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28 師が申し込む師弟関係(神官ファスレイジードの手紙)

 彼女がお気に入りだったクッションが置かれた寝台は空っぽだ。彼女がよく腰掛けていた椅子に座る人もいない。彼女の名残りはあちこちにあるのに、その彼女がいない・・・。

 草むしりはよく一緒にしていたけれど、彼女はそんな雑草の小花もお気に入りだったらしく、見逃したふりをして、咲くまで待っていたものだ。だけどもう、その花を見る人もいない・・・。

 この屋敷で彼女がいなかった場所などなく、どこにいても、どこを見ても、彼女がいないことを突きつけてくる現実に、カロンは耐えられなかった。


「おいで、エルセット」


 ちょうどヨイネは買い出しに行っていた。カロンはヨイネに簡単な書き置きを残すと、手早く荷物をまとめ、エルセットを抱き上げて馬に乗る。

 行き先など、・・・考えてはいなかった。




 思い起こせば、彼女と自分が行ったことのない土地は少ない。体で感じろと、少年だった頃から、彼女はカロンを様々な場所へと連れ出していたからだ。

 だから、地図をわざと見ない旅でも、カロンはそれなりに不便過ぎず、しかし賑やかすぎない街を通過するルートで移動していた。


「だー、あー・・・」


 エルセットが、カロンの懐に括りつけられた小さな籠の中から何かを主張するので、とりあえずカロンはエルセットの顔だけ出して外を見させてやる。今まで屋敷の敷地内しか知らなかったエルセットは、怖くなったか、「ぎゃああぁーっ」と、泣いてカロンへとしがみつこうとした。籠の中にいる以上、しがみつく必要もないのだが。


「泣くな、エルセット。男の子だろう」


 籠の中に入れているとはいえ、何かの拍子に落ちたら大変だと、カロンは籠の上からもエルセットを片手で抱いていた。

また、外の風が当たらぬようにと、更にその上からマントで覆うようにしていたので、実はかなりエルセットはぬくぬく状態だったのだ。もしかしたら、いきなりの冷たい風に驚いただけなのかもしれない。


「さて、適当な宿屋でも探すか」


 知らない場所で頼れるのが父親のカロンしかいないせいなのか、単に毎日馬上で揺られることで体力を消耗しきっていただけだったのか・・・。

屋敷内では、何かと母のサーライナを探しては、「まー、まー、まー、まー」と、じたばた全身で床を叩き、泣き喚いていたエルセットだが、カロンと二人で旅している間、夜泣きもせず、べったりとカロンにしがみついていた。


「いらっしゃい。おや、赤ちゃん連れなのかい?」

「ああ。部屋はあるか? 出来ればこの子には、何かちょっと煮てもらえるとありがたい。量は、この椀の半分ぐらいだ」


 カロンはエルセット用に食事用の椀を持ち歩いていた。どこの宿屋の女将も、子供を育てた経験はある。こんな赤ん坊なら、ちょっとした野菜や肉を更に柔らかく煮てやればいいだけだ。


「お安いご用ですよ、旦那。あらまあ、可愛いこと。お嬢ちゃん?」

「いや。男の子だ」


 女将が手を伸ばしてくるので、カロンがエルセットを渡して抱いてもらうと、エルセットも柔らかい胸に抱かれて「あー、ぎゃー」と、ニコニコとして嬉しそうな顔になる。ふくよかな胸が嬉しいらしい。・・・カロンには逆立ちしても無いものだ。


「まぁ、本当に可愛い子ねえ。あら、おかみさんは?」

「・・・亡くなってな」


 カロンがそう答えれば、女将も気の毒そうな顔になる。こんな赤ん坊を残して女房に先立たれたとなると、それこそ赤ん坊を育ててもらえる身内の所へ預けに行くしかないからだ。通常、父親だけでは赤ん坊など育てられない。

 普通はこんな赤ん坊など連れて旅はしないが、そういうことなら納得できる。


「旦那。・・・良かったら、その、ね・・・。里子に出すなら、この辺りでも子供のいない夫婦はおりますよ。何なら、口利(くちき)きぐらい・・・」

「いや。女房が産んでくれた、たった一人の息子だ。手放す気はない」


 そう言ってくれたのは好意からだと分かっていた。時には子供を養えず、口減らしをする家もあるからだ。だからカロンも、女将に感謝の眼差しを送りつつ、それでもきっぱり断る。

 身内に預けても、どこも暮らしが楽なわけではない。時に辛い思いをさせられたりもする。だからと女将も言い出したのだが、カロンの反応で特に生活に困ってないようだと判断した。カロンを不愉快にさせてしまったのではないかと、今度は恥じ入る。


「もう、ほんとにいらんことを言ってしまって・・・」

「いや。女将さんの気持ちは分かってる。ありがとう」

「そうよねぇ。親と一緒が一番よ。ねえ、坊や」


 そんな宿屋の食堂では、他の泊り客も集まって食事をしたり、雑談をしたりしていた。


「おっ。(あん)ちゃん、赤ん坊連れかい。そりゃ大変だぁ」

「よしよし。俺にもちょっと抱かしてくれよ。うちも産まれたばかりの息子を母ちゃんに任せて出稼ぎに出てたらよぉ、いつの間にか育っちまっててなぁ。・・・へへっ、うちの息子もこんなんだったんだろうなぁ」

「それは構わんが。先程したばかりだから、お漏らしはしないと思うが、・・・したら済まん」

「はっはっは。・・・赤ん坊がしっこするのは当然だぁ」


 いくらおむつをしていても、所詮は布だ。排泄したら吸収しきれるものではない。ましてや、カロンはわざとあまりエルセットを布でグルグル巻きにしていなかったから余計に、である。基本的に赤ん坊というのは、布で頭以外の全身を、蓑虫のようにぐるぐる巻きにしておくものだ。だが、サーライナはそれを嫌がって、せいぜいお尻に布を巻く程度で、好きに動けるようにさせていた。カロンも、サーライナのやり方に(なら)っている。

 エルセットは、父親のカロンにはない(ひげ)を珍しそうに触る。そんな仕草すら、赤ん坊ならば許せるのだろう。エルセットに髪や髭を掴まれて、「こらこら、痛えぞ、坊主」と、男達も楽しそうに笑う。


(ライナ・・・。エルセットがいなければあなたの所へ行けると分かっているのに、それでもあの子を俺ではない人間が育てるという話を持ってこられると、・・・それも嫌なんです)


 そんな様子をカロンも微笑しつつ見守り、彼女に向かって心の中で語りかける。

 あの時、一思いに彼女と共に逝きたかった。その気持ちは今でも変わらない。けれど、・・・エルセットを手放そうとする度、自分の中で邪魔する何かがあった。

 エルセットを連れて出たのも、カロン一人では赤ん坊など育てられないだろうからと、養子の話が出ていたからだ。自分がいない隙に、エルセットを奪われたくなかった。


「しっかしよお、この子、(あん)ちゃんには全然似てねえのな。兄ちゃんなんて、すっげえいい体してんのによお」


 彼らよりもはるかに体格のいいカロンだ。そりゃ、エルセットのような赤ん坊なんて、カロンといればかなり小さく見えるだろう。


「ああ。息子は女房そっくりなんだ。髪の色も、目の色も、顔立ちも。・・・俺に似たのは性別だけか」

「道理でな。女の子にしか見えん。うちなんて、俺っちにも母ちゃんにも、どっちにも似てねえってのによぉ」

「全くだぁ。子供ってのは、兄妹でも結構似てないもんだしよ。たまにしか帰らんから、余計に知らん子に育っちまってて、たまげるの何の」

「まあなぁ。母ちゃんは、額の形が俺っちそっくりって言うんだが、・・・額の形なんてみんな同じだよなぁ?」

「うちも鼻の形が・・・とか言うとったが、自分じゃ、よう分からん」


 王宮で使われるような鏡ならばともかく、庶民の場合、そんな質の良いものは出回らない。せいぜい、水面に顔を映す程度だ。

 本人は全く自分には似ていないと思っていても、きっと周囲から見ればそっくりだったりもするのだろう。

 そんなことをカロンは思った。


「だー、だー」


 やがて、エルセットがカロンに手を伸ばして、父を呼ぶ。カロンがエルセットを受け取ると、エルセットはカロンの顎を撫でて、バチバチ叩きながら唸った。


「やれやれ。うちの息子は、俺に髭がないのがご不満らしい」


 叩かれても髭などすぐに生えてはこないものなのだが。


「ひゃっひゃっひゃ。兄ちゃんが髭を生やしたら怖いご面相ときて、今度は泣かれるのがオチだぁ」

「違いねえ。入ってきた時にゃ、どんな恐ろしい男かと思いきや・・・。赤ん坊連れで安心したってもんさぁ」


 そんな父と息子の様子に、男達もげらげらと笑う。どうやら、人よりもはるかに体格のいいカロンが入ってきた時点で、どんな素性かとかなり警戒していたらしい。時に、宿屋に泊まって夜中に荒稼ぎする強盗もいるからだ。

だが、女将に赤ん坊の食事を頼んでいるあたりで、ある程度の警戒を解いたのだろう。これまでの会話も、カロンの人となりを知る為の、探りだったに違いない。

 物騒な世の中だ。・・・誰もが、それなりの自衛をしている。


(それでも屋敷にいるよりも気が紛れる。・・・ライナ。あなたのいない屋敷など、跡形もなく壊れてしまえばいいのに)


 宿屋の部屋でエルセットを抱いて眠りながら、カロンは、明日はどこへ向かおうかと考えていた。




 そんなカロンとエルセットの放浪も、二週間と続かなかった。


「ケイス部隊長、でいらっしゃいすね?」

「いや? 人違いだ」


 市場で売られている野菜や肉を見繕っていた際、見回りの兵士達にじろじろ見られていることには気づいていた。だが、それはカロンのような大柄な男であれば当然のことだ。そう思って、あまり気にしていなかった。

だが、いつの間にか現れた騎士からそう声を掛けられ、カロンはすっとぼける。


「クネライ将軍が各地に伝令を飛ばしまして、こちらでも見回りがてら部隊長をお探ししておりました。・・・ケイス部隊長がお認めにならない限り、各地で兵士達がずっと聞き込みをさせられるのです」


 騎士は、後半をやや恨めし気な口調で説明する。そうなると、カロンもそれ以上はとぼけられなかった。


「・・・・・・。何かあったのか? だが、俺は既にローム国騎士団を辞めた身だ。もう部隊長などではない」

「こちらには、ケイス第六部隊長が赤ん坊を連れてロームを出奔したと、連絡が来ております。早急に王都ロームまでお戻りくださいとのことです。まずはこちらの砦へどうぞ。ロームへの早馬も出さねばなりません」

「ちょっと待ってくれ。この子の食事を作ってやろうと思って買い出しに来たんだ」

「はあ。・・・相変わらずマメですね、ケイス部隊長」


 とぼけても通じなかったのは、その騎士がカロン本人を見知っていたかららしい。


「この街には、第二部隊の人間が中心に送られてきていますから。私にしても兵士にしても、ケイス部隊長ともご一緒に戦わせていただいたことがございましたので、すぐに分かりました」


 その騎士はそう説明した。案内された砦は、小さい街だからか、さほど大きな建物ではなかった。

そこの調理場を貸してもらい、手持ちの小鍋でエルセットの為に柔らかい食事を煮てやるカロンの周りには、様々な人間が集まってくる。

 エルセットも、彼らに囲まれて目が丸くなっていたものの、

「おっ、前将軍そっくりじゃないですか」

「うわぁ、小さいなぁ」

「どれどれ、俺にも見せろよ」

「あー、よしよし、怖くないでちゅよー」

と、次々に声を掛けられたり、撫でられたり、抱き上げられたりしている内に慣れたのか、「あぶぁ、あだー」と、何かを話し始めている。エルセットがよたよたと歩く仕草にも、彼らからは歓声があがっていた。

 そんなエルセットに絞った果汁を飲ませ、食事を食べさせ、その後は、外で、

「ほら、エルセット。チーットトトっておしっこな」

と、やっていると、周囲からはかなりがっかりした声が出る。


「やっぱり男の子かぁ」

「いやいや、男って聞いてただろうが」

「そりゃそうだけどさぁ。実物を見たら期待するじゃねえか」


 彼らがどんな期待をしていたのかは知らないが、そんなエルセットはいいオモチャで、カロンが砦の責任者と話している間、騎士や兵士達が面倒をみてくれていた。


「で。どうして俺が? 既にローム国騎士団は辞めているし、何かをした覚えもないんだが?」

「いえ。・・・そこの認識からして食い違いがあるようです。まず、長期休職扱いになっているケイス部隊長が赤ん坊を連れてロームから出奔した為、クネライ将軍より、各地に伝令が出されました。ケイス部隊長を見つけ次第、ロームにお戻りになるように伝えよ、と。尚、同じくご伝言として、サフィヨール第六部隊長代理から、『旅に出る根性があるなら、さっさと戻ってきやがれ』と。そしてソチエト第五部隊長から、『赤ん坊を道連れにしやがるな』と」

「・・・・・・。退職届を書くので、出来ればそれを届けてもらいたいんだが」

「尚、ケイス部隊長がお戻りにならない限り、しつこくつきまとって説得を続けるよう命じられております」

「・・・・・・。分かった。ロームに戻る」


 さすがに後ろにぞろぞろと恨めし気な兵士を連れて旅する根性などない。まずはロームに戻って、きちんと退団してからのことになるなと思いつつ、カロンは考えずにはいられなかった。


(そりゃ長期休職扱いにするとは言われたが。ちゃんと後日、改めて辞めさせてほしいとも伝えてあった筈なんだが・・・)


 だが、さすがに小さなエルセットに、これ以上の旅はきついかもしれない。落ち着ける屋敷に一度は帰ろうと思い、カロンは戻ることを了承した。


「おいで、エルセット」


 声を掛けると、エルセットがよったよったと歩いてきて、カロンの足に掴まる。そんな息子を抱き上げて、カロンは話しかけた。


「うちへ帰ろうか、エルセット。さすがにこれ以上は色々と足りないものも多い。何にしても、一度は戻らなきゃな。将軍にももう一度、退職を伝えねばならん」

「お待ちください、ケイス部隊長。護衛の兵士を用意しますので・・・」

「必要ない。どうせ街道をロームに向かうだけだ。・・・心配せずとも、ちゃんと戻る。何より、こんな私事に国を守る兵力を割かせることなど出来ん」


 そう言って、カロンはエルセットを連れてロームへと戻った。・・・・・・信用されていなかったらしく、少し離れてついてくる兵士達をかなり鬱陶しく思いながら。

 それとも、証拠は残さなかったつもりだったが、赤ん坊連れとみて自分達を襲ってきた奴らを返り討ちにしていたのが実はバレていて、要注意人物扱いにでもなっていたのだろうか。






 王都騎士団を率いるロメス・フォンゲルド将軍。

 エルセットにとっては、兄貴分であるトレスト・フォンゲルドの父親であり、父であるカロン・ケイス将軍の親友といった認識だった。

 更に、今日からは上司といった関係も増えたわけだが。

 ロメスの執務室で、机を挟んでエルセットはロメスと向かい合わせに座っていた。


「うん、エルセットは可愛いな。似たような顔でも大違いだ」

「将軍も母をご存じなのですか?」


 この場合、似ているというのは誰のことなのか、・・・言うまでもなく母であるサーライナだろう。そう思いながら、エルセットは問い返した。

 今まで、ロメスもカロンを訪ねてエルセットの家にやってきたことはあるが、エルセットに対してサーライナのことに触れたことはない。だが、エルセットが近衛騎士団に入団して以来、ケリスエ将軍の話題はそれなりにあちこちで出ている。今となってはエルセットも産みの母について知らない筈がないと、ロメスも分かっているようだった。


「ああ。俺以上の年で知らん奴はいない。君の母君であるケリスエ将軍は、・・・かなりひねくれた性格の持ち主だったよ。ま、だからこそ、あんな部隊長達を束ねていられたんだろうがね。・・・ん、どうした?」

「いえ・・・。父からは、母はどちらかと言えば、まっすぐ突き抜けた性格だったと聞いていましたので」


 ひねくれた性格だったと、それでも恨みも何もない感じであっけらかんと語るロメスに、エルセットは少し戸惑った様子をみせた。

 彼が通過した後には死体しか残らないと言われるロメス・フォンゲルド将軍だが、こうして近くで話していると、渋みもあって落ち着いた色気のある男だと、エルセットは思う。同じ顔でもトレストは爽やかな雰囲気があるのに、ロメスは表情や仕草の末端にまで人を惹きつけるセクシーさがあった。

 トントンと指で机を叩いてから、ロメスは何かを考えるように顎の下に指を当てた。


「まあ、カロン殿は何と言ってもケリスエ将軍のただ一人の弟子だ。養子であり、副官であり、そして配偶者にもなった男だけに、また俺達とは違う彼女の姿を見ていただろう。他人が知らぬ彼女を知っている唯一の存在でもある。・・・そう、たとえば」


 そこで言葉を切り、ロメスはエルセットに微笑みかけた。


「なぜ、君という一人息子がいながら全く鍛え上げていないのか、という謎を含めてね。カロン殿が君にどう話していようが、俺達にしてみれば、君の母親は常に人の裏をかき、抜け目なく先手を打っている人間だったのだよ、エルセット」


 その場にカロンがいれば、

「それはない。あの人は常に何も考えず、行き当たりばったりだった」

と、反論しただろう。だが、その場にカロンはいなかった。

そして、結果として他を出し抜いていた彼女が、実は単なるその場の感情だけで動いていたことを薄々察していたローム国騎士団の部隊長達は、決してその事実を漏らさなかった。何故かといえば「よそが知る必要はない」、それに尽きる。

様々なことを考えた上で手を打つ生真面目さと慎重さ、そして自分の感情に忠実な身勝手さと奔放さ。人というのは誰しも矛盾を抱えて生きているが、ケリスエ将軍という女性のそれは、あまりにも一般的な女性と違っていたからこそ、一癖も二癖もある部隊長達が黙って従っていたと言ってもいい。要は、彼女の部下でいることが面白かったのである。

その証拠に、ケリスエ将軍がクネライ第一部隊長にローム国騎士団トップを譲り渡して以降、ローム国騎士団の部隊長達はそれぞれに、優秀ながらも自分達の強引さとマイペースさを前面に押し出していくようになった。なかば、脅されるようにしてカロンが第六部隊長に復帰させられたのも、そういった事情が絡んでいたからでもある。


「人の裏をかく、ですか・・・。父を鍛えることが出来るぐらいに強い人だったとは聞きましたが、それは聞いたことがありませんでした。ただ、私には全く両親の武勇は受け継がれなかったようです」


 そんな事情など何も知らないエルセットは、(ルーナお母さんの「フィツエリの君」疑惑の次は、今度はサーラお母さんの何が出てくるんだろう。このフォンゲルド将軍ってば、サーラお母さんに裏をかかれたことでもあるんだろうか)と、いささか遠い目になっていた。

 自分の父親は、あくまで目立たず騒がずじっと耐えて生きているのに、どうして母親達というのは何かとやらかしている存在なのか。

自分は父のように生きたいものだと、エルセットは嘆息した。

 そんなエルセットは、既に王都騎士団でも「実力を知りたいから」と、何人かと剣を交えさせられている。

 言外に、自分はロメスにそこまで興味を持ってもらえる人間ではないと、主張してみた。どこの騎士団でもいいが、自分は自分の身の丈に合った程度で程々に生きていきたいと思うエルセットだ。

 だが、そこでフッと笑うと、ロメスは立ち上がって、「ついてきなさい」と、エルセットを促す。


「それは確かめさせてもらった。カロン殿に鍛えてもらっていないこともな。・・・おーい、ジールフェイル」

「何でしょう、フォンゲルド将軍」


 ロメスに呼ばれ、鍛錬場にいた男が駆け寄ってくる。ジールフェイルと呼ばれた男は、ロメスよりも年上の、さほど取り立てて特徴はないが、人好きのする顔をしていた。


「うちの新人だ。腕前は普通なんだが、・・・鍛えてやってくれ。お前、ムサい男は遠慮するだの、素直な子じゃないと嫌だの、我が儘ぬかしてたが、これなら素直だし、可愛いし、構わんだろう」

「はあ。・・・まあ、たしかに俺の言った条件は備えてるようですね。それは構いませんが・・・。人間、一朝一夕に強くなるもんじゃありませんよ。年単位で考えないと」

「ま、それは任せるさ。・・・エルセット、ジールフェイルはちょうど出先で俺が見つけて連れ帰った男でな、かなり強い。ちょっとこいつについてやってみろ。男なら強くなってみたいだろ」

「はい。よろしくお願いします。ジールフェイル様」


 ジールフェイルは、そこでとても嫌そうな顔になった。


「うわっ、やめてくれ。エルセットって言うのか? ジールって呼んでくれ。俺はエルセットって呼ぶから。今日からお前が俺の部下、になるんですかね、フォンゲルド将軍?」

「ああ、そうだ。あのケイス将軍の一人息子だ。潰すなよ、大事な預かりもんだ。だが、どこまで強くなれるか見てみたいんでな。お前が面倒をみてやってくれ」

「分かりました。エルセット、うまくやっていこうな。俺は堅苦しいのは嫌いなんだ。ちゃんとジールって呼べよ」

「はい、ジール」


 言われたように返事すると、ジールフェイルは、その青い瞳を細めて、ぐしゃぐしゃとエルセットの頭を乱暴に撫でてくる。だが、何故かその仕草は、まるでエルセットを知っているかのように、最初から愛情があるかのように、乱暴ながらも親しいものだった。


「じゃ、よろしくな。頑張れよ、エルセット」

「はい、フォンゲルド将軍」


 エルセットは素直な性格が顔にも表れている。思った通り、ジールフェイルにも気に入られたようだ。

 ロメスは、執務室に戻りながらほくそ笑んだ。

 現在、自分が出先でスカウトしてきたジールフェイルは、あくまで客分的な扱いである。いずれそれなりの兵を任せるつもりはあるものの、まずは実績を作らせるつもりもあり、色々な仕事をさせているところだった。

 何をやらせてもジールフェイルは優秀で、それこそいずれは隊長クラスにとも考えている。だが、その身元の不透明さ、そして勤続年数の少なさがネックでもあった。


(エルセット。君の父親は、君の母親にとても忠実な男だ。・・・一人息子がいながら何も教えていないというのなら、彼女の意向としか考えられない。だが、君がどこまで強くなれるのか、俺はそれを見てみたいんだよ)


 何と言っても自分の長男ですら、この父親に自分の力を隠していたのだ。エルセットは隠すまでもなく弱かったが、カロンは決して人を鍛え上げるのが下手な男ではない。それはトレストを教えていたカロンの姿をロメスも見ていたのだから、間違いない事実だ。

 そんなカロンが一人息子を全く鍛え上げていないだなんて、そっちの方がおかしいだろう。

 

(お前が鍛えるつもりがないって言うなら、俺がしてやるさ。覚悟しとけよ、カロン殿)


 やはり、トレストをとられてしまった恨みはあるのだ。ここらでお互いの息子を使って遊んでも構わないだろう。何より、エルセットはトレストと仲が良い。いずれエルセットに釣られて、トレストも父の元に戻ってくるかもしれない。

トレストもエルセットも、つつけばすぐに反応するのだから、あまりに素直で可愛いすぎる。

あんな可愛い玩具、どうやって遊べばいいだろう。どこぞの盗賊団に囮で放り込んでみようか。それとも将軍の息子という立場をフル活用して貴族の中にいる狸共をいぶり出すのに使ってみようか。わざと辺境へ飛ばして、人質にしようと襲ってくる奴らを焚きつける材料にでもしてみようか。

そして、そうやって実践経験をハードに積ませていけば、トレストも自分が本気でやり合っても死なないぐらいに強くなるかもしれない。

これでも、父は父なりに息子達を愛しているのだ。

そんなことを考えて、その日、ロメスは一日とても上機嫌だった。


「うわ。何をニヤニヤしてるんですか、気持ち悪いですよ、ロメス様。・・・せっかくの新人も慣例を無視して、いきなりジールフェイルの所に配属するし。勝手なことばかりしないでください。だから、歩く迷惑人間って呼ばれるんですよ」

「カイエスの言う通りです。たまにはケイス将軍の爪の垢でも煎じて飲んでください」

「・・・・・・・・・」


 そんな副官達だけが可愛くない。




 王都騎士団に異動したエルセットは、毎日へとへとに疲れて帰ってくるが、それでも楽しそうだ。何でも、客分扱いの男の下に配属されたらしく、上司と部下といっても二人きりだそうで、しかも仕事は、様々な場所の見回り兼諜報活動というのだから、また何をさせられているのやら。

 カロンの部屋で、トレストとエルセットは林檎酒を飲んでいた。


「まあ、エルセットが楽しいならいいけど。・・・うちの父上だけは信用できないからなぁ」

「トレスト兄の考え過ぎじゃないの? ジールはいい人だよ。強いし、色々と教えてくれるし。今度は王都騎士団の第三隊長の部下の査察に行くんだ」


 そのジールという男は、ロメスが出先で引き抜いてきただけあって、あまり顔を知られていない。ロメスの副官であるカイエス直属の人間として所属しているが、ほとんどロメスの意向に従って遊撃的な扱いをされているのだとか。

 カロンとトレストに問われ、エルセットはそう説明した。


「だが、二人きりじゃ気づまりにならないのか? まあ、一対一で教えてもらっているなら、上達も早いだろうが」


 カロンがそう言うと、トレストの方が勢いよく反応してきた。


「それは言えますよね。エルセット、かなり強くなってるし。・・・あ、エルセット。明日の朝も、起きたら手合わせしような」

「うん。だけどトレスト兄に追いつくにはまだまだなんだよね。あ、そうだ。お父さん、明日、ジールの家に遊びに行ってもいい?」

「家にまで? また、どうして」

「明日ね、お休みだからってジールのおうちに招待されたんだ。ジールは奥さんと二人暮らしで、奥さんを紹介するって言われた」

「まあ、それなら・・・。だけど、ルーナにはちゃんと言ってから行きなさい」

「うんっ」


 考えてみれば、エルセットの上司になるわけだ。それこそ、こちらも一度は招いておいた方が良いだろうか。カロンは考え込んだ。

 しかし、招くといっても、こちらはローム国騎士団の将軍の屋敷ということになる。そのジールという男の素性はよく分からないが、どうも他国出身の人間らしい。せっかく可愛がって教えてくれているのに、あちらが委縮して及び腰になられては何にもならないだろう。ここは、あえて何もしない方がいいのかもしれない。


「そのジールさんって方のお宅にお招きされたの? だけど堅苦しくしてしまうと、かえってご迷惑よね。どう思う、ロシータ?」

「そうですわね。きっとご主人の初めての部下ということで、それにお子様もいらっしゃらないということで、可愛がってくださるお気持ちで呼んでくださったのでしょう。それこそ、その奥様に喜んでいただけそうな食べ物などをお持ちしてはいかがでしょう」


 ルーナも悩んだらしいが、手土産に美味しいチーズとハムの塊、そして幾つかの果物を、女性が喜びそうな綺麗な布で包んでバスケットに入れて用意した。それを持って、次の日の朝、元気にエルセットは出掛けて行った。






 ローム国王とて悩みがないわけではない。特に気になるのが、この国の後継である。


「来たか、ルイージア」

「ええ、お父様。今日もそっちの小部屋をお借りするわね」


 王妃が産んだルイージア王女。いずれローム王国の女王となる存在である。だが、王女は王女だ。王子ではない。・・・今までの歴史を見ても、女王がうまく国を治められた事例は少ない。大抵、婿に迎えた人間の良いようにされていくからだ。


(だからこそ。・・・愚かであってはならんのだ。アディーネが賢さで国を支えるならば、ルイージア、そなたは人間的な魅力を放ち、誰からの忠誠をも勝ち得る人間でなくては)


 ローム国王は、小部屋でこっそりと着替えているであろうルイージア王女を思って溜め息をついた。

 自分の考えは間違っていない筈だ。ルイージア王女は、王女として人に頭を下げられているだけでは分からないことを学び、様々な人を使いこなせる人間にならねばならない。


(だが、・・・あいつしかいなかったとはいえ、人選ミスだったのではなかろうかと思えてならない。どうしてルイージアは変な言葉ばかり覚えてくるのだろう)


 そこへ、ノックの音が響く。


「国王陛下。フォンゲルド将軍がいらっしゃいました」

「通せ」

「はっ」


 やがて、王都騎士団を率いる将軍ロメスが入室してくる。着替え終わったルイージア王女も、その場に戻っていた。


「お迎えに参りましたよ、王女様。さあ、今日は男の心理を学びに、娼館まで参りましょう」

「ちょっと待て。お前は王女をどこに連れていくつもりだ」

「ですから娼館と申し上げました。・・・どうも王女様は男心に疎いようでございますからね。男は追われると逃げるものです。いいですか、ルイージア殿下。男を落とそうと思ったら、押しの一手だけでは逃げられるだけなのですよ」


 様々なものを教え込めと言ったのは自分である。それこそ農民の生活も、商人の生活も。王宮では分からない様々な人間が何をどう思い、どう感じ、どう生きているかを。

 しかし、男心を教えろなどとは・・・・・・。いや、それこそ大事なことなのかもしれない。

 いずれルイージアが自分の夫を(ぎょ)せねば、それこそどんな結果が彼女を待つことになるか。


「・・・言うまでもないが」

「勿論です。王女様には、どんな男の指一本も触れさせません。・・・ああ、そう言えば、先日、どこぞの男に茂みに連れ込まれそうになったそうですね。力で敵わないと分かっているのに油断するなど愚かの極みですよ、ルイージア様。国王陛下ではなく、私を近くにいさせてくだされば良かったものを」

「フォンゲルド将軍じゃ、あの人を殺しちゃうじゃないの。お父様だったから、すぐにあっちだって無抵抗になったのよ」

「・・・それが何か? 最初から全てを奪っていくつもりの男に対し、殺す気もなく生半可(なまはんか)な抵抗しか出来ない女など、虐げられ、搾取されて終わりですよ、殿下。いつまでお父上があなたを守ってくださるのでしょうね?」

「うぐっ・・・」


 ルイージア王女は黙り込んだ。そう、軽い調子で遊んでいるかのようなロメスだが、土壇場での覚悟も冷徹さも、ルイージア王女では彼の足元にすら及ばないのだと、こういう時に実感する。

 今のルイージア王女が着ているのは、庶民的な服である。しかし、上からとても綺麗な刺繍をほどこされたフード付きのマントを羽織れば、それすらも分からなくなる。王宮の外に出てから、庶民的な上着を羽織るのだ。

 ルイージア王女は唇を噛んだが、気を取り直してロメスをまっすぐ見上げた。がらりと口調も変える。


「いいわ、行きましょ、ロメス。どこでもどんと来いよ。いっちょやってやるから」

「その意気だよ、ジーラ。さあ、行こうか。君、男に対してはあまりにダメダメだから」


 さすがに本名はまずいので、ルイージア王女にはジーラという偽名をロメスは使わせている。

幼女から老女まで誑し込むといわれたロメスだからこそ、女には不自由していないと国王は判断し、ルイージア王女の社会勉強を任せたのだ。国王の要望に応え、ロメスはその事実を親しい副官にも知らせず、こうして王宮にふらりとやってきては、様々な場所へと王女を連れ出していく。


(護衛がいては学べないことがある。様々なことを知るがいい、ルイージア)


最初は、農民の暮らしを体験してみて、泣いて帰ってきたこともあった。王女という肩書きがなければ、人はどんなに粗雑で乱暴なものなのか、それを思い知らされたのだ。しかも、ロメスはルイージア王女に怪我などはさせないものの、グズ扱いされようが、ノロマ扱いされようが、「いい勉強になりましたね」と、全く助けなかったらしい。

やがて、街で買い物をしたり、売り子の手伝いをしたりして、人は何を毎日買いに来るのか、そしてどんな食べ物がどう調理されていくのか、ルイージア王女は体で学んでいった。

たまに帰ってきたルイージア王女は、首を傾げたりもしていたものだが。


「けど、お父様。どうして私が、『美味しいパンですよ』って呼びこみしてる横で、フォンゲルド将軍は、女性を口説いてるのかしら?」

「仕方ないでしょう。王女様の近くで立ってるだけでは、ただの不審者です。私は、あなたをお守りする為に、女性を口説くフリをして、その場に居続けたのですよ。私としてもあなたがしっかりしていてくれれば、そのまま街角に消えることもできたのですが、・・・今の殿下ではまだまだですね」

「だけど、後日、会う約束してたわよね?」

「それが女性に対する礼儀というものです」

「え? ・・・そう、なの?」

「そうですよ?」


 色々と思うことはあったが、それでも国王はルイージア王女が手を荒れさせて帰ってこようが、落ち込んで帰ってこようが、それでもロメスと出掛けさせることを止めさせようとはしなかった。

ルイージア王女も、ロメスに対して「もう、行きたくない」とは、言わなかった。

そんなロメスにとっても、ルイージア王女が一緒にいると、色々な輩が彼女に手を出そうとしてくれる為、退屈しのぎになっていたらしい。わざと破落戸(ごろつき)の集まるエリアまで連れていったりもしている。

王宮では考えられない、今にも崩れそうな家や()()て小屋。そういった現実をも、ルイージア王女は目を逸らさずに受け入れようとしていた。

だが、その成果なのか、ローム国王ですら知らないアレコレを学び過ぎて、違う方向へ行っているのではないかと、いささか思わずにはいられない。

時には、「隠居ジジイの社交場」とやらの趣味の会にまで行って、孫のように可愛がられていたりもしたとか。現役のスタートラインにすら立っていないのに、どうして今から隠居なのだろう。

ロメスの選択基準だけは分からない。


(だからって、どうして娼館・・・)


 自分だって行ったことなどないというのに。

けれども、それすらも大事だと言えば大事なのだろう。そう思ってローム国王は、自分の娘を娼館へ行かせてしまったことに、何だか複雑な気持ちになりつつ、・・・窓の外を見上げた。






 留守にしていたロームの屋敷は、無人ではなかった。


「お帰りなさいませ、カロン様。ご無事でようございました」

「ヨイネ。サフィヨール様の所へ戻れと書いておいただろう。まさか、ずっと待っていたのか?」

「はあ。・・・さすがにあれではちょっと。クネライ様から、カロン様がお戻りになるという連絡が、サフィヨール様にあったそうで、それを私にも教えていただきました。それで用意を整えてお待ちしていたのですけど、・・・エルセット様はまだ寝ていらっしゃいますね。起きたら何か差し上げましょう」


 甲斐甲斐しく、ヨイネはカロンの為に食事を出してくる。そして湯を沸かし、カロンにまずはさっぱりしてから休むようにと勧めた。籠に入っているエルセットは熟睡したままだ。

 やがて、湯を使って着替えたカロンが浴室から出てくると、エルセットが目を覚ました。


「起きたか、エルセット。ほら、ヨイネがご飯を作ってくれてるぞ」

「おはようございます、エルセット様。さ、ご飯ですよ」


 昼過ぎだったが、赤ん坊など目覚めたらいつでも「おはよう」なのだ。ヨイネは微笑んで、慣れた仕草でエルセットに匙を「はい、あーん」と、咥えさせる。エルセットもヨイネを見て、わきゃわきゃと嬉しそうに、手足をじたばたさせた。

 そんなエルセットは盥に入れた湯程度で十分である。食後は、台所でそのまま体を洗ってやりながら、ヨイネはカロンに話しかけた。エルセットは、旅先の湯量も限られる宿と違い、ゆったりと盥のお湯に浸かってはしゃいでいる。


「ところで、カロン様がお戻りになるという連絡を受けてから、・・・毎日、ルーナ様がおみえです」

「・・・俺はまだ帰ってないと言っておいてくれ」

「馬が戻ってきているので、それは通じないかと」


 噂をすれば影という。そこへドンドンと、訪問客が扉を叩く音がした。


「・・・・・・お疲れの為、お休み中だと、伝えておきますね」

「そうしてくれ」


 エルセットを連れて、さっと二階の部屋へとカロンは移動した。ヨイネもそれを見届けてから、扉を開けて「はい、どちら様でしょうか」と、誰何(すいか)する。

 だが、ヨイネの気遣いは、この場合、無力に終わった。というのも、客はルーナだけではなかったからだ。サフィヨールにソチエト第五部隊、フィツエリ男爵令嬢ルーナにロシータと、四人いたからである。そうなると、玄関先でお引き取り願うわけにはいかない。


「カロンは戻ったのだろう、ヨイネ?」

「・・・はい、サフィヨール様」

「そこで行きあってしまってな」


 サフィヨールも、ルーナを連れてきたかったわけではないらしい。言外に、(好きで一緒に来たわけじゃねえが)という気持ちをこめてくる。さすがのヨイネも、応接室に招き入れるしかなかった。

 そして、さっさと二階の部屋に避難していたカロンも、ルーナだけなら無視するつもりだったが、サフィヨールが来たとなると、そうもいかない。

 諦めて階下に顔を出すしかあるまいと、がしがしと頭を掻いた。


「・・・ん? どうした、エルセット?」


 バタバタと足をばたつかせていたので床に下ろしていたのだが、見ると、エルセットの様子がおかしい。何かを探すように部屋を歩いては、違う部屋へと行こうとする。


「こらこら。どこへ行くんだ、エルセット」


 隣の部屋ならいいが、まちがって階段を転げ落ちるようなことになってはたまらない。抱き上げて止めると、エルセットはイヤイヤと、全身をのけぞらせて暴れる。そして・・・・・・。

 火がついたように、ぎゃあああーっと、喚いて泣き始めた。




 尋常じゃない赤ん坊の泣き声に、応接室に案内されていた客とヨイネが、驚いて階段を駆け上がってくる。

 それに気づいてはいたものの、カロンは暴れるエルセットを床に下ろして抱きしめてやるしか出来なかった。「まあああっ、まあーっ」と、何度も何度も繰り返して泣くのは、母親を呼んでいるからなのだろう。


(そうか。屋敷に帰って来たから、ライナがいると思って・・・・・・)


 知らない場所では父親のカロンしか頼れなかったが、ここは屋敷の中だ。エルセットにしてみれば、母がいてくれる家なのだ。

 早く母親を出せと、エルセットがぎゃんぎゃん泣きながら、手足を振りまわしてカロンに要求する。


「ごめんな、エルセット。もう、・・・いないんだ」


 そんな様子を見かねたのだろう、ロシータが、「カロン様」と、声を掛けてからそっとエルセットを抱き上げる。ロシータに手を伸ばされ、エルセットはこの人なら母を呼んでくれると思ったのだろうか。それとも母でないことに不快感を示したかったのか。一度は黙ったものの、再び、ロシータの顔を見て、「まぁぁぁっ」と、泣き喚く。


「ごめんなさい、エルセット様。もう、お母様は・・・」


 ロシータも涙を流すしかなかった。やがて泣きすぎてひきつけを起こし始めたエルセットを、ロシータがあやして落ち着かせていく。


「エルセット様は私が見ております。どうぞカロン様は、お客様のお相手を」

「ありがとう、ロシータ殿」

「なら、ロシータ。私がエルちゃんを抱っこするから」

「赤ちゃんはいきなり暴れ出すものなのです。間違ってルーナ様がエルセット様を落としてはとんでもないことになります。まずは、そこらの石で練習してからになさいませ」

 

 ロシータは、よしよしとエルセットを抱きながら、廊下を歩いては話しかける。最初はその後ろをついていっていたルーナだったが、あまりにも相手にされていないことに疎外感を覚えたのか、カロン達に続いて応接室へとついてきた。


「ところで。俺の退団届がどうも受理されていなかったようなのですが・・・」

「受理は、・・・されんだろうな。カロン、ケリスエ前将軍亡き今、お前を騎士団は絶対に手放せなくなった」

「は? 何ですか、それは。・・・どういう意味なんでしょう、ソチエト第五部隊長?」


 意味が分からず、カロンはソチエトに問い返した。すると、サフィヨールが答える。


「文字通りの意味だ。ケリスエ前将軍が生きていればこそ、お前がローム国を裏切ることはないと分かっていた。だが、()の方が亡くなられた今、お前を他国にとられるわけにはいかんと、今度はそういった声が王宮で出たんだ。お前は誰よりも前将軍の傍にいた男だ。ローム国騎士団の全てを知っていると言っていい。・・・カロン、お前を他国が得たなら、ローム国を潰せる確率が上がることは分かるな?」


 カロンは黙って頷いた。別によその軍で働く気などなかったのだが、どうも自分は必要以上に高く評価されていたようである。

 だが、自分がもしも他国の軍に所属していたなら、・・・確かにカロンのような存在を知ったら引き抜きに動くことだろう。


「分かりました。では、王都からは出ません。どうせエルセットもまだ小さい。俺はあの子をこの屋敷で育てていきます。・・・それでいいでしょう?」


 今回、全国に広がる様々な地点に連絡をしてまで捜していたのは、そういった事情があったからなのかと、カロンも納得する。だが、愚かしいことだ。彼女がいない今、自分は力を誇示する必要も何もないというのに。・・・そう、強さにこだわったのは彼女であってカロンではない。喜んでくれる彼女がいないのなら、強さなど追い求める必要はないのだ。

 どうして、他国で士官してまで戦い続ける必要があるだろう。


(エルセットが大きくなるまで、裏庭に畑を作って家畜を育てて、・・・そうして暮らしていればいいか。どうせ生活費は十分にある)


 そんなことを思っていたカロンだったが、()うは問屋が(おろ)さなかった。


「問題はそこじゃない。カロン、エルセットを王宮で育ててもいいとまで、話が出ている。さすがにお前を騎士団に復帰させるには、エルセットが小さいと分かっているからだ。・・・エルセットよりも遅れて王女が産まれたことは知ってるな? 異例だが、王宮に王女の世話役は溢れている。だからついでに、と」

「やめてください。俺は・・・っ、エルセットを手放す気などありませんっ」


 ソチエト第五部隊長の言葉に、カロンは思わず立ち上がって睨みつけた。だが、身振りでサフィヨールに制され、再び座り直す。

 そう、それはソチエトの考えではない。彼は、ただ教えてくれているだけだ。


「俺はあの子の父親です。妻が亡くなって、夫が息子を育てるのなんて当たり前じゃないですか。・・・いずれは王宮の下働きにさせてまで、宮殿で面倒をみてもらいたいなんて思いません」


 サフィヨールがヨイネに合図して、酒を持ってこさせる。さすが、サフィヨールにも長く仕えているだけあって、ヨイネも手振りだけで酒だと察するのは慣れたものだ。


「ま。下働きにさせる気はなかろうがな。どちらかというと、乳兄弟か学友といったスタンスに近いだろう。だが、お前に対する人質には違いない。・・・カロン、信用できる乳母を雇え。お前がさっさと子供の世話をさせる人間さえ雇ってしまえば、あとは誰も何も言えん。元々、王宮の文官が先走っただけだ。リガンテ大将軍にしても、お前が欲に目が眩んでローム国の敵にまわると思ってはおられん。クネライ将軍にしても言を左右にしてのらりくらりとしている状態だ」

「サフィヨール様。・・・それは、俺に、・・・騎士団に戻れということですか?」


 サフィヨールは、ヨイネに持ってこさせた杯をカロンに渡す。


「飲め。飲まんとやってられんだろう。・・・その通りだ。お前は結果を出し過ぎた。屋敷に引きこもろうものなら、他国の間者がお前を引き抜きにやってくるだけだと、王宮は戦々恐々としているってわけだ。お前の年と腕で、引退は早すぎるって奴だな」


 そこで、ルーナが口を開く。


「あら。じゃあ、私がエルちゃんを引き取るわ。そうしたらいいでしょ? フィツエリ邸なら部屋も人も十分に揃ってるわ。大丈夫よ、たまに会いに来ることぐらい、許してあげるから」

「寝言は寝てから言え、このど阿呆。・・・誰か、信頼できそうな使用人と乳母の心当たりはありますか、サフィヨール様? 俺がいない隙にエルセットを攫われてはたまりません。王宮も、そこの馬鹿に預けるのも論外です。エルセットは俺の子です。そしてここが、彼女が残してくれた俺達の家です。エルセットはここで育てます」


 カロンはサフィヨールをまっすぐ見つめた。


「周囲にも訊いてみよう。とりあえずは当分ヨイネを使えばいい。・・・だが、ヨイネだけでは何かあった時が大変だろう。信頼できる女手もあった方が良い」

「サフィヨール殿。ならば、こちらも当たっておこう」

「かたじけない、ソチエト殿」

「ありがとうございます。お二人とも。・・・俺に、そういった事情を教えてくださる為に、先にいらしてくださったんですね」


 カロンが二人を見ると、サフィヨールもソチエトも苦笑する。


「いや、何。・・・先にあちらの思惑を教えておいてやらねば不公平だろうと思ったまでよ。それに、赤ん坊を利用するやり方など、唾棄に値する」

「よくソチエト殿に礼は言っておけよ、カロン。リガンテ大将軍とクネライ将軍を相手に、『あの男の今までの献身を知ってて、それなのにあなた方は、たかが王宮の文官如きに好きに言わせておかれるのか』と、怒鳴りこんだそうだぞ」

「え・・・?」


 カロンが驚いてソチエトに顔を向ける。だが、ソチエトは、ふんと鼻を鳴らして立ち上がった。


「別にお前を庇ったわけじゃねえ、小僧。・・・てめえの子の事はてめえで面倒みろってだけだ。さ、帰りましょうぞ、サフィヨール殿。用事は済み申した。この後は、我が家で飲み直しましょう」

「そうですな。・・・じゃあな、カロン。さ、ルーナ姫も帰りましょう。王宮に攫われる前に、あなたにエルセット坊やを攫われるわけにはいきませんのでね」

「ほんっとに相変わらず失礼な人ね、あなたっ」


 ぎゃーすかぎゃーすかと、最後はルーナだけが騒いでいたが、どうにか客というより、ルーナを追い返す。

彼らが帰り、静かになった屋敷で、カロンはエルセットの寝顔に問いかけた。


(エルセット。・・・もしかしたら、それこそ王宮の方がお前にとっては良い環境なのかもしれない。様々な使用人がいて、何不自由のない生活をさせてもらえるのかもしれない。だが、ライナは言った。この屋敷が俺にもお前にも安らげるものになればいい、と。だから、・・・いいだろう?)


 泣き疲れて眠るエルセットを抱き上げれば、エルセットがいつものようにカロンの胸へと顔を埋めてくる。


(エルセット。他の誰でもなく、お前こそが受け取るんだ。彼女の残した全てを。この屋敷も財産も、いつか大きくなったお前に全てを譲ろう)


 カロンはそっと窓から星空を見上げた。


(俺に残されるのは、・・・ライナ、あなたとの思い出だけでいい)

 

 暗い夜空に、小さく獣の声が響いたような気がした。

 



 その二日後、カロンは思いがけない客を迎えた。

 キルケイド・ジラン。金髪に緑の瞳をした彼は、王宮に文官として勤務している。そして、ロシータと結婚して長女と長男を授かった男である。現在、四人家族で暮らしている筈なのだが、一体、どういう用なのか。


「実は私、小さな家を借りて暮らしていたのですが、そこはご相談と言いますか・・・。はっきり言わせていただければ、うちの一家全員、こちらの屋敷に下宿させていただきたいのです。勿論、部屋代は払いますし、その一部は妻がエルセット坊ちゃんの面倒をみるということでお支払いしたいのです」


 カロンは目を瞠った。願ってもない申し出だったからだ。キルケイドはニコニコしながら、カロンに言う。


「そりゃ、うちも小さな子供達がおりますし、うるさいと思います。そこらへんは申し訳ないのですが、その代わり、・・・あなたが何日、家を空けようとも、エルセット坊ちゃんの心配はいりませんよ? ロシータを住み込みで雇うようなものですから。それに、その方が安心だと思うんです」


 その通りだった。留守がちな主人だと、その間に使用人が金目の物を全て売り払って姿を消していたりすることもあるからだ。王宮に勤めているキルケイドは身元が分かり過ぎている為、そんな真似などしないと分かっていた。キルケイドは商家の出身だが、その実家も裕福だからだ。


「ところでそれは・・・、あの小娘の考えか?」

「いいえ? ルーナ姫は、エルセット坊ちゃんをフィツエリ邸に誘拐する気満々ですけどね。ロシータがそれを心配していまして。話を聞いてみたら、それならうちがこっちに引っ越してきたら、全てが丸く収まるんじゃないかなと思ったんですよ」


 なるほどと、カロンは思った。部屋の隅で控えていたヨイネを振り返る。


「ヨイネが片翼の一部屋を使っているのだが、それ以外は空いている。・・・ヨイネ、どう思う?」

「いいと思います。ロシータ様でしたら、安心できます。・・・変な人を雇ったら、とんでもないことになりますから」


 その辺りは、ヨイネも心配していたらしい。この屋敷に引き取られた頃も、ローム国騎士団の他の騎士に仕える人間から、どうやったらこの屋敷に雇ってもらえるかと、色々と尋ねられていたのだとか。


「僕が良い扱いをされているのを見て、自分もここで雇ってもらいたいという人は多かったのですが、そういう人は、かなりルーズで・・・。はっきり言えば、主人の物を盗んで売りさばくぐらいのことはしかねない人達でした」

「なるほど」


 従者経験のあるカロンにも、その辺りは十分に察することができる。


「まあ、お互いに悪くないと思いますよ? うちも帰りが遅くなることはありますが、あのカロン殿のお屋敷なら子供達も安心だし、ロシータも変な人間に絡まれることもありません。そしてカロン殿も、エルセット坊ちゃんに寂しい思いをさせずに済むでしょう。それに何より・・・」


 キルケイドは、そこで一度、話を切った。察しの良いヨイネが、「お茶のお代わりの用意をしてまいります」と、部屋を出て行く。小さな声で、キルケイドはカロンに囁いた。


「王女が産まれたのはご存じでしょう? 次に王子が産まれてくれればいいものの、今まで懐妊なさらなかったのも事実です。この後は全く分からないとあって、王宮は産まれたばかりの王女を巡ってきな臭くもなっているんですよ。・・・こちらのお屋敷にお世話になっていれば、変な話を騎士団に流したくない貴族は、俺を巻き込まないでくれますからね。子供達に危害を加えるようなことをほのめかされる脅しもされずに済みます」

「どこも大変だな」

「そちら程じゃありません。あなたも俺を利用すればいい。王宮の文官が一緒に住むんです。この事実、交渉への使い道はあるでしょう?」


 キルケイドは、「本当に、何もしない人間に限ってうるさいの何の」と、吐き捨てた。

どうやら、キルケイドから見ても、王宮におけるカロンはかなりの要注意人物扱いになっているらしい。


「そうだな。・・・俺達は、普通に生きていたいだけなんだがな」

「それが分からない、欲の皮の突っ張った人間が多すぎるんですよ」

「違いない」


 兎にも角にも話はまとまった。

 そういえばと、カロンは思い出す。泣き濡れるルーナにロシータがついていたのは確かだが、その近くにキルケイドはいなかった。・・・けれども少し離れた所からずっと、俯いて彼女の棺桶が埋められるまで、彼もまたひっそりと佇んでいたのだと。


(この男だって、元はと言えばあなたが・・・・・・)


 そうだ、このキルケイドは元々サーライナが餌付けした男で、ついでにロシータとの交際に背中を押したのだったと、カロンは思い出す。

 気のいい男なので始まりなんて忘れていたが、キルケイドにしてみれば、カロンの置かれた状況に、自分が力になれればと思ったのだろう。かつて世話になったケリスエ将軍との思い出を胸に抱えて。


「俺が引っ越したら、それは誰の思惑かと、誰もが探りを入れてくるでしょう。俺は常に微笑んで、『それは言えません。あなたより上のお方なんです』とでも匂わせておきます。よくあるんですよ、口には出せないけど権力者絡みの作業ってのは。そこで口を割る人間は処分されてしまいます。だからこそ、勝手にあちらが深読みしてくれるでしょう」

「何なら、リガンテ大将軍にでも頼んでおこうか?」

「大丈夫ですよ。・・・だって、今は王女様の方がはるかに重要事項ですからね。こっちがこう片付いてしまうと」

「なるほど」


カロンとキルケイドは握手を交わし、そしてキルケイド一家が引っ越してきたのである。






 熱烈大歓迎、というものだった。

 上司であるジールフェイルの家を訪ねたエルセットは、ジールフェイルよりも先に飛び出してきた、その妻に思いっきり抱きしめられていた。


「あなたがエルセットねっ。ほんっとーに、聞いてた通りっ。何て可愛いのっ」

「・・・・・・。エルセット・ケイスです。本日はお招きくださって、あり」

「いやんっ。そんな堅苦しいこと、言わないのっ。あなたと私の仲じゃないの」

「・・・・・・」


 どんな仲だというのだろう。挨拶しようとして、「ありがとうございました」の「あり」で切ることになってしまったエルセットは、リスエルに両方の頬を手で引っ張られ、リアクションに困っていた。人は、突発事態に弱いものだ。まさか、「いやんっ」と言いながら、人の頬をでろっと引っ張る女性がいるとは思わなかった。

思いがけずに抱きしめられたものだから、エルセットが落としそうになったバスケットは、さりげなくジールフェイルがひょいっと受け取っている。

 

「ま、エルセット。うちの妻はお前に会えるのを楽しみにしてたんだ。リスエルって呼んでやってくれ。よろしくな」

「えっと、・・・リスエルさん」

「あら、駄・目・よ。エルセット?」


 悪戯っぽく緑の瞳を煌めかせて、ジールフェイルの妻はエルセットの鼻を、ちょんちょんと指先でつつく。その色気は、自分の親よりも年上だろうに、エルセットもクラクラしそうな程だ。


「リスエルって、呼・ん・で?」

「・・・リスエル」

「うーん、ダメね、硬いわ。そこはもうちょっと自然に、ちょっと困った感じで『リスエル?』って感じで呼んでみて?」

「リスエル?」

「うん、グッド。そんな感じでね。・・・さあ、エルセット。待ってたのよ」


 ひらりと身を翻してエルセットの背中に手を添えて促してくる彼女は、強引ながらも、それでもエルセットを見る目は優しい。

 

「もうすぐルース達も来る筈なのよ。・・・ルースの所にはね、あなたと似たような年の子供もいるの。お友達になってあげてね、エルセット?」

「あ、はい」


 どうやら客は自分だけではないらしい。


「ま、俺は皆の食べるもんでも用意しておくさ。エルセット、その間、裏庭でエルードに剣でも教わっておけ。言っとくが、女だと思って油断してたら痛い目に遭うぞ。思いっきりやって構わん。それでもお前が負けるだろうが」

「え・・・?」

「あ。エルードって言うのはね、彼が私を呼ぶ時だけの名前なのよ。あなたは呼んじゃダメよ、エルセット。・・・ふふ、全然お父様から剣を教わってないんですって? なら、私をお師匠様って呼んでもいいのよ?」


 こんなにも女性らしい人が剣を握るとでも言うのだろうかと、エルセットは彼女をまじまじと見返した。

 そりゃ自分は強いとは言い難い。ジールフェイルにも負けてばかりいる。だが、父親であるカロンや、兄貴分であるトレスト、そういった人達と比べれば弱いが、普通程度の腕はあるつもりだ。


「さあ、始めましょうか、エルセット」


 練習用の模擬剣が渡される。エルセットを傷つける気はないのか、彼女は打ち込んで来なかった。しかし、エルセットの攻撃は全て流され、一つ打ち込む度に、注意点を指摘される。


「ほら、胴ががら空き」「はいっ」

と、打ち込んでは来ないが、コツンと胴に模擬剣が当てられる。

「その持ち方は、もう少し腕力をつけてからよ。あなたの腕ではこうやって落とされるの」「はいっ」

と、そういう時は遠慮なく剣を叩き落とされる。


 ルースと呼ばれていた新たな客人達が到着する頃には、エルセットも完全に負けを認めていた。


「女なのに剣を持つだなんて恥ずかしいでしょ? だから他の人には内緒よ。それで良かったら、私もあなたに稽古をつけてあげるわ、エルセット」

「よろしくお願いします、リスエル」

「ええ。今日から私があなたの師匠ですからね。あなたは私の弟子になるのよ、エルセット」

「へ?」


 教わるのはいいのだが、わざわざ師匠とか弟子とか、そんなことまで厳密に決めなくてはならないのだろうか。エルセットは面食らった。

 だが、ジールフェイルも強いが、彼女も強い。教わる人間は多くて困らないしと、エルセットはそこで口を噤む。恐らくそのつもりでジールフェイルは自分を招いたのだろう。


(お父さんだってサーラお母さんに教わったんだし、別に女の人に教わっても恥ずかしくないよね。・・・だけど、この人は周りに知られたくないみたいだし、お父さんとトレスト兄だけにしか言わないことにしよう。やっぱりそういうの、馬鹿にする人は多そうだし)


 ルースと紹介された女性は、エルセットより年下の兄妹を伴っていた。


「うちの息子と娘よ。仲良くしてあげてね、エルセット」


 そう言いながらエルセットを抱きしめてくるルースという女性は、かなりの感激屋なのか、涙を滲ませている。

その二人の兄妹も、エルセットを見上げてにっこりと微笑んできた。「会えて嬉しいです。髪、触ってもいいですか?」とか、「うわあ。本物? 私達ね、ずっとジールからも話だけは聞いてたのよ」とか、最初から二人が持っていたであろう好意を伝えてくる。

年が近い分、彼らとは仲良くなれそうだった。


「だけど、勝手にひどいわ。エルセットったら、リスエルに教わるって決めちゃうなんて。私でもいいじゃないの。私の方がいいわよね。今からでも私に変更しない?」

「ほほほ。こういうのは早い者勝ちなのよ。ざーんねーんでした、ルース。ね、エルセット。私で良かったわよね?」

「え・・・・・・」


 その前に、このルースという女性も強いのだろうか。いくら弱いと言っても、それでも普通の騎士程度の強さならエルセットも持ち合わせているつもりだ。

 そんなエルセットの疑問を、表情だけで察したのか、ジールフェイルが声を掛けてくる。


「言っとくが、エルセット。お前、この中で一番弱いから。・・・ま、そっちの二人も年は近いし、色々と教えてもらえや。いずれ頑張れば追いつけるさ」

「・・・・・・」


 父であるカロンはいい。何と言ってもローム国騎士団を率いる将軍だ。

 兄貴分であるトレストもいい。何と言っても、かの有名なフォンゲルド将軍の息子として強さは折り紙つきの青年である。

 だが、しかし。

 まさか、こんな普通の一般家庭における夫婦(その夫は自分の上司だからノーカウントとしても)、それはともかく・・・。そこに遊びに来た主婦だという女性、そしてその自分よりも背の低い少年と少女よりも弱いだなんて。

 エルセットは、今日からちゃんと特訓しようと決意を固めた。そうでないと、自分が悲しすぎる・・・・・・。




 その日、ルースやその子供達とも手合わせをして、散々に負けてきたエルセットは、沈痛な面持ちで父親の部屋をノックした。


「どうした、エルセット? 眠れないのか?」

「ううん。違うんだ・・・」

 

 カロンは、エルセットが興奮しすぎて眠れないのだろうかと、片眉を上げて尋ねた。エルセットはそれを否定したが、カロンは「ちょっと待ってろ。ミルクを温めてやろう」と、台所へ牛乳を取りに行き、部屋で温めてからエルセットに差し出す。


「ありがとう、お父さん」

「いや。・・・楽しかったようで良かったな」

「うん」


 初めて上司のお宅を訪問し、昼食どころか夕食までいただいてきたというエルセットはかなり疲れていたものの、「とても素敵な奥さんだったし、お友達だっていう女性の子供さん達とも友達になったんだ」と、興奮して皆に話した為、ルーナもとても喜んでいた。

それは、ルーナが持たせたハムやチーズが美味しいとかなり喜んでもらえたのだと、エルセットが報告したこともあっただろう。ルーナにとっても、「息子が、上司のおうちに招かれた場合の手土産を用意する」なんて作業は初めてだったのだ。貴族社会のアレコレとは違うそれは、ルーナにとってもドキドキするものだった。

 だが。次男のファレンと長女のアレナが、「ずるいー。お兄ちゃまだけ。僕も行きたい」「えー。それなら今度は私も連れてって」と、拗ねてしまった為、代わりにと、エルセットは二人を今度ピクニックに連れていく約束をさせられていた。単に弟妹は、大好きな兄のお休みに構ってもらえなかったのが口惜しいだけで、理由など何でもいいのだろう。今度は「わーい、ピクニック」「やったぁ、ピクニック」と、はしゃいでいたのだから、現金なものである。


「あの、さ。お父さん・・・」

「何だ?」

「僕、・・・僕、強くなりたい。だからお父さんにも教えてもらえる?」


 カロンは黙り込んだ。しばらくして、躊躇いつつ、カロンは口を開く。


「エルセット。俺はお前の体力作りはそこそこさせたが、強くさせようとは思っていなかった。だから、お前にあまりそういったことを教えたことはない」

「そうだよね。・・・フォンゲルド将軍にも、ジールにも言われた」

「そうか」


 なら諦めてエルセットをローム国騎士団に渡せばいいものを、何をロメスは考えているのか。カロンはそう思い、心の中で親友に悪態をつく。


「それ、・・・変なことなの? 皆が言うんだ。お父さんには何も教わってないんだなって。だけど、騎士の家に生まれたからって、皆が父親に剣を教わるわけじゃないよね?」

「そうだな。よそに息子を修行に出す家も多いし、皆が皆、息子に教えるわけじゃない。・・・ただ、お前は力で地位を得たケリスエ将軍の産んだ唯一の息子だ。そのケリスエ将軍はたった一人だけ養子をとった。それが俺だが、その養子が、みるみる内に騎士団で出世したのも事実だ。ケリスエ将軍の養子であり、夫である俺が、ケリスエ将軍のたった一人の忘れ形見に何も教えていないなど、・・・それこそ誰もが信じられないと思ったのかもしれないな」


 どこか他人事のようにカロンが言うのを、エルセットは見ていた。


「それ、・・・何か理由があったの?」

「・・・エルセット。お前のお母さんは、お前を愛していた。・・・彼女も、彼女の弟子である俺も、強さでこのロームに居場所を築いた。けれど、いくら無敗を誇ろうと、いつか敗れる日は来る。彼女はその神話を崩されることもなく亡くなってしまったが、・・・お前はそうじゃない。一度、その期待に応えてしまえば、後戻りも出来ぬまま利用され続けるかもしれない。エルセット。お前が、お前の人生を辛いものではなく、幸せに生きられるように・・・。それが彼女の願いだったよ」

「え・・・」

「強さなど追い求めるな、エルセット。彼女と俺の影を見る奴らに利用されるだけだ。お前が弱ければ、もしくは人並み程度であれば、それだけで、相手は勝手に失望して去ってくれる。生き延びるのに強さが必要なことはあるだろう。だが、エルセット。お前は彼女と俺の息子だ。・・・強さは、お前の命を奪う両刃(もろは)の剣となりかねないと、俺は感じていた」


 エルセットは驚いて父親の顔を見上げた。今まで、父が自分に剣を教えてくれないのは、単に自分が弱いからだと思っていた。父の求める基準に達していないからなのだろうと。

 もしくは忙しすぎて、息子に教える余裕がないだけなのだろうと。

 しかし、父には父の、深い考えがあったのだろう。だが、そこでエルセットは、はたっと思い出した。そう、そうなると言わなくてはならないことがある。


「お、お父さん・・・。僕、そんなに強くなったらまずいの?」

「まずくはないが、・・・程々にしておいた方がいいだろう。少なくとも、トレストは基準にするな。普通の同僚程度で十分だ。それなら、お前を担ぎ出したくても担ぎ出せない」


 もしかして、自分が知らなかっただけで、自分を取り巻く事情は父がそこまで配慮するものだったのかと、エルセットは青ざめる。


「あはは・・・。あの、ね?」

「何だ?」

「ごめん。お父さん。ジールだけじゃなく、・・・その奥さんにも剣を教わるって約束しちゃいましたっ」


 嫌なことは一気に済ませた方がいいとばかりに、エルセットは後半を一息に伝える。


「は?」


 さすがに、カロンも面食らった。

この息子は何を言い出したのか、そんな表情でもあっただろう。


「えっと、・・・それがジールの奥さんのリスエルもかなり強くて、それで僕に剣を教えてくれるって言ってくれたから、つい師弟関係を・・・」

「ちょっと待て。・・・リスエル?」


 しかし、息子の師弟関係などより、カロンはその名前に引っかかったらしい。

 カロンは、エルセットにジールの家に行ってからのことを、最初から細かく、会話の内容まで全て話させる。それこそ、「ルース」と名乗った彼女と、その息子達のことも。

そして「上司のジール」の名前が、正しくは「ジールフェイル」であることも確認すると、カロンはエルセットの前で、ぐったりと椅子に体を預け、深く長い溜め息をついた。


「どうした、・・・もんかな」

「お父さん?」


 しばらくそのままだったカロンは、いきなり立ち上がると、大きくなった息子の両脇を抱え上げる。


「本当に大きく重くなったもんだ」

「って、お父さん、何でまだ僕を持ち上げられるのさっ。何、その馬鹿力っ」

「それぐらいの体力が無きゃ、生きてこれなかったんでな」


 まさか小さな子供のようなことをされるとは思わず、エルセットが恥ずかしがってバタバタと暴れる。


「ライナなら黙って、持ち上げられたままだったんだが・・・。というか、あの人は俺に全てやらせておいて、『それが当然』って人だったな」


 そう言って、カロンはエルセットを床に下ろすと、その頭を撫でた。もしかして、父は自分に母を重ねていたのだろうかと、エルセットはその顔を見上げる。


「だが、エルセット。そういうことならジール夫妻と、そのお友達家族については、今後、誰にも話すな。ルーナやファレン、アレナにもだ。そしてロメス殿と、トレストにも」

「トレスト兄にも?」


 驚いて、エルセットはカロンに問い返す。


「俺の言うことが信じられないなら、明日、ジールに尋ねればいい。きっと、黙っておけと彼も言うだろう。・・・今の時点でお前に何も言っていないのだから」


 その言い方は、エルセットに何か嫌なものを感じさせた。どうして父親のカロンが、まるでジールが、エルセットにより近い存在であるかのような言い方をするのだろう。


「エルセット。リスエルは、お前の母親の、・・・姉弟子だ。お前の母親に剣を教えた師匠の一人でもある。そしてルースは、・・・お前の母親の妹だ。その子供達は、お前のいとこ達だよ」

「・・・は?」


 エルセットは、そこで聞いたことが信じられず、カロンの顔を見返した。


「かの有名なケリスエ将軍の姉弟子と、実の妹だ。それに相応しい実力があったのは、お前がぼろ負けしたことで、十分身に沁みたことだろう。・・・周囲が知ったら、とんでもない騒ぎになる。分かるな?」


 こくこくと、エルセットが頷く。生まれ育った部族も滅び、たった一人の生き残りだと、ケリスエ将軍は周囲にも話していたという。だが、そのケリスエ将軍のそんな近しい間柄の人間が、このロームにいるとしたら・・・。

そうなると、あの二人は母よりも強いのだろうか。それとも・・・。


「何を考えてお前の前に現れたのかは知らんが、・・・まあ、それでも彼女らの目的があるとしたら、お前だけだ。他の人間には興味などなかろう。俺も含めてな」


 カロンは、エルセットの顎に手をかけて上を向かせる。


「どんなに顔が似ていてもお前はライナと違う人間だと、近しい人間だからこそ余計に強く感じずにはいられない。お前はお前だ、エルセット。ライナとは全く別の存在だと、あの二人も強く感じていた筈だ。なのに、それでもリスエル達がお前と縁を結ぼうとしたなら、それはお前自身に何かを見出したからなんだろう」

「僕に?」

「そうだ」


 カロンは、エルセットから手を離す。そしてその頭をくしゃっと撫でた。


「お前の母を通して繋がった縁だ。大事にしろ。何があってもリスエルはお前を守るだろう。・・・この世で、誰よりもお前が信じていいとしたら、それはリスエルだ」


 いつだったか、師匠は命懸けで弟子を守るものなのだと、サーライナがカロンに言った言葉を思い返す。いつかカロンが戦場で斃れても、残されたエルセットを守ってくれるとしたらリスエルだろう。

ルーナとファレン、そしてアレナはフィツエリ男爵が守ってくれるだろうが、エルセットはフィツエリ男爵家とは無関係な人間だ。


「ライナが属していた部族では、師匠は弟子を簡単な気持ちでは受け入れない。一生に一人か二人しかとらないと、ライナは言った。そしてリスエルの弟子の一人はライナ、お前の母だ。そしてお前を弟子にすると言ってくれたなら、・・・それこそがリスエルの気持ちなのだろう」

「・・・お父さんは、サーラお母さんをライナって呼ぶんだね」

「ああ。俺だけが彼女をそう呼んでいいんだ」


 エルセットはくすっと笑った。


「だけど、お父さん。サーラお母さんの師匠に僕が弟子入りしたら、・・・強くならないって無理じゃないの?」

「問題はそこか」


 カロンも、そこで困った表情になる。


「ま。他人にバレなきゃいいだろう。強くなっても弱いフリでもしとけ。特にロメス殿にはな。あいつ、ケリスエ将軍に勝ち逃げされたってぼやいてたから、強くなったお前に雪辱戦でも申し込みかねん」

「・・・冗談っ。瞬殺されるよっ」


 あの死体しか残さないと言われるロメス相手に、どうして自分が雪辱戦などを申し込まれなくてはならないのか。勝ったこともないのに。

 エルセットは小さな悲鳴をあげた。


「・・・リスエルに守ってもらうんだな」

「どうして、そこでお父さんじゃないのさ」


 父親が息子を守らずしてどうするというのか。エルセットは薄情な父親を恨めしく(なじ)った。


「ロメス殿の裏をかけるとしたらリスエルだからだ。・・・ライナのえげつないやり方は、絶対リスエルの仕込みだったに違いないからな」

「・・・・・・・・・」


 リスエルの人となりを知っているらしい父親の言葉に、エルセットは押し黙った。


―――カロン殿が君にどう話していようが、俺達にしてみれば、君の母親は常に人の裏をかき、抜け目なく先手を打っている人間だったのだよ、エルセット。


 エルセットは、ロメスが語った言葉を思い出す。父が自分に話してくれた母の思い出話からして、ケリスエ将軍とは、人の気持ちをあまり考えず、一直線に突っ走る人間だと思っていたのだが、違ったのだろうか。


(もしかしてフォンゲルド将軍のあれって、単なる誤解じゃなかった・・・とか?)


 瞼の中にしか存在しない母が、ひらりとまた、その一かけらの姿を現してくる。けれどもそれは、あまりにも自分が思っていたのと全てが違い過ぎて、・・・エルセットはぐったりと椅子に座り直した。


「ねえ、お父さん?」

「何だ?」

「・・・どうして、僕の周りって普通の女の人がいないの?」

「文句はライナに言え。彼女がいなければ、それら全てはあり得なかった」

「・・・・・・」


 顔だけは自分にそっくりだという母に、エルセットは複雑な気分になった。


(天国にいるサーラお母さん。せめて、・・・もっと長生きして、人間関係を整理してから僕に渡してほしかったです)


 父が自分を強くしようとしなかったのは、自分を守る為だったと言う・・・。

 同時に、自分を強くしようと師匠に名乗りをあげてくれたリスエルを、父は誰よりも信用していいと言う・・・。

 父の話し方でいくと、上司であるジールよりも師匠であるリスエルが、エルセットに対して上位にくるらしい。

 エルセットの安全の為にもあまり強くなるなと言いながら、それでもカロンはリスエルが師匠になったと聞いただけで、エルセットに対してリスエルを優先し始めた。


(それは、お父さんがサーラお母さんの弟子だったことも影響しているんだろうか。師弟関係って、親子関係よりも強いんだろうか)


 エルセットの疑問をよそに、カロンはカロンで、エルセットがこんなに大きくなった今になって、彼女達がエルセットの周囲に現れたのは、どんな理由があるのだろうかと考え込んでいた。

 サーライナのたった一人の忘れ形見。

 会いたいだけならば、単に会いに来ればいいだけのことだ。それを、わざわざジールフェイルは王都騎士団に潜り込んでいた。この分では、ルースレイルの伴侶であるグリスファンドもどこに潜り込んでいるやら、知れたものではない。


(仕方ない。俺から会いに行くか)


 二度と会わないだろうと思っていた、サーライナの部族の人間達。だが、彼女達がエルセットに関与するとなれば話は別だ。きちんと話を聞いておく必要があるだろう。

 それでもカロンは、彼女達がエルセットに危害を加えたり、もしくはエルセットを窮地に追いやるようなことだけはしないとも確信していた。


(会ったその日に、師匠に名乗り出る・・・。リスエル、それがあなた達の気持ちだと、俺は信じている)


 何があってもエルセットを守るという、それは彼女達なりの宣言なのだと・・・。

 それを、人は信頼と呼ぶのかもしれない。


(だが、姉弟子も妹弟子も、一方的に師弟関係を決めつけてくるというのはどうなんだろう)


 その場で反論もせず受け入れてしまっているあたり、エルセットはやはり自分の息子だと、カロンは思った。

【神官ファスレイジードの手紙】



 神殿の奥深い場所。それこそ、神官しか立ち入ることが許されない場所で、神官長を中心にして神官達が集まっていた。


「ケリスロードはどうなった?」

「追跡に出ていた者の報告によりますと、・・・一緒に旅立った男の国に定着し、子は()したものの、現在は別れて他の男と伴侶になった模様。そして、一緒に旅立った男との間に出来た子供は、その父親が引き取りましたが、病気に(かか)って亡くなった(よし)。現在の伴侶との間に子はおりません」

「そうか。・・・それでも引き続き、報告をさせよ。まだ、子を孕む可能性はある」

「はい」


 重々しく尋ねた神官長に、一人の神官が答える。重ねて、神官長は尋ねた。


「次の候補は誰が出ている?」

「ジールフェイルが候補に挙がっておりましたが、・・・どうやら、リスエルードに伴侶を申し込むつもりのようです。現在、ファイランジークを考えております」

「そうか。・・・リスエルードは、サーライナの姉弟子だったな」

「はい。現在、サーライナの第二の師匠として指導に当たっています」


 神官の答えを聞きながら、神官長は目を閉じて考え始める。そして、尋ねた。


「サーライナは伴侶を見つけられそうか?」


 すぐに答える言葉はなかった。くすりと一人の女神官が笑う。彼女は神殿の五本指に入る実力者でもあった。


「まあ。神官長様ったら、本当にサーライナがお気に入りですこと。ですが、ご安心なさいませ。まだまだ我らが妹は、神に心を残しているようでしてよ」


 周囲に苦笑の波が広がる。


「それは言えますね。あの舞を、畑で披露しているそうですよ。・・・あんな無防備な場所で何をやっているのか。本当に危機感のない妹で困ったものです」

「だが、それだからこそ、神殿に詣でる機会の少ない人々にも感動を与えているのだろう。あの姿を見て、誰が何をするというのか。まさに、野にあって神を讃えると言い切っただけはあるというものだろう」

「ですけれど、ねえ・・・。おかげで、彼女の争奪戦も始まっているようでしてよ。まだ、リスエルードの弟子だから、誰も手が出せないだけで。リスエルードが許可を出し次第、一気に申し込みが殺到するでしょうね」

「あらあら。では誰が、我らが妹を手にするのかしら。・・・神官とは不可侵の存在なのに、サーライナには困ったものですこと」

「それこそ、サーライナをそこらの奴にくれてやることはないでしょう。神官長、誰か、神官の中から見繕ってサーライナの伴侶にすればいいではありませんか。前代未聞ながら、・・・秘匿されていただけで、前例はある筈です」


 かつては神殿に所属していたサーライナのことである。皆が口々に言い出すのを、神官長は黙って聞いていた。やがて・・・。


「サーライナには、サーライナの意思を優先させよ。他者からの申し込みは許さぬと、徹底するがいい。あの娘は、・・・申し込まれたらそのまま受け入れかねぬ。相手が自分の神懸かり的なものに惹かれたのか、自分自身に惹かれたのかすら、あのサーライナではその区別もつくまい。・・・サーライナは人の心を読むが、人の心の深みといったものを全く理解しておらぬ。才あればこそ、・・・不自由なものだ」


 神官の一人が、「分かりました」と、応える。

 そして神官長は、続けて言った。


「もし、サーライナがそのまま伴侶を見つけられぬようであれば、・・・次の候補にサーライナを加えよ」


 そこで周囲から、反対の声が口々に出る。


「それは・・・っ。神官長様、無理です。サーライナでは子を生せません」

「そうです。ましてや神殿から遠く離れてしまえば・・・、彼女の命を縮めるだけです」

「お考え直しくださいませ、神官長様。我らが妹に、どんな苦痛をお与えになる気でいらっしゃいますの」

「そうですわ。サーライナは、神殿を離れても我らが神の(しもべ)。どうしてここを離れて生きていけましょう」


 自分達の妹として可愛がっていたサーライナのことである。本人が強く望んだからこそ、神殿から出すことにはなったが、「兄様」「姉様」と、自分達に懐いていた彼女をどうして苦難の旅に出せるだろう。

 神官達が反対するのは当然だった。

 だが、神官長は首を横に振った。


「我らが神は、天啓をお与えくださるが、我らの努力こそを重んじる神だ。部族存続の為、その礎となるべき人間を選りすぐって外に出してきたが、未だに結果は得られぬ。・・・勿論、サーライナに子が生せぬのは分かっている。しかし、同時に彼女は神が降臨なさる娘。賭ける価値はあるだろう」


 だが、サーライナを可愛がっていた年配の神官がそれでもと反対する。


「賭けで彼女を外に出せと仰有るのですかっ。神官長様、あなたとてサーライナをあれ程に可愛がっておられたではありませんかっ。それぐらいなら、私も神官を降ります。そして彼女を伴侶にお与えください」

「ならぬ。ファスレイジード、お前の申し込みなら、サーライナは逆らえまい。サーライナはお前を祖父のように慕っていた。お前とて、サーライナに恋愛感情など無いだろう。彼女を手放したくないあまりに、愚かなことを言い出すものではない。次の時までにサーライナが伴侶を見つければいいだけのことだ。それがならなかった時には、次の候補にサーライナを。・・・・・・神のご意思が、そこで分かるやもしれぬ」


 神官長の最後の言葉に、ファスレイジードと呼ばれた男がはっとしたように顔を上げる。まさかと思ったのだろう。

だが、誰もが顔を見合わせ、互いに探り合うかのような表情になる。

 それ以上は何も言わず、神官長はさっと身を翻して広間から立ち去った。


(我らが神は、あくまで人の努力こそを重んじる神だ。そしてサーライナ。お前は神に愛された娘。この決断がどういう結果となるのか、・・・それこそ私にも分からぬ)


 サーライナが舌足らずな子供の頃から見てきた。どうして苦労すると分かっている運命に、好きで彼女を放り込めようか。だが、それでも・・・。神官長として、打てる手は全て打たねばならない自分の立場がある。

 神官長は、サーライナが神殿を去りたいのだと、覚悟を決めた瞳で自分を見上げてきた日のことを思い出した。

 考えてみればあの日から、・・・この決断に至る兆しはあったのかもしれない。




 数ヶ月後、サーライナは本人も知らぬままに、神殿が候補としている人間の一人に名を連ねた。


「今回の候補者達は全て外に出せ。サーライナには、特に追跡の人間を多くつけよ」

「はい、神官長様」


 候補者となった人間が外に出される時は、様々な手段が使われる。たとえば、因果を含めて外に出したり、わざと外の人間との接触を増やして外に出て行くようなきっかけを作ったり、そういった流れになるよう仕向けたり・・・。

時に、外の人間もしくは候補者そのものに暗示を掛けて、異国へと旅立つ成り行きを作ったりもする。


「サーライナには、・・・暗示を掛けてやれ。二度とここに戻らぬように」


 神官長の言葉に、神官達は驚いて彼を見返した。てっきり、サーライナには全ての事情を話して、その上で外に出すと思っていたからだ。


「彼女相手となると、神官の半数以上を使うことになります。しばらく使い物にならなくなりますが」


 何と言っても、現在は封じているとはいえ、サーライナは人の心を読み取る能力がある。そんな彼女に暗示をかけるとなると、一般人相手のようにはいかない。一人や二人でかかっても、無駄なのだ。


「構わぬ。それが彼女にしてやれるせめてもの(はなむけ)になろう。何も知らぬ方が、辛くても生きていける。サーライナは子を生せぬ体だ。なのに我らが部族の存続の為、全く知らぬ場所に根をおろせと命じたら、出来ぬと分かっていても子供を作る努力をすることになろう。そうなれば、彼女がどう生きるか。それこそ、サーライナを地獄に放り込むようなものだ。サーライナは何も知らなくてよい。・・・ついでに、彼女への祝福を行うことを許す。好きにせよ」


 神官長の言葉に、神官の半数どころか、ほとんどが参加して、サーライナの暗示に取り掛かる。何と言っても、自分達の仲間が候補者になるなど、初めてのことなのだ。ましてや、サーライナは何も知らない。

 しかし、その中に、サーライナを可愛がっていた神官の一人、ファスレイジードはいなかった。ファスレイジードは、既に先んじてローム王国へと旅立ったからだ。・・・様々な場所に送り込まれている候補者達だったが、サーライナは今回、ローム王国の外れに出されると決まっている。

 寝台で眠る彼女は、ただ、部族の掟として、出発前に神殿で泊まるだけだと思ってやってきた。そんな彼女は暗示を掛けられ、数日後に目が覚めたら、見知らぬ土地の宿屋にいることになる。・・・そこから、彼女の放浪が始まるのだ。

 

「せめて、・・・人の感情に疎くなるように暗示を強化しておきましょう。そうでなくては、辛すぎますわ」

「信用できぬ人の前では、笑うことも出来ぬようにしておきましょう。一人で生きるには、外は過酷すぎますわ。心を閉ざさねば、生きていけません。サーライナはこんなにも優しい子なのに」

「ならば、常に心の底に愛があるように・・・。きっとここで過ごした優しい日々が、我らが妹の支えになるだろう」

「そして、自らが死を選ばぬよう、生きようとする気持ちを強くしておこう。今までも、孤独が心を弱らせて自殺に至った事例がある。そんな心を病ませるようなことにはさせたくない」


 サーライナの潜在的な力はとても強く、次期神官長とも看做(みな)されていた程だ。それでも、神官がこれだけ集まって暗示を掛けるとなると、サーライナとて太刀打ちできるものではない。


「さようなら、サーライナ。それでも君をずっと見守っている」

「あなたが幸せに生きられますように、サーライナ。ずっと愛していますよ、我らが妹よ」

「外に出した者の運命を妨げぬよう、我らは二度と君に会えない定めだ。けれど、・・・君をずっと遠くから見ているよ、サーライナ」

「何があろうとも、君を愛している。我らが妹よ」

「さようなら、サーライナ。神があなたをお守りくださいますように。そして、・・・辛い目に遭いませんように。あなたが泣きたい時には、せめて月の光と共に、私の心があなたに届きますように」


 それらの言葉は、深い眠りについたサーライナの耳には届かない。だが、その心の奥深くには届いたのだろう。サーライナの固く閉じられた目尻から、一筋の涙が流れていった。

 神官達が去った彼女の寝台に近づき、神官長が最後の祝福を行った時には、それはもう乾いていたけれども。


「許せ、サーライナ。・・・陸地すら見えぬ海原に、お前を一人で放り出すことを」


 濡らした布でその涙の痕を拭ってやりながら、神官長はサーライナの髪を撫でた。昔、あどけない少女の頃にもそうしてやっていたように。


「・・・許せ、我らが愛し子よ」






 報告書とは、簡潔で分かりやすいことが求められる。それは、古今東西、変わらない。

 しかし、ファスレイジードは、そういった常識を無視する男だった。自分の感情が全てなのだ。

大体、長すぎると言われようが、それを持ち運ぶ人間とて、大した重さの違いではないだろう。ならば、神殿で定期的な報告を待っている人間にしても、詳細な内容が届く方が嬉しいに決まっているではないか。


(あの時、念入りに暗示を掛けてもらったからな。・・・私のことを綺麗さっぱり忘れてしまっているのはとても寂しいが。・・・これだけ近くにいても、君は私に気づかないんだね、サーライナ)


 サーライナを娘のように可愛がっていた神官ファスレイジードは、自分のことをサーライナが忘れてしまうよう、皆に頼んで強力な暗示を掛けてもらっていた。

 こうして全く違う人格の他人を演じるというのは、ある意味で面白いものだ。自分の妻役をしている人間にしても、子供役をしている人間にしても、そして使用人に至るまで、実はサーライナの追跡にとつけられた部族の者達である。ただし、自分以外はサーライナと顔を会わせたことのない人間が選ばれているが。


(だが、・・・あの周囲に対する無関心っぷりじゃ、顔見知りを持ってきてもバレなかったかもしれんな。どこまで暗示が効いているのやら)


 そんなことを思い、ファスレイジードは神殿への報告書を書きあげる。彼女が自分に気づく日はこないだろう。それでもいいのだ。彼女が自分を忘れ去っても、自分は彼女を見守っている。

 神官を降りて、彼女の追跡役に志願して以来、ファスレイジードは異能を全く使っていない。だから自分はきっとサーライナよりも長く生きるだろう。自分の子供のような、孫のような、サーライナが先に逝くのを自分は黙って見送るのだ。・・・それでも、遠く離れた神殿でいるより、よほど良い。


(だが、サーライナ。・・・まさか、君が誰かを受け入れる日が来るとは思わなかったよ)


 いずれ滅ぶだろうと神託が降り、それ以降、神殿は新しく部族の者達が生きられる場所を探していた。強く賢い人間を選りすぐり、東西南北を問わず、自分達が定着できる場所を求めさせていたのだ。

 けれどもファスレイジードは、サーライナを外に出すことは反対だった。今回、皆の予測していた通り、ローム王国に落ち着いたサーライナだったが、子を生せないと分かっている彼女には、静かに最後の日を迎えてもらいたいと、ファスレイジードは思っている。サーライナも失敗、それでいいのだ。


(お前だけは誰にも殺させないよ、サーライナ。そして、神官を汚す人間も許すつもりはない)


 だから、彼女に近づく虫などこっそり排除していたりもしたファスレイジードだ。・・・そんなつまらぬことは報告しなかったが、それこそ、自分としては当然のことだと思っている。

 それなのに、まさか彼女自身が、虫を一匹拾い上げてくるとは、何たることか。まあ、今の所、あの弱さならどうしようもないだろうから構わないが、いずれ機会を見つけて処理しておこう。

ファスレイジードは、そんなことを考えていた。


「 親愛なる神官長様

定期報告を申し上げます。サーライナは、ローム国騎士団にて、サーライナ・ケリスエと名乗り、将軍に就任して以降、順調に戦果を挙げております。ただし、今回の戦で、少年を拾って屋敷に持ち帰りました。特記することのない弱い少年です。その少年は、屋敷で言葉を教わりながら、家政婦の手伝いをしております。現在、サーライナが伴侶として興味を持った男女はいません。定期報告終了します。




 さて、サーライナですが、先日、遠乗りに出掛けて、野生の果樹を見つけました。最近、そこに行って、果実をもいで食べるのが気に入りのひとときです。

近頃では、果実だけではつまらないと思ったのか、パンとチーズも持っていって、一緒に食べています。まるでリスのようです。食べ終わると、そのまま、枝の上で器用に寝ています。満腹な狸のようで、なかなか愛らしいと思います。

少年を拾ってしまった為、格好つけようと思って、屋敷で昼寝が出来なくなったことが影響しているのでしょう。

時々、眠りこけて落っこちそうになると片手ですかさず木の枝に掴まって、落下せずに済んでいるのですが、その姿はまさに手長猿のようです。




 以前より、部族のことを思い出して寝ながら泣いていたのは、ブリュンハイデスが昼寝中の彼女に近づいて暗示を掛けたことにより、少し宥められた様子です。彼を手配していただき、ありがとうございました。

今回、少年を拾って以来、その世話で気が紛れている様子です。

最近は、「子育て」とか、そういった会話をしている人間を目敏く見つけると、こっそり隠れてその会話を聞いています。何かを勘違いしているようですが、面白いのでそのまま見ていたところ、どうも神官長様の教育に問題があったとしか思えない、あさっての方向へと彼女は突き進んでいます。

餌だけやっておけばいい昆虫を飼うのと、人間を育てるのとは別なのだと、誰かが教えてやるべきでしょう。私がする気はありませんが。

 どうせ他国出身の少年ですので、どうなろうが問題ありませんが、・・・彼女を外に出したのはやはり失敗だったのではないかと思えてなりません。少なくとも、世間一般常識を教えてからにすべきでした。




 異例の女将軍だけあって、王宮から内々に、王の愛妾、つまり側室としての打診が、サーライナにありました。ですが、肝心のサーライナに側室といった概念がないからでしょう。自分への申し込みとは思わなかったようで、頓珍漢な返事をしておりました。


「・・・うちの騎士団の人間を、国王の愛人に出せとは、おかしなことを仰有る。・・・国王陛下が男も好きだというのであれば、別にうちの人間でなくても良かろう。それこそ、あなたがなればよい」


 サーライナにしてみれば、人を口説くのに、本人ではなく人を使うこと自体が理解できなかったようで、変な方向に解釈していたようです。

 しかし、私は見逃しませんでした。サーライナは真面目な顔をしておりましたが、お腹が空いた時ならではの、ちょっと唇を尖らせる仕草をしたことを。

 サーライナにそんなことを言われた王宮の高官は、しどろもどろに言葉を連ねました。


「いえ。・・・男を愛人になさる気など、国王はありません。ですから、恥ずかしながら、我らはあなたにご協力を・・・、その・・・、あの・・・」

「分かった。そういうことならば、私から国王陛下にきちんと申し上げよう。ついてこられるがよい」


そう言うと、サーライナは立ち上がりました。ですが、それは食事を取る為に、さっさとその話を片付けようとしただけだと、私には分かりました。


「本当ですかっ。なんと、これはめでたいっ」


 あのケリスエ将軍を側室として国王に出せると思ったのでしょう。どれ程の褒美がもらえるかと、その王宮の高官は、喜び勇んで国王の所にサーライナと向かったようです。

そして、国王を前に、サーライナは言いました。


「陛下。この方は、男の身だからと、陛下への熱い想いを口に出せず、私を頼ってきたのです。騎士団からごり押しで男の愛人を陛下に差し出せば、いずれ自分にも陛下の目が向けられるのではないか、と。陛下、彼の想いを聞いてやるだけ聞いてやってもよいのではないでしょうか。・・・愛とは、時に報われなくても止められないものなのです」


 そして、「では、あとはお二人で」と、サーライナがその場を去った後、その場にはとても冷たい空気が流れたそうです。どうやら、国王も自分より強い女など恋愛対象外だったらしく、サーライナの勘違いには気づいたものの、あえて彼女には何も言わなかった模様です。

 後日、国王の従兄であるリガンテ大将軍には、「うちのケリスエ将軍は、陛下は男女問わず口説く人間だと、王宮の高官により吹きこまれていらっしゃいましたからね。王宮とはお盛んな場所だと驚いておりましたよ」と、囁いておきました。

 ・・・・・・その後、その高官がどうなったのか、私は興味もありません。ま、サーライナを愛人などにしようとした人間なぞ、獣の餌にでもなればいいのです。




 以前から不用心だった、サーライナの屋敷ですが、彼女が出陣して留守にする間、忍び込んだ盗賊達を殺して屋敷の前に並べておくようにしていたら、ついに(ちまた)で幽霊兵士が守る屋敷として有名になりました。

 しかし、まさか自分達の将軍がいない間にそんなことがあったとは言いたくない兵士達により、死体はいつも綺麗に片付けられ、彼女はその事実に全く気づいていません。しかし、毎回、彼女が留守の間にばかり死体が並んでいたのが悪かったのでしょうか。ついに、彼女が屋敷で暮らしている間に、盗賊が忍び込んだようです。

 私も、まさか彼女の在宅時に賊が忍び込むなど、考えもしませんでした。何とも、王都とは危ないところです。都会とは怖ろしい場所だと、改めて感じました。

 ですが、ちょうど同じ通りに住んでいるフィーリンクールが、夜中に変な男達が彼女の屋敷に向かっているのに気づき、尾行したそうです。不用心にも窓を開け放して寝ていたサーライナの部屋に、賊は金具付きの縄を投げて忍び込んだとか。

 言うまでもないですが、サーライナは殺気にしか反応しません。無防備に寝ているサーライナに手を出そうとした賊に、窓下にいて漏れ聞こえる会話からそれと察したフィーリンクールが殺気を放った途端、サーライナはむくっと起き上がり、寝ぼけたまま、賊共を窓から落としたそうです。そして、また寝てしまったとか。

ですが、その程度では賊もちょっとした怪我しかしておりません。その頃には落ち着いていたフィーリンクールは、

「無抵抗な女を襲うような男にはぁっ、天誅よっ!」

と、地面に転がっている賊の腕や脚を持って振り回し、地面に叩きつけたとか。それからフィーリンクールは、「ふっ、今日も醜いものを殴ってしまったわ」とか言って、帰宅したそうです。

 次の日、サーライナが凄まじい力で賊共を地面に叩きつけたことになっていました。

 現在、在不在を問わず、サーライナの屋敷はとても安全になっております。以前はサーライナの姿を一目見ようと、わざと何度も通り掛かっていた男もいたものですが、今は一人もいなくなりました。




 フィーリンクールですが、

「サーライナにはいい伴侶を見つけて幸せになってもらいたいのよね。私もいい人、いないかしら」

と、いつも呟いています。ですが、あの怪力女を口説ける人間は、ロームにいないような気がしてなりません。

 ですが、サーライナの伴侶については、私も同じ意見です。

サーライナよりも強くて、サーライナにきちんと美味しいご飯をたべさせてあげて、サーライナを好きなだけ寝させてあげるような、包容力のある男が現れてくれないものかと、今日も部下達を叩きのめしながら、いい男を探す努力をし続けております。


 それでは皆様によろしくお伝えください。 ファスレイジードより 」




 その報告書を読んで、神官長は大きく息を吐き出した。周囲に集まっていた神官達に、それを渡して、好きに読ませる。

どうせ、自分への定期報告は最初の数行、後は他の神官達にあてた私信にすぎない。

 そして自分を困ったような瞳で見てくる神官達を見渡し、神官長は深い底なし沼のような溜め息をついた。


「ファスレイジードこそ、神殿に閉じ込めておくんだった。・・・あいつがいる限り、サーライナの伴侶など、見つかるとは思えん」






 神官ファスレイジードは、違う名前と経歴を作り上げ、それを自分にも徹底させている。全く違う人格と経歴を自分に思い込ませてもいるのだ。だから、ちょっとやそっとでは彼をファスレイジードと見抜くことなどできない。

 仮に、サーライナが自分の異能を使っても、ファスレイジードに気づくことはないだろう。なぜなら、ファスレイジードは本来の自分とは全く違う思考と行動を、自然に演じているからだ。そこに変な不具合など存在しない。

 いつものように住処に戻り、炎を見ながら、彼はファスレイジードという人間に戻る。


(やれやれ。サーライナ、・・・まさか、君が本当にあの男を伴侶として愛していたとはね)


 本当は、あのカロンという男を適当な場所で処分するつもりだったファスレイジードだ。だが、そのチャンスは何回かあったものの、・・・実行するのを躊躇わずにはいられなかった。

 それは、カロンがあまりにもサーライナを一途に想っていたからなのかもしれない。

そして、サーライナを侮辱する人間に対して全く容赦しない男だったからなのかもしれない。

それとも、部族の血など一滴も持たぬくせに、神に捧げる舞を習得する程に努力を重ねる人間だったからなのだろうか。

さすがのファスレイジードも、カロンならば許せるかと思うようになっていたのだ。

そして、流産したとはいえ、まさかの妊娠といったサーライナの事態に驚愕したのは、ファスレイジードだけではなかった。

報告書を読み、遠く離れた地で神官長は長い時間、考え込んでいた。


「サーライナは騎士団を辞めたという。だが、未だに彼女は生きている。その上、流れたとはいえ、一度は妊娠したとか。・・・サーライナへ薬草を、そしてロームに人を送り込むのだ。彼女を決して死なせてはならぬ。二度目の妊娠、それがあればいいのだが。やはりサーライナこそ、鍵かもしれぬ」


 神官長の言葉に、居合わせた神官達があまりの驚きに息を呑み、鳥肌を立てる。まさか、サーライナが本当に妊娠するなど。誰もがそんな事態を信じてはいなかったからだ。


「こうしてはいられませんわ、神に祈りを捧げなくては」

「こんな奇跡があるとは。・・・神官長様、こういった前例はあったのでしょうか」

「ああ、可哀想に。サーライナ、どんな辛い思いをしていることでしょう」

「しかし、これで神官長様の決断が正しかったことになります。未だにサーライナは生きている上、・・・妊娠したのですから」


 そんな彼らを見渡して、神官長は痛みを堪えるような表情で言った。


「前例はない。・・・サーライナが初めてなのだ。今後、サーライナがどうなるかも分からん。出来得る限り、部族の者達をロームへ向かわせるのだ。我ら部族の命運をサーライナに賭けるしかあるまい」


 けれども、その彼らの期待を裏切るかのように、サーライナの二度目の妊娠はなかなか報告されないまま、年月が流れた。






 ローム王国が、王妃の母国である隣国パストリアと戦ったシールルー平野。

 そこで、神がサーライナに降りたとの報告を受け、神官長は目を閉じた。心配そうに、神官達が彼を見つめてくる。


「やはり、・・・サーライナこそが神の意を受けた者だったか」


 神官長の言葉に、神官達も涙ぐむ。


「サーライナの産む子が、ロームの地に根づくということですか」

「神は、その生した子がそこに根を下ろすことで証とすると、お告げになりました。ならば、今度こそ・・・」

「ですが、本当に今度は流れずに済むのでしょうか。サーライナは前回、あんなにも寝込んだのです。今度、同じことになったらどうなりますことか・・・」


 それぞれに抱く不安を口にする神官達だが、それはサーライナを案じればこそ、でもあった。


「いいや。間違いあるまい。神殿を拒否した異端の神官。子を生せぬ筈なのに妊娠した異能の者。何よりも、この地を離れ、更に様々な男女と交わっても尚、神が降りる存在。・・・サーライナこそ、我らの道標(みちしるべ)だったのだ」


 神官長の言葉に、万感の思いがこもる。

思い起こせば、長い日々だった。優秀な人間達を引き返せない旅へと送り込み、その結果も出せぬまま、いたずらにその優れた者達を異国の地にて失い続けてきた。

そんな日々も、これで終わりが来るのだ。


(許せ、サーライナ。・・・そんなお前を一人で逝かせてしまうことを)


 恐らく、彼女の体は今度出産したら、もう長くはもたないだろう。

 サーライナよりもはるかに過酷な日々を送った人間もいる。辛く悲しい終わりを迎えた者も。それら全ての遺体を秘密裏に引き取り、こうして祈りを捧げ続けてどれくらいの年月がたっただろう。


「これでようやく、・・・犠牲も終わりが来る」


 神官長の言葉が、様々な思いを孕んで、その広間に響き、・・・消えていった。






 神官ファスレイジードは、最後の報告書を書いていた。

 

「 親愛なる神官長様

定期報告を申し上げます。これが最後です。なぜなら、もうサーライナはいないのですから。

 サーライナが亡くなり、私の役目は終わりました。

 ですが、サーライナの残したエルセットがいます。私は、あの子の成長をそっと見守っていきたいのです。サーライナによく似た、しかしサーライナと全く似ていないエルセットはすくすくと育っています。

神は我らに新しく生きる場所を探せと、その地を指し示すのが、我らの部族の者が産んだ子をもって証とすると、お告げになりました。ですが、このロームは既に居住する民がおります。・・・これは、ロームの民に、我らが混じっていけということなのでしょうか。私にはそう思えてなりません。新しい場所を与えるのではなく、新しい国に混じっていけということなのだと。

 ですが、そうなれば我らの部族の信仰はどうなるのでしょう。

 我らが神は、この地では誰も知らぬ神です。今更、ここの民に受け入れられるとは思えません。

 エルセットも、我らが民のような名を持ちません。この変化こそが、神の御心なのでしょうか。

 ですが、私も年老いました。これ以上は考えますまい。ただ、エルセットを見守り、そしてこの地で果てようと思います。

 いずれ、ファスレイジードとしての人格は封じてもらうつもりです。残り少ない日々を、このロームに住む、ただの爺として過ごしたいのです。

 死んだ後に葬られる墓という物は不愉快ですが、時折エルセットが訪れて花を手向けてくれるなら我慢も出来ましょう。

 神官長様方は、神殿を出ぬ覚悟を決められていらっしゃるとか。

 ですが、もしも気が向かれましたら、この地にサーライナが残した、新しい道標をご覧になりにお越しください。

 異能を持たず、部族の強さも持たず、そして何も知らない、・・・我らが愛し子の姿を。

 

 遠い異国の地にありて、かつての神官長様のご決断に感謝申し上げます。 ファスレイジードより 」






 かつてファスレイジードと名乗っていた男を見つけ、エルセットが笑顔で駆けてくる。まるで、昔、よく似た少女が同じ笑顔で駆けてきたように。


「聞いてよーっ。ひどいんだよ、お父さんもトレスト兄もっ」

「どうした、エルセット」


 どうせ自分に甘えているだけなのだ。大した悩みでもあるまいと、男は笑いながら、それでも尋ねてやる。


「まあ、部屋に来なさい。うちのばあさんが作ったお菓子があるから、それを出してやろう」

「やったぁっ」


 大きくなっても甘いものが大好きなエルセットだ。それでも子供の頃とは違い、抱きついてくることはなくなった。それを寂しくも思うが、ここまで大きくなった青少年に抱きつかれても困る。

 男の妻が用意したお菓子とお茶を出され、「ありがとう、おばあちゃん」「ほほ。エルセットは本当にいつも可愛いわね。今日のパイは自信作よ」と、会話している様子もいつものことだ。


「で、どうした、エルセット?」

「そうだよ、聞いてよ、おじいちゃん、おばあちゃん」


 ぱくぱくと食べながら、エルセットが思い出したように身を乗り出す。


「ひどいんだよ、お父さんもトレスト兄も、僕がこんなに悩んでるのにっ」

「ほう。・・・で、何があった?」

「実は、・・・・・・ちょっと面倒な女の子に興味を持たれてしまって、それが困るから逃げてるんだけど、お父さんは『しょうがないな。じゃあ、よその国に夜逃げでもするか?』で、全く真面目に考えてくれないし、トレスト兄は『物珍しさだろ。いずれ飽きるさ』で、相手にしてくれないんだっ」


 プンプンと怒るエルセットだが、男はさっと妻と目を見交わした。

 エルセットは父親が真面目に考えていないと思っているようだが、カロンは冗談など言わない。エルセットにしてみれば、騎士団の将軍である父が他国へ夜逃げなど現実的でないと思っているのだろうが、・・・あの男は常に本気だ。


「面倒な女の子、か。エルセット、・・・お前の父親と上司が揃っていて、そう厄介な女の子がいるとは思えんのだがな。一体、どこの女の子だ?」


 男は、そう尋ねた。まさかと思うが、フィツエリ男爵令嬢ルーナ姫のような、常識と恥じらいを無視した令嬢が、エルセットの前にも現れたとでも言うのだろうか。

 そこでエルセットは、泣きそうな顔で男を見た。


「秘密に、・・・してくれる?」

「勿論だ」


 男が力強く頷くと、エルセットは覚悟を決めたように言った。


「・・・王女様」

「どっちの?」

「上の方」


 さすがの男も妻も、目で合図せずにはいられない。


「なんか、ルーナお母さんのことで興味持たれたみたいで、何かと絡んでくるんだ。だけど僕、そういうの困るんだよ。だって、王女様なんて、様々な偉い貴族の人達が注目してるんだからっ。なのにフォンゲルド将軍なんて、『男ならどうにか切り抜けろ』なんだよっ。信じらんないっ」


 ふんぎゃーっと喚くエルセットの肩に、男はそっと労わるように手を置いた。


「辛かったな、エルセット。お前なんて、どっちかっていうと、そんな偉いお姫様より、パン屋とかチーズ屋で働く娘さんの方が、好みなのに」

「そうっ、そうなんだよっ。おじいちゃんなら分かってくれるよねっ」


 分からない筈がない。それこそ小さな赤ん坊の頃から見守っていたエルセットだ。

 エルセットは着飾った姫君と美しい広間でダンスを踊るより、花咲く草原で笑顔の可愛らしい素朴な娘さんと一緒に林檎でも齧っている方を選ぶだろう。

 そう、まだ色気より食い気なのだ。


「まあ、王女ならそろそろ年頃だ。外国の王子か、この国内でも王家筋、それこそ公爵か侯爵クラスの人間と縁組も決まるだろう。あと少し逃げておけばどうにかなると思うが、・・・だが、お前、王都騎士団に移ったと言っていただろう。王女と接触できるのなんて近衛騎士団ぐらいだろうに、どうやって知り合ったんだ?」


 男は、そこを尋ねる。


「それがさ・・・。実は近衛騎士団で王女の護衛にまわされて、そこで興味を持たれたっぽいから、お父さんの所に異動しようとしたら、フォンゲルド将軍に捕まって王都騎士団に異動になったんだよ」

「・・・馬鹿か」

「だからぁっ、言いたくなかったのにぃっ」


 エルセットがバタバタと足を地団太(じだんだ)踏んで(わめ)く。

 王都騎士団に異動した理由は教えてもらえなかったのだが、どうやら他の人にも馬鹿にされたからだったらしい。


「だが、王都騎士団に移ったなら、そこで縁が切れただろう?」


 男は、片眉を上げながら尋ねた。


「その筈、・・・だったんだ。なのに、なぜかフォンゲルド将軍ってば、王女様と一緒にいることが多いらしくて、そこで見つかってしまって・・・・・・。これはもう、逃げるしかないと思って、ローム国騎士団への異動願いを出そうとしたのに、したのにぃっ・・・」


 男は、ロメスの顔を思い浮かべた。・・・なるほど、あの男ならその異動願いを握り潰すぐらいするだろう。

 王女もエルセットの何が気に入ったのかは知らないが、迷惑なことだ。

 エルセットは高嶺の花などに手を出す気などない、そんな堅実さの持ち主だと言うのに。

 男は妻と視線だけで合図した。

 そっと男の妻も、エルセットの肩を抱く。


「おばあちゃん・・・」

「大丈夫よ、エルセット」


 男の妻は、優しくエルセットに微笑んだ。

やっと自分に共感してくれる人がと、感動でエルセットの瞳に涙が滲む。


「夜逃げする時には、私達も一緒に行ってあげますからね」


 ひくっと、エルセットの頬が引き攣った。きっと、父のカロンと一緒で、ひどい冗談だと思ったのだろう。


「・・・ちっがーうっ!」


 閑静な屋敷に、エルセットの悲鳴が轟いた。

 重ねて、「ひどいよ、みんなして」と、ぐじぐじと言い始める。その内、地面にのの字を書き始めそうな勢いだ。

 なんだかなぁと、男は思った。


(これでも、一応本気なんだがな。大体エルセットがいなくなるなら、うちの部族も一緒に旅立つことになるだろうがよ)


 エルセット・ケイス。周囲からは一緒に夜逃げしてもらえる程度には愛されているのだが、その事実を本人だけが分かっていない青少年である。知らないとは、何とも不憫なことだ。

 まさか、他国もカロンを引き抜くより、人並み程度の出来だとされているエルセットを引き抜いた方がはるかに良い結果になるとは、思いもしないことだろう。

 

(エルセットは自制心のない奴じゃない。王女に好意を持たれても手など出さんだろう。・・・だが、それを目障りとして始末されても困る。それとも、・・・王はどう出るのか)


既にもう報告書を出す義務はないのだが、・・・さて、これは久しぶりに神官長に手紙を出すべきかなと、男はしばし考え込んでいた。


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