22 二人で分かち合うということ(レイルの心が願うこと)
○月×日
匿名X:恋人に振られました。恋人としては愛しているけど、俺の稼ぎでは結婚相手としては見られないそうです。・・・ちくしょうっ、俺だって、俺だっていつか出世してやるからなぁっ。その時に後悔しても、遅いんだからなぁっ!
匿名A:そんな女、別れて良かったんだよ。・・・ちゃんとお前の全てを愛してくれる女と、いつか出会えるさ。大体、食っていける程度の給料は出てるんだから。
匿名B:結婚相手としてXと出会ってくれる女の為に、今の別れがあるんだよ。いつかそんな別れをした元恋人の為でも優しい気持ちになれるような、そんな愛があんたを待ってるって。
匿名C:その通りさ。もしそんな女と結婚してみろ。毎日のように「安い給料のくせに」とか、「あんたの稼ぎじゃ何も出来ない」とか、「同じ騎士団でも○○さんなんてね」とか言われるんだぜ。・・・ああ、いっそ別れてくれればあの言葉も聞かなくて済むのに。
匿名D:ごめん、XよりもCに同情した。・・・辛いな、C。それでも耐えて頑張るCを心から尊敬する。
匿名E:・・・これは独り言なんだが。毎週の木曜午後、王宮西側裏口から下働きのお嬢さん達が実家に帰る。そして家族にお土産を買って帰ってあげようと、西の商店街をよく利用している。偶然、騎士団の個人的な見回りがあって、そこで大きな荷物を持って難儀しているお嬢さん達に手を差し伸べて、「これも治安維持の為に働く我らの仕事ですから」と、紳士的に送るだけに留めてたりしたら、・・・良い人だなって好意を抱いてもらえるかもしれないな。それから交際に発展してもおかしくないだろう。・・・ただし、騎士団の品性を落とすことをしたらぶちのめすので覚悟しておくこと。
子供達は狭い所が大好きだ。
カロンは市場で買ってきた小さなベンチを使い、小さな秘密基地を作ってやっていた。パッと見は、ただの小さな箱型ベンチなのだが、その座席の下に、小さな子供なら隠れることが出来るように。
「僕がここに座ってるから、アレナはこの下に隠れるといいよ」
「じゃあっ、この下に虫も隠しちゃおっ? 蛇の抜け殻も入れちゃうっ?」
「あっ、アレナッ、それ、僕の抜け殻っ」
「違うもーんっ、これはエルお兄ちゃまにもらったんだからっ。ファレンのじゃないもんっ」
「えーっ、ずるいよっ」
どたばたと、二人はすぐに喧嘩する。カロンはいつものことなので放っておいた。
だけど仲直りも早い。しばらくして見に行ってみたら、二人で仲良くそのベンチに座って寝てしまっていた。
(やれやれ。子供ってのは、どうしてすぐに喧嘩して泣いて仲直りして笑ってと忙しいんだろうな)
カロンは二人を抱き上げると、子供達の寝台に寝かせる。双子の二人は性別も違い、顔も似ていないのだが、何かと一緒なので同じ寝台で寝かせていた。
次男のファレンはルーナそっくりの髪と瞳の色合いで、長女のアレナはカロンそっくりの髪と瞳をしていた。男の子は女親に似て、女の子は男親に似たということなのだろう。
トレストとエルセットを見ていても不思議な感慨が浮かぶが、ファレンとアレナを見ていてもやはり不思議な気分になる。どんなに親に似た顔立ちをしていても、全く違う性格と人間関係を持つ別個の人間だと感じるからだろう。
結果としてケイス家の子供達、つまり長男のエルセット、次男のファレン、長女のアレナは、三人とも全く容姿は似ていない。けれども仲は良かった。エルセットも弟妹達を可愛がっていたからだ。
「あら。二人とも寝ちゃったの?」
「ああ。市場にも行ったし、疲れたんだろう。夜、眠くないと言い出さない程度に、あとで起こしてやればいい」
そこへ、ルーナが様子を見にやってくる。
トレストとエルセットにしょうもない話を聞かせていた筈だが、さすがに終わったのだろう。新郎が男と浮気していただなんて話を、出来れば子供達にはしないでほしかったのだが。
しかもその男達は騎士団にいたというあたり、二人の情操教育を考えるとあまりよいことでもないような気がしてならない。・・・それとも、二人の警戒心を育てることを考えれば良かったと思うべきなのだろうか。
カロンが自分の部屋に戻ると、ルーナも一緒についてきた。
「どうした?」
「ん・・・。ちょっと思い出して。言ってなかったなあって」
「何がだ?」
カロンは、子供達の様子を見に行く為に中断していた書類を見直しながら尋ねた。ルーナは少し躊躇っていたが、覚悟を決めたように言った。
「ありがとうって言ってなかったわよね、私」
「だからどの件だ? 今までお前がまともに礼を言ったためしなど、一度もないだろうが」
「うっ・・・」
それを言われるとルーナも反論できない。自分とて、その自覚はあるのだ。
「えーっと、・・・だから。あのデクシムまでケリスエ様と迎えに来てくれたじゃない? あの時、あんたも来てくれてたのに、お礼は言ってなかったなあって」
「別に今更だ。・・・それに、俺は彼女についていっただけのことで、その先にお前がいただけじゃないか。礼を言われるようなことなど無い」
ムッときたのか、カロンの前に椅子を持ってきて座ると、ルーナは書類の上に自分の手を置いて邪魔しながら、カロンに文句を言った。
「素直に礼ぐらい受け取りなさいよっ」
「分かった。じゃあ、今、受け取った。ほら、その手をどけろ」
だが、ルーナはそのまま動かなかった。
「どうした?」
「・・・一応、これでも感謝はしてるのよ。それなりに」
「それなりに、ね」
どうせルーナのカロン限定礼儀知らずは、今に始まったことではない。
「あの役立たずだったお兄様は恨みをこめてさっさと禿げやがれって思ってた結果も出てるからいいけど、でもってあの阿呆アーファイドも自業自得だと思ってるからいいんだけど、・・・あんたにはかなり甘えちゃったわよね。ごめんなさい、本当にありがとう」
「・・・明日は雪か? 雹が降るのか? それとも槍か?」
「まだ夏よっ」
トレストやエルセットに話しながら、あの頃をきちんと振り返ればルーナもカロンにかけた迷惑がどれ程のものだったかもよく分かるわけで、やはりけじめはつけておくべきかと、今頃になって思ったのだ。だが、カロンにしてみれば、かなり昔のことだった。
「そりゃケリスエ様には遥かに及ばないけど、あんたもいい奴だったなって思ったの」
「別に無理しなくていい。俺だって、お前では彼女に太刀打ちできるどころか、比べ物にもならんと思ってる」
「当たり前でしょ。あんただってあの人の足元にも及ばないわよっ」
そこでルーナも言い返したが、少しいつもの元気が足りなかった。
カロンは、立ち上がって棚から小さなカップを取り出す。そこに秘蔵の酒を注いでルーナに差し出した。
「ほら」
「ん」
受け取って飲めば、少し甘いそれがのどをゆっくり通り過ぎる。
「懐かしい。・・・これ、お好きだったのよね」
「ああ。たまに飲んでは嬉しそうにしてたな」
そこでルーナは、寂しそうな口調になった。
「思い返したらさ、ケリスエ様を本当の意味で知ってる人って、もう少ないのよね。だってケリスエ様ってば、この屋敷にもほとんどお客を来させなかったじゃない? 強いのを知っている人はまだ多いけど・・・。ケリスエ様が本当に優しい人だったってこと、・・・知らない人の方が多いのよね」
「そうだな」
カロンは別にそれでもいいと思っているが、ルーナにしてみればかなり不満らしい。
「あんたは口惜しくないわけ?」
「別に。・・・あの人のことは知ってる奴だけ知っていればいい。将軍だったあの人の下についていた人間は全員そう思っていた。だからあの当時、ローム国騎士団の部隊長達は寡黙とされてたんだ。あの人をよそに分け与える気なんざ全く無かったからな。よその評価なぞ不要だ。俺達は俺達の価値観であの人の下にいた」
「はぁ? 何よそれ」
「俺だって同じだ。あの人がお前を可愛がるから仕方ないと思ってただけで、そうでなけりゃこの屋敷にも入れなかったさ。あの人は俺達のトップとして全てを掌握していたが、同時に俺達のものだった。独占欲は、別に女だけの専売特許じゃない」
「・・・ふぅーん」
どちらにしても、今となっては亡くなった人のことだ。ルーナとしても、過去に戻って張り合えるものではない。
「優しい人だったわ」
「時に無神経だったけどな」
カロンの補足に、ルーナはちょっとムッとする。けれども、再び夢見るような顔になった。
「いつでも格好良かった」
「そうだな。ズボラでガサツだった」
人目がある時にはきちんとした格好をしていたものの、屋敷ではかなりくつろいでもいた。
デクシム領から連れ出されてからこの屋敷に匿われたルーナとロシータだが、カロン以外の男の目が無いこの屋敷では、眠そうに欠伸しながらカロンに何かと世話させているのを見てびっくりしたものだ。
そんなところも素敵だと、ルーナは惚れ直していたが。
「そっと笑ってくれると、いつだって幸せな気持ちになれたの」
「その裏で色々な悪だくみもしてたんだ、あの人は。本当にどうしようもない人だった」
養女としてフィツエリ家に戻ったルーナだったが、デクシム子爵家は既にルーナの病死を発表し、フィゼッチ将軍だけではなく、国王の従兄にあたるリガンテ大将軍の使者にすら、ルーナの闘病について、そして亡くなり方についてもきっちり報告してしまっていた。
そうなると、誰がどう見てもフィツエリ邸にいるのが亡くなった筈のルーナ本人であっても、何の手も出せない。そして、ケリスエ将軍はリガンテ大将軍にも前もって話をしていた。
愛娘をそんなぞんざいに扱われたフィツエリ男爵家とデクシム子爵家との私怨による戦争を起こさせるより、ここはルーナの結婚歴を無かったことにする流れで持って行き、後は両家の断絶程度で済ませた方が良い、と。ローム国内での内戦など、そこを他国に利用されたらとんでもないことになる。
だから、ルーナが生きていると知ってもデクシム子爵家が手を出せぬよう、「デクシム子爵とアーファイドは、きちんとルーナの死を見届けたと、自分達から言った」という流れに持って行かせたのだ。フィツエリ男爵家も、王の内意を受けたリガンテ公爵がルーナの為に動いたことで、譲歩したのである。
「誰よりも懐が広い方だったわ」
「ああ。一度拗ねたら、機嫌をなおしてもらうまでが大変な人だった」
「どんな人からも好かれてたもの」
「特別指導を喰らった奴らからは、悪魔とも恐れられていたがな」
二人は少し目を伏せながら、そのカップの中の酒を見つめた。
互いに全く違うことを言っているようでありながら、お互いの意見が正しいことを二人は知っている。どの言葉も彼女を表し、そしてそんな言葉だけでは表しきれない。
そう、きっと互いの気持ちを分かるのは自分達だけだ。自分達は水鏡に映った似姿のようなもの。互いに男女の愛情は無いが、それでも同じ気持ちを抱いている。
ルーナは「だから」と、
カロンは「だけど」と、言葉を重ねた。
声には出さず、唇だけで・・・・・・。
「「誰よりも愛してた」」
そんな二人はそっと目を閉じた。
時は容赦なく過ぎていく。あの人が自分を呼ぶ声も、振り返った時の表情も、今は遠い記憶の中にしかない。
軽くカップを掲げて、それを口に含む。彼女がたまに飲んでいたそれは、少し甘めの酒だった。あの頃、一緒にそれを飲んだ人はもういないけれど、それでも同じ香りがのどを通り過ぎていく。
そんな二人がいる部屋の扉は開け放されていた。
二つ隣の部屋でルーナの話を聞かされていたトレストとエルセットはそのままそこにいたのだが、カロンとルーナが一番奥の部屋に入っていったものだから、つい廊下へとその様子を窺いに行く。で、その会話も聞いてしまい、・・・やはりこの夫婦の関係は分からないと、互いの瞳を見交わした。
「ていうか、トレスト兄。サーラお母さんって、無神経で優しくて、ズボラでガサツで格好良くて、笑顔が素敵でその裏で悪だくみもしてて、懐が広いのに拗ねたら大変で、怖がられてて好かれてたって、・・・何なわけ?」
ルーナの話を聞いていたら、まさに白馬に乗った王子様よろしく、辛い思いをしていたルーナを連れ去り、フィツエリ家の用意が整うまで匿ってくれた恩人のようだったが、・・・そうなると、それはルーナの夫だったアーファイドのように、女同士の愛がそこにあったということなのだろうか。
けれどもルーナの話を聞いている限りでは、その時にはカロンの妻だった筈のサーライナに、そんな後ろめたさみたいなものは全くなかった。しかもカロンも了承の上となると、何が何やら。
「神秘的っていうことにしといたらどうだ?」
「複雑怪奇ってそういう意味だったっけ?」
「・・・・・・どうなんだろな」
話を聞けば聞くほど分からなくなるケリスエ将軍像に、二人は少し途方に暮れた。
貴族同士のサロンや夜会、そういった社交をしないと割り切れば、フィツエリ邸での日々は穏やかなものだった。
結婚が決まったロシータはすぐにいなくなることが分かっていたが、慣れ親しんだフィツエリ家の使用人達は、傷ついて戻ったルーナを優しく迎え入れた。
「ルーナ様。・・・もう我慢なさることはありませんわ。・・・どんなにお辛かったことでしょう。私共もっ、それこそ私だけでもご一緒に行っておれば、そんな目に姫様を遭わせませんでしたのにっ」
「その気持ちだけで十分よ。それに、ロシータを連れていっただけでも、かなりお義母様には嫌味を言われたもの。あんな思いを、皆にさせなくて良かったの」
そう微笑むルーナに、侍女達は余計にデクシム子爵家に対する恨みを募らせた。ルーナの嫁入りに際して、自分達がどれ程に心を砕いて衣類も道具も吟味して用意したことか。それすら全て取り上げられていたなど、どうして許せるだろう。
気が強く、言いたい放題やりたい放題のルーナだったが、決して横暴さなどは無かった。そんな天真爛漫なところを皆は愛していた。そんな彼女が、全てを諦めきったような寂しげな微笑を浮かべるようになって帰ってくるなど、誰にとっても屈辱でしかなかったのだ。
「本来、あんなデクシム子爵家など、姫様が嫁がれるような家格でもなかったというのに。・・・なんて思い上がりも甚だしいこと。絶対に許せませんわっ」
「いいの。・・・それに、もう忘れたわ、あんな人達のことなんて」
そんなルーナを救い出し、大事に預かってくれていたケリスエ前将軍の屋敷にも、ひと段落がついてから、フィツエリ邸を取り仕切る家令と侍女長は礼を言いに訪れた。
「ご丁寧に恐れ入ります。・・・ルーナ姫は、今まで大切に育てられ、大事に扱われていた姫君です。愛されて育った分、普通の人よりも悪意に慣れていらっしゃらない。・・・だから心の傷も深いのでしょう」
サーライナは、そう二人を迎え入れて言った。
「けれども人は立ち直ることが出来ます。人に傷つけられた心は、人の優しさで癒されることが出来る。どうか、フィツエリ邸の皆さんで、彼女を守って差し上げてください」
自分達が仕えるルーナが何かとくっついているのは知っていたが、こうして間近に会うのは初めてのケリスエ前将軍である。家令も侍女長も、彼女から頭を下げられてさすがに慌てふためいた。
男装した姿で馬に餌をやりながら戯れている所へやってきてしまったのだが、こうして室内に招き入れられてみると、全く違う貫禄がそこにある。
「こちらこそ当家のルーナ姫をお救いくださいまして、お礼の申し上げようもございません。ロカーン様はフィツエリ領にお戻りになってしまいましたが、これからは私共がルーナ様を守ってまいります」
「本当に、ケリスエ様には感謝してもし足りません。どうぞこれからはフィツエリ邸にもお顔をお見せくださいませ。ルーナ様もお喜びになります」
そんな家令と侍女長に、サーライナは静かに首を振った。
「私との繋がりは知られない方がいいでしょう。ルーナ姫の救出はあくまでフィツエリ男爵家の方々が行った、・・・それでいいのです。変な勘繰りをさせては、姫の為になりません」
一部の人達にはバレバレな事実だが、それでもデクシム子爵家が知ったら何を言い出すか分からない。サーライナはそう二人に説明した。
改めて家令と侍女長は、いずれルーナが生きていることを知ったデクシム子爵家がどう出てくるかを思い、心を引き締めたのである。
人というのは、何度でも繰り返す生き物だ。
浮気癖のある人間と、金遣いの荒い人間の、「もうしない」という約束は信じてはいけない。それは常識である。そんな約束を信じることが出来る人間は、そういった人間で痛い目に遭ったことがないか、遭ってもそれを忘れられる才能を持っているということだ。
「無理だ、ローラン。うちに、そんな余裕はもう無い」
「お前しか頼れる奴はいないんだ。頼む、アーファイド。以前だってお前だけが俺を助けてくれたじゃないか」
「あれは、ルーナの持参金があったからだ。しかも、それを使ってしまったのが父にばれて、どんな騒ぎになったことか。おかげでルーナが生きていることが分かってもフィツエリ家には何も言えない有り様だ、うちは。・・・大体、あの金だって返すと言いながら、全くお前は返さなかったじゃないか」
「それはごめんって。だけど王都騎士団での新生活は色々と物入りだったんだよ。しょうがないだろ? ちゃんと返すよ、だから頼むっ。今度だけは助けてくれっ」
神妙に頭を垂れるローラン・フェイトスだったが、そこでアーファイド・デクシムも「はい、そうですか」と、言えるものではなかった。
よりによって、ローランは王都騎士団でも使い込みをしたのだ。しかも、監査が数日後に迫っているらしい。それまでに使い込んだ金を返しておかねばまずいと、ローランはアーファイドに金を貸してほしいと泣きついてきたのである。
「無い袖は振れん。ローラン、・・・せめて実家の伯爵家を頼れ。お父上が駄目でもお母上、それに兄上や、嫁ぎ先の姉君だっていらっしゃるだろう」
「それがもう駄目なんだって。俺は既に勘当されているし、父も兄も俺にだけはもうびた一文出さないと、門番にすら俺がやって来たら叩き出していいと命じている始末だ。・・・母には、誰かを通して手紙を渡すことは出来ても自由になる金はないしな。それに、姉の所には、・・・顔を出したら俺が殺される」
「殺されるって、・・・お前、何をやったんだっ?」
「いや、誤解だ。誤解なんだって・・・」
ローランが説明したところによると、姉の嫁いだ先には、その夫に妹がいて、妹がローランに惚れてしまったのだとか。そして妹がローランに迫っているのを見かけた姉の夫は激昂し、二度と来るなとローランを叩き出したのだという。
「・・・ローラン。本当のことを言え。その妹がお前を口説こうとしても、それで殺されるだの何だのということにはならない筈だ」
「いや、本当に嘘はついてないって。・・・ただ、ちょっとその妹に迫られた際、そこに長椅子があってな、そこへ突然だったから押し倒されてしまった所を見つかってしまったんだ。あれはタイミングが悪すぎた」
アーファイドは、溜め息をついた。それなら決闘騒ぎにならなかっただけマシかもしれない。まだ訪問してきたら殺すと脅される程度で済んだなら良かったといえるだろう。
(それでは、姉君も頼れない、か・・・)
もしもアーファイドが、ローランがついた嘘の真実を知ったら、何と思ったことだろう。だが、アーファイドはローランの一方的な話を信じた。そこに、その姉の義妹とやらはいなかったからだ。
真実は、嫌がる義妹を無理矢理に襲おうとしていたのだと知ったら、さすがのアーファイドもローランに見切りをつけていたかもしれない。けれどもローランは見た目も爽やかで、楽しい話題も豊富な、魅力的な男だった。それこそ、恋も知らぬ少女がのぼせたとしてもおかしくないと、アーファイドが思う程に。
「だが、今は何を言っても仕方ない。ローラン。それでも親戚の誰か、叔父や叔母、その子供達でも頼れる人間はまず頼れ。俺は出掛けてくる」
「分かった。・・・なあ、アーファイド。俺にはお前だけなんだよ」
「分かったから、まずは頼れるところには全部泣きついて来い。こんな所で待っていても何も変わらん」
「ああ。ああ、分かった。そうするよ」
本当に分かったのかどうかは知らないが、ローランは母方の祖父母の邸に行くと言って出て行った。それを見送り、アーファイドは気乗りしない様子ながらも身なりを整え、そして王都にあるフィツエリ男爵邸に出向いたのである。
フィツエリ男爵邸には、一気に緊張した空気に包まれた。
「ルーナ様。アーファイド・デクシム様がおみえでございます。現在、フィツエリ家の方は誰もいないと伝え、こちらでお話だけ伺っておりますので、お部屋から出ないでくださいませ」
「・・・そう。何しに来たのかしら」
ルーナも今頃になってやってきた元夫に、びくっと肩を震わせた。
絶対に会いたくない、顔も見たくない人間だ。しかし、何の用事なのかは気になる。
ルーナは、こっそりと庭の方から応接室の窓側へとまわった。窓が開け放されているおかげで、庭にいても声が届くからである。
「だからルーナに会わせて欲しいと言ってるんだ。・・・別に何をしたいわけじゃない。彼女と話がしたいだけだ」
「ですからアーファイド様。こちらから嫁いだルーナ様はお亡くなりになったと、他ならぬデクシム子爵家が皆様に公表なさっていらっしゃいますね。・・・現在、この邸にいらっしゃるルーナ様は、お名前もお顔立ちもそっくりですが、あくまで遠縁のご令嬢を養女としてお迎えした方でございます。つまり、あなた様とは全く関係のない当家の大切な姫君、それこそ全く関係のない男性にお会いする理由がございません。また我ら使用人一同、前触れも無ければ、こちらの了承も無しに押し掛けてくるような殿方に、大事な姫様を会わせるようなことがありましては、旦那様に申し訳が立ちません。どうぞお引き取りくださいませ」
一度はルーナの夫だった筈の男だが、家令にかかると、「どこぞの礼儀知らずが、身の程もわきまえずにやって来るんじゃねえよ。さっさと帰れ」となるらしい。言葉だけは丁寧だが、意味としてはそういうことだ。
ルーナは噴き出しそうになった。
(大丈夫。みんな、私を守ってくれる。・・・大事に、してくれてる)
まさかルーナが庭で立ち聞きしているとは思ってないだろうが、家令のような使用人の立場で、貴族であるアーファイドにそこまで喧嘩腰というのもちょっとあり得ない話だ。けれども、それは彼のアーファイドに対する怒りでもあるのだろう。ルーナは涙が出そうになった。
自分が一人じゃないと、今なら信じられる。
思えばいつの間にか、あんなにも卑屈になって自分がその機嫌をうかがおうとしていた人達は、自分の中でどうでもいい存在に変わっていた。
(怖くなんてない、もう大丈夫。あんな人達に何を思われ、何を言われたとしてもどうでもいい。馬鹿にしたいならばすればいい。だって、・・・そんなの、痛くも痒くもないもの)
それはきっと、あの屋敷で、毎日のように甘い言葉をかけてくれた人のおかげでもあるのだろう。一生分の口説き言葉を聞いた気もするぐらいだ。
あの人は、
「あなたを苛めてた? 分かりますよ、姫の涙ならこの世のどんな宝石よりも美しいでしょうから。あなたの泣き顔は、きっと誰もが息を呑む程に魅力的だったことでしょう。ただ、あなたの瞳から零れるそれを眺めさせたかと思うと腹が立ちますね」
とか、
「使用人があなたを無視とは・・・。無視したところで、目に飛び込んでくるあなたの可愛らしさは変わらないのに、愚かなことです。こうして水鏡に姿を映してごらんなさい、まさにあなたは春の女神のようだ。私なら無視するよりも眺めて愛でていたいものです」
とか、
「あなたを泣かせておいて、あのアーファイド殿はキスもしなかったのですか? あなたの涙はこんなにも涼やかなのに。汚れなき光を受けて輝く朝露のようです。それを一度でも味わってしまっていたら、きっと誰もがその場で恋に落ちるでしょう」
とか、ルーナの話をちゃんと聞いてはくれるものの、話す一つ一つを口説き言葉にして返してきたのだ。
近くで聞いていたロシータが、
「お願いです、ルーナ様。あなたみたいなワガママ姫をあんなにも甘く褒められたのでは、私が耐えられません。どうにかしてください」
と、ルーナを責めたぐらいである。・・・仕える主に向かってワガママ姫とは失礼な。
心の痛みを紛らわせる為に、その為だけに、様々な出来事を語っていたつもりが、いつしかそれら全てが全く違った口説き言葉に変化するものだから、やがてルーナも、その時の悲しい気持ちより口説き言葉の方を思い出すようになってしまい、つい笑みが零れるようになってしまっていた。そこに気づいた時には、何だか割り切れない気持ちになったものだ。
「あの・・・、ケリスエ様。私、とっても口惜しかったってことを話しているんですけど・・・」
「ええ。ですからどうぞ話してください。言えば楽になるものです。姫の声は、小鳥の囀りのようでとても可愛らしいですよ。何を話していても」
「もう、いいです・・・。結局、ケリスエ様にとってはどうでもいいことなんですわ」
「バレましたか。実はどうでもいいのですよ、そんな人達のことなど。私にとっては、今、目の前にいる姫だけが特別なのです。ほら、笑ってくれませんか? あなたは誰よりも魅力的です」
拗ねてみせても、暖簾に腕押しと言わんばかりの反応で、何かというと彼女はルーナの髪を撫で、頬や額にキスを繰り返した。日中は草の上に座り、二人で木漏れ日の輝きを楽しんだ。その時も、彼女はルーナを抱きしめたり、その手にキスをしたりして、いつだって褒め続けてくれた。
夕方には帰ってくるカロンがいるから、夜から朝にかけては邪魔しないようにしていたけれど、それでも日中のあの人は、ルーナだけのものだった。
一度は死にたいとまで思っていた筈なのに、いつしか次の日の朝を楽しみに眠るようになっていた。朝食や夕食の席には、そして休みの日にはカロンもいたけれど、四人でとる食事はとても穏やかで、その日にあったことを話したりして、毎日が新鮮な気持ちになれた。
外に出る時は女性らしい服を着るあの人と、一緒に買い物にも出掛けた。仲の良い姉妹のように、友達のように、腕を組んで笑い合って・・・。
そこまで思い返し、ルーナは呼吸を整えた。
(大丈夫。落ち着いて。私はもう負けない。だってもう、一人じゃないから)
庭から室内を通り、廊下へと出る。そしてルーナは、応接室へと姿を現した。
「いきなり女性の一人暮らしの邸に押し掛けてくるとは、礼儀も何もないご訪問ですこと」
久しぶりに見たかつての夫の顔。なのにこんなにも何も感じないものなのかと、ルーナは不思議な気持ちでそう思った。
サーライナはルーナをメロメロに甘やかしてくれたが、カロンはそうでもなかった。というよりも、ルーナの傷ついた心など、どうでもいいというスタンスだった。
お互い、相手を嫌っていたのだからそれはそれで仕方がないのだろう。けれども、お互いに気に入らない理由ははっきりしているので、そこは気に病む必要がなかった。
「ロシータ殿の料理は美味しいが、大変じゃありませんか? 通いの手伝いを雇ってもいいですが、何なら俺が帰ってから夕食ぐらい作りますよ」
「そんな。・・・滅相もないことです、カロン様。こんな簡単な料理ばかりで、・・・お恥ずかしいぐらいですわ。それに、ケリスエ様もルーナ様も一緒に手伝ってくださるので、楽しいです」
「なら、いいのですが・・・。ああ、そうそう、サーラ。アーファイド・デクシムが庇った友人のローラン・フェイトスとやらですが、結局、王都騎士団に入ったそうですよ。で、今はアーファイドと違う騎士団でバレないのをいいことに、従者の少年に手を出しているそうです。浮気、ですかね」
さりげなく世間話として伝えられたそれに、ルーナとロシータは口に含んでいたものを噴き出しそうになった。
「何だ、アーファイド・デクシムはそれを知らないままなのか?」
「そうらしいですね。どうもローランは、男も女も少年も少女もいけるタイプらしく、節操はないようです。ですがアーファイドには他の情事を隠しているようですね。・・・そうなると、ローランにとってもアーファイドが本命なのでしょうか。それともパトロンでしょうか」
ルーナとロシータは、そこで赤くなったり青くなったりした。サーライナとカロンは平然と話しているが、その内容はまるで、・・・まるでルーナの夫であるアーファイドが、男と浮気しているかのような内容ではないか。
だが、カロンはあっさりと片付けてみせた。
「浮気じゃないだろ。アーファイドにとってはローランこそが本命で、ルーナ姫は世間体の為の道具。道具なら、最初っから愛と貞節を誓った妻でも何でもなかっただろうよ。・・・ああ、ルーナ姫があの男に惚れてたんなら、悪いことを言ったか? すまんな」
絶対にカロンは悪いと思っていない。ルーナは断言できる。
そういったことはルーナの気持ちを慮って隠してくれるものだったのかもしれないが、カロンは「当事者が知らなくてどうするよ」といったスタンスで、遠慮なく夕食の会話ネタにしてくれたのだ。
それを、サーライナも止めなかった。
「近衛騎士団でローランが使い込んだという金はアーファイドが支払った為、なかったことになっています。おかげで愛も深まったのか、しばらくローランはアーファイドと共にデクシム子爵邸で寝泊まりしていたものの、最近になって自分の借りている部屋に戻ったようです」
どうやらカロンは近衛騎士団にも王都騎士団にも伝手があるようだった。自分をデクシム領に追い払っておきながら、アーファイドは同性の恋人と楽しんでいたのかと思うと、ルーナも怒りに震えずにはいられない。
「信っじられない・・・。なんて男なの」
「俺にしてみれば、ルーナ姫だってうちで何をいちゃいちゃしてるんだか、それこそお互い様だろ。どっちもどっちな夫婦だ。・・・ああ、だけどルーナ姫は俺に偽装結婚の相手を差し出せとか言ってたか。良かったじゃないか、結婚相手がまさにぴったり偽装結婚な相手で」
「そういう問題じゃないのよっ」
たしかにそういう意味ではお互い相手に全く興味がない結婚相手だったのかもしれないが、偽装結婚とはお互いにその事情を打ち明け合って、そして協定を結ぶものではないか。何も言わず一方的に相手を利用するものではない。
「まあまあ。姫もそう怒らないで。真っ赤になった頬が林檎のようで可愛らしいですけど、食事が冷めてしまいますよ。・・・ところでカロン、それは泳がせてあるのか?」
「ええ。ですが、同性間の浮気など、貴族では当たり前の文化ですし、あまり痛手にはならないかと・・・。どうします、サーラ?」
「そうだな。だが、人の金は自分の物って考える奴の本性は変わらん。・・・いずれやらかすだろう。もしくは色恋による刃傷沙汰か。・・・問題はアーファイドに他の男の影はあるか、か」
「そこらへんはローラン一筋のようです」
ルーナとロシータの悲壮感は、やがてそんな会話を聞いている内に消滅していった。
それはそうだろう。アーファイドに本命がいたとして、その相手が女性ならば、まだ浮気だの何だのと、正妻であるルーナにも立場とプライドがあって言えるものがあったかもしれないが、アーファイドの本命は男。
しかもその本命は、男も女も見境のない浮気な蝶々・・・。あっちにひらひら、こっちにひらひら、今日も今日とて花を口説いてはひと時の翅を休めているときたものである。
「すみません、ルーナ様。私、アホらしくなってきました。ええ、もうどうでもいいです」
「ちょっとっ。見捨てないでよ、ロシータ。私だって、もう馬鹿馬鹿しくなってきてるわよっ」
乳姉妹であるロシータにとっては考えられない事態だったのか、考える価値もない事態だったのか、デクシム家のことはすっぱり記憶から削除したように、一気に屋敷の家事に勤しみ始めてしまった。ルーナの愚痴も聞いてくれないどころか、「はいはい、邪魔ですからどいててください」と、相手にもしてくれない。
屋敷にある裏庭で、のんびりと岩に腰掛けているサーライナの膝に頭を載せて寝転がりながら、ルーナは呟いた。今となっては、優しいのはサーライナだけだ。
「ケリスエ様。・・・私、何のための結婚だったのかしら。デクシム邸やデクシム城での日々って何だったのかしら」
「そうですねえ。旅に出てたと思ってはいかがですか? 旅先は不自由なことも多い。物も足りないですし、辛いこともあります。そう、ちょっとした旅に出ていたのですよ、姫は。大変な冒険でしたね」
「何かが違う気がするんですけど・・・。いいんです、ケリスエ様ってそういう方ですよね」
屋敷では、カロンが彼女を「サーラ」と呼んでいるので、自分も「サーラ様」と呼ぼうかと思ったルーナだった。だが、名前について彼女に訊いたら、
「そうですね。サーライナが私の名前です。親しい人間は、サーラと呼んだものです。元々、私の部族に姓は無いので・・・。ケリスエという名は自分が名乗りたい名前として私が作りました。・・・内緒ですよ?」
と、こっそり教えてもらえたのである。親につけられた名前よりも、彼女自身が考えた名前の方を呼ぼうと思い、ルーナは「ケリスエ様」と、呼び続けていた。
やがて、ルーナの死がデクシム子爵家から発表され、ロカーンがフィツエリ邸に引き取るべく迎えに来た時には、ほとんどルーナの心の傷も癒えていた。復讐心も既になくなっていた。
だってアーファイドの本命は浮気な蝶々・・・。誰だって、気が抜けるというものだろう。
そんなアーファイドを応接室で迎えながら、ルーナは優雅に腰掛けた。
「ルーナ。無事で良かった。あの時、賊に連れ攫われてしまったから、心配していたんだ・・・」
「あなたに呼び捨てにされる覚えはありませんわ。礼儀も何もご存じ無いならば、今すぐに叩き出しますわよ?」
「・・・・・・ルーナ姫。無事に戻られたなら連絡の一つも欲しかったものを。ずっと心配していたんだ。あなたの名誉を考えて病死したと発表してしまったが、もう一度結婚しよう。どれ程に養女と言いつくろったところで、君が君であることなど分かりきっている。君の結婚相手は私しかいない」
「お断りですわ。・・・それに私、賊に連れ攫われたことなど一度もございませんわよ?」
「え?」
「本当に騎士団にいらっしゃるのに、愚かな人ですのね。賊に襲われて、当て身だけで済む筈がないことなど、考えれば分かるでしょうに。賊に襲われたなら、どうしてあなたは何も奪われていらっしゃいませんでしたの? 普通は剣も何もかも奪われているものですわ」
ルーナは軽蔑した表情を扇の陰から覗かせてみせた。アーファイドが、虚を突かれた顔になる。
「ま、まさか・・・」
「最初から、そう、デクシム子爵家との縁組そのものが間違っていたのですわ。アーファイド様。私はフィツエリのルーナ。あの日、あなたは自分の同性の恋人を救う為に、私を利用しようとした。けれども、そんな安っぽい使い方をしようとする男に、もう、私、用事はございませんでしたの」
アーファイドの目が大きく開かれた。結婚してから、こんなにもこの男が自分をまっすぐ見たことが一度たりともあっただろうかと、ルーナは笑い出したい気持ちになった。
「ごきげんよう、アーファイド様。もう、私はあなたに何の用事もございませんわ。あなたの母親が私から奪った嫁入り道具も全て、手切れ金がわりに差し上げます。さ、どうぞお帰りになって?」
「ま、待ってくれっ。やり直そうっ、ルーナ姫っ。今度は大事にするっ。君を大切にするからっ」
「・・・私、それこそ大事に育てられてきましたの。少なくとも、このフィツエリ邸における使用人は、私の為ならあなたを叩き出す気概を持ってくれていましてよ? ・・・だけど、デクシム家は違いますでしょう? 私、ちゃんと愛されて大切にされていないと嫌ですの」
「悪かったっ。全て俺が間違っていたっ。だからっ、だからやり直そうっ。君が必要なんだっ」
ルーナは、もうそれ以上アーファイドの言葉を聞きたくなかった。
「お客様のお帰りよ。門まで送っていって差し上げて。二度と、取り次がないでちょうだい」
「かしこまりました」
使用人達がアーファイドを連れていくと、心配そうに侍女達が近寄ってくる。ルーナは椅子に腰かけたまま、侍女長に手を伸ばした。彼女の優しい腕が、ルーナを抱きしめてくる。
「ルーナ様、・・・よくぞきっぱりと仰有いましたね。もう、二度とあの男は来ませんよ」
「私、・・・ちゃんと出来てた? とてもプライドの高そうな、容赦のなさそうな感じに出来てた?」
「ええ、ええ。ちゃんと出来ておいででございましたとも」
ふくよかな侍女長のお腹に顔を埋めて、ルーナは泣きだしたくなった。赤の他人で、金銭による雇用契約にすぎない自分達でも、こうやって優しく思いやることが出来るというのに・・・。
(どうして、私達は・・・)
愛など無かった。それでも一度は夫と呼んだ男だ。
今更、アーファイドにとって自分が必要だった理由など一つだ。それこそ、金、なのだろう。
(自分の好きな人に貢ぐ為に、私が必要だったのね・・・)
ルーナの瞳からこぼれた涙が、侍女長のエプロンを濡らしていく。けれどもきっとその涙に、彼女が褒めてくれたような涼やかさはないだろう。きっと何よりも塩辛く苦いものにちがいないと、ルーナは思った。
その日、カロンはいつもよりも遅い時刻に帰宅した。
「食事はしたのか、カロン? 遅かったから先に食べたが」
「フィツエリ邸に寄ってきたので遅くなりました。食事はあちらでご馳走になりました。あなたにと、お土産に惣菜も頂いたのですが、・・・あなたも食事を終えているなら明日食べればいいですね」
「そうだな」
昼の内に湯浴みしていることの多いサーライナだが、カロンの為に湯を用意してくれていた。せっかくだから一緒に入ってくださいと、カロンがねだると、珍しく一緒に入浴してはくれたが、それは違う目的もあるようだった。
「うわっ、何するんですっ、ライナッ」
「うるさい、黙れ。こういうのは、湯の中で温めながらやった方がいいんだ。ほら、ここでまっすぐ引き伸ばしてみろ」
「痛っ。ちょっとっ、手加減ぐらいしてくださいっ」
「うるさいと言ってるだろう」
どうもカロンの背や腕の筋が気になっていたらしい。一緒に入浴と思って内心幸せたっぷりだったカロンだが、思いっきり痛みのあるそれに悲鳴をあげさせられ、精神力を削られて終わってしまった。
疲れ切って寝台に寝転べば、大柄なカロンの体だけにサーライナも疲れたらしく、一緒に横になってくる。
「ええっと、フィツエリ邸では、アーファイドはローランの為に金策に駆けずり回ったものの、疲れて邸に戻ったらローランはデクシム邸の侍女と浮気の真っ最中で泥沼な騒ぎになったこと、使い込みでローランが投獄されたことを話してきました」
「そりゃ反応に困っただろうな」
「ええ。家令の方は、フィツエリ男爵にも報告しておくと言っていましたが、・・・かなり目が泳いでいましたね。で、結果としてローラン・フェイトスの父親がその金は出してローランは牢から出されましたが、そのままローランは領地の別邸だか地下牢だかに幽閉されたことも伝えてきました。そしてアーファイドは、かなり自暴自棄になっていることも」
「・・・愛を失ったら人は荒れる、か」
けれども、同情出来るかどうかは話が別だ。貴族の政略結婚に愛は無いが、だからといって正妻を蔑ろにしていいわけがない。いや、だからこそ正妻に対する誠実さは必要といえる。
「はあ。それもあるのでしょうが、どうもローランとのことが明るみに出てしまい、居たたまれなくなっているようですね。おそらく近衛騎士団も辞めると思います」
「そうか」
男同士で浮気しようが何しようが、その程度なら見て見ぬふりをされるものだ。ただ、その相手があまりにも不行状が過ぎた上、血の繋がった家族ですら幽閉するような人間となれば話が別である。
その強硬的な対応から察するに、きっと身内間でも何かやらかしていたのだろう。
「家令殿にその話をしている所にルーナ姫もやってきましたが、・・・かなり吹っ切れているようでしたよ」
「そんなものだろう。男であれ、女であれ、・・・本当に見切りをつけてしまえば、それまでの思いが嘘のようにこだわりも何もなくなるものだ。それこそ、興味そのものを全くなくしてしまう。人の思いとは、激しいくせに消えてしまうとあっけないものだな。感情は炎にたとえられるのも、まさに納得だ」
サーライナが笑うと、カロンは真面目な表情になってその顔を覗き込む。
「・・・ライナ。俺はかなり妬いてたんですけど?」
「そうなのか? 別に一緒に座ったり添い寝したりは浮気にならないんだろう? お前達の感覚だとそういうことじゃなかったか?」
ツンと、サーライナはそっぽを向く。
かなりしつこく根に持ってるなと、カロンはげんなりした気持ちになった。薄々そうではないかと思っていたが、やはりあれは、カロンに対する嫌がらせも兼ねていたらしい。
「そんなことないです。やっぱりあなたが違う人を甘やかしているのは、見ていてかなり嫌気がさしました。・・・というより、あの恥ずかしい口説き文句のオンパレードは何なんですか」
「・・・普通だろ?」
「全然普通じゃありません」
サーライナは考え込んだ。
「私の種だった父に言わせると、女性は褒めれば褒める程、綺麗で心優しくしなやかに強くなっていくものだと・・・。しかし、私の姉弟子というか、第二の師匠というか、そんな彼女に言わせると、男は甘い言葉をかければかける程、堕落していくものだと・・・」
カロンは、(種だった父って・・・何?)と、思考が止まった。いや、意味は分かるが、・・・分かりたくない。デリカシーのない彼女の性格を考えるまいと小さく首を横に振り、カロンは話を続けた。
「なるほど。一理はありますが、・・・だけど、ライナ。俺だって、別にあなたにあんな恥ずかしい言葉をかけてもらいたいとは思いませんが、だけどたまには優しい言葉を欲しいなって思います」
「そうなのか?」
「ええ」
ここぞとばかりにカロンは頷いてみた。その黒い瞳に、いたずらっ子の光を浮かべてサーライナは面白そうに言った。
「じゃあ、明日の休みは、ルーナ姫とやっていたように、一緒に座りながらお喋りを楽しもうか。だけど、触ったり何したりはナシでな」
「え?」
「だって、そっちがいいんだろ? こうしてキスしたりするよりも」
そうして、軽くカロンの唇にサーライナは自分のそれを触れ合わせた。
「・・・・・・」
「じゃあ、そういうことで今日は健全に眠ろうか。ああ、大丈夫。添い寝はしてやる」
「あの、やっぱりライナ・・・」
「ん?」
カロンの反応を楽しんでいる表情は、最初から己の優位を疑っていないのだろう。カロンは白旗を掲げた。
「すみません。俺が悪かったです。彼女と比較したりしませんから、・・・やっぱりいつものあなたでいいです」
「最初からそう言え」
サーライナは、カロンの顔にその手を添えてくる。「人と自分とを比べるな。お前はお前だ」と、その黒い瞳が語りかけてくる。
カロンは、自分よりも小さなその手に自分のそれを重ねた。こうして白くなってしまった彼女の肌にも慣れてしまったけれど、彼女はこうして屋敷で自分を待ってくれているけれど、・・・それでも互いに言葉にしない悲しみが心の底から消えることはない。
自分達は一生忘れないだろう。あの時、失われていった命を。
カロンは横にいる彼女の背中に腕を回すと、そっと自分の方へと引き寄せた。
「安心しろ、カロン。私達に浮気はない。する時は本気だ。だから隠れて浮気とかはあり得ないし、その時には遠慮なく別れてから次に行くものと決まっている」
「・・・・・・全然、安心できませんけど、それ」
サーライナは小首を傾げて考えているようだった。そうして戸惑っている様子は可愛らしいが、そんなことで戸惑われるのも悲しい。
黙っていたら、もっととんでもない言葉が彼女から出てきそうな気がして、その首筋にカロンは口づけた。
「俺には浮気も本気も何もないです。あなた以外の誰もいらない。・・・ライナ、あなたにとっての俺が、ただ見捨てられなかっただけの人間だったのだとしても。それでもあなたさえいれば、俺はそれでいい」
「お前は馬鹿だな、カロン。・・・お前がもう私から奪えるものは何も残っていないのに」
「え?」
サーライナもカロンの首筋に口づける。
「私は全てをお前に教え込んだし、・・・いや、男を誘う方法は教えなかったが、それはお前が嫌がったからだからな。だが、教えられるものは教えたつもりだ。そして私が得たものは全てお前に与えている。・・・カロン、私の全てを手に入れていて、まだ何が不安だ?」
「・・・あなたの心が欲しい」
「・・・お前に与えていないと思ってたか?」
「いいえ」
カロンはサーライナの耳殻を指で辿りながら、ゆっくりと唇を重ねた。こうして指で辿っていても、彼女にあったほとんどの傷が消えていることに気づく。
今日、フィツエリ邸の家令と侍女長はカロンと初めて対面し、改めて驚いた様子だった。自分やルーナ達は彼女を見慣れているから何とも思わなかったが、初めて見た人には、この人がカロンよりも年上とは信じられなかったのだろう。
(寝込んだせいなのか。あの時、どんどんと体が弱っていっていたから・・・。だからなのか?)
あんなにも長く寝込む人間を見たのは初めてで、だから自分達もそういうものかと思っていた。だけど健康に戻ってもそれは変わらないものなのだろうか。
(この人は自分の変化を分かっているのだろうか。それでも何も言わないのはどうしてなのだろう)
そんなことを考えながらも、それでもカロンは目を閉じてその疑問を心の底に沈めていく。考えても分からないことは分からないものだ。けれども、自分の腕の中にいるこの人さえ確かなら、それでいい。
「カロン。お前以上に私の全てを許した人間はいない。・・・だから、お前はちゃんと一人でも立ち上がって歩いていける。なあ、カロン。・・・私以外にも、お前はちゃんと全てを愛しているよ」
「言わないでください、ライナ。それ以上は聞きたくない。俺は、あなたがいないと駄目なんです」
困った奴だなと、彼女の唇が空気だけで囁いたのが分かる。
ほとんど泣き落としに近かったが、カロンはそれで構わなかった。それで彼女が自分と一緒にいてくれるのなら。
(ライナ・・・。俺を騎士団に縛りつけて、そしてあなたは何を考えている?)
彼女は、誰にも何も言わずに動ける人間だ。けれども、同時に彼女の感じやすさを自分は知っている。
こうしてカロンが、彼女がいなければ自分は何をするか分からないといった感情を乗せれば、僅かに彼女の瞼がピクリと反応する。
彼女を自分に縛りつけることができるのは、鎖でもなく、世間体でもなく、・・・ただ自分の想いだけなのだと、カロンは見抜いていた。
それからはゆっくりと月日が流れた。
王都騎士団のロメス・フォンゲルドには長男リルドレッドが誕生し、それから、近衛騎士団のセイランド・リストリには長女アリシアが誕生した。
だが、サーライナとカロンはひっそりと、屋敷で二人暮らしを続けていた。将軍であれば日中は門番も派遣されてきたものだったが、部隊長程度ならそこまでのことはない。
面倒を嫌うサーライナの為に、門扉は常に閉ざし、日中は通用門だけ開けるようにしていた。というのも、鍛錬の為に馬の上で宙返りをしたりしているサーライナの姿を人に見せられるものではなかったこともある。
今日も今日とて、サーライナは裏庭で、足先や指の力だけで体を持ちあげながら、その体に小鳥を乗せては驚かせないように同じ姿勢を保つ訓練をしていた。
「なあ、カロン。お前だって分かってるんだろう? 私に子供は望めない。今ならまだ子供を作るチャンスはある」
「別に子供は可愛いですけど、それだけです。俺はあなたと一緒にいたい。過去も現在も未来も、それ以上に望むものはありません」
強情なカロンに、サーライナは困ったように小さく笑う。小鳥を驚かせないよう、カロンは少し離れた場所から見ているだけだ。
「あなたが子供を育てたいなら養子をもらっても構いません。・・・だけど、あなたをとられてしまうのはムカつくので、出来ればあなたによく似た子供にしておいてください」
「別に私も子供を育てたいわけじゃない。・・・ただ、お前の子供を持つチャンスをむざむざ捨てることもあるまいと言いたいだけだ。私は浮気しないが、・・・お前はしていいんだぞ、カロン?」
優しいのだろうが、同時に無神経な言葉を繰り出してくる妻に、カロンは嘆息した。
「サフィヨール殿も引退した。・・・それこそ、既婚者といえども、第六部隊長のお前に秋波を送ってくる女性もいるだろう。今まではサフィヨール殿が防波堤になってくれていたようだが、もうそれは望めないからな」
さすがローム国騎士団を掌握していただけあって、サーライナはその辺りを見抜いていた。
部隊長となると、たまには部下達を労ってやらねばならないのだが、それまではサフィヨールが屋敷を提供してくれていた。だが、カロンはこの屋敷に人を入れたくなくて、そういった時は酒場を貸し切ることにしている。
その方が後腐れもない上、酒場の給仕をする女達もサービスがいいからだ。
「やめてください。俺にしてみれば、子供にこだわる気持ちが分かりません」
「出来てみれば気も変わるさ。・・・別に、その女と再婚しろとまでは言わん。まずは作ってみたらどうだ?」
「・・・・・・どこまでもあなたが無神経だってことは分かりましたよ、ええ、今までも知ってましたけど」
子供が出来ないというだけで、サーライナはカロンにとって容認できない話を時々そうやって振ってくる。けれども、カロンが突っぱねれば黙る。ごり押ししても、本人にその気がなければ無駄だからだ。
しかし、時に諦めが悪いこともあった。
「何なら酔っぱらわせてどうにかすればいけるのか・・・?」
「そういう嫌なことを考えないでください。自分が同じことをされたらどう思うんですか、ライナ?」
「酔っぱらって目が覚めたら綺麗なお姉さんが一緒に寝ていてくれるんだろ? そのまま甘い朝の時間を楽しめばいいだけじゃないか」
「・・・・・・ライナ。もしもあなたが酔っぱらって目覚めたら、知らない男と一緒に寝ていたらどう思います?」
「そのままぶち殺しそうだな」
「分かったら、変なことを俺に仕掛けようとしないでください」
「・・・分かった」
様々な戦いや被災時の救助に駆り出されながらも、それでも屋敷に戻ればサーライナがいる。カロンにとっては、それで良かった。
騎士団で働いていると、どうしても人の醜い部分を見ることが多い。それでも屋敷では誰よりも綺麗な存在が自分を迎えてくれる。それが救いだった。
「本当にあなたに馴れましたね、小鳥達も」
「そうだな。ただ、たまに怖いぞ。・・・わさわさと私の肩や岩に止まりきれず、枝にまでずらーっと・・・」
「限度をわきまえてください」
どうやら、生き物が寄ってくるのはサーライナの機嫌によるものらしい。不思議なことではあったが、カロンにしてみれば、それを眺められるのも自分だけなのでどうでも良かった。
伸ばした指先にサーライナが小鳥を止まらせている様は、楽園とはこういうものだろうかと思わせる。
二人だけの寝室であれば誰よりも人間的なのに、こうして光の中にいる時は誰よりも神聖な存在に思えた。
訓練に飽きたのか、パンくずや何やらを与えながら、サーライナは小さく歌い始める。そんな時間が、カロンの荒んだ心を浄化していく。慈愛に満ちたそのひとときを、カロンは愛していた。
「ライナ。答えたくなければ答えなくていいです。・・・あなたが俺を受け入れてくれたのは、もしかして俺が、あなたの影響を受けない人間だからなんですか?」
歌が、止まった。
途端に、彼女の肩や頭で止まっていた小鳥達が、バサバサッと一気に飛び立った。やはりなと、カロンは思った。そう、彼女は思うだけで小鳥達を操れるのだろう。
先程までゆったりとした表情で小鳥達と戯れていた彼女が、まっすぐカロンを見据えてくる。
「その通りだ、カロン。部族の人間には耐性があるから問題なかったが、私は自覚の有無にかかわらず、生きている存在に自分の影響を与えやすい。・・・自分の身を守る為に、相手に自分への好意を持たせることも出来る。相手の感情を操ることも。だが、・・・・・・お前だけはそれが効かなかった」
やっぱりと、カロンは思った。この人のことを考える時間は沢山あって、更に一緒に暮らしていれば気づくことは出てくる。彼女がいた騎士団と、いなくなった騎士団とを知っていれば尚のこと、ずっと考えていたことでもあった。
「だからあなたは、俺の愛だけは信じられたんですね」
「そうだ。・・・と言っても、別に私は人の感情を操るようなことはしてないぞ? ただ、もしかしたら自分に向けてくれる感情の中に、それこそ私が影響を与えているかもしれないと思えば、その好意すら素直には受け入れられなかっただけだ。だが、お前には全く影響を与えられないのは、十分に理解していたからな」
それはそうだろう。こうして結婚するまでの間、ケリスエ将軍に反発しまくったカロンの行動に手を焼いていたのは他ならぬこの人である。
「その気になれば誰からも愛されることが出来るなど、誰からも本当には愛されていないのと同じことだ。それに力に溺れたら足元を掬われるだけだからな。この国に落ち着いてからはそういった力はなるべく封じていたつもりだ。・・・けれども、物事に絶対などということはない。だから、・・・私は人が嫌いだったよ」
「それでも、あなた程、人を愛している人はいない」
「そうかもな。けれど、だからこそ人など信じられない」
「それでも信じようとしている」
カロンはそっとサーライナに近づいた。彼女は逃げなかった。ただ、カロンを見上げてくる。
「嫌になったか? 私はそういう人間だ。お前を引き取ったのも、育てたのも、都合が良かったからにすぎない。こうして今もお前を傍においているのも、単に自分が落ち着くからだと言ったらどうする?」
カロンはサーライナの首筋にそっと片手を置いた。もう片方の腕を腰にまわすと、少しだけ柔らかな感触がそれに沿ってくる。
「もしかして、俺という存在がいなければ、あなたは一人で生きて一人でひっそりと消えていくつもりだったんですか?」
「いや、そこまでは考えていなかったが・・・」
「あなたがなるべく人に会わないようにしているのは、そして人と会う時には今までと全く違う格好をするようになったのは、・・・あなたがあまり年をとらないことを分からないようにする為ですか?」
「年をとらないわけじゃない。ちゃんと年は重ねている。・・・ただ、ちょっと体の調子が狂っただけだ」
本当に困ってしまっているかのように、サーライナは目を逸らせた。先日、久しぶりにソチエト第五部隊長と会って、「あなたは入団した時と変わりませんな。今ではカロンよりも年下のようだ」と、驚かれたことを思い出したのだろう。
「私にも分からないことは多い。全てが分かるわけじゃない。ただ、きっと・・・」
「言わないでください、ライナ」
カロンはサーライナを自分の腕の中に抱きしめた。かつてあまりにも固い体だったそれは、今は少しの柔らかさを持つようになった。
「聞いても聞かなくても、流れは変わらない。カロン、・・・恐らく、私がここの騎士団でいた時間は、それは全て捧げられたものだったのだろう。だから、今がやっと私として生きている時間なんだと思う」
それがどういう意味なのか、カロンには分からなかった。
「カロン。あれからずっと子供が出来る気配もない。やはり思っていた通り、私は子供を作れない。そして・・・」
「聞きたくありません、ライナ」
「カロン。お前はもう気づいている筈だ。恐らく私は、長生きは出来ない。今すぐではないにしても、それでも・・・」
それ以上を聞きたくなくて、カロンは一層力をこめて抱きしめた。
「それでも、俺は決定的な言葉を聞きたくないんです、ライナ」
「それではお前の心が歪むだけだぞ、カロン」
カロンの頭に、そっと指先が伸ばされる。そうやってカロンを掻き抱くようにしてくる仕草が、彼女の身長を少し伸ばし、ふわりと髪からラベンダーの香りが漂った。
「だからカロン。お前にはなるべく多くのものを残してやりたい。私がいなくても、それでもお前が日々を笑って過ごせるように・・・」
「あなたにとっては、俺の子供すら、俺をあなた以外のものに縛りつける道具ですか」
「そうかもな」
誰よりも優しくて、誰よりも無神経なところは変わらない。
少しばかり自嘲する笑みを浮かべてしまったカロンだったが、サーライナは澄んだ瞳で見上げてきた。
「私は、お前を育てたし、結果も出した。だからもう十分だ。・・・だから、今度はお前に、お前が作り上げる人生を手に入れてもらいたい。お前は私の作品じゃないんだ」
「そんなの、俺は望んでません」
「・・・困った奴だな、お前は」
それでも、カロンが落ち着くまでサーライナは力を抜いて抱きしめさせる。サーライナはカロンが本当に望んでいる時は、決してそれを拒まない。
そして向けられる無償の愛に、この人にとって誰よりも特別なのは自分なのだと実感する。
ああ、そうだと、カロンは思った。そう、彼女は全てを自分にくれていたのだと。
「なあ、カロン。今からなら馬を走らせれば夕日に間に合うだろう。郊外だが行ってみないか?」
「・・・はい」
馬を走らせると、絶景の夕日を眺められる場所があった。
「よく見つけられましたね、こんな所」
「ああ。暇だったからな、色々と見回っていて見つけた」
「いつの間に・・・」
「お前が不在の間だな」
「そんな気はしてました」
場合によっては数週間以上に渡って留守にすることも多いカロンである。それこそその間、サーライナが屋敷にいなくても分からない。
やがて、赤く大きな夕日が、川にその姿を長く映して沈んでいく様子が目の前に広がった。
「綺麗ですね」
「そうだろう? なかなかいいスポットだったんで、その内にお前を連れてきてやろうと思ってたんだ」
その眩しさに目を細めながら、サーライナは少し自慢そうな口調になる。
「じゃあ、お返しに今度は綺麗な花畑を俺が案内しますよ。ひょんなことから見つけたんです」
「へえ? 楽しみにしておこう」
外ではベタベタするのを嫌うサーライナだが、そこには誰もいなかったからだろう。馬達に手持ちの果実を与えると、カロンの傍へと寄ってきた。
「気に入ったか?」
「そうですね。・・・いつかあなたと戦場で見た夕日を思い出しました。あの時も、夕日が全てを赤く染めていた」
「ああ、そうだったな。お前はそれを見て、『赤色は常に終わりを告げる色なんですね』と言ったんだ。だからその後、私に赤色を着るなと言い出したりもした」
「忘れてください、そんな昔のことは」
カロンは目を閉じた。戦う男達は縁起を担ぐ。だから赤色は身につけないで欲しいと言ったのに、この人は、「トラウマは早めに治しておけ」と、今度は余計に赤色を身につけるようになったのだ。
(この人ってば、そういうところが容赦ないんだよな。あの頃の自分が不憫すぎて泣ける)
サーライナの背中に寄り添って、同じ夕日を眺めながら、サーライナの体の前で腕を組む。そんな自分の腕に、サーライナは自分の手を乗せてきた。
「結構、色々なものを一緒に見てきたな」
「そうですね。様々な時間を一緒に過ごしましたね」
けれども足りない。自分はずっとこの人ともっと同じ時を重ねていきたいのだ。
そんなカロンだったが、サーライナは何かを思い出したかのように、小さく笑った。
「ライナ?」
「いや・・・。私の姉弟子なんだがな、私に恋人を作れと言い出した時に、こう言ったんだ。『何かに感動した時にね、それを一緒に分かち合いたいって思える相手がいたら、それが好きな人ってことよ』って」
カロンは、言葉に詰まった。じわじわと感動が押し寄せてくる。
「で、ちょうど綺麗な湖を見つけたばかりだったから、隣に住んでいた女の子を連れていってやったんだ。で、その話をしてあげたら、『じゃあ、サーラはルースが一番好きなのね。リスエルよりもルースが好きよねっ』と、とっても喜ばれてしまってな。おかげで、姉弟子に拳骨を落とされた」
「・・・・・・ええ。あなたに期待したら馬鹿をみることを忘れてた俺が馬鹿でした」
自分は隣に住む女の子と同じレベルの「好きな人」なのだろうか。なんだかほろ苦い思いが広がってくる。
それでもサーライナはくるりとカロンに向き直る。
「ま、今はまず一番にお前に見せたいと思うぞ? だから、それはそれでいいんだろう。・・・なあ、カロン。お前は生きてきて良かったと思うか?」
「へ? そりゃ、まあ・・・」
「なら、いいんだ」
サーライナはまた夕日へと視線を移した。
「こういう感動をお前と分かち合えている、・・・そんな相手と今いること、それが幸せってことだ。違うか?」
「俺にとっては、あなたがいることだけが幸せの全てです」
けれどもサーライナは首を横に振った。
「カロン、・・・世の中には汚いことも醜いことも多い。けれどもお前が常に幸せを見つけられる人間であってほしいと、私は願っている」
「やめてください、ライナ」
サーライナの夕日に照らされた顔はとても印象的だった。
「・・・だから。せめて出来る限り、時間を大事にしていかないか? お互いに依存するのではなく、共倒れになるのでもなく。互いに一人で立ちながらも寄り添うことは出来る、そして幸せを分かち合うことも。・・・・・・今、こうして一緒にいるように」
カロンは夕日を見つめた。目を閉じたのは、夕日が眩しかったからだ。
やがて藍色の空が暗くなるまで、二人は黙って寄り添い続けていた。
【レイルの心が願うこと】
自分の心で感じ、体で行動すること。その大切さを教えてくれたのは兄だった・・・。
自分の可愛らしさを褒められて嬉しかったのは、幼い子供の頃だけだ。レイル・ロイスナーは、いつしか可愛らしさを褒められる度に、不機嫌になる少年になっていた。
それはすぐ上の兄の容貌が、男らしい父に似ていたこともあったのかもしれない。長じて、格好いいと思っていた父の顔すら世間から見たら男性的というよりは甘い顔立ちなのだと知ったが、それでも誰よりも強い父はレイルの憧れだった。
「あー? 何だ、まだレイルって父上のこと、尊敬してんのかぁ? 悪いことは言わない、やめとけって。・・・うん、そりゃ、父上はすげえよ、すげえけど・・・、いや、父上だけはやめとけ。人間として大事なものを失うだけだぞ。うん、尊敬するならやっぱりケイス将軍にしとけ」
「ケイス将軍とか言われても、俺、見たことないし。大体、トレスト兄上もどうして父上の軍に入らなかったのさ。王都にも屋敷があるのに、わざわざそっちの将軍の屋敷で暮らしてるなんて、恥ずかしくない? そんな反抗期だなんて、誰が聞いても情けないだけだよ」
やはり有名な父を持ってしまうと、変な反発をしてしまうものなのだろうか。レイルは、呆れた表情を隠さずにすぐ上の兄を見つめた。すぐ上の兄・トレストは、休暇をとってロイスナーに戻ってきたのだ。久しぶりに見るトレストは、背も伸びて体格もたくましくなっていた。
「誰が反抗期だっつーの。あの父上がそんなもん、子供に許すようなタマか。俺には俺なりの・・・、いや、今はそんなことはどーでもいい。それより、兄上、カンロ城だって?」
「うん。また行ってる。前は俺達も連れて行ってくれたのにさ、ここんとこ、ずっとルーとニーアも連れてってくれないんだよね。俺にはロイスナーの仕事を割り振ってくし」
レイルにしてみれば、三番目の男の子などみそっかす扱いだと言わざるを得ない。いつだって自分は留守番なのだ。長兄はあちこちに行くけれど、自分はロイスナーでその帰りを待つだけ。次兄は両親のいる王都に、父自らが迎えに来てくれたけれど、自分はロイスナーに放置されている。
迎えに来てやると約束してくれた父がその約束を守らなかったのは、なんとなく予想もしていたから諦めている。自分達がきちんと名乗る時の名前を考えれば、父が次兄だけを迎えに来たのは当然だと思えたからだ。
リルドレッド・フォンゲルド・ロイスナー。
トレスト・ロイスナー・フォンゲルド。
レイル・フォンゲルド・ロイスナー。
面倒なので真ん中の姓は名乗らない自分達だが、名乗る姓が違っても自分達が兄弟であることは変わらない。ロイスナー城でも、フォンゲルドの屋敷でも、自分達は区別されずに周囲から愛されて育った。
「それなんだがさぁ・・・。俺、今、ケイス将軍の下で働いてるじゃないか。ローム国騎士団ってのは各地に行かされるだけあって、色々な情報を集めてるんだよ。でさ、その中にカンロ領もあるわけだ」
「へー。・・・ま、それは当然じゃないの? ロイスナーも王都やカンロの情報は集めてるよ」
「そりゃそうだけどさ。で、だ。・・・レイル、お前、ルーの婚約者なんだよな?」
「え? そりゃ子供の頃は俺とルーで婚約してたけど、ルーは兄上と結婚するんじゃないの? あのおじい様達とエイリ伯母上達だもん。ルーのお願いなら聞いちゃうよ。まあ、そうなるとルーがロイスナーに嫁いでくるのか、その辺りをどうするのか分かんないけど」
「俺もそう思ってたんだけどさ」
何ともあやふやな顔で、トレストは言った。
「あのな、レイル。あくまで噂なんだが・・・。ルー、つまり未来のカンロ女伯爵ルイーザ姫の婚約者はレイル・ロイスナー、つまりお前なんだよ。更に、だ。ロイスナーのリルドレッドは、末弟がカンロ伯爵家に婿入りするのをいいことに、既にカンロ伯爵家の乗っ取りを実行中なんだと。ルイーザ姫の婚約者レイルは、そんな兄の傀儡にすぎないと、そんな話が王都にまで流れてきてる」
そこで二人は同じ紺色の瞳を交差させた。トレストは、困った顔で更に続ける。
「リルドレッド・ロイスナーは、ルイーザ姫とイレニア姫をロイスナーに閉じ込めて人質にし、カンロ伯爵家を好き放題にしているそうだ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人の弟達は押し黙り、長兄の姿を思い浮かべた。そして力の抜けた顔で、ゆっくりと首を横に振った。
「兄上の方が、あの二人に好き放題されてるよね。しかもあの二人を兄上に押しつけたのはカンロ伯爵家」
「かなり突っ込みどころ満載だったんだが、カンロやロイスナーの内部事情なんて言えないし、どうしたものかと。しかも父上に相談しに行ったら、あの人、なんつったと思う?」
「さあ・・・」
「馬鹿にした目で、
『カロン殿もお優しいことだな。お前の目に触れる情報だからわざとその程度に抑えたんだろう。ちなみにリルドレッドは、既にカンロ城で何人かを血祭りにあげたらしいぞ。カンロ伯爵は病気療養中。そして、リルドレッドは次期カンロ女伯爵エイリ殿に取り入り、若い愛人とも噂されているそうだ。しかも、カンロ城で様々な女を寝台に連れ込んでは、そのまま気に入らないと殺しているらしい。・・・なかなかお盛んだな、リルドレッドも』
だ。自分の長男に向かって何てことをと思って殴ろうとしたら、掠りもしないどころか、反対に殴り飛ばされちまった。だから一応、兄上にこんな噂が出てることだけでも知らせようかと思ったんだが、・・・カンロ城かぁ」
がしがしと、トレストは頭を掻いた。
「あり得ないと言えばあり得ないけど、普通、そんな人を殺したの何だのって、・・・無い話が噂になることってあるもんなの、トレスト兄上?」
「問題はそこさ。兄上は人を殺すどころか、いつだって一番嫌なことを引き受ける、単なるお人好しだ。・・・問題はそんな噂が兄上に付き纏い始めたってことさ。・・・そりゃ、カンロ伯爵家もロイスナーも、時には非情な決断をしなくちゃならないこともあるさ。だけど、・・・あの兄上にそんな噂が出るだなんて、よその悪行を兄上のせいにされたとしか思えない。信じられるか、あの兄上だぞ?」
トレストにしてみれば、誰よりも穏やかで貧乏籤ばかり引いている兄が、そんな根も葉もない噂に汚されていることが耐えられないのだ。
それを鼻でせせら笑う父なぞ、まさに父親としての自覚も何もない冷血漢だ。いつか、反対に殴り倒してやる。
「まあ、いい。カンロ城にいるならかえって好都合だ。俺、ちょっとカンロ城に行ってくるわ。ちゃんと長期休暇はとってきたしな」
「何をする気さ、トレスト兄上」
答えは分かっていたが、レイルは敢えて質問した。
「決まってんだろ。兄上はロイスナーのリルドレッドだ。ロイスナーの誇りにかけて、あの人を貶める人間を許す気はねえ。じゃあな、レイル。ちゃんと良い子でお留守番してろよ」
「俺も行くっ。・・・連れてかないって言うなら、兄上に早馬を飛ばしちゃうからねっ」
ひらひらと手を振って出て行こうとするトレストの服を、がしっとレイルは掴んだ。
二人で王都ロームへ行くと言って、そのままロイスナー城を出てきた兄弟は、まずはカンロ城の近くに住む、かつてのルイーザの乳母の家を訪ねた。
何と言っても大事なロイスナーの兄弟である。誰か供をつけようとしたロイスナーの面々だったが、トレスト自身が一人でやってきていたことと、何事も経験だから二人だけで旅をしたいという熱意に負けた形である。実際、かなりトレストは強くなっていた。レイル一人ぐらい守り通せる程に。
「まあ。・・・本当にトレスト坊ちゃまとレイル坊ちゃまですのっ? 何て大きくおなりになったんでしょう。見違える程ご立派になって。・・・お二人ともご両親そっくりにお育ちになりましたこと」
ルイーザの乳母だったレイーヌは既に城を退いて久しかったが、訪ねてきた二人を見て涙を浮かべた。どんなに久しく会っていなくても、カラスの濡れ羽色した髪はカレン譲りで、紺色の瞳はロメス譲りの兄弟だ。ましてやトレストの顔立ちはロメスそっくりで、レイルの顔立ちはカレンによく似ている。
「久しぶり。・・・でね、レイーヌにお願いがあって来たんだけど」
二人ともちょくちょくカンロ城に出入りしていた為、ルイーザの乳母にも可愛がってもらったものだ。ロイスナーといった庇護なしに、城でただの人間として働いてみたいのだと打ち明けた。
「俺達って、ほら、最初からカンロ伯爵にも可愛がってもらってただろ? だけど、そういうのって、甘やかされるだけだと思うんだ。出来ればそういう七光り無しに働いてみたいんだよ。だって俺、王都ですら、あのフォンゲルド将軍の息子ってんで最初から特別枠だったんだぜ? だけど、よその領主の所でやったら、それこそ間諜と思われかねないしさ」
「だからレイーヌ、お願いっ。どうにかして、俺達だとバレずに城に潜り込む手ってないっ?」
そんな兄弟に、レイーヌは、「あらまあ、ほほほ」と、笑ってみせた。
「そうですわね。カンロ城なら問題ありませんものね。・・・ですけど、何かあったらちゃんとロイスナー様のお名前でも、カンロ伯爵様のお名前でも出すとお約束してくださいます?」
「するするっ、ちゃんと約束するからさっ。なっ、レイル?」
「うんっ、ちゃんと何かあったらその時点でおじい様に白状するって約束する」
そこはルイーザ姫の乳母だったレイーヌである。ロイスナーの三兄弟はカンロ伯爵の弟の孫達であり、カンロ伯爵も実の孫のように可愛がって「おじい様」と呼ばせていることを知っていた。次期カンロ女伯爵であるエイリですら、カレン親子を信頼し、レイルをルイーザ姫の婚約者にした程だ。
二人が身元を偽って入り込んでいたのがバレても、それこそ面白い遊びとして受け取ってもらえるだろう。・・・これが他の人間ならば問題だが、この兄弟達は別格なのだ。
「ようございますわ。では、私共の遠縁の子として城に推薦いたしましょう。けれども小姓とかですと、城の高官に接することも多いですし、顔を見ればすぐに分かってしまいますわね。だから下働きの方がいいのかしら。トレスト坊ちゃまは、城の兵士・・・でいいのかしら? レイル坊ちゃまは、・・・それこそカレン様そっくりの男の子なんて、すぐに身元がバレてしまいますわね」
「一応、こんな髪を染めるのも持ってきたんだけど・・・」
トレストが変装用として、染め粉を持ち出す。それを使うと、黒髪が光沢のある赤銅色を帯びる為、セピア色といった印象になるのだ。
「これでしたら、黒髪は誤魔化せますけど・・・。トレスト坊ちゃまは、そうですわね、フォンゲルド様は前髪を少し長めにしていらっしゃいましたから、短めにした方が印象も変わるでしょう。あの方は甘い顔立ちを引き立てる髪型をなさってらっしゃいましたから、・・・トレスト坊ちゃまは精悍さを出してみてはいかがかしら」
やるとなったらレイーヌは有能である。髪型を整えるのもお手の物だ。
「レイル坊ちゃまは、・・・・・・悪いことは言いませんわ。兵士見習いにしても、従者見習いにしても、かえってそのお顔立ちでは危険でございます。まだ女装してメイド見習いの方がマシでしょう。侍女長が監督してくれますから」
「えっ?」
潜入を諦めるか、女装するか。・・・レイルは究極の決断を迫られた。
カンロ城にあるプライベートエリア。つまりカンロ伯爵一家が過ごす為の区画では、身内だけの時間が流れていた。
「私が病気だという噂を流しただけで、これ程とはな・・・」
「本当に。リルドレッドのおかげで助かりましたわ。私もジールスもまだ健在だというのに、ルイーザのお相手を売り込んでくる人達ばかりで、もううんざり」
カンロ伯爵に、エイリが同意してみせる。伯爵夫人リネスと、エイリの夫であるジールスは苦笑するばかりだ。
「俺がこちらに来ていることから、ロイスナー城へは姫達を奪おうとする人間が押し寄せているそうです。まあ、無駄なことですが、・・・ロイスナーへの侵入者となれば遠慮なく片付けられます。せいぜい、こちらで炙り出しましょう。カンロ城が安全になったら、姫達も安心して戻ってくることができます。今しばらくお待ちください」
「なんて恐ろしいこと。エイリの時にはそんなこともなかったのに、・・・ルイーザも可哀想に」
リルドレッドの言葉に、リネスはぶるりと身を震わせた。
「少しずつ危険は取り除いていっているつもりです。姫君が城で伸び伸びと暮らせるようになるのはもうすぐですよ、おばあ様。・・・それに、いずれ姫達にはお揃いのドレスと装身具を贈る約束もしているんです。その時には手伝ってくださいますよね。俺には姫君のドレスなど全く分かりません」
「まあ、喜んでお手伝いさせていただくわ。ふふ、色違いで揃えてあげたいわね」
ロイスナーの暮らしでも、二人には不自由をさせていないつもりだ。それでも両親達と離れて暮らす姫達の寂しさを思えば、やはり親元に返してやりたいと思うリルドレッドだった。
「病気療養中ということで私はリネスとゆっくり過ごせるからいいが、・・・だが、ジールス殿には不快な思いをさせていないかと、そちらも心配だ。いくらルイーザを狙う人間を挑発する為とはいえ、エイリがリルドレッドと仲良く振る舞っているのは、夫として思うこともあるだろうに」
「はは。まあ、寝取られたという噂も出ているそうですね。・・・ですが、かえって小気味が良いぐらいですよ。リルドレッド殿のおかげで私に近寄ってくる人間も増えました。それを選別するというのも、やり甲斐があります。ルイーザの為とあれば、尚のこと。これでも私とてリリテールの三男に生まれて人は見てきたつもりなのですが、舐められたものです」
カンロ伯爵に、ジールスは笑っていなした。
リルドレッドは自分に送り込まれた刺客の処理を、ジールスと共に行っている。それは女伯爵を支えるジールスも知っておくべき事柄だからだ。暗い部分を共有する二人は、既に同志だった。
リルドレッドのその容赦のなさは、カンロ伯爵もエイリも気づいていたが、あえて訊かずに全てを任せていた。優しさだけで守れないものはある。リルドレッドの非情さがルイーザを守るのだ。
「次期女伯爵を誑かす野心家な男。・・・それをカンロ伯爵家を思って討とうとするのか、それともそれに乗じてカンロ伯爵家を乗っ取ろうとするのか、その見極めこそが大切です。ジールス義伯父上、エイリ伯母上。様々な人間が口々に言い立てることでしょう。それでもルイーザ姫の為に、・・・どうか俺と一緒に泥をかぶってください」
「顔を上げてちょうだい、リルドレッド。・・・そんなあなただから、ルイーザ達を預けられるの。ねえ、あなた」
「そうだとも。エイリも私も、君だけに全てを押しつける気はない。いずれ全てが片付いたら、その時にこそ、リルドレッド殿の辣腕ぶりが世に知られることだろう」
「・・・それは遠慮します」
全てが終わったらひっそりとロイスナーで隠棲したい。それこそ綺麗に片付いたカンロ伯爵家は、一点の曇りもないレイルとルイーザが受け取ればいい。あの子達の為に、全ての汚濁は自分が引き受けよう。
自分への評価などどうでもいいリルドレッドは、本気で嫌そうな顔になった。
トレストは、トレス・サーヴィンという名前で兵士見習いとしてカンロ城で働き始めた。レイルはレイラ・サーヴィンという名前の下働き見習いである。
二人はルイーザ姫の乳母だったレイーヌの甥・姪として推薦状を書いてもらったのだが、推薦状を受け取った担当者は首を傾げた。
「レイーヌ・サーヴィン殿の紹介なら、もっと上の配属だろう。ちょっと間違いがあるようだな。・・・待ってろ。上に掛け合ってきてやる」
「いえっ、お気になさらずっ。俺っ、いえ、私達は甥や姪といっても、あまり交流があったわけじゃないのでっ。はいっ、お城に雇っていただけるなら、それこそ一番の下っ端で十分ですっ」
「お役人様っ。私達っ、お偉い方々に混じって働く方が緊張しすぎて、怖いんですっ。下働きでお願いしますっ」
普通は出世したがるものなのに、なぜかそれを嫌がる兄妹に首を傾げつつ、「まあ、お前達がそれでいいならいいが・・・」と、役人はそれを了承した。
下っ端の方が様々な場所に入り込める。それに上の人達程、会話には慎重になるのだ。噂など信じてはいなかったが、まずは自分達でも噂を集めようと思った二人は、まずはそこから始めることにした。
「兵士の見習いかぁ。へへっ、頑張ろっと」
「トレスト兄上。目的を見失ってない? 仕事に就くのが目的じゃなくて、あくまで兄上の為なんだからね、これは。ちゃんと俺達は兄上の変な噂を流す人間を見つけ出さなきゃいけないんだよ?」
「分かってるって。・・・だけどどうせ兄上のは、根も葉もない噂だ。それにこういう立場から兄上を見るのって楽しそうだろ?」
二人は城の近くに部屋を借りて、そこから通い始めた。その程度の金は持っていた二人である。
今まで、一番下の見習いなどしたこともなく、最初は疲れ切ってしまっただけだったが、やがてコツを掴むと、二人は様々な場所へと入り込み始めた。皆と同じお仕着せ、お揃いの制服。そういったものは個性を隠すもので、今まで個人として有名すぎた二人は、集団に埋没する体験を新鮮な気持ちで味わっていた。
寡黙がちにしておけば声の低さをそれなりに誤魔化せるものだと、レイルは思った。皆が嫌がる仕事を引き受けておけば余計に詮索されにくい。誰もが、お茶出しなどといった作業をしたがるからだ。せっせと置物を磨きながら、レイルは城のあちこちで交わされている会話を盗み聞きしていた。
(エイリ伯母上と兄上が仲良すぎ、か。・・・けど、今更だろ? 大体、実の伯母と甥じゃないか、アホらしい。まあ、対外的にはもっと遠い血縁ってことになってるけど)
そんな噂を聞いても、どこが騒ぐ程のことかと、全くもって意味が分からない。それでも、リルドレッドが人を殺しているという噂だけは許せず、その出所を探っているが、なかなか分からなかった。
(後ろ髪を伸ばしてたから女の子の格好も出来はするけど・・・。やっぱりこれが終わったら短くしようかなあ。だけど、短すぎると髪が跳ねすぎるし。それに兄上も少し長めにしてるしなぁ)
母のカレンは長い巻き毛を垂らしていることが多かった為、レイルは髪を頭頂部付近で一度まとめ、それから垂らしていた。わざと顔立ちをはっきりさせることで印象を変えてみたのだ。すると、気の強そうな少女がそこに出来上がる。
(絶対に、知り合いにだけはバレたくない・・・)
何が悲しくて自分がスカートを穿かねばならないのだろう。けれども下働きというのは、様々な会話を聞くことが出来る職業だ。どこにいてもおかしくない。何より、下働きのお仕着せを着ている時点で、誰も自分の顔など見ないのだ。
「レイラ。あなた、また大股を広げて座ってるんだから。何やってんのよ」
「あ、ごめん。つい・・・」
同じ見習いの少女に注意され、レイルは素直に謝った。
「そうそう、ねえ、レイラ。聞いた? 今、お城にお泊まりになってるロイスナーの若様、さっき、城から出た途端に、賊に襲われたそうよ」
「・・・え?」
「だからね、危ないから今日はお城に泊まった方がいいわよ、あなたも。物騒だもの。・・・レイラ、ちょっと、聞いてるの?」
「聞い、てる、・・・けど。・・・ちょっと、リルドレッド様の怪我はっ、ひどいのっ?」
「え・・・? さあ。単に襲われたって話だけよ。・・・あっ、ちょっとレイラッ、どこ行くのっ!?」
城から出た途端の襲撃ならば、門の辺りだ。レイルは掃除道具を放り出して、門へと駆け出した。
そして辿り着いた城の入り口には多くの人が集まっており、その中には兄のトレストもいた。
「レイラ。お前も来たのか」
「うん。・・・襲われたって聞いて。トレスお兄ちゃんも?」
「いや。俺は兄う・・・いや、リルドレッド様が外出しようとした時にこの門を守っていたんだ。そうしたら襲ってきた奴らがいたから、それを殺してしまったクチで・・・」
「・・・・・・バレた?」
「いや。俺、兜の鼻当てを深く下げてたから、顔はバレてないと思う。ただ、俺が殺したのが五人で、兄う・・・いや、リルドレッド様の従者が殺したのが三人、・・・逃げた三人を皆が追いかけてるところだ」
そこでトレストはレイルの顔色に気づいたらしい。
「リルドレッド様は無事だ。・・・大丈夫だよ、レイラ」
「うん・・・」
「トレスッ! トレス・サーヴィンはどこだっ!?」
そこへ、トレストを探す上司の声が響き渡る。
「あ、はいっ。ここにいますっ」
すると、そこに城門の責任者をしている騎士がやってくる。門番の手伝いをしていたトレストが見事に賊を退治したとあって、かなり機嫌が良い。ずかずかと近寄ってくると、トレストの肩をがしっと掴んだ。
「よくやったな、トレス。見習いにしておくには惜しい腕前だったそうじゃないか。日頃、門番を馬鹿にしている奴らの鼻をよくぞ明かしてくれた」
「ありがとうございますっ」
誰もが口々に褒め称えるものだからトレストも照れ臭そうになる。それでも兄の危機を救ったと思えば嬉しく、顔がほころんだ。だが、そこへ違う声が響いた。
「その門番とやらっ。捕縛しにきた。こちらに引き渡してもらおう」
「・・・何ですとっ!? 一体どういうことですかっ、彼は功労者ですぞっ」
「その門番こそ怪しいではないかっ。ひっ捕らえて、牢に繋げっ」
やってきたのは、恰幅のいい男だった。服装から見るに、城の高官なのだろう。さすがに城門の責任者である騎士も、手柄を立てた部下を捕縛と言われてはたまらない。
トレストもレイルも呆気にとられた。・・・怪しいって何が? と、顔を見合わせる。
「さっさとしろっ。その小僧を捕らえよっ」
「お待ちくださいっ。兄は賊からリルドレッド様を守っただけではありませんかっ。兄を牢へ繋ぐなどっ、きちんと理由をご説明願いますっ」
さすがにトレストを牢へ入れると言われたら、レイルも黙っていられない。一気に頭へ血が上った。かえって当事者であるトレストの方が冷静になってしまう。
「いや、あの、レイラさん・・・、はいはい、どうどう、落ち着いて、落ち着いて」
「兄上は黙っててくださいっ」
ぽんぽんと肩を叩くトレストの手を払い落とし、レイルはトレストの前で、高官に立ちはだかった。
「賊を捕らえて牢に繋ぐならいざ知らず、賊から城の客人を守った兄を牢へ繋ごうとする。・・・その意味をご説明いただきたいっ。また、あなたに何の権利があってそんなことを言い出したかも。話はそれからです」
「はっ、下働き風情が何を生意気なことを。・・・ま、見た目は悪くないがな。何なら儂の寝所で兄の無実を訴えてみるか? お前達、その娘も捕らえろ」
兄を庇う気の強そうな少女は、下働きのお仕着せを纏っていたが、顔立ちは悪くない。トレストを捕らえに来た男は、思いもしなかった収穫に、心の中で舌なめずりをした。
そんなレイルに好色そうな視線を向けた高官の顔面に、トレストは賊が落としていた革袋を投げつける。
「げふぉっ」
見事に決まったそれに、高官は鼻血を垂らして地面に座り込んだ。
「その汚え口を今すぐ閉じやがれ、このエロ爺っ。うちの・・・子はなあっ、てめえなんぞ足で踏まれてもありがてえってぐらい大事な子なんだっ。この顔を拝めただけでも感謝しなっ」
レイルが呆れた顔で後ろを振り向く。
「兄上・・・。落ち着いてないのは兄上の方」
「お前は黙ってろっつーの。・・・・・・うちの子には指一本触れさせねえ。遠慮なくかかってきな。全員、血祭りにあげてやる」
自分を庇っていたレイルの前に出て、トレストは周囲に睨みをきかす。
何と言ってもスカート姿のレイルである。ここで「うちの弟」と言われないだけマシなのだろうかと、レイルは天を仰いだ。
「お、おい。トレス・・・」
さすがにレイルを背にして剣をすらりと抜いたトレストの姿は、兵士見習いのものではなかった。周囲にいた騎士達にも動揺が広がる。レイルもすかさず隠し持っていた短剣を構えて、兄の背を守った。
鼻血を出した高官を支えて立ち上がらせたその部下達も、こうなるとどうしたものかと戸惑い始める。大人しく捕縛できないとなると、かなりの騒ぎになる。いや、もうなっているが。
「なあ、おっさん。・・・つまり、俺が賊を殺したのが目障りだったんだろ? お前が黒幕かよ。城にいたリルドレッド・ロイスナーが外出する時間を知っていたのは城の人間だ。俺を犯人に仕立てて、そしてまた狙う気だったのか、あの人を」
トレストの言葉に、はっとした顔で、周囲にいた兵士達もその高官へと視線を向ける。慌てたように、その高官は喚き始めた。
「何を言い出すっ。お前達っ、何をぐずぐずしてるんだっ。さっさとそこの生意気なそいつらを捕らえろっ。兄妹共にだっ。儂を侮辱してタダで済むと思うなっ」
「それを言うなら、この俺の目の前でリルドレッド・ロイスナーに手を出してタダで済むと思うなよ、おっさん。・・・・・・そいつも含めてリルドレッド・ロイスナーに手を出そうって奴は掛かってこい。遠慮なく始末してやるよ。そうでない奴は黙って引っ込んでなっ」
レイルはもう顔を覆うしかなかった。駄目だ、これはもうバレる・・・。絶対にバレる。こんな騒ぎになっては、・・・自分だけでも逃げてもいいだろうか。
というよりも、周囲のヒソヒソ声が悲しい。
「・・・あの兵士見習い、まさかリルドレッド様の恋人か?」
「エイリ様だけじゃなく、男にまで・・・」
その高官は、何人かの兵士達も連れてきていた。だが、彼らもどうするべきかと戸惑っている。元より、トレストを捕縛する意味が分からなかったからだ。しかし、高官には逆らえない上、質問など許されない立場だ。それでもこうなってしまうと・・・。
「お前達っ。早くそいつを捕らえろっ。いや、殺せっ。さっさと始末しろっ」
「剣を抜いた時点で俺に殺される覚悟をしたものと判断するっ。死にたくなければ剣を抜くなっ」
トレストは素早く剣を鞘に仕舞って駆け寄ると、遠慮なくその高官とその部下達に、身動きが取れなくなるように当て身を喰らわせる。
「ぐわぁっ」「わあっ」「ぐうぅっ」
のた打ち回る彼らを見下ろし、トレストは周囲を見渡し、騎士達に命じた。
「何をしているっ。さっさと捕らえろっ。お前らの頭は飾りかっ!? それから賊を追いかけた者達にこいつらの息がかかってないか、すぐに調査しろっ。騎士だからこそ自分の頭で考えろっ。諸君らは言われた通りに右や左を向く風見鶏ではないっ。カンロ城を守る騎士の誇りを忘れるなっ! 俺が部外者だと言うなら、指揮系統としてすぐに上司もしくはエイリ様に報告の上、その指示を仰げっ」
「はっ」
門番の見習いではあり得ないそのスピードと手際の良さに、カンロ城の騎士や兵士も、トレストの命令に従った。・・・どれ程に若くても、その姿には命令しなれた者の貫禄があったからだ。
何よりもここでエイリの名前を出せるのだ。自分達の上司よりもはるかに上の立場からものを言える人間だと、察することが出来る。ここで何もしなかった場合、・・・自分達の責任問題どころか昇進の道が断たれるかもしれない。
レイルはこっそりと後ろに下がろうとした。だが、後ろに目が無くても分かるのか、レイルの傍に戻ってきたトレストは後ろ手でレイルの服を掴んでそれを阻止する。
「・・・兄上。じゃあ、もう俺は失礼させていただきますので、後はよろしく」
「ちょっと待てよっ。俺だけ残していく気かっ」
レイルは、それでも自分だけは逃げようとした。そんなレイルの腕を、トレストが掴み直す。
二人は往生際も悪く、「そんなの自業自得っ。命令なんかして馬鹿じゃないのっ」「馬鹿とは何だっ。大体お前が目をつけられるから悪いんだろっ」「最初に目をつけられたのはそっち」「あっ、てめえっ、この裏切り者っ」と、バタバタと攻防を繰り返した。先程までのかばい合っていた兄妹愛は、既に存在しない。
「どちらも残ってもらおうか。・・・きちんと聞かせてもらうことがありそうだからね。そもそも、王都にいる筈の君達が、どうしてここにいるのかな?」
その聞き慣れた声に、二人はピキーンと固まる。
二人よりも背の高い男は、そのまま二人の頭をがしっと鷲掴みにしてきた。「痛っ、痛いってばっ」「痛っ、やだやだ、やめてよっ」と、ぐりぐりと頭を押してくる指先に、二人は悶絶する。
「あの・・・リルドレッド様。やはりトレスをご存じなのでしょうか?」
門番の責任者をしている騎士が恐る恐る尋ねる。リルドレッドはにっこりと笑って答えた。
「そうだね。さっきの動きを見て気づいたから、後でこっそり迎えに来るつもりだったんだけど、こんな騒ぎを起こしてくれたらすぐに回収するしかないかなと思って来たんだ。トレスって、名乗ってたのかい?」
「はあ。トレス・サーヴィン、・・・レイーヌ・サーヴィン殿の紹介で」
「ああ、なるほど。レイーヌのね。・・・いや、レイーヌ殿は悪くない。この子達が本当の名前を出したら、それこそ身元保証はカンロ伯爵がなさっていただろうからね」
暗に、それだけ身元ははっきりしているのだと伝えてくるリルドレッドに、騎士も安堵の吐息をついた。
同時にトレストは、自分の動きだけでバレていたのだと知り、情けない気持ちになる。顔を隠しても意味が無かったとは、なんということだ。
「全くもう、こんな騒ぎを起こして。・・・ほら、皆さんに謝りなさい」
「申し訳ありません。ちょっとした職場体験をしたかったんです。こんな騒ぎを起こして申し訳ありませんでした」
トレストも、先程の自分を褒めてくれた騎士には素直に頭を下げる。
「だけど、そのおっさんは本当に怪しいからなっ。大体、どうして俺が賊を退治したのに、俺を捕らえるって話になるんだよっ。しかも、こいつまで寝台に連れ込むとか、ぬかしてくれたんだぜっ。どんなエロ爺だよっ」
「分かった分かった。・・・どうせなら賊にしても生かして捕らえてくれ、今度から」
「兄上に剣を向けた奴、殺して当然だろがっ」
リルドレッドは溜め息をついた。しばらく見ない間に、トレストはかなり喧嘩っ早い性格に育っていたらしい。父の影響ではないだろう。あの人は黙って殺すだけだ。・・・さて、誰の影響なのやら。
それでもトレストの怒りは、自分の兄弟を思えばこそだ。そう思えばこそばゆくもなる。・・・だから、自分は耐えられる。この子達を守る為ならば、どんな泥もかぶれるだろう。
「兄上・・・。怪我、してない?」
「大丈夫。トレストが守ってくれたからね。一つの怪我もないよ」
女の子の格好をしたレイルが小さな声で尋ね、ぎゅっとリルドレッドの服にしがみついてくる。こうして見ると、そりゃ目もつけられるだろうと、リルドレッドも納得の可愛らしさだ。男だからカレンよりもシャープな顔立ちだが、それだけに気の強さが表れていて、カレンとは違う魅力がある。
しかし、その頃には様々な人が集まっていた。勿論、レイラと名乗っていたレイルの上司の上司にあたる侍女長もいる。トレストの立ち回りはあまりにも城の中にまで響いていたのだ。
リルドレッドは侍女長と、騎士に頭を下げた。
「本当にご迷惑をおかけしました。この子達は俺が引き取ります。うちの子なので・・・。すみませんが、お仕事は今日までということでお願いします」
そう言われてしまうと、改めて侍女長もまじまじと二人の顔を見るわけで・・・。
「まあ。あらあら、まあまあ。・・・お二人とも髪の色を変えていらしたから気づきませんでしたわ。レイル様もそんな格好だから本当に・・・。あらまあ、なんてことでしょう。私としたことが、こんなことでレイル様が分からなかっただなんて・・・。お二人ともご立派にお育ちになりましたこと。本当に、すぐにエイリ様にお伝えしなくては。いえ、リネス様もお喜びになりますわ。さあ、おいでになってくださいましな」
「えっ!? やだよ、せめて普通の格好に戻ってからにしてよっ」
「ほほほ。レイル様ったら、大丈夫ですわ。きっとその格好だからこそ喜んでもらえましてよ。もっと綺麗なドレスもございます。さあ、あなた達。トレスト様とレイル様をお連れするのを手伝ってちょうだい」
「やーだーってばー」
ずるずるとレイルは侍女達に囲まれて連れて行かれてしまった。トレストも侍女長がその腕を掴んで引き摺っていく。
そうなると、あの兄妹の正体を誰もが気づくわけで、地面に座り込んでいた高官達も青くなった。
そこへ戻ってきたイールスが耳打ちしてくる。
「リル坊ちゃん。・・・逃げた奴らは捕まえました」
「そうか。ついでにそいつらも拷問部屋に運んでおけ」
「はい」
リルドレッドは、冷たい目で高官達を見下ろした。
「あのロメス・フォンゲルドの後継者を無実の罪で牢に放り込もうとは、愚かなことを。本当に実行していたら、お前の一族郎党、皆殺しにされていただろうな。フォンゲルド将軍の通った跡には死体しか残らないのは有名だろうに」
「ひっ」
「ましてやレイルを慰み者にしようなど・・・。俺だけで済ませておけば、楽に死なせてやれたものを。ロイスナーの次男と三男には手を出すべきじゃない、・・・その意味を知らない馬鹿がまだいたのか」
「しっ、知らなかった、知らなかったんだっ」
「そうか。だが、どちらにしても聞くことは沢山ある」
リルドレッドは、周囲にいた兵士達に命じて彼らを牢へと連れて行かせる。その姿に、先程の弟達の前で見せていた穏やかさや優しさは欠片もなかった。
かつてカレンの為に用意されたというドレスに着替えさせられ、いいようにリネスとエイリに遊ばれてしまったレイルは、夕食を終えるとぐったりした様子でリルドレッドの寝台に突っ伏していた。そんなレイルに膝枕をしてやり、リルドレッドはトレストと静かに会話している。
「レイル、寝ちゃったのか? 本当に甘えっこだな、兄上べったりだし」
「かなりおばあ様達に遊ばれてたからな。疲れたんだろう、・・・精神的に」
リルドレッドはレイルの頭を撫でながら、別れた時よりもたくましくなったトレストを改めて見遣る。
「いい筋肉がついたじゃないか。前よりも強くなったな。・・・いくら顔を隠していても、あれは父上と同じ片付け方だ。俺にお前が分からない筈がないよ、トレスト」
「え? ああ、そうか。そうだ、あれ、父上のを見て真似っこしたんだったっけ」
多人数を一人で相手にする時には良い方法だと思い、一度見たそれを真似して練習していたのだが、兄もまた父のそれを見知っていたらしい。トレストは、がしがしと頭を掻いた。
「てかさ、何だよ、兄上。ロームで兄上の変な噂を聞いてさ、嘘だろと思ってカンロ城に入り込んでみたら、もっとひどい噂ばかりじゃねえか。・・・レイルだって、最初は『馬鹿馬鹿しい』って言ってたけど、段々不安そうになってたぞ。そりゃ噂なんてあてにならないって俺も思ってるけど、・・・今日の動き、・・・・・・兄上、兄上は知ってたんだな。自分が狙われてることも、・・・いや、狙わせたんだろ? 俺だって気づいたんだ。レイルだって気づかないわけがないだろう」
「大きな声を出すな、トレスト。レイルが起きる」
トレストを宥めながら、リルドレッドはレイルの髪を撫でた。
「・・・兄上はレイルに甘すぎ」
「そうか? お前程じゃないと思うんだが」
「いや、違うね。大体、父上がレイルを迎えに来ようとしてんの、兄上が阻止してるって話じゃないか。父上なんて、『お前は兄を神聖視しすぎなんだ。あいつはかなりえげつない奴だぞ。レイル可愛さのあまり俺に脅しをかけてきやがる』とか言いやがったんだぜ? ・・・けど、それは本当なんだよな?」
「しょうがないだろ。トレストは嫌だと思ったらちゃんと父上から逃げてくることが出来た。だけどレイルは優しい子だ。土壇場で父上に望まれたら嫌でも従ってしまう。・・・もう少し時間が必要なんだよ。きちんとレイルが自分で考え、自分の思いで決められる強さを持たないと、あの父上の所には行かせられない。それからなら、構わないんだけどね」
「・・・レイルがロイスナーより王都を選んでも?」
「勿論」
そう言ってリルドレッドは微笑んだ。トレストも肩を竦める。夢うつつにそんな会話を聞きながら、レイルは、(そうか。父上はちゃんと迎えに来てくれるつもりだったんだ・・・)と、そんなことを思った。
病気療養中のフリをしている元気なカンロ伯爵に会えば、トレストとレイルも脱力する。全然病気なんかじゃないじゃないか、というやつだ。
「ルイーザに変なちょっかいを出そうという奴らが鬱陶しいんでな。リルドレッドに協力してもらってたんだが、・・・王都にまでそんな噂が出回ってしまってたか。いや、噂とは本当に恐ろしい」
「私がリルドレッドの恋人・・・、ぷっ、私がカレンの息子とっ、ほほほっ」
うんうんと神妙に頷いてみせるカンロ伯爵に、笑い過ぎて涙が浮かんでいるエイリである。トレストとレイルも気まずく視線を逸らせた。まるで自分達が道化ではないか。
「まあ、ちゃんと兄上の護衛がいるならいいけど。・・・何なら俺、もっといてもいいぜ?」
「駄目だ、トレスト。お前は目立ちすぎる。あのトレスト・フォンゲルドが傍にいると分かってて、襲撃する奴らがいる筈ないだろう」
リルドレッドは呆れたように却下した。実際、トレストの存在がバレて以来、襲撃はぴたりと止んでいる。
「それならロームに帰るけどさ・・・。だけど兄上、ちゃんと何かある時は俺を呼んでくれよ? どこにいようとも、俺は兄上の為ならいつでも駆けつける。兄上は一人じゃないんだぜ?」
「ああ、トレスト。だけどそれはお前もだ。どこにいようと、お前はロイスナーの子だ。お前の為ならロイスナーは常に助力を惜しまないだろう」
「じゃあ、俺は明日、王都に帰るけど・・・。レイルはロイスナーに戻るのか? まだカンロ城にいるのか?」
「それなんだけど・・・。兄上、俺、トレスト兄上とロームに行くよ。父上の所に行きたいんだ」
レイルは、まっすぐにリルドレッドの目を見て言った。思いがけないレイルの言葉に反応が遅れはしたが、やがて少し寂しそうな様子でリルドレッドは「そうか。分かったよ、レイル」と、微笑んだ。
王都ロームにあるフォンゲルドの屋敷にやってきたレイルは、王都騎士団のトップである父の容赦ない指導に、かなり衝撃を受けていた。毎日、へろへろになって帰宅するのが精一杯だ。今なら、トレストが父の屋敷から逃げ出した気持ちがレイルにもよく分かる。
王都騎士団にあるロメスの執務室で、レイルは立ち上がることも出来ない状態で椅子に体を預けていた。向かいに座っているロメスは、のんびりと短剣でお手玉をしている。
「明日は勝ち抜き戦でどこまでやれるか、やってみような。レイル」
「・・・はい、父上」
心配したトレストがケイス将軍と一緒にやってきて説教してくれたおかげで、ある程度は手加減してくれているらしいが、ロメスは遠慮なくレイルの様々な身体能力を試そうとしていた。使い物になるようだったら手元に置くが、そうでなければ放り出すというスタンスらしい。
レイルはそれなりにロメスの基準をクリアしているようで、「ま、本格的に出来上がるのはまだまだだがな」と言いつつも、機嫌は良い。
「だけど父上。・・・俺は、ロイスナーに帰ります。ここに来たのは、・・・ちゃんと自分で選びたかったからです、自分の人生を」
「だからって何故帰るんだ? 別にロイスナーならリルドレッドがいる。お前は必要ないだろう? なら、ここにいろ」
あっさりと「必要ない」と言い切るあたり、優しかった父は辛辣な一面もあるのだと、レイルは知った。本当のことだけど。
「確かにロイスナーには兄上がいるけど、・・・けど俺は、兄上と共にロイスナーを守りたいんです」
「やれやれ。リルドレッドも大変だな。いつまでも甘えっこな弟にしがみつかれるんじゃ」
ロメスはレイルに軽蔑するような視線を向ける。
「お前達には優しいお兄ちゃんかもしれんが、・・・リルドレッドは人を騙すことを何とも思わない、自分に逆らう人間は全て血で粛清することも厭わない男だぞ?」
「それが何だと言うんです、父上?」
レイルだって、ずっと考えていたのだ。巧妙に自分の瞳から隠されていたものは何だったのか、そして、それは何故だったのかを。
「俺は、兄上がそういう人間でもいいんです。別に俺が邪魔になったら殺してくれてもいい。利用されるのだって構わない。それでも俺は、兄上と一緒に、兄上が守ろうとしたものを守りたいんです。だって・・・」
レイルの紺色の瞳から、その気はなかったのに、涙がはらりと零れた。
「だって兄上がそうやって生きるのは、俺達の為じゃないですか・・・」
俯いて涙を流すレイルに対し、ロメスは何も言わなかった。
やがて、レイルが服の袖でごしごしと目を擦って顔を上げると、紺の瞳が自分を射抜いてくる。トレストに良く似た顔。だがそれは、遠く離れたカンロ領にいる兄のものともよく似た眼差しだった。
「正解だ、レイル。・・・そう、リルドレッドは嘘つきで卑怯で汚い男だ。そして誇り高く、努力を惜しまず、全ての信頼に応える男でもある。あいつを取り巻く黒い噂にしても、真実はもっと醜いものだろう。けれどもそれは、お前達を守る為にあいつが選んだことだ」
ロメスはそこで優しい表情になった。
「噂に惑わされず、きちんと真実を見抜くことは大事だ。よく決断できたな、レイル」
「父上・・・」
立ち上がってきたロメスがレイルの頭を撫でてくる。レイルはロメスの腰に手をまわしてしがみついた。
「やれやれ。リルドレッドはロイスナーに取られるし、トレストはカロン殿に持ってかれるし、お前はリルドレッドを選ぶし、・・・本当に父親ってのは、哀れなもんだな。だけど、レイル。リルドレッドの足を引っ張らない程度の強さは身につけてから帰れよ?」
「・・・はい、父上」
そこにリルドレッドやトレストがいたら、「自業自得でしょう」とか、「え? 父親の自覚あったの?」とか、そんな言葉を返しただろうが、そこは父親大好きなレイルである。素直に頷いた。
そうして数ヶ月がたった。
ロイスナーのリルドレッドは忙しい。今日も今日とて、違う砦の見回りに出向いていた。
「リルドレッド様。その者は、この村の人間と結婚して長く暮らしていたのですが、・・・どうもよその息がかかっていたらしく、先日、密書を手にしているのを発見し、この地下牢に。これがその密書です」
「なるほど。・・・じっくり時間をかけて殺せ」
「分かりました」
「まっ、待ってくれっ。知ってることは言うっ、言うからっ」
リルドレッドは、牢の中の男を冷たく見据えた。
「お前が知ってることを聞かされたところで、こちらに役立つ情報でなければ意味がないだろう。長くここで暮らしていたお前がどんな情報を持っていると? ならば、拷問器具の開発用に使った方がマシというものさ。ロイスナーは拷問器具の販売もしているんでね。せいぜい、死ぬ瞬間まで役立ってくれ」
男は震えあがった。
「言うっ、俺が知ってることは全て言うからっ。だからっ、だから許してくれっ」
「お前に騙されて結婚した女の身にもなれ。これから一生、お前のおかげで白い目で見られながら生きていくんだ。女の家族もやりきれんだろう。・・・何なら、お前の拷問はその家族に任せてもいいな」
「やめてくれぇっ」
こういった北の地に生きる者は、身内への侮辱を許さない。ましてや利用する為に結婚したとあれば、非情かつ残酷になることだろう。
「・・・お前次第だ。役立つようなら少しは楽にしてやる。・・・その男の情報の裏付けを取り、その情報の有益性によって待遇を加減してやれ」
「はい」
そうなると、男も自分の置かれる状況を少しでも良くする為に協力的にならざるを得ない。リルドレッドは、地下牢から階段を上がっていった。そして階段を上がると・・・。
「久しぶり、兄上。ただいま、戻りました」
「レイル。どうしてここに・・・」
王都にいる筈の末弟の姿に、リルドレッドは狼狽する。この砦はロイスナー城ではない。レイルがカンロ領に戻って来たとしても、立ち寄るような場所ではなかったからだ。
「俺だってロイスナーなんだよ。入れない場所なんてあるわけがない。母上そっくりの顔でも、役立つことはあるよね。ここは久しぶりだったけど、すぐにフリーパスだった」
「レイル。・・・こんな所にお前は来るんじゃない」
先程の会話は聞こえてしまっていただろう。リルドレッドは小さく頬の内側を噛んだ。
けれどもレイルは、まだ兄には届かない背の低さに唇を尖らせつつも、リルドレッドを見上げて言った。
「ねえ、兄上。俺、ただいまって言ってるのに」
「あ、ああ。お帰り、レイル。・・・王都にはすぐ戻るのか?」
少し背が伸びたレイルの頭に手を置いて、リルドレッドは微笑んだ。もしかしてロイスナーに帰省してみたらリルドレッドがいないというので、ここまで探しにきたのだろうか、この末弟は。
「ううん。俺はこのままロイスナーに戻るよ。ロームには、父上に鍛えてもらいに行っただけ。だからもういいんだ」
「レイル・・・。無理はしなくていい。お前はお前の好きな人生を選んでいいんだ」
もしかして、リルドレッドが大変だろうと思って戻ってきてしまったのだろうか。レイルはそういう優しいところがあった。
「あのね、兄上。俺だって馬鹿じゃない。ロームに行って、父上やトレスト兄上や様々な人達にも色々と教わったし、ちゃんと考えたんだ」
レイルはそう言ってリルドレッドをまっすぐ見上げた。
「その上で俺は兄上と一緒にロイスナーでいたいって思ったんだ。だから戻ってきた。・・・ねえ、兄上。俺だっていつまでも子供じゃない。もう、兄上がロイスナーを背負った年にもなる。だから、・・・兄上の抱えるものも、俺だって一緒に背負えると思うんだ」
リルドレッドは目を瞠った。
「兄上が俺達を守ろうとしたように、俺だって兄上を守りたい。・・・他の誰でもなく、俺の心がそれを願うんだ。俺は、ちゃんと自分の心でそう感じたし、何度自分に問い返しても答えは一緒だったよ。・・・だったら、後は行動するだけじゃないか」
とすんと、レイルがリルドレッドに抱きついてくる。
「俺じゃ駄目・・・? 俺じゃ兄上の力にはならない? やっぱり兄上はトレスト兄上の方がいい?」
「馬鹿だな、レイル」
涙を堪えながら、リルドレッドは小さく呟いた。
「比べたことなどない。お前達より大事なものなど、俺にはなかった。そして・・・お前がいてくれるなら、俺はどんなことでも耐えられる」
リルドレッドは、その体を強く抱きしめた。
「お前達がいてくれるから、俺はいつでも立ち上がれたんだ・・・」




