでもトレストが見つけるのを待っているかのように、そっと物陰から自分を切ない瞳で見つめているのだ。あのいじらしさは、自分だけのものでいい。
そう、トレストもまた父の息子である。決めた娘を逃がすつもりはなかった。
「な、成程な。・・・で、ケイス将軍の方はどうなのだ?」
「は。・・・当家もフォンゲルド将軍同様、あくまで本人の意思を尊重するつもりでございます。いみじくも、先程トレストが申しました通り、私はかつてケリスエ将軍を望み、それを将軍自身の了承によって叶えられた身。男として、自分が望んだ女を得られる程の幸福はないと知っていて、息子に違う道を押しつけるつもりはございません。何よりエルセットはケリスエ将軍の息子。私は、エルセットが望んだ女性が同じようにエルセットを好いてくれ、そしてエルセットに結婚を了承してくれることを望むばかりでございます」
国王は首を傾げた。
「普通は、一家の主人が結婚を決めるものだと思うのだがな。まあ、先進的な考え方としては、本人同士の想いが先に立つこともあろうが」
「私にとっては、今も亡き妻こそが全てでございます」
カロンは言い切った。
「彼女は、婚姻とは互いの想いだけで決めるのだと言っておりました。ゆえに相思相愛、浮気もありえないのだと。・・・私の全ては彼女が作り上げたものでございます。ゆえに私は、息子にも母と同じように、自分が心から愛せる、相思相愛の人を見つけてほしいと望んでおります」
「お父さん・・・」
エルセットが感極まったかのように父を見つめる。だが、そこでアディーネ王女が首を傾げた。
「え・・・? ケリスエ将軍って、様々な方と噂のあった方では・・・?」
普段なら、アディーネ王女もそんな不用意なことは絶対に言わない。だが、その日はかなり疲れていて、エルセットの話が深夜に及んでいたことが影響していた。
父王の視線に、自分の言葉がまずかったことを悟り、アディーネ王女は蒼白になる。いくら何でも、その夫と息子を前に言っていい台詞ではない。
だが、カロンは穏やかに頷いた。
「そうですね。彼女は、このローム王国にあって初めて女の身で将軍に就いた人物でした。その為、様々なやっかみから、権力者に取り入ったと噂を立てられていたのは私もよく存じております。・・・ですが、アディーネ殿下。彼女は権力者に取り入る必要などございませんでした。その証拠に、ケリスエ将軍が打ち立てた無敗神話がございます。それこそが、どの権力者すら彼女が必要としていなかった証でございましょう」
「え・・・? 無敗?」
アディーネ王女が目を丸くする。おそらく、ケリスエ将軍についてのそういった戦果までは聞いていなかったのだろう。国王が大きく首肯する。
「その通りだ。ケリスエ将軍は、皆が見守る中、三つの騎士団が出した猛者共に勝利し、自らの力で将軍位を勝ち取った。だから女性でありながら、三人しかいない将軍の一人に名を連ねたのだ。誰からどう聞いたかは知らんが、アディーネ、・・・ケリスエ将軍はそのケイス将軍を見出し、育て上げた傑物でもある。少なくとも当時を知る有能な人物で、ケリスエ将軍について低い評価を下すものはおらぬ。愚かな人物の意見に惑わされるような真似はするな。そして誰に何を聞かされようと、当時の資料に目を通せば、そんな誤解はすぐに解けた筈だ」
「申し訳ございません、お父様。・・・ケイス将軍にも、失礼なことを」
「いいえ。彼女に対する根拠なき誹謗中傷には慣れておりますから」
ついでに自分に対する誹謗中傷にも慣れているカロンである。
そこでルイージア王女が、カロンに尋ねた。
「あの、・・・その、奥様がそんな噂を立てられて、・・・・・・ケイス将軍は気にならなかったの? いくら信じていても、不安になったり、とか・・・。ごめんなさい、これも失礼な質問よね」
「いいえ、構いませんよ、ルイージア殿下。・・・不安も何も、私、ケリスエ将軍の一日のスケジュールは全て把握しておりましたし、同じ屋敷に住んでおりましたので、そんな男出入りが一切無かったことは存じておりました。何より彼女は強さを追い求めておりましたので、・・・・・・彼女に夜を共にしてもいいと思わせるには、少なくとも彼女と同程度の強さを持たねば、それは叶わなかったでしょう。そして、その基準に照らし合わせれば、このロームにいるほとんどの男は、彼女の基準に達しません。権力があろうがなかろうが、強さなき男など、彼女にとって何の価値もなかったのです」
本当は強さがどうこうではなく、最初から男は恋愛対象外だっただけだ。しかし、そんなことは言えない。というわけで、カロンはそういう理由にしておいた。だが、あながち間違ってはいないだろう。
その場に、沈黙が広がった。
「ちょっと待て。カロン殿。・・・あのケリスエ将軍より強い人間なんて、どこにいるというんだ。大体、三騎士団合わせての勝ち抜き戦で、全ての頂点に立った方だろうが」
「さあ。・・・だが、ロメス殿なら良い線までいったんじゃないのか? だが、あの人はあくまで伴侶については互いの愛情を基本としていたから、その時点でアウトだな」
良い線までいったと言うが・・・、ロメスはかつて身近で見た、そして遠目に見たケリスエ将軍の剣を思い出す。たしかにスピードと力だけならば、自分だけでなく凌げる人間はいたかもしれない。
だが、・・・・・・あの剣の使い手に勝てる人間はいなかっただろう。それこそ全身を返り血に染めて、全ての男を死体に変えた中で佇む死神に、人の心などある筈がない。
あれは、自分とは違う意味での異質な存在だ。互いの愛情どころか、自分はあの存在と寝台に入るぐらいならば、先に殺す手段を考えるだろう。何が愛情だ、相思相愛だ。あの存在に、そんな女らしい感情で動くような可愛らしさなどあってたまるか。
というより、今もこいつはそんな色ボケした感情を持ち続けていたのか。
「・・・いや、それ、自慢か? 自慢なんだな? つまりケリスエ将軍はカロン殿しか選ぶことはないって言ってるようなもんだろ? 大体、あの方が選んだのは、最初から最後までお前一人なんだから」
しかし、あれから長い年月が流れた。ロメスとていつまでも血気盛んな若者ではない。実家を避けているトレストとて、時々はカレンに会う為にやってきていたし、その際には様々な話題も出る。
いくら自分とよく似た外見のトレストとはいえ、自分とは同じ感覚を持たないのも分かっている。自分があの存在に感じたものを説明する気にはならなかったが、以前のような、カロンをわざと不遇な状況に落とした人間という気持ちは、もうロメスも持ってはいなかった。
(どうしよう・・・。僕のお母さんのことなのに、僕が一番分からない・・・・・・)
エルセットは、そんなことを思わずにはいられなかった。・・・そもそも、離婚されたとはいえ、今もつきあいのあるルーナはどうなるのか。まるで父の妻はサーライナ一人と言わんばかりのこれは、・・・息子としては嬉しいのだが、ファレンとアレナのことを思うと複雑な気分にもなる。
そんなカロンとロメスの会話はともかく、ルイージア王女は感動してカロンを見つめた。
普通、どんなに信じていても、悪い噂が出回ればそれに人は惑わされるものではないのか。なのに、そこまで言い切れるだけの相思相愛とは、どんなものなのだろう。
「なんて素敵なのかしら。ケイス将軍は本当に奥様を愛していらしたのね。・・・私、そのケリスエ将軍のあまり良くないお噂も聞いてはいたけど、パストリアの叔父様は、絶対にあり得ないって仰有ってたわ。人に取り入って物事を動かすより、自分の力で全てを押し流していくような方だったって」
押し流すとはどういうことかと思ったが、・・・相手の反論も都合も無視して全てを推し進める人だったらしい。だが、そう不本意そうにぼやきながらも、叔父の顔には何かを懐かしむそれがあった。
「パストリア国王ルーゼンメイル陛下、ですか。・・・そうですね、あの方も面識はおありでしたね」
かなり遠い昔をカロンも思い起こす。
「パストリアの叔父様の人物評は確かだもの。だから私、自分でも調べたのよ。だけど皆、ケイス将軍がケリスエ将軍を愛していたとは言っていたけど、ケリスエ将軍の気持ちを語る人はいなかったの。ケイス将軍は、どうして奥様の愛を信じられたの? 亡くなったケリスエ将軍をそんなに大切に思えるのは、どうして? やっぱりそれだけ強い奥様だったから、大事に思えたの?」
ルイージア王女の重ねた質問に、カロンは苦笑する。
「強さは関係ありませんよ、殿下。人が人を想うのに、条件などありません。・・・そうですね、妻の愛を信じられたのは、夫婦にしか分からないことがあるとだけ申し上げておきましょう。殿下もいつか、女性ということで悩み苦しむことがあるかもしれません。ですが、・・・百人の内、九十九人が敵にまわったとしても、絶対に自分を裏切らないと分かっている一人が、自分と相思相愛の人であれば、それだけで人は強くなれるものです。妻はこの世を去る最後の瞬間まで私に愛を与えてくれました。ですから、私もこの世を去る最後の瞬間まで妻を愛しているのです」
おそらくルイージア王女は揺れているのだろうと、カロンは思った。全ての人が頭を下げ、褒め言葉しか口にしない中で生きていれば、どんな囁きや言葉も信じられなくなっていくものだ。
何にせよ、パストリア国王の言葉があったとはいえ、サーライナに対して良い印象を抱いているらしいルイージア王女は、カロンにとって敵ではない。
「羨ましいわ。・・・空虚な褒め言葉を千も万も掛けられるより、実のこもったそんな言葉を贈られていた、その方が」
「・・・いつか、ルイージア殿下にもそういう方が現れます。国王陛下と妃殿下、そして側室様がいつも思いやり、譲り合い、愛で満たされているように」
いつの間に娘はケイス将軍と仲良くなったのかと思い、国王はその様子を見ていた。
自分だって王妃とは相思相愛のつもりなのだが、さすがに側室の産んだ娘であるアディーネがいる状況でそれを口には出来ない。
ついでにケリスエ将軍と噂になった人間には自分も入っている筈なのだが、そしてそれはあり得なかったが、・・・彼女よりも強くない時点で男としての価値はなかったというカロンの言葉は、ひそかに王に打撃を与えていた。
別に、ケリスエ将軍にそんな気など持ったことはない。自分より強い女など真っ平だ。だが、・・・基準値未満として切り捨てられたかと思うと、一国の国王としては何となく切ない。男心は繊細なのだ。
「そ、そうなると、ではエルセット・ケイスにもそんな相手はいるのか? 今日の舞踏会にも綺麗な娘は多く出ていただろう」
国王は、そう話を元に戻す。尋ねられたエルセットはたじろいだ。
「え? いえ、あの、別に私は、・・・まだまだ半人前ですので、そんなことは全く考えたことも・・・」
「あら。今日、綺麗なご令嬢と一緒だったわよね? それこそ仲良さそうに。あの方は、ご婚約者なのでは?」
しどろもどろに答えるエルセットに、ルイージア王女が口を挟む。
エルセットは目が点になった。今日、一緒にいた妹のアレナはどちらかというと、綺麗というよりも可愛らしい感じだからだ。何よりまだ幼いだけに、綺麗とは言わないだろう。
「え? それでしたら妹でしょうか。双子の弟妹は、まだまだ子供で・・・」
「嘘よ。私、見かけたもの。綺麗な銀色の髪をした・・・」
そこで言葉につまったルイージア王女である。
自分は何を言っているのだろう。エルセットが誰と愛を語ろうが、自分にとっては関係ないのに。
「銀髪? ああ、彼女はトレスト殿の・・・」
そこまで言いかけて、エルセットは詰まる。トレストの何にあたるんだっけ? と、考え込んだからだ。親戚筋だとは思うのだが、詳しくは覚えていなかった。察したトレストが助け船を入れる。
「銀の髪なら、うちの又従妹にあたる姫ですね。弟がエスコートしていたのですが、エルセット殿達と合流したのです。恐らくその傍に、うちの弟もいたかと存じます」
「あ、あら。そうだったの」
かあぁっと、ルイージア王女が赤くなる。
本当に何を自分は言いたてようとしたのか。・・・大体、関係ないことなのに。
見れば、父王にしても、何かを探るかのような視線を自分に向けている。
「わっ、私っ、そろそろ失礼しますわっ。おやすみなさい、お父様っ」
返事も聞かず、ルイージア王女は立ち上がると、そのままバタバタと扉を出ていった。
呆気にとられたのは、残された面々である。
「舞踏会の後だ。警備も出払ってる。トレスト、エルセット。殿下が部屋に戻るまでお送りしてこい」
ロメスが命じると、トレストとエルセットは困ったような顔を見合わせたものの、国王に一礼してそのままルイージア王女を追いかけていく。
「なぜ、彼らを行かせたのだ?」
「それは勿論、何かあっては大変ですから。あの二人であれば、追いつけるでしょう」
国王の質問に、ロメスはさらりと答えた。
だが、勿論、内心は違う。以前、酒と言われて酢を仕込まれたことのお返しである。エルセット一人を行かせずにトレストをつけたのは、せめてもの情けだ。
(うじうじ悩むより玉砕させた方がいいからな。・・・欲しい男も諦めなきゃならんなんざ、王族ってのも因果な商売だ)
カロンは、まるで何かを考え込んでいるかのように目を閉じていた。
そんなカロンに、国王とアディーネ王女は、何かを読み取ろうとするかのような視線を向けている。
だが、ロメスには分かった。カロンは何も考えていない、と。元々、カロンは何かあっても慌てるタイプではない。じっくり時を待ち、そして一気に動くタイプだ。ルイージア王女の行動にしても、今はまだどうでもいいと判断しただけだろう。
部屋の中にいる高官と騎士は、無表情を貫いている。その高官が、エルセットがいなくなった今、何かを探るかのような視線をカロンに向け始めていたことに、ロメスも気づいていた。
ルイージア王女の部屋がある宮殿。その庭へと、エルセットはゆっくり歩いてきていた。
「おい、エルセット。ルイージア殿下に追いつかなきゃいけないのに、何をたらたら歩いてるんだよ」
「いいんだよ、これで。ほら、ここが中庭に出る扉になるからさ、後はここでのんびり待ってようよ」
「はぁ? お前なあ、殿下を追いかけて行かなきゃいけないのに、何をぬかしてんだ」
さすがにトレストは王女が生活しているエリアには詳しくない。だからエルセットについてきたのだが、エルセットは、呆れたようにトレストを見た。
「トレスト兄ってデリカシーないよね。大体、いきなり話の途中で出ていったんだよ? それ、つまり急にトイレに行きたくなったってことでしょ。・・・そんなの、王女様が口に出せるわけないじゃない。全く、トレスト兄って、女心が分かってなさすぎ。・・・ここの中庭の奥まった所に、トイレがあるからさ。多分、そこに行ってると思うんだよね。室内よりも目につきにくいから。・・・女性に恥ずかしい思いなんてさせるもんじゃないでしょ。ここで待ってればいいよ」
「いや。その殿下が出て行った理由をトイレだと断言するお前こそ、デリカシーがないと俺は断言する」
あの場にいたほとんどが気づいたであろう事に対し、当事者の一人がコレとはどういうことか。トレストは頭を抱えた。
「そんなの、デリカシーでも何でもないよ。大体、王女様なんて皆に夢を見させる立場だからさ、護衛だって恥ずかしい思いをさせないよう、どれくらい飲み物を飲んでいたかを見ておいて、さりげなくトイレに行ってもらえる時間を作ったりしてるもんなの。・・・会場では少ししかグラスにも口をつけていらっしゃらなかったけど、さっきは、それなりに飲んでいらしたからね」
「・・・・・・お前。ずっと見てたのかよ」
護衛騎士でなくなって久しいというのに、こいつは一体何をカウントしていたのかと、トレストは耳を疑った。
「当たり前でしょ。殿下の護衛についている騎士で、それをしてない人はいないよ。・・・前任者がやらかしてくれたからね。せめて僕達だけでもって、殿下には気負わせることなく笑っていてもらおうって、皆で反省会を開いては、そうやって一つずつ決めていったんだ」
懐かしそうに、エルセットが当時を振り返る。
「・・・近衛騎士団に、護衛騎士に帰りたいか、エルセット?」
「ううん。久しぶりにお会いしたら前よりも綺麗になってたし、ツンケンしていた所がなくなってたから。・・・きっとあの時、周囲が怖かったからいつだって威嚇していたんだろうね。だけどもう、優しく笑えるようになってて、・・・良かったって思った」
夜空を見上げれば、星が瞬いている。エルセットは、「やっぱり星の位置が違うよね」と、呟きながらトレストを振り返った。
「僕も男の人に襲われそうになったこともあるからさ、あの恐怖心は分かるよ。・・・今の僕なら自分で身を守れるけど、女性や子供が成人した男相手にどうこうするのは無理。それでも、・・・昔の怖かった思いが薄らいだのか、柔らかく笑えるようになってくれていて、本当に嬉しかったんだ。だから、それだけでいいかな」
「お前が襲われそうになったのは、その警戒心もなく誰にでもフラフラついていくのが原因だ。反省しろ、エルセット。・・・で、僻地に行かされる原因だったってのに、恨んでないと?」
「そんなの、殿下のせいじゃないでしょ。それに僕、かなりこの三年間、楽しくて面白かったけど? かえって王都より面白いよね、色々あって」
「ま、否定はしない」
その点はトレストも同意する。しかし、トレストはそこで庭の奥の方を示した。
「だけどエルセット。デリカシーがどうだかは知らんが、遅くないか? 倒れてたらどうするんだよ。俺、ここで見張ってるから、お前、行って来い」
「・・・言われてみれば遅いね。ちょっと見てくる。トレスト兄、もし護衛騎士が通りかかったら、殿下のこと、伝えといて。殿下もあまり雁字搦めにされたら嫌だろうからって、あまり騒がずに、協力してもらえる筈だからさ」
「ああ、分かった」
そしてエルセットは庭の植え込みを綺麗に刈って作り上げた通路を通り、庭の奥へと走っていく。暗い庭園を怖がるようになったルイージア王女の為に、そこは死角がないようにと、灯りがともされていた。
エルセットが離れたのを確認して、トレストは声を掛ける。
「出てきて大丈夫ですよ、殿下。エルセットはトイレ中のあなたを探して、庭の奥まで行ってしまいましたから」
「・・・気づいてたのね」
その扉の脇にある連なった柱の陰から、ルイージア王女が姿を現す。
「あいつ、人の気配には鈍いんですよね。だから分からなかったんでしょう。ま、すぐに戻ってきますよ。あなたがトイレにいないのだから」
「誰がトイレよっ」
怒りたいのだが、笑い出したくなる話だけに、ルイージア王女も作る表情に困り果てていた。
「全くねえ。あいつにデリカシーを語られちゃ、やってられないですよ」
トレストも、肩を竦めてみせる。
「ちゃんとまっすぐお部屋に帰るわ。ごめんなさい、迷惑かけて。・・・けどっ、けど、トイレじゃないわよっ」
「かしこまりました、殿下。・・・では、エルセットにはどんな理由で出て行ったと伝えておきましょう?」
「・・・・・・・・・。トイレでいいわ」
そこをちょうど巡回中の騎士が通り掛かる。さすがに王女が見慣れぬ男と二人きりというのは、要注意事項だったらしい。
「ルイージア殿下。何をそこでなさっておいででしょう?」
と、声を掛けられ、
「お父様やアディーネと一緒にこの人達とお話ししていたの。で、お母様も退席なさったし、私も出てきたんだけど、この方が送ってくれたのよ」
と、ルイージア王女も答える。
「さようでございましたか」
「ええ。私がトイレで倒れているかもと思ったらしく、庭の方にも一人、見に行ってくれているそうなの。だから私が行方不明だなんて報告が出回ったら大変だから、ここで待っていたのよ。・・・だけど、あなたが通り掛かったならいいわ。私、一緒にお部屋に帰るから」
そう言って、ルイージア王女はトレストを振り返る。
「彼によろしく伝えておいて」
「かしこまりました。お休みなさいませ、ルイージア殿下。・・・ちゃんと、違うトイレに行っていたのだと伝えておきましょう」
「・・・!!! あなたもっ、デリカシーなんてないわよっ!」
赤くなってルイージア王女はトレストを怒鳴りつけた。
しかし、その様子こそが、まさに王女はトイレに行ったのを誤魔化す為に何やらやらかしたのだろうと、通りがかった騎士にまで納得させてしまったのだから、どうしようもない。
「お世話をおかけしました、フォンゲルド殿。・・・ルイージア殿下を送ってくださってありがとうございます」
その巡回していた騎士は、トレストの顔で誰かが分かっていたらしく、頭を下げた。
(トイレじゃないのにっ、ないのにぃぃぃっ)
そんなことを思いながら、ルイージア王女は恥ずかしさを隠す為にずんずんと部屋へと歩いて行った。後ろからついてきている騎士も、ここの警備になって長い。小さくクックと笑っているのが分かる。
(私は次期女王なのにっ。誰も彼もが、どうして私をお子様扱いするのよっ)
しかし、巡回していた騎士にとって、自分はやはり子供みたいな年だ。護衛騎士は見栄えもあって若い貴族子弟がつけられているが、宮殿の警備などは、ルイージア王女が安心して頼れるよう、年配の落ち着いた気性の人間が割り当てられていた。
それでもエルセットがトレストと交わしていた言葉は、何度も胸に甦ってルイージア王女に温かい気持ちを広がらせていく。
―――だけどもう、優しく笑えるようになってて、・・・良かったって思った。
あの会場で、彼はずっと自分を見ていたのだ。口に運んでいたグラスの数まで。
自分のアレをトイレだと思われたのは業腹だが、そこは目を瞑ってもいい。変わらず彼の包み込むような優しさが自分を取り巻いているのだと思うだけで、喜びが心を満たしていく。
(本当ね。自分が好きな人が、自分を好きで味方になってくれるのなら、人は強くなれるんだわ)
彼の思いは、自分が抱いているものとは違うのだとしても。
それでも、ルイージア王女は嬉しいと思いながら、幸せな思いで寝台に潜り込んだ。
戻ってきたトレストとエルセットが、その父親と共に退出した後、国王はアディーネ王女と私室で話していた。
「私とて鬼ではありませんわ、お父様。ですが、・・・正統なる嫡子はお姉様以外にいらっしゃらないのです」
「分かっておる。・・・これが、あ奴の息子でなければ処理も出来たが、さすがにそこまで恥知らずにはなれん」
「けれども、お父様。長い目で見たならば、その方がいいのでは・・・?」
しかし、国王は首を横に振った。
「ならば聞くが、アディーネ。カロン・ケイスを敵に回して勝てる人間の名を挙げてみよ」
「え?」
「・・・一番格下とされているが、この国の軍のほとんどを占めているのはローム国騎士団だ。勿論、近衛騎士団の知略も、王都騎士団の勇猛さも、ないわけではない。だが、・・・アディーネ。王女が恋心を抱いたからといって、何の罪もない青年を殺した王族を、リストリ将軍とフォンゲルド将軍が守ると思うか?」
「そ、それは・・・。ですが、その上に立つリガンテ大将軍がいらっしゃいます。リガンテ大将軍が命じてくだされば、騎士団は全て大将軍の命令を聞く筈。それに、貴族なら領地に軍を持っておりますわ。そちらを集めれば・・・」
「無駄だな。リガンテ大将軍は戦場に立たぬ大将軍だ。その命令など、兵士は聞くまい。・・・そして、その領軍からの援軍とやらが届く前に、この王城が落とされるだろう」
「まさか・・・・・・。けれどもケイス将軍には他にもお子がいらっしゃいます。何より、その長男は前妻の息子。自分の騎士団に引き取った上で左遷までしたケイス将軍ですもの。お父様が命じれば、・・・そりゃ、ご長男を可愛がってはいらっしゃるでしょうが、それなりの補償なり、出世なり、領地なりを約束すれば・・・・・・」
「お前は本当に当時のことを調べておらんのだな、アディーネ」
国王は溜め息をついた。
「ルイージアよりも賢いが、お前の欠点はそこか。この国の貴族の影響が強すぎてそちらを鵜呑みにしているからそうなるのだ。そこは他国出身の王妃から産まれたルイージアの方が公平な視野に立てばこそ、きちんと理解しておる。・・・少なくとも、リガンテ公爵がお前の思う通りに動いてくれるかも理解しておらんのでは話にならぬ」
アディーネ王女は唇を噛んだ。
リガンテ公爵は大将軍の位をも持つ大貴族だ。父王の従兄でもある。常にニコニコしながらおっとりと話す彼は、ルイージア王女を可愛がっていた。その穏やかさは常春のようでもあり、毒にも薬にもならぬ男と称されている。だが、それは大貴族ならではの、権力闘争から身を遠ざける処世術でもあっただろう。
アディーネ王女は国内貴族の孫にもあたる。だからルイージア王女に比べ、リガンテ公爵はアディーネ王女には距離を置く傾向があった。・・・何も分かっていない小さい頃は、よく遊んでもらえたけれど。
「もう遅い。下がりなさい、アディーネ。短絡的な真似は許さぬ。・・・少なくとも、自分でリガンテ公爵に交渉も出来ぬ内は何もするな」
「はい、お父様。お休みなさいませ」
「ああ。お休み」
アディーネは引き下がった。そこで何を言いたくても、自分は「何も分かっていない」と、父王に看做されたのだ。それではお話にならない。
大体、あのリガンテ公爵に交渉も出来ないどころか、彼はいつだって誰に対しても、微笑んで「そうなのかい」と、頷くだけではないか。何を頼んでも「僕は分からないなぁ」と微笑んでいる、役立たず的な男ともされている。
(私は何を分かっていなかったのかしら。・・・あのお姉様よりも何を分かっていないと?)
先程のケイス将軍を見れば、彼もまたルイージア王女には優しかったように思う。姉王女に対し、好意的なのは良いことだ。それ自体は悪くない。
だが、自分が理解していないことがあるのは問題だ。
常に姉王女よりも全てを見通して動けるようでなければ、ルイージア王女を支える人間にはなれない。
(優秀な頭脳が欲しい。・・・私では知ることの出来ないことを知り得る人間が)
自分がそういった優秀な人間を発掘することなど、姉王女に対する反逆とみられる恐れがあった。何より優秀な人間であればこそ、変な野心を抱きかねない。だから、自分一人で努力してきたのだ。
(それこそ、あのエルセット・ケイスであれば・・・)
あの人畜無害さ、そしてあくまで村人の生活向上の為に一丸となって努めながらも驕らないその姿勢、そして何より、・・・ローム国騎士団の将軍を父に持ち、フォンゲルド将軍の跡継ぎであるトレストとも親友である青年。
自分一人で接触する機会は逃したが、先程の会話を見ていれば分かる。彼は優秀だ。同時に、宮廷では生きていけないであろう健やかさがある。
(けれど、私なら使いこなせる)
自分こそが欲しい人材だったのに、そういった彼の背景ではなく、姉のルイージア王女は、彼の心だけを見ている。
(うまくいかないものね・・・)
アディーネ王女とて、ルイージア王女の幸せを望まないわけではないのだ。だが、ルイージア王女とローム王国は切り離せない。
・・・考えても答えの出ないその夜は、とても長いものになりそうだった。
そしてまた国王も、その夜は一人、星を眺めて考えていた。
奇しくも同じ時刻に、はしゃぎ疲れた弟妹を寝かしつけたエルセットが、同じ夜空を見上げているとも知らずに・・・・・・。
【恋は涙のように】
あの日、血に塗れていた彼を忘れない。そして、彼が流した涙も・・・・・・。
困ったものだと思いつつ、フィットリードはシグルドを探していた。
「シグルドー。おーい、どこだー」
どうせ、またこっそりと剣の稽古をしているのだ。シグルドにはちゃんと剣の指導にあたってくれる守り役と、その守り役が選んだ教師がいるのだが、「それって儀礼的な剣の使い方にすぎないじゃないか」と、シグルドはいつも反発している。
そして、シグルドは本気で剣を交えてくれるよう兵士達に頼んで、誰にも見つからない場所で稽古をしているのだ。今日はどこでやっているのやら。
(剣の授業をサボって、剣の練習をしているあたり、・・・たまにシグルドって馬鹿じゃなかろうかとも思うんだけどね)
素直に守り役殿に頭を下げて、自分がどういうものを習いたいのか、相談すればいいのだ。なのに突っ張ってしまうのは、まだまだ若い証拠だ。本当にしょうもない。
それでもシグルドは可愛い従弟だ。だからフィットリードは、
「どうせ逃げ出して昼寝でもしてるんでしょう。連れ戻してきますよ」
と、困り果てていた教師に言って出てきたのだ。こっそりと汗を拭く布や着替えも用意して。
城に自室もあるフィットリードだ。シグルドに服を貸すことはいつものことだった。・・・戻ってきた試しはないが。
おかげで最近、シグルドの仕立てを担当している使用人は、二人分のサイズを常に作るようになっている。いつの間にか増えていく服を、シグルドの侍女達はどう思っているのやら。
「おっ、フィットリード。・・・なら、そろそろ仕舞いにするか。よし、今日もありがとな。あっ、ちゃんと祭りの日に休みがとれるよう頼んどいてやるから」
「ありがとうございます、シグルド王子」
さすがのシグルドも、従兄であるフィットリードがやってきたらもう終わりだと分かっている。今回の兵士には、春祭りの休みを餌に付き合ってもらっていたようだ。
フィットリードは、濡らした布をシグルドに放り投げた。ひょいっと受け取り、さっさと服を脱いでシグルドが汗を拭っていく。そして拭いたそばからフィットリードの渡す着替えを受け取っていくのだ。
「フィゼッチ殿は薄々気づいてるっぽいから、誤魔化されてくれてるけど、次の授業はちゃんと来ないと駄目だよ、シグルド。国を治めるのに、税収とかは避けて通れない」
「へーい。だけどさぁ、そーゆーの、フィットリードがやっててくれればいいだけじゃないか。そりゃさ、フィットリードが軍を、俺が政治をってのが決まりなんだろうけど、人には得意不得意があるだろ。別に今回は俺が軍を、フィットリードが政治をしたって構わないと思うんだがな」
フィットリードは、黙ってシグルドの両頬を指で捻りあげた。
「あはははー。何をとぼけたことを言ってるのかな、この王子様は。それって、リガンテ家に産まれながら剣はさっぱりな僕に対しての嫌味?」
「いてぇっ、痛いだろってば」
慌てて逃げるシグルドだ。小さい時から自分を抱っこしておんぶしてと、可愛がってくれた従兄には逆らえない。たとえ、今の自分がフィットリードより大きくたくましくなっても、それでもフィットリードは自分より強い存在なのだ。
「嫌味じゃねえよ。大体、ローミディスとリガンテは何かといえば結婚してんだぜ。それこそどちらにも同じ血が流れてる。今更、どっちがどっちでもないだろうが。そんなの、フィットリードの方がよく・・・」
だが、そこでシグルドは黙った。フィットリードの視線がきついものになっていたからだ。
「黙りなさい、シグルド・ローファス・ゼル・ローミディス。君はこのローム王国の王太子。そして僕は君の忠実なる臣下であるリガンテ家の人間。・・・先程のような寝言は二度と言ってはならない。分かるね?」
「分かるけど・・・」
フィットリードが自分のフルネームを呼ぶ時は、本気で怒っている証拠だ。シグルドは、反射的に首をすくめた。
ああ、今すぐ亀になりたい。亀なら甲羅の中に隠れられる。普段はぽけぽけとしている癖に、フィットリードは怒ると怖いのだ。
「けど、はいらない」
「はいっ、分かりましたっ」
「よろしい」
だが、シグルドは情けない顔で従兄の顔を見た。
「だけど、俺より偉そうな臣下って有りなのか?」
フィットリードは思う。そもそも親の才能が永遠に子孫に受け継がれるのであれば、誰も苦労はしない、と。
(だから、そういった幻想をここで断ち切っておかねば。その上で、王政の維持を考えるべきだろう)
自分に武の才能がなくて良かったと思う。武の才能がないことで、こうやってそれに対応する手段を考えることが出来るからだ。シグルドが言っていたように、フィットリードの方が政治の才能はある。
だが、国王やその家門が永遠に初代の資質を維持できるなどと、そんな幻想を抱くべきではないのだ。その上で権力を維持できる方法を模索しておかなくては、いつか滅びる日がやってくる。
(本当に、今の時代に産まれて良かった。もしも僕が違う人間だったなら、シグルドを殺して成り代わることを考えたかもしれない。・・・そう、僕がリガンテ家を背負う人間で良かった)
現在の国王、つまりシグルドの父王は、体調があまり良くない。賢王として名高い国王だが、体はあまり強くないのだ。遠くない未来に、シグルドは王位に就くだろう。
(王宮の文官には、僕の手の者を紛れ込ませてある。・・・いずれ、シグルドの治世を支える人間達を)
様々な階級の人間を子飼いにし、政治に係わる様々な部署へと送り込んだ。自分にそれを叩きこんだのは、皮肉なことに現在の国王だ。そう、国王としての教育を受けていたのは、シグルドではなくフィットリードだった。それも、全てはシグルドを守る為。
「王は、王として生まれてくるのではない。王は、民によってつくられるのだ、シグルド」
だから自分は国王をつくる。他の誰でもなく、自分の手で。
ローム国王、シグルド・ローファス・ゼル・ローミディス。
他の誰がそれを邪魔しようとも、自分はその名を持つ男を、この国の頂点に立たせるだろう。
王都ロームにある王宮内には、様々な宮殿がある。第二王女アディーネに与えられている宮殿は、第一王女ルイージアの宮殿に隣接していた。
「気楽に腰掛けてちょうだい。・・・遠慮はいらないわ」
「恐れながら、アディーネ殿下、せめて全ての窓と扉を開け放し、その上で護衛騎士達を室内に。そうでなくては困ります」
エルセットは、片膝をついて騎士の礼をとりながら、頭を下げたままでそう述べた。
「そうしたいのは山々なのだけど、人に聞かれたくない話なの」
「でしたら、屋外の見晴らしの良い場所でお願いいたします。・・・お聞き届けいただけないのであれば、近衛騎士団のリストリ将軍に直談判してでも、聞いていただきます」
アディーネ王女は目を丸くした。
「普通、私が言えば、仕方ないですねと言ってくれるものよ、殿方ならば。あなた、少し真面目すぎるんじゃなくて?」
「・・・普通、なのが、どこのどなたかは存じませぬが、いくら殿下のお言葉といえど、それに従った時点で、殿下に不名誉な噂が立つかもしれないことに加担したということ。少なくとも私はそう教えられております」
「ずいぶんとはっきり言うのね、あなた」
「不快に思われましたなら、ご容赦を」
しかし、その姿勢は気に入った。
アディーネ王女は、小さく微笑んだ。
なるほど、清すぎて魚が棲まない川のような青年だが、これ幸いとばかりに王女に擦り寄ってくるような、腹に一物あるタイプの男よりはるかに気持ちがいい。
「分かったわ。では、外にある四阿に行きましょう。あそこなら皆から見える場所だもの。・・・ああ、これらの紙とペンを持って行くのを手伝ってくれるかしら」
「はい、殿下」
ナリファ砦周辺の国境について話をもっと聞きたいと、そんな理由でエルセットを呼び出したアディーネ王女だったが、本心は違う。
(当時の資料を一つ一つ調べている時間はないわ。エルセット・ケイスだって、すぐに王都を離れる筈。ならば、当時のことは彼から聞き出した方が早いもの。息子なんだから、父親からも聞いてるでしょうし)
それこそ、一番詳しいのはローム国騎士団のカロン・ケイス将軍だろうが、さすがに彼はハードルが高い。話しかけやすいエルセットを選んでしまったアディーネ王女は、自分がどうしたいのかを決めかねてもいた。
だが、いきなり呼び出されても不快な様子は全く見せず、それどころか紳士的なエルセットの姿勢は褒めてやってもいいだろう。その点は合格だった。
「成果など、通り一遍のそれを見て判断するのは愚かなことです。良いですか、アディーネ殿下。たとえば同じような土地の広さがありながら、小麦百袋の収穫が出来た者と、小麦十袋の収穫が出来た者がいたとして、そうなれば百袋を収穫出来た者の方が優れているように感じられますね」
「ええ、そうね」
エルセットは、アディーネ王女が聞き出そうとしなくても、自分から喋ってくれる。それは有り難い。有り難いのだが、・・・アディーネ王女がエルセットの為人を見極める前に、自分の知識を見極められてしまいそうな勢いだ。
「ですが、たとえば、小麦十袋を収穫した者の畑では、野生の動物が麦を食い荒らし、更に川が氾濫して畑に流れ込み、ほとんどの麦が流されていたとしたらどうでしょう。その中でも、彼は夜中も畑を見回って獣を追い払い、川から溢れた水を、土嚢を積み上げることで阻止して被害を食い止めていたのだとしたら。逆境にあっても小麦十袋の成果が出せた者は、それこそ何もない状況ならば、小麦百袋どころか、二百袋の収穫をしてみせるかもしれません」
「そ、それはそうかもしれないけれど・・・」
ケリスエ将軍が生存していた時代のことを聞き出す筈が、ほとんど授業になっていた。しかも、細かい説明がついてくる。
「ですから、『才能とは、順風な時ではなく、逆風が吹いている状況で見分けろ』と、古来より言われるのです。お分かりですね。誰でも順風満帆な時なら良い結果を出せます。しかし、逆境にあって出せたならば、それは真の才能ということになります。短絡的に結果だけ見るものではないのです」
「はい・・・」
そこで、エルセットは話を元に戻した。
「さて、私の実母であるケリスエ将軍の戦果についてですが、この場合、大事なことは、その総指揮を執っていたのがケリスエ将軍だったとしても、実際に前線での指揮を誰が執っていたのか、そしてどれ程の軍勢の差があったのか、どういった戦術を誰が考え出して実行したのか、・・・そういった様々な視野に立って考えねば、意味がありません。お飾りのトップを担ぎ出しておいて、実はその下で全てが行われていたというのもよくあることです。良い部下に恵まれ、その部下を重用出来たなら、戦下手な人間でも名将になれるのです」
そう言って、エルセットはそこに広げられた資料をめくった。その記録を元に、エルセットはどういった状況だったのか、書かれた内容から思い起こせる部分を図や絵にしていく。
「あなた、自分のお母様のことでしょう? そこまで厳しく考えなくても・・・」
「・・・? ケリスエ将軍の無敗といった戦果についてお知りになりたいということだったのでは?」
「それはそうなんだけど・・・」
「そして、私が父から聞いていない以上、一緒に過去の記録を調べたいということだったのですよね?」
「そうだけど・・・」
アディーネ王女の言葉に不思議そうな顔になって問い返していたエルセットだが、そこでにっこりと破顔した。
「では、頑張りましょう。知識はロマンです。どれ程の時が流れていても、かつて記された記録が、今の時代に過去を映し出すのです。素晴らしいですよね」
アディーネ王女は思った。この人、・・・ただの「何とかバカ」とかいう人種じゃないかしら、と。
(何が素晴らしいのか、全然分からないわ。ロマンチックって、心洗われるような音楽の調べや幻想的な星月夜、もしくは花の香りとかに見出すものじゃないの?)
花の咲き乱れる庭園にある四阿。それこそ若い男女がいたならば恋を語らうに相応しい場所だ。
だが、どんな下世話な想像をするまでもなく、その男女はせっせと書類を広げ、紙に書き出し、そしてインクを乾かす為に、そこらの植え込みの上に書いた紙を載せていっている。
誰がどう見ても、恋を語るどころか、やってることはかなりハードな事務作業である。アディーネ王女の護衛騎士も、離れた所からのんびりと眺めているときたものだ。何も心配する必要がないからだろう。
「あそこの二人、何をやってるんだろうね、ルイージア?」
「リガンテのおじ様。・・・よく分からないけど、何かを書いてるみたいね。彼が一方的に喋ってるのも分かるんだけど。あのアディーネが、扇を広げて含み笑いもせず、せっせとお勉強しているのなんて、初めて見たわ。あの子、努力している様子を見られるの、嫌いなのに」
アディーネ王女の宮殿は、ルイージア王女の宮殿と隣り合っている。だから四阿の様子も、ルイージア王女の宮殿から見えるのだ。ちょうど廊下を歩いていたルイージア王女は彼らに気づき、バルコニーの陰から二人の様子を見つめていた。
そこへ、ルイージア王女を訪ねてきたリガンテ公爵が話しかけたわけである。
人前ではルイージア王女と呼びかけるリガンテ公爵だが、二人っきりの時は国王に対してもルイージア王女に対しても、呼び捨てるのが常だ。まるで自分の可愛い弟や姪に対するかのように。
「で、お相手は、と。・・・あの顔は、エルセット・ケイスじゃないのかい?」
「そうよ。よくご存じね、おじ様」
「そりゃあね。顔を見ればすぐ分かるよ。母親そっくりだ」
ましてや国王から彼の話を聞いたばかりではね、と、リガンテ公爵は心の中で呟く。
何かあると国王は自分を呼び出すのだ。それで、ホイホイとやってくる自分も自分なのだが。
「ま、いいか。お茶でも淹れてくれないか、ルイージア。たまにはおじさんと話してくれてもいいだろう?」
「ええ、いいわよ」
二人から顔を背けて、ルイージアは微笑んだ。どんなに心が痛んでも、それを見せてはならない。だから笑うのだ。誰よりも明るく、そして幸せそうに。
その日は、朝から雨が降っていた。フィットリードは、リガンテ公爵家当主である父に、部屋へ来るようにと呼ばれ、自分を呼び出すとは珍しいなと思って出向いていた。
「来たか、フィットリード」
「父上。何かご用でしょうか」
「うむ。そこに座るがいい」
リガンテ公爵は、ローム国騎士団の将軍でもある。武を尊ぶリガンテ公爵家の人間だけあって、鍛え上げられた体はいつも迫力を感じさせる。あまり体力に自信のないフィットリードには眩しいばかりだ。
示された椅子に、フィットリードは腰掛けた。
「フィットリード。・・・王はもう、長くないだろう」
「この雨で、かなり冷え込んでおります。・・・陛下の体にも、かなりご負担がありましょう」
「そうだな。・・・ま、よく生きたものだ。だが、お前を呼び出したのは国王が死んだ後のことについて、だ」
「お亡くなりになった後、ですか?」
「そうだ。・・・・・・いいか、フィットリード。代々ローム王家はリガンテ公爵家と共に在った。ローミディス家が表のローム王なら、リガンテ家は裏のローム王。・・・だが、次の王になるのは、シグルドである必要はない」
フィットリードは、父の顔を見上げた。彼の心を判じかねたかのように。
「シグルドが王になるのであれば、私がなってもおかしくない。・・・フィットリード、お前も協力するのだ。シグルドではなく、父の私を王位に就ける為に」
それは謀反である。だが、驚きもせずに、フィットリードは、片方の眉を上げただけで問い返した。
「ですが、いくらリガンテ家がもう一つの王族と言われていようとも、・・・シグルド王子がいる以上、ローミディス王家は存在します。・・・父上は、シグルド王子をどうなさるおつもりですか?」
「知れたこと。・・・道理を説いてやればよい。大体、シグルドは私の子だ。お前の弟にあたる。あの国王は子供を作れなかった。だから私の子をくれてやっただけのこと。・・・私の子が王位に就けるのなら、私が就いてもいいだろう」
やはりと、フィットリードは目を閉じだ。いつかは言われるだろうと覚悟していた。そう、いつか父はそれを言いだすだろうと。
しかし、目を閉じて下を向いている自分の姿は、きっと父にはシグルドの出生の秘密を知って驚いているように見えていることだろう。その動揺する思いを堪えているかのように。
「・・・シグルド王子は父上とよく似ていると、それは感じておりました。そして、父上と共にいる様子を見て、薄々はそうだろうとも。だから私は、父上そっくりなシグルド王子を可愛がってきたつもりです」
フッと、リガンテ公爵が不敵に笑う。
「私の子なのだから当然だ。・・・だが、代々に渡って婚姻を繰り返しているリガンテ家とローミディス家の人間の容姿が似たところで、誰が驚くものでもなかったがな」
しかしリガンテ公爵は、反対にフィットリードが国王に似た顔をしていることには触れなかった。
「父上。シグルド王子の、・・・彼の命を奪うおつもりはないのですね?」
「当たり前だ。あれは私の息子だぞ」
そこはリガンテ公爵も強く頷く。
そう、自分はシグルドの命を奪いたいわけではない。ただ、思い知らせてやりたいだけなのだ。かつて自分を裏切った、あの・・・・・・。
「分かりました。シグルド王子、いえ、弟のシグルドには私が言い聞かせましょう。シグルドもリガンテ家の次男とあれば、王位など望みはしますまい。父上に譲ると思います」
「うむ。・・・よく言っておくがいい。その為にお前をシグルドにつけてあったのだ。・・・フィットリード。お前が次の王太子になるのだ。シグルドにはリガンテ家当主の座をくれてやればよい」
「はい、父上。シグルドが父上の息子ならば、それも当然のこと。・・・ところで、シグルドが父上の息子だと、他には誰が知っていらっしゃるのです?」
「誰も知らぬ。・・・知っている者がいたとしても口を噤むだろう。ローミディスとリガンテはどちらがどちらとも言えぬ程、密接に絡み合ってきたのだから」
「その通りです。・・・私は、息子として父上に忠誠を誓います」
「うむ」
リガンテ公爵は満足そうに頷いた。
シグルドはフィットリードを信頼している。フィットリードの言うことであれば、何でも聞き入れるぐらいに。
そのフィットリードが父である自分に同意した以上、そしてフィットリードが領地経営にもかなりの才能を見せていることを考えれば、後はきちんと貴族への根回しも何もかも行ってから、自分に王位を差し出してくるだろう。
(つくづく、便利な息子達だ。私に全てを捧げてくるのだから。そう、全ては私のものになる。口惜しいか、・・・それとも、もう、お前には分からないのか。いいや、・・・死んで終わらせるなど、許す気はない。死の国から見ているがいいのだ、お前の物が私の物になる、その瞬間を)
リガンテ公爵は、誰もいなくなった私室で、一足早い乾杯をしていた。満足そうな顔に、わずかな苦みを滲ませながら。
雨が湿気をもたらし、空気を更に冷たく染め上げていく。体の芯まで凍えそうだ。
だが、冷え込んでいるのは、気温だけではなかった。
「シグルド王子。フィットリード様がお見舞いにいらっしゃいました。陛下の具合はよろしくなく、今はシグルド王子とお二人だけだと申し上げたのですが、・・・どうしても、と」
「フィットリードが? 彼は構わない。通せ」
シグルドはそう命じる。やがて、フィットリードが扉から入ってきた。
「シグルド王子。この度は・・・」
「そんな挨拶はどうでもいい。・・・父上に会いに来てくれたんだろう? まだ、時々意識は戻るんだが、・・・それでもな。医師は、もう覚悟を決めてくれ、と」
「さようでしたか。・・・王子、人払いを」
シグルドが視線で命じると、部屋の中にいた医師達も出て行く。室内には、寝台で眠り続けている国王と、フィットリード、そしてシグルドの三人だけになった。
届かない言葉と知りつつ、それでもフィットリードは掛布の下に手を潜り込ませて、国王の手を握る。
「陛下。・・・かつてのお約束を果たす日が参りました。私の剣はあなたの教え、私の盾はあなたの心。私はリガンテ家の者として、為すべきことを為します」
そしてフィットリードはシグルドを振り返った。
「シグルド。・・・お前の罪は私の罪。それは全て私の咎。だから、約束を果たしてもらいにきた」
「俺は・・・・・・」
本当にやるのかと、シグルドが逡巡する。
自分よりもはるかに大柄になったその頬に手を伸ばして、フィットリードは父によく似た、その顔を見上げた。目を開いたままで、二人の唇がそっと重なる。それは愛でも恋でもなく、ただの確認だった。
表情を消した顔で、冷たくフィトリードは言葉を紡ぎ出した。
「何も考えるな、シグルド。お前は他の誰でもなく、・・・私だけを選べばいい」
冷たい雨が降る夜は、誰もが固く戸締りをして早々と寝てしまう。雨の音は全ての音を掻き消していくかのようだ。
血に染まった剣に、ぽたりと透明な雫が落ちた。
「ど、どうし、て・・・。フィット、・・・リード、裏切った、の、か・・・」
油断しきっていたリガンテ公爵は、為す術もなく斬られた。実の息子の手によって。
フィットリードとて愚かではない。リガンテ公爵に自分が斬りつけても返り討ちになることは理解していた。
「父上。我らはリガンテ家の人間。常にローミディス家と共に在り、互いに支え合う、二つで一つの王家。・・・ローミディスを押しのけようとした時から、あなたは既にリガンテではなかったのです」
憎々しげに、リガンテ公爵がフィットリードを睨みつける。
シグルドを連れてきたと思いきや、フィットリードはシグルドにリガンテ公爵を斬らせたのだ。
「な、にもっ、知・・・ぬっ、く、せに・・・。お、ろか、な・・・」
だが、そこまでだった。リガンテ公爵の瞳から力が抜け、床に完全に倒れ込む。
その姿を、シグルドは黙って抜き身の剣を提げたまま、見下ろしていた。自分とよく似た顔の男、そして自分がたった今、殺した男を。
床にぽたぽたと落ちるのは、雨で濡れた髪から落ちた雫だったのか、それとも・・・。
そんなシグルドの傍に行くと、フィットリードはその剣を取り上げて、そこにあった椅子に無造作に突き刺す。そして、手巾を取り出すと、そっとその顔と髪を拭った。
「泣かないで、シグルド。これは僕がやったこと。・・・君は、ずっと陛下を看病していたのだから。君がリガンテ家に来たなんて事実は存在しない。父であるリガンテ公爵を殺したのは僕だよ。いいね?」
「フィットリード。俺はっ、俺はっ、あんたにこそ・・・っ」
「駄目だよ、シグルド。・・・言っただろう、リガンテ家はローミディス家を支える為にある、と。ローミディス家に弱い人間が出たなら、その身をもってリガンテ家がそれを支えるんだ。・・・仮にそれが、王位に就くということであっても。それが、・・・実の父を殺すということであっても」
フィットリードはシグルドを抱き締めた。更に強い力が自分の背中にまわされる。昔は自分が守っていた従弟は、今や自分よりもはるかにたくましく育った。そう、武に生きるリガンテ家を思わせる程に。
対外的には従兄弟だが、その絆は普通の兄弟よりもはるかに強く結ばれている。自分達が本当に信頼できるのは、お互いだけだ。
「だから君だけはリガンテ公爵の死を悼んであげて。・・・僕には出来そうもないから。僕が産まれた腹いせに、君を産ませたこの男を。・・・僕を憎んでいた癖に、君を利用する為に、愛情があるかのようなフリをしていたこの男を」
「フィットリード・・・」
「だけど僕は君を愛してる。誰もが君を愛してるよ、シグルド。陛下も僕も、・・・そしてきっとこの男も、君だけは愛してた」
「そんなことないっ。・・・フィットリードッ、公爵だってあんたをっ、愛してたっ」
「・・・・・・もう、お帰り。そして陛下の傍にいてあげて。たとえ意識が戻らなくても、きっと陛下は全てをご存じだろうから」
氷雨が降る中、シグルドが隠し通路を使って立ち去ると、フィットリードは死体となったリガンテ公爵の姿を整える。せめて出来るだけ見苦しくないように、と。
その顔は、まるで安らいでいるかのようだった。
「あなたのたった一人の息子に、あなたを殺させた罪は私が背負いましょう。どうせ陛下もすぐにあなたと同じ場所へいくのです。それからあなた方はゆっくりと喧嘩なさればいい。生きている間は、身分の差とプライドに邪魔されて、出来なかったそれを・・・」
フィットリードの瞳から涙が零れる。国王によく似た息子を見ながら、リガンテ公爵は何を思っていたのだろう。
一度、掛け違えてしまったボタンは、どうやっても戻らないものだったのか。
「喧嘩すれば、・・・良かったんですよ。こんなにもこじれてしまう前に。そうすれば、きっと、・・・誰もが傷つきながらも、それでもいい決着をつけられた筈なんだ」
そうすれば、国王とリガンテ公爵と、そしてフィットリードとシグルドと、四人で笑い合える日々だってあったかもしれない。互いの過ちは過ちとして、それでも乗り越えることが出来たかもしれない。
そもそも二人は憎み合っていたわけじゃない。ただ悲しかった、そして口惜しかっただけ・・・。その思いはやがて変化し、こじれすぎてしまった。
それは誰もが、過ちを犯さない、そして過ちを許せる、そんな強さを持たなかっただけのことなのだ。
「馬鹿だ・・・。陛下もあなたも」
国王だって悔やんでいた。だからシグルドを可愛がり、その治世を支えるべくフィットリードを鍛え上げたのだ。帝王教育まで施して。
そして公爵だって本当に国王を憎んでいたわけではない。・・・欲しくもない王位を欲しがろうとした、その心の奥にある願いを何だと思っていたのか。
認められるわけ、ないだろう。
あなた方二人の勝手で、シグルドをどんな目に遭わせるつもりだったのか。犠牲になったのは、王妃と公爵夫人の二人だけで十分ではないか。それとも、あの二人が病死と事故死という名の自殺をした時に、もう軌道を修正することは叶わぬ夢と消え果てたのか。
(だから僕はシグルドを選ぶしかなかったんです、父上・・・)
フィットリードは、冷たくなったリガンテ公爵の手を握って額に押し当てた。
―――リガンテ家は武の家門。この素晴らしき手はローム国王を守る為にある。どうして大切に思わずにいられようか。
かつて、若かりし頃の国王はそう言って、人前でもそういう仕草をよくしていたのだとか。
リガンテ公爵も照れ臭そうに笑い、お返しにと、国王の手に口づけていたという。
二人の不幸は、お互いが政略結婚で娶った妻に、それぞれが恋してしまったことだった。当時、結婚は親が決めるもの、相手の顔など知らぬことはざらだった。
国王はリガンテ公爵の妻に、リガンテ公爵は王妃に、横恋慕してしまったのだ。だが、その妻達は実の姉妹だった。最初に見合いというものがあれば、彼ら二人は想う女性をそれぞれに得られたことだろう。そして、更に結束は高まったに違いない。
(その罪も、その愚かさも、僕達は背負って生きていく。・・・二度と、繰り返さぬ為に)
フィットリードは、涙を拭いて立ち上がった。
新しいリガンテ公爵として、やることは山積みだった。今までリガンテ公爵が就いていたローム国騎士団を率いる最高の将軍位、その後任にはまず自分が就任するにしても、いずれはその格を下げて、権力を分断させる必要もあるだろう。
二度と、王位簒奪をリガンテ家が行えぬように。
後世のリガンテ公爵が、私欲から王位を狙うことのないように。
こんなにも悲しい愚かな一幕など自分達だけで十分だと、頭を振ったフィットリードの前髪がはらりと落ちて、その瞼を隠した。
ルイージア王女の部屋で、のんびりとお茶を飲みながら、リガンテ公爵は窓際に置かれた玩具に目をやった。それはかつて、自分がルイージア王女に贈ったものだ。
「おや、懐かしいものがあるね。これは、石が壊れてしまったんじゃなかったっけ?」
四角い木の板には、幾つもの抉られた半球型のくり抜きがあり、そこに丸い石を置けるようになっているのだ。色とりどりの石を置いて、その位置を変えたりして遊ぶのだが、一番真ん中には特別大きな石が置けるようになっている。
その真ん中の石を割ってしまって、それがショックだったルイージア王女は仕舞い込んでしまったのだ。申し訳なさそうな顔で、もう一度あの石を手に入れられないかと尋ねてきたルイージア王女は、そう、叱られてクィーンと泣く仔犬を思わせる顔をしていた。
一番真ん中の石は、半透明ながらも深い湖を思わせる緑色をしており、ルイージア王女はその石がかなりお気に入りだったらしい。だが、新しい石を手に入れてあげたくても、その石はとても遠い国から運ばれてきたもので、二度と手に入るものではなかった。
だが、今は再び真ん中に、その緑色の石が置かれている。そして周囲には様々な色をした、丸く磨かれた石が置かれていた。
「あの壊れた石ね、くっつけてもらえたの。ただ、・・・くっつけることは出来たけど、弱いからあまり触るとまたバラバラになるって言われたの。だから、大事に仕舞っておいたんだけど・・・」
「へえ。そうなのかい。・・・壊れた石を直すだなんてどうやったのかな。・・・どこの工房?」
「・・・工房じゃ、ないけど」
何ともはっきりしない王女である。リガンテ公爵は不思議そうな顔になった。いつもストレートに話すルイージア王女にしては珍しい。
「じゃ、誰が?」
「・・・護衛騎士、だった、人」
「へえ」
そこで赤くなってそっぽを向くあたり、隠し事の出来ない王女様である。リガンテ公爵は、ルイージア王女が一口お茶を飲んでカップを戻したのを確認してから言った。
「なるほど。エルセット・ケイスか。彼は器用なんだね」
「・・・っ! どっ、どうしてその名前をっ」
「さっき、そこで見かけたじゃないか。・・・他に僕が知ってる名前なんて、あるわけないだろう?」
はてさて、どうするべきだろう。
リガンテ公爵は、国王の弱りきった顔を思い出しながら考え込んだ。
自分達の親は間違えた。・・・だから、自分達の子供に同じ道を進ませたくはない。
自分達は誰にも言えぬ、深い悔恨を抱いて生きていくけれど・・・・・・。
そこでリガンテ公爵は、ぱんっと手を叩いた。
「うん、そうだ。さあ、ルイージア。一緒に出掛けよう。君は、こっそりと植木の間を、ゴキブリみたいに移動したことはあるかい?」
「・・・・・・あるわけないでしょ。相変わらず、おじ様ってばわけ分からない人よね」
「ならばこれが初めての経験だね。さあ、行こう」
そして問答無用で、ルイージア王女はリガンテ公爵にぐいぐいと引っぱっていかれたのだった。
尚、リガンテ公爵は国王の信頼厚い従兄である。そして宮殿内で彼が何をやっても、誰も逆らってはならないという決まりが、いつからか存在している。その決まりを作ったのが誰なのかは誰も知らないが、噂によると国王自身とされてもいる。
だからルイージア王女も、この公爵にだけは逆らえないのだ。
さて。
そんなルイージア王女は、なぜか植木の死角に詳しいリガンテ公爵の案内で、エルセットとアディーネ王女が、密会だか勉強会だかをしている四阿の近くまで辿り着いていた。
姿は見えないが、声はばっちり聞こえるスポットだ。
二人の会話がよく響いてくる。
「人は、物が多ければ多い程、満足感も大きくなっていくというものではありません。ある程度の所で、いきなり人は満足しなくなるのです。・・・そう、少し不自由な方が幸せをより強く感じるわけですね。・・・だから、自由を認められすぎた民が、今度は崩壊していくわけです」
「全ての物があればあるほど、嬉しいと思うけど。・・・それは乱暴な理屈じゃないの?」
「そうなると、では、何不自由なくお暮らしになっていらっしゃる王族や貴族の女性は、心から毎日笑えていらっしゃることになりますね?」
「え・・・?」
なるほどと、リガンテ公爵は考える。
国王がエルセット達と私的な時間をもったという報告はきていたが、たしかにこれなら彼が目をつけたのは分かる。
騎士団から引き抜いて、王宮の文官に欲しいという話だったのだが、なるほど、面白い人材かもしれない。
ここは、国王と子飼いの高官と、さて、どちらを優先すべきか。
いつの間にか、エルセット・ケイスは本人の知らぬ所で人気物件ではないか。
自分が姿を現しては萎縮してしまうかもしれないと思ったのだが、これは混ざっても楽しい会話が出来たかもしれない。
そんなことを思いながら聞き耳を立てているリガンテ公爵をよそに、二人の会話はどんどん進んでいく。
「食べていける程度、そしてたまには贅沢を楽しめる程度、・・・そして物価を計算していくと、全ての土地が同じ金額ということにはなりません。では、それをどう考えるか、・・・私達は一年で消費する麦の量で決めることにしました」
「それは、パンや粥で毎日食べるから?」
「その通りです」
年頃の男女二人というのに、なんだか真面目な話題すぎて、涙が出てきそうだ。
リガンテ公爵がそっと横を見ると、ルイージア王女も何だか複雑そうな表情になっている。
「殿下。お飲み物をお持ちしました」
「ありがとう。彼には多めに淹れて差し上げて? かなり説明させてしまったから」
「かしこまりました」
そこへ休憩用のお茶が運ばれてきたらしい。
二人は、そういった話題を一休みしたようだった。
アディーネ王女が、ふと思いついたかのようにエルセットに尋ねる。
「あなたがどこに行っても真面目なのは分かったけど、・・・あなた、少しは普通の殿方のように恋とか愛を語らったりはしないの?」
「・・・まだ、私は半人前でございますので」
何とも模範的な返答である。全くもって面白くない。
リガンテ公爵は鼻先に皺を寄せてしまった。
「別に、そういうのに年齢は関係ないでしょう? さっきまであれ程饒舌だったんだから、そういうことも話してみせたらどうなの。それこそ、あなたお得意の引用から何からで、滔々と語ってくれて構わなくてよ」
「あ、あの・・・」
「何よ。それこそ、人の一生で避けて通れないことじゃないの。それだって」
どうやらアディーネ王女は猫をかぶるのをやめ始めているらしい。エルセットはかなりたじたじとなっていた。
「お望みとあれば・・・。ですが、私は男ですから、殿下のお望み通りの話が出来るとは限りませんけど」
「構わないわ。あなたの話を聞きたいの」
さて、アディーネ王女がエルセット・ケイスに興味があるとは思わなかったが、これはどういうことだろうと、リガンテ公爵は思った。年頃だけに、誰でもいいから様々な話が聞きたいのか。それとも、・・・彼女もまた、国王と同じ思いだということか。
隣に座っているルイージアの肩に力が入っているあたり、可愛らしいことでもある。
「そうですね。かつて、こんな言葉があったと申します。『恋とは涙のようなもの。瞳から生まれて、ただ胸に落ちるのみ』と」
その言葉を反芻し、リガンテ公爵とルイージア王女も考え込む。
「恋が、瞳から生まれる・・・?」
「その言葉を知った時、私にはあまり意味が分かりませんでした。ですが、人が恋に落ちる一瞬というのはそういうものかもしれないと、私も後に深く頷いたものです」
エルセットは、そこでカップを口に運んだ様子だった。
リガンテ公爵も、昔、自分が恋に落ちたと気づいた時のことを振り返る。彼女が自分を見つけて微笑んだ時、あの瞬間に恋を自覚した。・・・そう、彼女の姿を瞳に映したと同時に、それは胸にすとんと落ちたのだ。
「瞳から零れた涙が胸に落ちるように、瞳に映した恋が心に落ちるのを止める術はないのだと、そう感じたことならば、確かにあります」
「・・・そうね」
アディーネ王女も、静かに同意する。彼女にも、彼女なりの大切な思いがあるのだろう。人は誰でも、心に秘密を抱えている。
「あなたは、どんな恋を瞳に映したの? 私は、・・・自分に差し出された血まみれの腕だったわ」
かなり踏み込んだ言葉を、アディーネ王女が発する。エルセットは息を呑んだ。
第二王女を守って怪我を負った、もしくは亡くなった人がいたということなのか。第二王女が襲われたとなると、かなり限られた話になる。そうなると・・・・・・。
リガンテ公爵もルイージア王女も、息をひそめて気配を更に消した。
第二王女にそんなことを語らせてしまったからだろうか。エルセットは、小さく苦笑した。
「秘密には秘密をもって贖えと申します。その話は他言しません。その代わり・・・」
「言わないわ」
即座にアディーネ王女が応じる。
「私の恋は、・・・砕けた緑の翡翠でしたね。父は、亡き母を透明な水晶のような人だったと語っておりましたが、私の恋は割れた緑の翡翠でした」
「・・・ケリスエ将軍を剣に譬えた人は多いけれど水晶に譬えただなんて、ケイス将軍はロマンチストなのね」
「そうかもしれませんね。きっと父は他の人が見ない母を見ていて、そして母は他の人に見せぬ母を父に見せていたのだと思います」
リガンテ公爵は、ケリスエ将軍の姿を思い返す。彼女は透き通った水晶というより、・・・大きな山のような女性だったと思う。頑丈な岩石の間違いではないのだろうか。
(恋とは偉大だ。他人には見えぬものを見せるのだから)
リガンテ公爵は、そう思うことで自分を納得させた。
「そしてあなたの恋は、翡翠と共に砕けたの?」
「そうですね。・・・一応、石の方は直しておいたのですが」
「・・・どうやって?」
「濃い膠で固めたのです。ただ、また泣かれるのは嫌だったので、『触ると壊れますよ』って言っておいたから、もう壊れることはないと思いますが。・・・まあ、本当はあれなら多少乱暴に扱っても簡単には壊れないんですけどね」
「・・・・・・あなた。どこまでもロマンとは無縁なのね。大体、恋の話を砕けた翡翠に譬えておいて、どうしてそれを修理した話に持っていくの」
「は? いや、恋の話と、修理の話は別、ですよね?」
アディーネ王女にしてみれば、グリーンジェイドのような恋とはどういうものなのかと、その割れた翡翠に託されたラブストーリーはどんなものかと、そう思いを馳せていたというのに、どうして修理の話になるのか。
しかも、そんなオチに持って行かれた日には、単なる子供だましではないか。
だが、そこでリガンテ公爵は、隣にいるルイージア王女を見た。
彼女は赤くなって地面を見つめている。
(なるほど。膠を使って直したのか。・・・ルイージアが、あれを壊して泣いてたとまでは知らなかったな)
あの玩具はそれなりに高価で、ルイージア王女だけにリガンテ公爵が贈ったものだ。だからアディーネ王女が傷つかないように、ルイージア王女はそれをもらったことを言わなかったのだろう。
リガンテ公爵にしてみれば、国内貴族出身の側室には、それなりに実家から色々と届け物がある。他国出身の王妃に、それはない。だからルイージア王女に寂しい思いをさせたくなかっただけなのだが、王女は王女なりに妹へ気を遣っていたようだ。
だから、アディーネ王女はあの玩具の存在を知らない。
「そろそろ風が冷たくなってきたわね。部屋に戻りましょうか」
「では、私はここでお暇を。一国の王女様が、男と共に室内に入ることがあってはなりませんから」
「本当に真面目ね、あなた」
そうして、エルセットとアディーネ王女が立ち去っていく。
リガンテ公爵もルイージア王女に、「僕達も戻ろうか」と、囁いた。赤くなったまま、ルイージア王女は、こくんと頷いた。
その夜、リガンテ公爵の豪邸に、秘密の来客があった。
「隠し通路の意味がなくなっているような気がしてならないよ、僕は。いつもいつも使ってたら有り難味がなくなるじゃないか。こういうのは、いざという時に使うから価値があるんだよ」
「いいじゃないか。全ては俺達の為にあると思えば」
フィットリードの部屋で、のんびりと酒を飲んでいるのは他ならぬローム国王である。
リガンテ公爵家は間者が入り込めない為、居心地がいいのだ。国王らしい振る舞いも何も要求されない。その気楽さがいい。
それでもその晩の国王は、大きな溜め息をついて、やさぐれた様子だった。
「ルイージアの婚姻で王位を戻したかったのに、まさか本気でエルセット・ケイスを、とはな。本命のリガンテ公爵家をどうしてくれるんだか」
「別にいいんじゃないの? 大体、戻すも何も、ここまで絡み合ってるからね。少しは違う血を入れておかないと、濁りが出る。・・・聞いた? 青い血が濃すぎて精神がおかしくなったって話」
「ああ。・・・こうなると、ロームはそこまで選民思想がなかったのが救いか」
「かもね。まあ、問題は、カロン・ケイスにしても、サーライナ・ケリスエにしても、出所が知れないってことさ。とはいえ、あそこまで有名になっても、親戚だの知人だのが湧いて出なかったんだから、そういう意味で後腐れはないってことかもね。・・・処理する手間が省けて良かったよ」
「フィットリード。だが、俺は・・・」
情けない顔の従弟を見て、フィットリードは立ち上がって近づくと、横に座る。
「大丈夫。それで僕が困ることなんて何一つない。僕が勧めたレイリアーネ王妃だって、君の好みにぴったりだっただろ? 何があろうと僕は君を裏切らない。君が僕を裏切らないようにね。そして君の大事な娘は、僕にとっても大事な娘だよ、シグルド」
「やっぱりフィットリードが王になれば良かったんだ・・・」
「またそんなことを。・・・王家に間違いがあってはならないの。それが王家の義務だよ。それに僕は、今の僕に満足してるよ。こんなにも大事な王様がいる国で公爵をやってることもね」
そこでクスクスと、フィットリードは笑う。
少年だった自分達は成長し、妻を迎え、子供も産まれた。なのに、いつまでたってもこの従弟は何かあると自分の所にやって来るのだ。
「そのエルセットだけど、なかなか面白いことを言ってたよ。『恋とは涙のようなもの。瞳から生まれて、ただ胸に落ちるのみ』ってさ。受け売りだとは言ってたけどね」
国王も、その言葉を噛み砕いて考える。
「なるほど、落ちる涙のようなものか。なら、仕方あるまい」
「そうだね。仕方ないよね」
二人は苦笑する。
「後は当事者次第さ。僕達が協力するだけの価値があるかどうか、それを見せてもらわなきゃ。話はそれからだよ」
「フィットリード。俺達は、・・・間違ってない、よな?」
「ああ、シグルド。大丈夫、僕達は繰り返さない。・・・決して僕らの子供達に、二度と僕達のような思いをさせない」
力強く、フィットリードは頷いた。
愛する妻もいる。そして大切な子供達も。
けれども、そんな妻子にすら決して言えない秘密と言葉がある。分かち合えるのは自分達だけだ。
(あの日、血に塗れていた君を忘れない。そして、君が流した涙も、それをさせた自分の罪も・・・)
フィットリードは、国王に向けてグラスを掲げた。その乾杯を彼に捧げると言わんばかりに。
「乾杯。我らがローム王国に」
「リガンテ家の繁栄に」
意固地な国王に、リガンテ公爵は肩を竦めてみせた。
(本当に、僕は満足してるんだよ、シグルド。君は僕にとって大事な王子様だったんだから)
だからせめて幸せでいてほしい。
この命ある限り、シグルド・ローファス・ゼル・ローミディス、僕は君の幸せを守り続けることだろう。
あの日、この瞳に映った君の血まみれの姿にそう誓ったから。
恋ではないけれど、恋するよりも深い、・・・この胸に落ちた思いを、誰も知らなくていい。




