21 ルーナの死(終わらないダンスを君と)
○月×日
匿名X:女装している前将軍を見ました。元気そうで良かったです。・・・けど、スカート姿なのに、婆さんを抱きかかえて歩いてました。
匿名A:何やってんだろな、あの人。
匿名B:俺も見かけて手伝おうかと、声をかけようとしたんだが・・・。そっと、その必要はないと合図されたんだ。どうやら、運んでいた婆さんに正体を知られたくなかったらしい。それでも心配でこっそり尾行して護衛してたら、フィゼッチ将軍の邸に入ってった。
匿名C:あー、なるほど。別に遠慮なく恩を売ってもいいだろうにな。
匿名B:で、俺、邸から出てきた前将軍に「ありがとう」と言われて、屋台で売ってたパイ、奢ってもらった。ああしてると可愛いよな。ドキドキした。
匿名D:第六部隊長の前で言って来い、B。その日がお前の命日だ。
匿名E:・・・そういうことで殺意を覚えるほど、狭量ではないつもりなんだが。彼女を護衛してくれてありがとう、B。
誰しも、不本意なことはある。
フィツエリ男爵にとって不本意なことは、愛娘であるルーナの結婚だっただろう。
別に結婚させるのはいい。息子は二人いるが、ルーナはたった一人の娘だ。出来るならば何の不足もない相手に嫁がせてやりたかった。
が、しかし。
「舞踏会に出れば、ケリスエ将軍に引っ付いては離れないルーナでは、見合いも何もあったもんじゃありませんよ、父上。かえってケリスエ将軍の方が、ルーナに変な噂が立たぬようにと、苦心している有り様です」
「ぐ、むぅ・・・。いくらうちが男爵といえども、うちの姫を出す相手となれば伯爵の跡取りが相当と言ってもいい。しかし、そんなルーナを出せるかと言うと・・・」
「それこそ問題が起きかねませんね。嫌ですよ、俺は。これ以上、ルーナの為に頭など下げたくありません。大体、あんな男だらけの騎士団にルーナが行くのですら、本来は顰蹙ものです。・・・どれだけケリスエ将軍がその噂すら立たないように配慮してくれていることか」
「・・・仕方ない。ここはもう、あのじゃじゃ馬でも諦めて娶ってもらえるような大人しい男を選ぶか。爵位はもう不問にしよう」
結婚するとなると、配偶者の爵位が重視される貴族社会だ。出来ることならば、誰に名乗っても恥ずかしくない家に嫁がせてやりたかったフィツエリ男爵だが、肝心の娘の行動が行動である。
ロカーンと共に、気も強くなさそうな、女遊びの噂もない男を選んだ。
「アーファイド・デクシム、ですか。デクシム子爵の長男。ま、悪くなさそうですね」
「そうだろう。アーファイド本人は近衛騎士団にいるらしいが、あまり出世はしていないようだな。だが、生き残るのはそういう男だ。それに子爵とはいえ、領地もそれなりにある。羽振りがいいわけではないが、没落しているわけでもない。ま、ルーナを我慢してくれる気の弱そうな男だ」
「それが一番ですね」
父親が探してきたアーファイド・デクシムの名に、長男のロカーンはなるほどと頷いた。
アーファイドは特記することもない、普通の男に思えた。近衛騎士団でも裏方作業が性に合ってるらしく、今後の出世もなさそうだった。それこそ、あのじゃじゃ馬ルーナの方が、気も剣も強いかもしれない。あらかじめルーナには、決して夫に逆らわぬよう、従順に振る舞うようにと言い聞かせておく必要があるだろう。
思った通り、婚約者が決まったと聞いて暴れて反抗しまくったルーナだったが、ロカーンに、
「いつまでも甘えるな、ルーナ。お前に何が出来る? 人に世話してもらわなくては生きていけないお前など、夫に頭を下げて養ってもらうしかないではないか。・・・いいか、お前の結婚は、我が家の発展に寄与するものでなくてはならなかった。お前はうちのたった一人の姫だからな。それなのにお前の結婚を我がフィツエリのプラスにも何にもならないものにしたのは、お前の幸せを願う父上のお気持ちからだろうがっ。これ以上、お前一人が我が儘をいうもんじゃないっ」
と、叱責され、それ以上の反抗は許されなかった。
あれよあれよという間に、ルーナの結婚は進められていった。
ローム郊外で起きた村人達の惨殺事件の犯人は、その辺りの山狩りを大々的に行うことで、発見された。場合によっては凶悪な集団組織の関与もあり得た為、かなりの人数を投入して行われた山狩りだったが、発見までに四日は費やした。というのも、犯人は集団ではなかったからだ。
驚いたことに、犯人はその村で暮らしていた一人の人間だった。捨てられていた人間を、村で養っていたといえば聞こえはいいが、要は食べさせてやる代わりに村全体でこき使っていただけである。長年の仕打ちに耐えかねて、彼一人で犯行におよんだものだった。
「こういうのはやりきれんな。俺は、あの男が犯人だと分かってたら、逃がしてやりたかったぜ」
「そうですね。俺もです」
サフィヨールの言葉に、カロンも頷いた。捕らえたのは第二部隊の人間で、第六部隊ではない。だから捕らえた人間の格好を見ただけだったが、その後の第二部隊の兵士がその男から聞き出した内容や様子などを聞き、サフィヨールは感じるものがあるようだった。
そこで、ジルードが口を挟む。
「いくらひどい目に遭っていても、だからって村人をあんなに殺すことはないでしょう。それなら逃げれば良かっただけじゃないですか。そりゃあ、気の毒だとは思いましたけど・・・」
「それは俺も思いましたけどね。髪もぼさぼさで、いい扱いを受けてないってのは分かりましたけど、・・・何も殺さなくてもいいんじゃないかって、そうも思いましたよ。殺してなけりゃ、まだどうにかしてやれたのに」
リールスも同意する。サフィヨールは、金髪のそばかす騎士見習いと甥とを見て、口角を僅かに上げた。
「やれやれ。苦労ってのは買ってでもやらせるもんらしい。うちの甥っこは甘やかされ過ぎだな」
「いいじゃないですか、サフィヨール様。・・・そういう正論を若い人間が言えるってのは、それだけこの国が落ち着いてきている証拠です」
カロンがそう言うと、さすがにリールスもちょっと考え込む。自分は変なことを言ってしまっただろうか、と。
「何なんですか。言いたいことがあるならきっちり言ってください、部隊長」
唇をへの字に曲げて、ジルードはその青い瞳をカロンに向けた。喧嘩腰なのは相変わらずだ。ジルードはちょくちょくカロンに話しかけるのに、口調だけは常にツンケンしている。
「別にないさ。・・・何であれ、自分の意見を持てるというのは良いことだ。お前はちゃんとそうやって優しい気持ちを持ち続けていけ、ジルード」
ぽんぽんとジルードの頭を叩くと、カロンは、「ちょっと水を飲みに行ってきます」と、その場を離れる。大きな手が触れていったのは少し嬉しかったものの、ジルードは戸惑った表情でサフィヨールを振り返った。
「別にお前は間違ってないさ、ジルード。たしかに殺さず逃げれば良かっただけだ。・・・だが、あの格好はこの四日間の逃亡だけじゃねえ。あれがリールスと似たり寄ったりの年の男に見えたか?」
「え? ・・・かなり年のいった男かと」
ジルードもサフィヨールに対しては素直だ。
第六部隊長であるカロンは、自分に対しての敬意は求めないが、サフィヨールに対しての礼儀を軽んじようものなら殴り飛ばす。その為、第六部隊の人間で、サフィヨールに対して礼を失するような男はいなかった。
その上、歴戦を生き抜いてきた人間ならではの深みがサフィヨールにはある。ジルードのようなひよっこでは太刀打ちできない、年輪を重ねた男ならではの渋みだ。・・・口調は、時に下品だが。
ジルードは、その驚きを隠さず、「俺の親より年上だと思ってました」とも、呟いた。
「あんだけ若い男があんなにも年いった感じになるなんて、どんなひでえ生活だったかを物語ってんじゃねえか。可哀想にな。うちのヨイネだって、カロンじゃなくあの村に引き取られてりゃ、同じことになってたさ。まともな服も与えられねえ、そして自由に出来る金もねえ。金がなきゃ、どこに行っても野垂れ死にさ。そしてすぐ見つかるような逃げ方なら、連れ戻されてもっと痛い目にも遭わされる。殺さなけりゃ、その苦痛な日々は終わらなかったんだろうよ」
そこでリールスが、はっとした感じで頭を上げる。ヨイネの顔が浮かんだからだ。
「うちのカロンだって今じゃ立派な部隊長だが、それもこれもケリスエ前将軍が引き取ったからだ。・・・まあ、カロンならどこに行っても大丈夫だったとは思うがな。だが、あいつだってやりきれんだろうよ。引き取られた先がどこだったか、その違いが全てを決めた。カロンも、ヨイネも、そしてあの男も・・・」
ジルードがバッと駆け出していく。それを見送り、サフィヨールとその周りにいた騎士達は苦笑した。
「本当にジルードは部隊長が好きですよね」
「全くなあ。で、素直になれなくて、喧嘩を一方的に売ってくるんだよな」
「違いねえ」
「大変だねえ、お坊ちゃんは。ついつい突っ張っちまう」
そんな彼らにサフィヨールは言った。
「ま、肝心のカロンは、今頃はもう意識を切り替えてるだろう。・・・そして、ジルードはまた、もやもやするわけだ」
誰もがその様子を脳裏に描くことが出来た。プッと噴き出す者もいる。
騎士の一人が、
「そうそう。そしてジルードが『もういいですっ』とかって、不貞腐れるんですよね」
と相槌を打ち、他の一人も、
「で、部隊長が、『どうした? 反抗期か?』って言うんですよ」
と、皆が見慣れたやりとりを真似てみせる。
カロンだけが知らない、ジルードの異動理由。第六部隊の騎士のほとんどは知っていたが、面白いので温かく見守っているということにして、いい娯楽ネタである。何より楽しめるのが、ジルードの空回り具合だ。
そうして皆がいなくなった二人を笑い話にしている間に、ジルードは川のある方向へとカロンを探しに行っていた。
だが、川にカロンはいなかった。
(どこに行ったんだろう)
つい追いかけてきてしまったが、追いかけて自分は何を言おうと思ったのか。突き詰めて考えると、ジルードも自分の行動を説明できない。それでもカロンの姿を探して、ジルードはその川の上流方向へと、きょろきょろ見渡しながら歩いていった。すると、川岸から少し離れた岩の上に、大柄な背中がいるのを見つける。
「何だ、お前も水を飲みに来たのか? まあ、あまり遠くへ行くなよ。犯人も捕らえたし、そろそろ帰ることになる。・・・迷子になって置いてかれても、泣かないでちゃんと帰って来るんだぞ」
「誰が泣くんですかっ。そんな間抜けなこと、しませんよっ」
岩に腰掛け、蔓と草を使って何かを編んでいたカロンが、ジルードに気づいて声を掛けてくる。無神経なことを言ったと謝ろうと思っていたジルードだが、そのままカロンに近づいた。
「何してるんですか?」
「ああ、簡単な籠をな。ほら、こうしたら魚を持って帰れるだろ?」
同じような籠が川にも沈められていた。そう言えば、今回の仕事では何故か焼き魚が出てきていたなと、ジルードは振り返る。
「そんなの、部隊長がしないでくださいよ」
「別に誰がしたっていいだろうが。・・・お前の後ろにいる兎だって食えるんだぞ?」
驚いてジルードが振り返ると、草むらへと兎が逃げて行った。やがて、カロンが火を熾し始める。
「そろそろ帰るとか言いながら、何、火を熾してんですか」
「どうせ俺は最後だ。・・・まだ時間はあるのさ、俺には」
川から籠を引き出すと、カロンはそこに入っていた魚を焼き始めた。何となく、ジルードはそのままそこに座り込んだ。
考えてみると、部隊長と騎士見習いが明るい内から火を囲んでいるなんて間抜けだ。誰かが通り掛かったら、(何やってんだ、あいつらは?)と、怪訝に思うだけだろう。
「だけどお前は見習いだから先に帰っていい。ほら、土産にこれをやろう。頑張ってたからな」
ひょいっと、その籠から何かを取り出してジルードの方へと投げる。反射的に受け取ろうとして、ジルードはてんやわんやすることになった。
「うわっ、何っ、滑るって・・・、何を寄越してくれやがるんですかあぁーっ」
「おいおい、ちゃんと捕まえろよ。川に逃げ込まれたら、もうお前では捕まえられんぞ」
にょろにょろとした一メートル弱の鰻を捕まえようとしては、ぬめって捕まえられないそれにジルードがあたふたしていると、カロンは「ほら」と、先程まで編んでいた籠を投げてくる。
「頑張ってそれに入れて持って帰れよ。煮込んでもいいし、干物にしてもらってもいい。家の人に渡せば喜ばれるぞ。なかなかの大物だ」
「その前に、これを捕まえるのを手伝ってくださいよっ」
「頑張れ。これもいつか大事な経験に、・・・なるといいな」
草むらに落ちてもぬめって捕まえられない鰻を、大格闘しながらジルードが籠に放り込んだ時には、既に小さな川魚は焼けていた。カロンが、それを一つジルードに渡してくる。
「お前は何かとイライラしてるからな。ほら、食っとけ。食べてりゃ機嫌も落ち着くさ」
「誰のせいですかっ」
「俺は親切にも鰻をやっただろ?」
ん? と、顔を覗き込まれてジルードは下を向いた。今更、さっきの話など蒸し返せない。黙ってそこらにあった岩に腰掛けると、魚を食べることにした。
「そうそう。素直が一番だ。子供はちゃんと食って大きくなれ」
「俺はもう子供じゃありませんっ」
だが、カロンも魚を一匹食べただけで、後は焼けた魚を籠に仕舞っていた。
(よく分からない、この人は。面倒見もいいし、かなり寛容だし、何より強い。だけど、そのくせ、俺達を平気で捨てていく・・・)
ジルードもケリスエ前将軍の強さは知っている。だからカロンが彼女の剣技を褒め称えるのも分からないわけではない。けれども、いくら大事な恩人であり妻であろうと、体を壊した彼女の看護に専念するからと、カロンがあっさり軍を辞めようとするとは思わなかった。
(俺達がどんなにこの人を必要としていても・・・。結局、あの方だけが大事なんだ)
その妻が将軍職に就いていたとはいえ、カロンを辞めさせない為に王宮から女官達が派遣されたなど、聞いた時には驚いて顎が落っこちるかとも思ったぐらいだ。何故か、他の部隊長達やサフィヨールは、そんな事態を予想していたらしいが。
「どうした、ジルード?」
「いえ・・・。何でもありません」
ジルードは首を振り、そのまま魚を食べ終えた。本当に自分は何をやっているのだろう。こんな所で部隊長と一緒に、皆に隠れて魚を食べているとは。
だが。
その焼いた魚を、カロンが捕まえられた犯人とやらに差し入れてやったのだとジルードが知ったのは数日後のことで、ハイゲル第二部隊長とサフィヨールが話している所を通り過ぎた時に、そんな会話が聞こえてきたからだった。
(そうか・・・。ずっとまともに食ってなかったよな、あいつも)
だから何というわけではない。あの時、彼の行動を見ていたくせに、自分はカロンという男を何も理解していなかったことを知っただけだ。
ただ同情するだけではなく、カロンは自分に出来る範囲で、あの村人達を殺した男に何かしてやりたかったのだろう。
けれども。・・・あの時、一緒にいながら、それならどうして自分も同行させてくれなかったのか。
(そりゃ、わざわざ差し入れに部下を連れていく必要はないけどっ、・・・ないんだけどさっ)
それでも教えてくれたっていいではないか。言ってくれればジルードだって理解する。カロンはまるで自分達とは分かり合えないのだと悟っているかのように最初から線を引くが、・・・ジルードはカロンを理解したいのだ。
(何で、ああも無神経に生きてんだよっ)
カロンほど大らかな上司はそうそういないと分かっていたが、ジルードはそう心の中で毒づいた。
あそこまで一緒にいたのだ。普通、一声かけてくれてもいいだろう。
大体、どうしてこの自分がいつもいつもカロンを追いかけていると思っているのか。まさか、何も分かってないのだろうか。信じられない無神経さだ。
ジルードは、かなりもやもやっとした気持ちになってしまい、その日はずっと唇をへの字に曲げていたのだった。
カロンが屋敷に戻ったのは、ローム郊外の村人達を殺害した犯人の山狩りに行くと言って出て行った五日後だった。
「ただいま戻りました、ライナ」
その言葉と共に、カロンの鳩尾にはいい拳が叩きつけられた。続けざまに蹴りも来るかと覚悟していたが、とりあえずその一発だけだったようで、カロンは甘んじて受けた。
二人の間には、沈黙が漂った。糾弾する者と、される者との。
「あの・・・すみません。ごめんなさい、ライナ。本当に申し訳ありませんでした」
覚悟はしていても、かなりの重いものだったそれに、腹をさすりながらカロンは謝る。
怒っているだろうとは思っていた。この人にバレなかったことこそが奇跡だと思っていたが、それだけ信頼されていたのだと思えば、やはりそれを裏切った自分を許せなくても無理はない。
屋敷の中だからだろう。サーライナは飾り気のないシンプルなシャツにズボンという格好だった。あるがままに垂らされた髪が、俯きがちな彼女の表情と輪郭を隠している。
「私は違うと言っただろう・・・。私達にとって、浮気というのは肌を合わせるかどうかだけじゃない。その気持ちも含めて、何もしないものなんだ。お前達とは違う・・・」
下を向いて話す彼女は、ほんの少しだけ声に揺らぎがあった。本当は泣きたいのかもしれないと、カロンは思った。それ程のことを自分はしたのだ。
「すみません。・・・あなたを傷つけたいわけじゃなかった。いえ、・・・考えてなかったんです、あなたの気持ちを」
カロンはそう言って、サーライナの近くに寄ろうとした。だが、サーライナも後ろにさっと下がる。
さすがのカロンも、それには堪えるものを感じて足を止めた。結婚してから拒絶されたのは初めてだ。ここで無理に彼女を捕まえようものなら、彼女は何をするか分からない。
「・・・分かりました。俺からは近づきません。何もしません。だから、・・・逃げないでください」
カロンは両方の掌を上に向けて、敵対する意思はないことを示した。まさに隙だらけで、どんな攻撃も避けにくい体勢である。
「ライナ、・・・許してほしいと言えないことは分かってます。俺はあなたを裏切った。そして、あなたは俺に対して怒る権利がある。俺に出来ることは何でもしましょう。どうすれば許してくれますか?」
少し考えたらしい。サーライナは、呟くように言った。
「しばらく留守にするが、お前は留守番しておくこと」
「・・・お願いです、ライナ。俺に出来ないことを要求しないでください。俺がそれを我慢できる筈がないでしょう」
その「しばらく」が何年になることやら、だ。ヘタをしたら一生もあり得る。いざとなれば思い切りがいいサーライナの性格は、カロンも熟知していた。今となっては彼女を縛る仕事もない。絶対に受け入れられない提案だ。
「じゃあ、離婚で」
「勘弁してください、・・・ライナ」
かなりの怒りが伝わってくる。こうなると本気でサーライナはカロンを切り捨てかねない。カロンとしては平身低頭して謝るしかなかった。
「ライナ、俺の全てをあなたに差し出します。ですから、俺からあなたを失わせることだけはやめてください。それ以外はどんな要求でも受け入れます」
「・・・お前が私をよそに差し出したのに?」
その言葉は小さく掠れていた。そこまでの思いは、自分にはなかったことにカロンは改めて気づく。・・・けれども彼女にとってはそういうことだったのだろう。
自分は彼女の愛を、あまりにも理解していなかった。
「・・・・・・。ライナ、それについては謝るしか出来ません。あなたの誇りを踏みにじったことも、俺の咎です。けれども、せめて今だけは、あなたに近づかせてもらえないですか?」
「嫌だ」
「・・・ライナ。それでも俺はあなたが悲しんでいる時に、あなたを一人にしたくない。後でどれだけ殴っても蹴ってもいいですから、今だけあなたの傍にいさせてください」
「・・・・・・」
カロンは小さく息を吐いて、少し足を進める。サーライナが動かないのを確認してから、もっと近づいて、そっと抱きしめた。
五日ぶりである。こんなに山狩りが長引くとは思わず、ずっと心配してはいたのだ。黙って彼女がいなくならなかったことに、まだ自分を許してくれる余地があるのだと、そう思いたい。
「あなたに軽蔑されても仕方ないと思ってます。・・・あなたは全く悪くありません。全て悪いのは俺です。・・・だから、泣かないでください。ライナ」
「誰も泣いてない」
サーライナの頬に涙は流れていないし、その黒い瞳も潤んでいるわけではない。
けれども、人の心が分かるのはサーライナだけではないのだ。カロンもまた、サーライナの気持ちだけなら見通せる。・・・時々、外すけれども。
カロンは更に強く掻き抱いた。
彼女の髪からはラベンダーの香りがした。夜、魘されることも多くなった彼女の為に、カロンはラベンダーの花を干して様々なものに使っていた。その香りが移ったのだろう。
そんな彼女を、自分が再び傷つけた。
「また少し痩せたでしょう、ライナ。俺がいないと、あなた、あまり食べてないですよね。仕事をしていた時は体調管理も仕事の内だと言って、ちゃんと食べていたのに・・・。お願いですから自分を大事にしてください。今日の食事はしましたか?」
「ああ」
「嘘ですね」
「ちゃんと食べた」
「何を?」
「・・・パンとチーズと果物」
「どれも一切れ程度じゃないんですか」
「別にその程度でいいんだ。人前ではちゃんと食べてる。それでいいだろう」
サーライナはそこでその話を打ち切る。
「カロン。何故、裏切った・・・?」
その質問に自分の言葉で答えるべきなのだろうと、カロンは感じた。腕の中にいる存在の額に口づけながら、その体をそっと抱き上げる。やはり体重も軽くなっていると感じた。
「昔の俺を思い出したからです。あなたに振り向いてほしくて、必死に追いかけていた自分を・・・。あなたを裏切ったという、そこまでの自覚はありませんでした。すみません」
カロンは玄関の戸締りをすると、サーライナを抱き上げたままその体を確かめるように、少し腕に力を入れた。女性らしい体つきになったと言えば聞こえはいいが、・・・それでも不安になる。
発熱が続いたことが原因なのか、彼女の顔に残っていた小さな傷も、今ではどこにあったか分からぬ程に消えていた。
(ライナ・・・。あなたは気づいているだろうか。あなたの小さな、そしてあまりにも大きな変化に)
けれどもカロンは、そんな自分の不安を抑えて話を続けた。
「嫌いでした、あんな甘ったれた貴族の姫なんて。一目見た時から気に入りませんでした。あなたを見る、彼女の表情にも苛立っていた。努力しなくても全てが与えられ、何もかも得られて当然だという恵まれた彼女の環境。それは俺には決して手に入らないものでしたから。・・・けれど、それだけなら許せた。生きる世界が違う、それだけのことです。俺にとって許せなかったのは、あなたが懐かしく思う髪と瞳の色をしているというだけで、あなたに無条件に彼女が愛されていた、その事実です」
カロンはサーライナの腹部に顔を埋めた。
「それだけであなたに愛されるなら、俺だって同じ髪と瞳を持ちたかった。俺があなたの傍に行く為にどれ程の年月と努力を重ねたか、・・・それすら飛び越えてあなたの元へと行ける彼女が憎かった。それこそ彼女が男なら、俺自身の手で殺したいぐらいに嫉妬もしてました。それをせずに済んだのは、あなたが彼女に手を出すつもりがないと、そう、それだけは分かっていたからだ」
「・・・・・・ちょっと待て。どうしてお前が私に不誠実な行動をしたのかという話なのに、なんでここで、私が恨み言を聞かされてるんだ?」
「あなたが説明しろと言ったからでしょう」
「それはそうだが・・・」
サーライナとしては、「だからって、なぜこんな流れに?」である。
浮気をしないポリシーの妻に対して、その妻が絶対に泊めないよう配慮していた、その妻に恋愛感情を持つ人間を、わざわざ一泊させるよう取り計らった夫。
普通、それは浮気のお手伝い、という奴である。誰が見てもそうだ。
貴族の姫君だからどうすればいいかも分からなかっただけだろうが、これがそれなりに恋愛経験のある相手だったら一線を越えてしまっていたかもしれない。
夫婦とは互いの信頼関係があってしかるべきなのに、これは味方に背中から斬りつけられたが如き裏切りではないか。
自分は妻として、夫の不誠実を詰り、殴り倒し、ゲシゲシと踏みつけて捨ててやる権利があると思う。
なのに、この馬鹿は、自分の気が落ち着くまでの家出も、離婚も嫌だとぬかすのだ。
そればかりか、説明しろといえば、昔の恨み言が出てくるという。
サーライナとしては、「どうして、ここで私が責められねばならんのか」である。
「相変わらず可愛がってはいたものの、俺と結婚して、あなたは完全に彼女にそういった手を出さないのだと確信できた。だから、彼女がどれだけ関わってきても、俺は嫉妬せずに済んだ。けれども報われない想いを手放せず、あなたを愛し続ける彼女に心が痛んでいたのも事実です。だから少しだけならと、情けをかけずにはいられなかった。あなたに似合う色を考え、服を用意する。そんなおままごとのようなことですら、恋していれば特別なことだ。・・・そんな感情を、俺は知っている。あなたの気持ちが自分になくても、・・・それでもあなたを想い続けずにはいられない、あの感情を」
「・・・・・・カロン。たまに思うんだが、お前の愛は、ちょっと重いというか、鬱陶しいというか、もう少し湿り気を飛ばした方がいい」
なんだか、サーライナは少しばかり嫌気がさしてきていた。浮気はしないというポリシーだが、いつでもどこでもベタベタしていたいわけではないのだ。こんなことなら、何も訊かない方がよかった気すらしてくる。
「俺はあなたを手に入れた。けれど、ライナ。彼女は俺の辿っていたかもしれない姿だ。それこそ、あなたがもしも俺を引き取る前に誰かと出会っていたら、それこそあのルーナ姫がもっとあなたと早く出会っていたら、・・・あなたに自分の想いを全て拒絶されていたのは、他でもない、・・・この俺だった」
「・・・その時はその時で、お前は別に他の相手と出会っていたさ。人なんてどこにでもいる。私はお前と出会ったが、私がお前と出会わなくても、他の人がお前と出会っただろう。カロン、過去のことを思い悩むな。男と女の数だけ、運命の出会いなんてのは転がっている。大事なのはそれを維持することで、その努力が出来る二人が、相思相愛ってことだろ?」
「・・・俺があなたを想う程、あなたに俺への愛があるとは思えません」
「お前の愛が粘着質すぎるだけだ」
カロンの肩に手を置くと、サーライナはトンッと床に足を下ろした。するりとカロンの腕をくぐり抜け、階段へと移動する。
「まあ、いい。今日は眠いから寝る。・・・どんな理由があろうとも、お前が仕組んだことなんだからな、あの夜についての質問は一切禁じる」
「え? ちょっと、何かあったんですかっ?」
馬鹿にしたような瞳で、サーライナはくるりと振り返って答えた。
「薪に混ぜられていた果樹の枝で部屋も良い香りが漂ってたし、なかなかロマンティックな夜を過ごせた。演出は立派だったと褒めてやる。・・・そうだな、やはり柔らかい体を抱いて眠るのは気持ち良かった」
「・・・! ちょっと、寝ただけですよねっ? 添い寝だけですよねっ!?」
だが、それには答えず、ぷいっと横を向き、サーライナは階段を軽い足取りで上っていってしまう。
「ライナ!」
「自分でやったことだろうが。言っただろ? 浮気とは肌を合わせることだけを指すのではない、と。泊めた時点で私にとっては浮気になりうる。なら、どこまでやっても一緒じゃないか」
「・・・!!! だって、・・・いや、そんなのっ、ちょっとライナ、どこまでしたんですっ!?」
「質問は禁じると言っただろ。あまりグダグダぬかすと、本当に家出するからな」
かなりダメージを受けたカロンを置いて、サーライナは自分の寝室へと消えていった。そしてやはり根に持っていたらしいサーライナは、それからしばらくの間、カロンと同じ寝室では休んでくれなかったのである。
アーファイド・デクシムとルーナ・フィツエリの結婚式は、貴族らしく行われた。両家のお付き合いを考慮し、デクシム子爵邸での結婚披露の宴席が設けられる。
主役の二人はそれこそお人形のようなものだ。大事なのは招待客同士の交流である。
「旦那様、奥方様。今、セイランド・リストリ様がおいでになりました。何でもフィゼッチ将軍の名代でお祝いを、と・・・」
そこへ、家令が慌てた様子でデクシム子爵に耳打ちする。
「すぐにお通ししなさい。席もすぐに設けさせろ」
「はっ」
それを聞いていた新郎のアーファイドは首を傾げる。
「おかしいな。騎士団のこういった慶事に顔を出しているときりがないのでと、将軍やリストリ殿は全てお断りになっている筈。俺も打診して断られたのに、どうしてわざわざ・・・」
やがて、近衛騎士団の正装でセイランドが案内されてくる。セイランドはにこやかにデクシム子爵夫妻とフィツエリ男爵夫妻にお祝いを述べた。
「デクシム子爵、フィツエリ男爵、この度はまことにおめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。この度は、私、フィツエリ男爵家令嬢ルーナ姫が大変親しくなさっているフィゼッチ夫人から頼まれまして、フィゼッチ将軍ご夫妻からのお祝いを持参いたしました」
さすがに両家の人間、そしてセイランドの声が届く範囲にいた人間が小さくどよめく。フィゼッチ将軍は、幼い時の国王を教育した人間の一人でもあり、近衛騎士団を率いる武将である。あまりに一目置かれる存在すぎて、こういった宴席にはあまり出ないことでも知られていた。
「ルーナ様。水臭いですわ、フィゼッチ夫人とそんなにもご懇意になさっていると知っておりましたら、きちんとお招きしましたものを」
デクシム子爵夫人が、少し恨めし気な声になる。ルーナは何も言えずに戸惑うばかりだった。フィゼッチ夫人など、話したことも見たこともない。
「お祝いとしまして、まずは白馬を一頭。これは大人しく気性も優しい、調教済みの馬でございます。そして、髪飾りと首飾りを一つずつ。姫には青色がお似合いだからと、夫人自らがお選びになりましたものでございます。お受け取りいただけますでしょうか?」
「ええ。ありがとうございます。心よりお礼申し上げます」
わけが分からなかったが、ルーナはそう答えた。他に言える言葉はない。
馬は外だったが、お祝いなので、持っていた箱を開けて、セイランドはそれを周囲に披露した。周囲の人間にも良く見えるように、である。
箱の中は綺麗な布が貼られ、そして紫がかった青い宝石をあしらった髪飾りと首飾りが輝いている。
「まあ、美しい首飾りですこと。サファイアですわね」
「本当に。・・・あんなにも高価そうなものを贈られるだなんて、どんなに親しいお付き合いをなさっていらっしゃるのかしら。ルーナ様とはかなり年の差がおありでしょうに」
「フィゼッチ夫人はなかなか夜会にも出ていらっしゃらないのに。それともルーナ様ではなく、そのお父様かもしれませんわね、フィゼッチ将軍とお親しいのは。フィツエリ男爵は、遠い領地に引っ込んでいると見せかけて、実は、・・・だったのでしょうかしら」
「ですわね。まさかフィツエリ家に、かのフィゼッチ将軍がここまで配慮なさっているとなると、・・・・・・特別扱いされる理由があるということかもしれませんわ」
そこは誰もがパワーバランスを考えて生きる貴族達である。値踏みしながら、フィゼッチ将軍がどこまで重要視している姫なのかと、そこかしこで囁き始めた。
参列した人によく見えるようセイランドが贈り物を披露し終えると、ルーナの近くへと進んでくる。
いくら主役といえど、新郎のアーファイドも近衛騎士団に属する人間である。さすがに座っているわけにはいかない。さっと立ち上がった。ルーナも立ち上がって、セイランドの所へと進み出る。
にっこりと笑って、セイランドは新婦であるルーナの手をとって口づけるふりをした。
「ありがとうございます。どうぞ私が感謝申し上げていたと、お伝えくださいませ」
「ええ、必ず」
ルーナのテーブルにその小さな箱を置くと、セイランドはデクシム子爵の案内で、宴席にそのまま参加するようにと勧められる。断りきれず、セイランドは慌てて作られた席に座り、近くの貴族と歓談し始めた。
「ルーナ姫。素晴らしい品ですが、フィゼッチ夫人とは一体どういうお付き合いを・・・?」
「いえ、そんな。親しいという程ではありませんの」
新郎であるアーファイドが小さな声で尋ねてきたが、ルーナも答えられず、そう誤魔化した。フィツエリ男爵家の面々は、後で聞き出そうというスタンスである。
やがて宴会のご馳走もひと段落し、人々が様々に席を移動したりして談笑し始めた。酒も入り、皆が騒がしくなってくる。ルーナはこっそりと席を立ち、セイランドの所へと近づいた。
「あの・・・」
「おや、ルーナ姫」
ルーナが近づいてきたとみて、セイランドはさっと立ち上がった。そのまま少しテーブルから離れた場所へと移動し、広間の皆から見える位置ながらも小さな声なら会話が聞こえない場所を確保する。セイランドは、ルーナの訊きたいことが分かっているかのようだった。片目を軽く瞑って、内緒話だと言わんばかりである。
「とある方から頼まれたのですよ。自分の名前でお祝いを贈っても、貴族の姫にはプラスにならないだろうから、と。フィゼッチ夫人も事情を聞いて快くお名前を貸し出しまして、うちのフィゼッチ将軍も、『それならお前が名代で行って来い』と。それで私が参りました」
「とある方って・・・」
「私は、あの方ご自身の名前こそ、どこに出しても恥ずかしくないと思ってますけどね。ですが貴族社会では、ローム国騎士団の前将軍よりも近衛騎士団の将軍の方が姫の価値をあげるだろうからと、あの方はフィゼッチ将軍ご夫妻に頭を下げられたそうですよ。・・・・・・それを聞いたリガンテ大将軍が、何なら自分の名前でと仰有ったりもしたのですが、さすがにお若いリガンテ公爵夫妻からとなると、様々な貴族の駆け引きに姫が巻き込まれてしまうかもしれません。そんな理由でお年を召していらっしゃるフィゼッチ夫人の方が姫にとっては身辺も騒がしくはなるまい、と」
ルーナの薄茶色の瞳が大きく見開かれた。瞬く間に涙が滲む。
「紫がかった青色の似合う姫だとは聞いておりましたが、・・・そのベールにつけられたその小さな飾りも可愛らしいですね。・・・それ、ローム国騎士団の戦利品の一つでしょう? 私も昔、国王陛下に献上され、それを陛下が似たようなものを作らせようと命じたという物を見ただけなんですが・・・。結局、その青色はどこも作れなかった為、今や高額で売り買いされていますよ。そのベールの保管には注意なさった方がいい。目敏い人達は興味深く見ている。恐らく、フィツエリ家は、王宮からそれを流してもらえる伝手があるのだと、そう思われていることでしょう」
「そんな・・・。あの方、何でもないもののように、あっさりと縫い付けてくださったんです」
「でしょうね。そんなベールにつけるだなんてぞんざいな使い方をされているとは、私もびっくりです」
セイランドは、王が兄のフェルエストに命じて、そういったガラスを作成する工房に打診していたのを見たことがあっただけである。もう少し弱い青色なら出来るが、どうやってもその紫を思わせる青い色は出来なかった。その結果、ガラスなのに高い値がついたのである。
だが、先程の祝いの品を考えれば、このベールに取りつけられている物が王宮から流出したと思うより、本来それを戦利品として持ち帰った本人から渡されたと思う方が自然だった。
セイランドはそこで一度跪くと、ルーナのそのベールを持って口づけた。
「では。姫に種明かしもお伝えしましたし、私はこれでお暇申し上げましょう。どうぞお幸せに。事情はよく分からないのですが、・・・大切に思われていらっしゃったのですね」
「ええ、・・・ええ。とても、・・・とても大切な方なんです」
ルーナの瞳から涙が零れる。微笑んで去って行くセイランドの背中に、ルーナは焦げ茶色の髪に黒い瞳を持つ姿を描いた。目の端に揺れているベールの青いガラスの煌めきが、何よりも誰よりもその心を伝えてくる。
(そこにあなたの名前がなくても、・・・あなたの優しさと愛情が私を包んでくれる。そう、いつだって、あなたが・・・)
なんて優しく、なんて残酷な人なのだろう。
自分の想いには全く応えてくれないくせに、それでも自分の為にあの人は・・・・・・。
(幸せに、・・・幸せになります。ケリスエ様。・・・私の愛はあなたと共にあるけれども、それでもあなたの為に、幸せになるよう努力します)
それこそがあの人の愛だというのなら、辛くても自分は受け入れよう。
あの人の為に、全く興味のない男と添い遂げもしよう。
あの人が望む立派な貴族夫人になってみせる。
(けれども今だけは・・・。今だけはあなたを最後に想わせてください)
たった一日だった。それでも二人きりの時間。その忘れられない夢を心に抱いて、その温もりとその唇の柔らかさだけをお守りに、自分は生きていく。
それが貴族であるということだから。
けれども忘れない。自分だけはきっと、ずっと覚えている。あの人がくれた優しさと愛情を。
席に戻った花嫁が、そのベールを握って泣く姿は、まさに結婚の喜びに泣いているように周囲の目には映った。
「なーんてね、そんなことを思った時期もありました」
ルーナのやさぐれた言葉に、カロンは大きな溜め息をついた。
「教育上、よろしくない話はしないでもらいたい。さ、トレスト、エルセット。二人とも・・・」
「私の話が聞けないって言うのっ!」
カロンの言葉を、ばしっとテーブルを叩いてルーナが遮る。
カロンは思った。面倒臭いな、と。
事の起こりはエルセットである。ルーナがじっと見つめていたサファイアの首飾りを見て、
「綺麗だね、それ。お母さんによく似合ってる」
と、声を掛けたのが始まりだった。勿論、ルーナは喜んで、
「そうでしょ、そうでしょ? ケリスエ様がね、私にね、贈ってくださったのよ。綺麗でしょっ、素敵でしょっ。やっぱり分かっちゃうものよね、ふふっ」
と、言ったまでは良かった。しかし、そうなるとエルセットも
「へえ。わざわざルーナお母さんにサーラお母さんが? そんな高そうなのをどうして?」
と、訊いてしまう。別にエルセットは悪くない。ただ、それがルーナの触れてはならない禁断の領域だっただけだ。
「ふ、ふふふ・・・。これはね、ケリスエ様の私に対する、・・・そう、愛の証よ」
「あ、すいませーん。エルセットいますかぁ?」
ルーナの顔が曇ったかと思うと、そこへトレストがエルセットを探しにやって来たわけで、二人の少年はルーナに身柄を拘束された。
「まあ、聞いていきなさい。この髪飾りと首飾りに秘められたケリスエ様の素晴らしさと、男というロクデナシな生物が、いかに生きてる価値がない存在かという、そのくだらなさを」
と、ルーナは、自分の結婚式の日のことを語り始めた。
そこで、「俺もその男なんですけど・・・」と、言える勇気は少年達になかった。
そして二人が、ルーナがアーファイド・デクシムという男と結婚した際、その頃はまだ将軍になっていなかったセイランド・リストリがフィゼッチ将軍の名代として、ケリスエ将軍からの贈り物を携えてきたことを聞いていた所に、カロンが通り掛かったのである。
「あの時の騒ぎは十分に知ってるからいい。じゃ、トレスト、エルセット。二人とも程々にな。俺は子供達を連れて市場に行ってくるから」
カロンは、少年二人を生け贄に差し出して、さっさと逃げた。次男のファレンと長女のアレナは、市場に連れていってもらえると知り、きゃーきゃーとはしゃいで喜んでいる。カロンは何かと器用で、市場で何かを見つけては、それを使って子供達に色々な物を作ってくれるからだ。
出来ればルーナからだけではなくカロンからも話を聞きたかった少年二人だが、まあいいかと思って、ルーナの話を聞くことにする。何故なら、カロンは「教育上よろしくない」と、ルーナから引き離そうとした。つまり、話す気はないということだ。
ならば、ルーナから聞くしかないではないか。ルーナも以前に結婚していたとは知らなかったが、そんな回りくどい手を使ってでも、こんな高価そうな装身具を贈っていたとは、やはりケリスエ将軍がルーナを大事にしていたのは確かだろう。
若かった頃とはいえ、あのリストリ将軍を使い走りにするとは、やはりケリスエ将軍は一味違う人だったに違いない。それは、フィゼッチ将軍という人の意向がかなり含まれていたとしても。
「ルーナお母さんが他の人と結婚してたなんて・・・。けど、昔のことだよね」
エルセットとしては複雑な気分だ。そういう自分とて、ルーナが産んだ子供ではないけれど。理解のあるような言葉を綴りながら、それでも納得できない気持ちが、エルセットにはある。ルーナには、カロンだけの妻でいて欲しかったからだ。
だが、ルーナは一点の曇りもない笑顔で言い切った。
「大丈夫よ、私の中では無かったことになっているから」
それもそれでどうかと思う話だが、そのアーファイド・デクシムとの結婚生活について、ルーナは話し始めた。
貴族の妻に求められるのは社交と、そして跡継ぎを産むことだ。
「俺は騎士団の仕事がある。社交に興味はない。だから一人で行くか、誰かと行って来ればいい」
アーファイドはそう言ったが、夫のエスコート無しに誰が行けるというのか。
「妻としての仕事? なら、デクシム領で領地の管理を手伝ってくれればいい」
夫が王都にいるのに、どうして舅や姑とデクシム城で暮らさなければならないのか。そんな状況でどうやって跡継ぎを産めるというのだろう。
デクシム子爵邸での暮らしは、ルーナにとって決して幸せな始まりではなかった。勿論、ルーナだってアーファイドに対して愛情はなかったが、誠意は持っていたつもりだ。しかしアーファイドはルーナに対して、愛情や誠意を持つという以前に、・・・関心が無い。それに尽きた。
そして。デクシム子爵邸の新しい女主人だというのに、そこの使用人達は、なぜかルーナに距離を置いていた。
「アーファイド様は、・・・それで良いのですか?」
「良いも何も、あなたのことはあなたでしてくれればいい。それだけだ」
フィツエリ家から連れて行った侍女のロシータに勧められ、ルーナは兄であるロカーンに相談した。
言葉面だけ見るならば、アーファイドはルーナを尊重しているかのようだ。けれども、そうではないと、ルーナにも分かっていた。
アーファイドにとってルーナは疎ましい存在なのだ。だからなるべく接触を少なくしたい、そして目に入れたくない、話しかけられるのも煩わしいのだと、その思いが透けて見えていた。
(どうして・・・・・・)
ルーナは、子供の頃から愛されて育った。だから、自分が自分であるというだけで嫌われる、そんな経験は少なかった。恵まれているから、妬ましいから、見ているだけで腹立たしいから。・・・そんな理由で嫌われたことは度々あった。
けれども、自分が自分であるというだけで存在そのものを憎まれて拒絶されたのは、・・・これが初めてだった。
(どんな奥方も、こういった状況をどうにかしてきているのかしら)
ルーナは、ふぅっと溜め息をついた。
跡継ぎさえ産んでしまえば、あとは愛人を作って恋愛ゲームにのめり込む貴族の男女。それはどんな夫妻もこういう虚しい夫婦生活だからこそ、なのだろうか。
他の人も同じようにしてきているのであれば、自分だってそれを我慢するしかない。けれどもアーファイドは何かが違うと、ルーナは感じる。まるで自分の言葉を変に曲解していく、そんなところがあるのだ。
こういった時に頼れるのは実母なのだろうが、フィツエリの生活様式や男女の在り方はロームの文化とは違い過ぎて、母に相談は出来なかった。
(お兄様も貴族の跡継ぎ。ならば、お分かりになることがあるのかもしれない)
だが、フィツエリ邸を訪れてルーナは兄のロカーンに相談したものの、兄とて妹が言葉を選んで相談する中から全てを見通すことは不可能だった。
「跡継ぎも出来ていない前から、一人で社交にうつつを抜かすなどとんでもないことだ。だが、・・・そうなると、デクシム子爵夫人に尋ねるしかあるまい。ルーナ、お前はデクシム家に嫁いだのだ。まずは、そこの女主人に従いなさい」
ロカーンは、一般的に正しい方向を示した。そこには、嫁ぎ先に対して従順になることで可愛がってもらえればという思惑があっただけだ。
「はい、お兄様」
ルーナはデクシム領にいる姑の子爵夫人に手紙を書き、自分はどうすればいいかと問い合わせた。
折り返しの手紙による指示で、ルーナはデクシム領へ出向き、そこで舅と姑に仕える日々を送ることになった。
「新妻がいるのだからアーファイドもちょくちょく帰ってくるかと思いきや、ルーナ様がいても、全くあの子は戻ってこないわね」
「申し訳ございません、お義母様」
「しかし、どうであれ、跡取りは必要だ。ルーナ殿が頑張ってくれなくてはどうしようもないだろう」
「はい、お義父様」
ルーナに反論は許されなかった。今まで男爵家の姫君として扱われていたルーナだったが、デクシム家では、全くの新参者だ。
夫であるアーファイドをきちんと導けない妻など何の役にも立たないとばかりに、ルーナは事あるごとに叱責されていた。
「ルーナ様。ロームに戻りましょう。跡取りも何も、アーファイド様がいらっしゃらないのでは、出来る筈もありません。それは誰もが分かっていることです」
「ロシータ。・・・だけど、駄目よ。あのお義母様が許す筈はないわ」
こんなにも自分への悪意をぶつけられたのは初めてだ。自分は何もしていないのに、何故かデクシム子爵夫人は自分への敵意を隠さない。
そのことに、ルーナの心はとっくに折れていた。
他の子爵家から嫁いできたデクシム子爵夫人が、ルーナに嫉妬していたことが全ての原因でもあった。ルーナの使っていた物は、それこそ侯爵家や伯爵家クラスの令嬢そのもので、同じ貴族でもかなり差があったのである。また、目立たぬように実家から連れてきた侍女はロシータだけだったが、フィツエリ男爵は、本来はもっと侍女をつけるつもりでもいた。
結婚の打ち合わせの際に、ロカーンが「侍女は何名つけさせましょうか?」と尋ね、デクシム子爵夫人に驚かれたことからロシータだけにしたのだが、・・・必要とあれば複数名連れてくることができたという彼女に、ほとんど持参金だけで嫁いできた姑は憎しみを一気に抱いたのである。
息子の嫁であるルーナに対し、いかに出来ていない人間であるかを言い募ることだけが、デクシム子爵夫人における自尊心を満足させるものだった。
(どうしよう。このままではルーナ様が駄目になってしまう。・・・ここから連れ出さなくては。だけど、どうすればいいの・・・!)
ロシータは、日に日に生気がなくなっていくルーナに、焦りだけを感じていた。けれどもここはデクシム領。自分達は身動きが取れない。それこそ、自分達が出す手紙や届く手紙も開封されてチェックされているのだ。どうやって現状を打開すればいいのだろう。
(大体、どうして子爵夫人は、ルーナ様をあんなにも嫌っているのだろう。婚礼の時までは、普通にしておられたと思うのに・・・)
そこはロシータもまた、ルーナと同じく人の悪意に囲まれて育ったわけではない人間だった。だから、子爵夫人の思いを理解など出来ない。ロシータの母もフィツエリ男爵夫人の乳姉妹として育ってきただけに、ロシータもそれなりに恵まれて暮らしていたからである。
けれども、子爵夫人にとっての始まりはその婚礼の時だったのだ。
息子であるアーファイドが招待しても断ってきたセイランド・リストリ。そんな彼ですら名代で使えるフィゼッチ将軍夫妻と知己だったというルーナ。そして贈られた素晴らしい馬と装身具。参列客が感嘆した逸品は、一気にルーナを褒め称える理由と化した。
若く輝かんばかりでありながら結婚の喜びに涙する花嫁を取り巻く人々を見て、姑が、(なんて生意気な娘なのかしら)と、暗い思いを燃やしていたとは、誰も気づかなかった。
デクシム子爵夫人がもっと貴族慣れしていたならば、その時点でルーナを大事にするように心がけただろう。だが、王都で暮らすのは社交にお金がかかり過ぎると、領地で暮らすことの多い子爵夫人は分かっていなかった。ただ、息子の新妻に対する妬みだけが、心に残ったのである。
(どんどん子爵夫人の嫌がらせはひどくなっていく。・・・けれども私ではルーナ様を連れて逃げることもできない。せめて、フィツエリ家の援助さえあればどうにかなるものを。だけど、フィツエリ家に出す手紙は握りつぶされている)
このデクシム城にいるだけでルーナがどんどん弱気になっていく。ロシータは歯がゆい思いだった。
そこでロシータが思い浮かべたのは、金髪に緑の瞳をした若者だった。キルケイド・ジラン、王宮で勤務する、ロシータに結婚を申し込んだ男である。その求愛については、ルーナがデクシム領へと行くことにより、お断りしてしまったロシータだったが。
(恥知らずな女だと思われるに違いない。けれど・・・・・・)
それでも。フィツエリ男爵家などに出す手紙と違い、商家に出す手紙ならばかなりチェックは緩いだろう。そこに賭けるしかないと、ロシータは思った。
「キルケイド様。お元気でいらっしゃいますでしょうか。
その節は大変お世話になりました。あの時は、役に立つお店を教えていただきまして、本当に助かりました。
そのお知恵を見込み、教えて頂きたいことがありまして、筆をとっております。
実は私が使える主人についてなのですが、その方が首尾よく身籠る術を知りたいのです。
旦那様は、王都の騎士団で前途洋々といった出世頭でいらっしゃいますが、お忙しいようでなかなか領内にお戻りになれません。これでは跡継ぎを身籠ることはできないのでございます。
そのことに、私の主人は心を痛めております。
どうか、旦那様が領内に度々いらしてくださるような、そしてすぐに身籠ることが出来るような、何か良い方法をご存じ無いでしょうか。
男の方を惹きつける、そんな方法を知りたいのでございます。
恥ずかしながら、王都には様々なお店があるとか。キルケイド様ならば何かご存じではないかと思い、おすがりする次第でございます。
そして良い方法などがありましたら、色々と教えてくださいませ」
ロシータはそれを、キルケイド・ジランの実家である店に、キルケイド宛で出した。途中でデクシム子爵夫人の検閲が入ることは覚悟している。だが、どこも跡継ぎの問題は切実である。ルーナをいびりたい気持ちはあるだろうが、内容が内容だけに、そのまま出してくれるだろうとも踏んでいた。
(あとは・・・。どうか、ルーナ様を助けてくださる方に、連絡をとってくだされば・・・!)
キルケイドは王宮に勤める人間である。それこそ、様々な人の裏を見てきているに違いない。大体、夫が王都にいて、妻が領地に引っ込んでいて、それで跡継ぎなど作れる筈がない。そんな無茶な話を知った時点で、何かあると思ってくれれば・・・・・・。
そして出来るならば、フィツエリ家に働きかけてくれないかと、ロシータは願った。もしくはアーファイドに何か揺さぶりをかけてくれれば、と。
「ロシータ。・・・無駄よ、アーファイド様は何もしないわ。だって、あの人、私に全く興味がないもの。どちらかというと、・・・憎んでるのよ」
「そんな・・・! ルーナ様が人に憎まれるなど。大体、結婚式の日までほとんど会ったこともなかったではありませんか」
「知らないわよ、そんなの。・・・けれど、あの人、私のこと、嫌いよ。だからこんなことが出来るの」
やがて、キルケイドからは返事が届いた。
「ご無沙汰しております。お嬢様。
いつぞやは当店がご紹介させていただきましたお店を気に入っていただきまして、ありがとうございました。当店は王都でも長く営業しておりまして、様々な分野のお店ともお付き合いがあると自負しております。
跡継ぎの問題はどの家にとって、とても重要なことでございます。その為に、お嬢様のご主人様も苦悩なさっているであろうこと、察するに余りある状況です。
さて、実は王都には、高位貴族の方々もそういったお悩みでご利用なさっている店がございます。
お嬢様からお手紙をいただきました為、そのお店の方に相談しました所、よく受けるご注文なのだと、ですから大丈夫だと太鼓判を押してくださいました。
そこのご主人はリスエ様と仰有るのですが、それではお嬢様のご主人様も、妻としての役目が果たせずにご自分を責めておいでであろうと、良いお薬を是非紹介したいとのことでした。
ではどうぞ、王都にいらした時には、旦那様とお立ち寄りくださるようご主人様にもお伝えくださいませ。きっとご主人様ご夫妻のお役に立てるかと存じます。
また、それまでの間に役立つであろう本も幾つか同封させていただきます」
内容が内容だからだろう。開封の跡はあったが、それはロシータに渡された。
(リスエ様・・・、ケリスエ様のことね。ならばどうにかしてくれる、きっと)
あの方ならばフィツエリ家にも連絡を取って、一番良い方法を考えてくれるに違いないと、ロシータは、ほっと息をついた。そして、キルケイドの顔を思い出して、涙が滲む。
(あの人にこんな不実な真似をした私の為に、それでもあの人は・・・・・・)
ルーナがアーファイドとの子供を授かる為に努力していると思わせようと、キルケイドが同封してきていた本を、ロシータは読みふけってみせた。それは子供を孕みやすくする様々な方法を書いた本だった。
「あら、ロシータ。何をしているのかしら?」
「これは、奥方様。いえ、あの、・・・奥方様は、どんな努力をなさいましたか? アーファイド様をお産みになる時に」
「ほほ。特に努力などしませんでしたわ、私はね」
「・・・そうですか」
ロシータはがっくりと落ち込んだ表情を作る。するとそれを確認してデクシム子爵夫人は満足そうな顔になった。
「ま、あなたはせいぜいそんな本を読んでいればよろしいわ。主人が主人なら、侍女も侍女で役立たずだこと」
「申し訳ございません、奥方様。・・・どうぞよろしくご指導くださいませ」
ロシータは深く頭を下げた。くすくすと笑ってデクシム子爵夫人が去って行く。
そんな口惜しさにもロシータは耐えた。少なくともロシータをいびれば、まだルーナへのいびりは少なくなる。出来るだけ自分が子爵夫人の悪意は引き受けようと、ロシータは決意していた。
そんな日々が続いた、ある日のことだった。
「アーファイド様が、お戻りになられました」
夕食の席でもたらされたその知らせに、皆が驚く。
「おお、アーファイド。何だ、どうした、急に」
「アーファイド。戻って来るなら先に連絡を寄越しなさいな。突然だなんて、驚くじゃないの」
だが、そんなデクシム子爵夫妻の言葉に、アーファイドは取り合わなかった。
「来いっ、ルーナ」
「きゃあっ」
いきなり腕を掴まれて、立ち上がらせてくるアーファイドに、ルーナは悲鳴をあげた。
久しぶりに見たアーファイドは、馬を飛ばしてきたのか、かなり疲れた様子だった。
「いいから来いっ。お前はフィゼッチ将軍と繋がりがあった筈だっ。夫人に頭を下げて絶対にお願いしてみせろっ。ローラン・フェイトスを助けてくれとなっ」
「え・・・? どなたですの、それは?」
「うるさいっ」
バシッとルーナの頬が叩かれる。ルーナは床に転がった。だが、無様に大きく倒れたように見せかけたが、ルーナは受け身をとっていた。こういう時は、わざと大きく行動し、周囲の反応を見るものだ。
何人かの使用人が驚いて助けようとしたが、・・・デクシム子爵夫妻の様子に躊躇いをみせて動きを止めた。
(この人達にとって、私はこんな程度の存在なのね・・・)
そして、息子がこんな乱暴をしていても止めないデクシム子爵夫妻に、そしてアーファイド自身に、かすかに残っていた情は、・・・そこで、ぷつりと切れた。
「お前は質問などしなくていい。ただ、俺の命令に従えばいいんだっ。・・・・・・馬車を用意しろっ、王都にルーナを連れていく」
しかし、もう夜である。さすがに今からは馬車も出せない。その次の朝に出発することとなったが、ルーナには何の情報も知らされず、ロシータは慌ててルーナの旅支度をすることになった。
用意する衣擦れの音に隠し、二人はこそこそと話し合った。
「ロシータ・・・。だけど、どうすればいいの、フィゼッチ将軍ご夫妻なんて、私、知らないのに」
「いいえ、ルーナ様。そのフィゼッチ将軍ご夫妻はケリスエ様と繋がりのある方。いざとなれば助けを求めればよろしゅうございます。ここは、まずデクシム領から脱出することを考えましょう」
「・・・そうね」
ローラン・フェイトスなんて知らない名前だが、もう、そんなことはどうでもいい。
けれどもフィゼッチ将軍はかなり特別な存在だ。そんな人に、デクシム家とフィツエリ家の弱みになるような、こんなことを知らせていいものなのか。社交界に、フィツエリ家の恥となるような噂が流れてはどうなることか。
(それしかない、わよね。・・・うちよりもデクシム家のダメージの方が大きいのが救いだけど、あのケリスエ様が頭を下げたというフィゼッチ将軍はどんな方なのか、そこが分からないわ)
そして、自分一人では現状を打開することも出来ないのに、そうやって家の為なら耐えてしまおうとする自分にも苦笑する。結局、自分も貴族ということなのか。張りぼての矜持だけが全ての。
(お笑いよ。平民でもロシータには、求婚の申し込みを断られても尚、動いてくれる殿方がいるというのに。何が貴族よ、・・・同じ人間のくせに)
これが貴族の義務だというのであれば、もう、自分は貴族でなくていいと、ルーナは思った。
夜明けと共に馬車に乗せられながら、ルーナはアーファイドに尋ねた。
「それで、アーファイド様。私に何をしろと仰有るのです?」
「フィゼッチ夫人に泣きつけと言っている。・・・近衛騎士団に、ローラン・フェイトスという男がいる。その男が投獄された。それを釈放してほしいと頼めばいいんだ」
「・・・どんな罪で投獄されましたの?」
「使い込みだ。だが、・・・彼は無実だ」
「その証拠は?」
「そんなもの、無い。だが、お前はフィゼッチ夫人に頼めばいい。フィゼッチ将軍が許すと言えば、それで全てはうまくいく」
「・・・・・・お待ちください。どうして、その方が無実だとアーファイド様にお分かりになりますの?」
「俺がそう言ってるんだから、そうなんだっ」
ルーナも、そして馬車の隅で控えていたロシータも俯いて無言になった。つまり、フィゼッチ夫人の威光を使って、投獄された人間を助けろと、アーファイドは言っているのだ。
そこで、ルーナは肝心の質問をした。
「そのローラン・フェイトス様とアーファイド様は、どういったご関係なのでしょう?」
「・・・・・・友人だ」
「フィゼッチ夫人にお願いするに当たりまして、どんなお礼をお考えになってらっしゃいますの?」
「そんなもの、お前が考えろっ」
ルーナは笑い出したくなった。友人を救う為に、この男はルーナにフィゼッチ夫人に頼みごとをしろと言っている。だが、貴族の世界は頼んで終わり、ではない。仮に親しい仲であっても、お願いした以上は何かを謝礼として差し出すよう要求されるのは当然のことだ。・・・・・・この場合、ルーナにデクシム家における権限はない。
「分かりました。では、お兄様に連絡をとらせてくださいませ。まずは、それなりのお礼を用意しなくてはなりません」
「・・・いいだろう。だが、余計なことは言うなよ」
「はい」
あまりの馬鹿らしさに、ルーナはもう何も言う気にならなかった。自分で友人を助けてほしいと言いながら、その為の努力も金銭の用意も全てルーナ任せとは。
そこで、馬車がゆっくりとしたスピードになる。
馭者が声を掛けてきた。
「アーファイド様、ルーナ様。ここから山道に入ります。細い道ですので、護衛の兵士は前と後ろにつきますが、いささか馬車もゆっくりになりますので」
「分かった」
アーファイドも、ロームとの往復は慣れている。山道と言っても、柔らかい土ではなく岩盤に近いものだから、ここの道を広げられないのだ。それでも下の広い道を通るよりも早く抜けられる為、かなりの人が利用していた。すれ違う時は、お互いが譲り合う形で済ませるのだ。
しかし。
「アーファイド様っ、襲撃ですっ!」
「何っ!?」
いきなり緊迫した声が掛けられる。バッと、ルーナもロシータも荷物の中から剣を取り出した。アーファイドは常に剣を持っているが、そこで怯んだ様子でもあった。
「蹴散らせっ。賊など今まで出たことはないっ。すぐに始末出来る筈だっ」
だが、馬車の中で喚くアーファイドをよそに、外での激しい打ち合いは次々と静かになっていった。
けれども、馬車の中に声を掛けてくる人は誰もいない。
アーファイドは恐る恐る馬車の窓を開けて外を見た。だが、誰も近くにはいない。護衛の兵士も、襲ってきた賊も。普通、どんな結果であれ、どちらかはいる筈なのに。
何度も窓から外を見渡し、やがてアーファイドは外へと出た。
「ルーナ様。何があろうと剣を・・・」
「分かってるわ、ロシータ」
アーファイドが近くの様子を探りに行くと、ロシータはさっと馬車の扉を閉めて閂を掛けた。賊相手なら壊されるだけだが、しないよりはマシだ。
しばらくアーファイドが戻ってくるのを待ったが、彼はなかなか戻ってこなかった。
二人が外に出るべきかどうかを小さく囁き合っていると、そこに、外側からトントンとノックの音が響く。
「デクシム殿と、護衛の兵士達には眠っていただきました。・・・今、あなたは選ぶことができます。アーファイド・デクシムを助けて今後も貴族の妻として生きていくか、それとも貴族全てから後ろ指をさされて笑われることになろうとも自由の身になるか。・・・・・・どうなさいますか?」
ルーナの全身に、鳥肌が立った。
(まさか・・・。だけど、そんな)
何も考えられず、ガチャガチャと閂を外し、ルーナは外に躍り出る。
そこに立っていたのは、思っていた姿ではなく、口元を布で覆い、髪もまとめて布で包んだ無頼の男の姿だった。けれども、そこにある黒い瞳をどうして自分が忘れられるだろう。
「一度は嫁いだ身。自由にして差し上げられても、もう二度とまともな縁談はありません。姫、・・・どちらを選んでもあなたは不幸になる」
ルーナは首を横に振った。
「私は、もう、汚れた身です。幸せ、なんて・・・、最初から、どこにも、ありません」
その言葉を言えば、涙がぽとぽとと落ちる。ルーナがずっと会いたかった、そしてずっと会いたくなかった人がそこにいた。
(私は、あなたが大事にしてくれた姫では、・・・もう、ないのに)
友人を助けることすら妻とその実家の資産頼みの恥ずかしい男。そんな男を夫とし、その男に仕え、そんな男に人前で殴られるような自分。・・・・・・そんな自分に、人としての価値などどこに残っているというのだろう。
自分の幸せを誰よりも願ってくれた人に、こんな自分を見せるのがとても恥ずかしかった。だから、会いたくなかった。
嫌われてしまいそうで、怖かった。今だって、恥ずかしくて、辛くて、死にたいぐらいに恐ろしい。
この人にだけは、こんな自分を、絶対に見られたくなかったのに・・・。
「それは思い込みですよ、姫。あなたは今も誰よりも素敵な女性です」
慌てた様子で綺麗な布を取り出すと、その人はルーナの涙を拭ってくる。けれども自分にそんな価値はないのだ。この人だって、知らないからそう言うのだ。
「嘘ですわ。・・・だって、あんな人達に、あんな扱いを受けていたんですもの。私なんて、・・・もう、どんな価値もないんです。そこらの、ゴミのような存在なんです」
使用人にすら馬鹿にされていた日々。こんな屈辱すら受けなくてはならない身に成り下がった自分。何が次期子爵夫人だというのか。
「お願いです。私を殺してください。・・・もう、嫌。嫌なんです、・・・もうっ」
「ルーナ様っ、何てことをっ!」
後ろからロシータも泣いて縋ってくるが、ルーナにとっては、そんなこともどうでも良かった。
こんな世界で生きていたくなんてない。
見慣れない格好ながらも自分を見つめる黒い瞳が、悲しそうに少し細められたのが分かる。
「死にたいですか、姫?」
「ええ。・・・あんな日々はもう、嫌。嫌なんです」
ルーナは、力なく笑った。
フィツエリ家の豪華な嫁入り仕度は、姑であるデクシム子爵夫人に次々と取られていった。与えられたのは、それまで子爵夫人が使っていたという使い古しの道具。衣装すら、大人しい色合いのものは全て持って行かれてしまった。
彼女に残されたのは、それこそ小さな布袋に入れて常に体につけていた、結婚祝いにこの人がくれた髪飾りと首飾りだけ。探し回っていたデクシム子爵夫人も、「あれは王都のフィツエリ邸に置いてきました」と言えば諦めた。
アーファイドと一緒の今は、見つかって取り上げられては困ると、ロシータに預けていたけれども。
「分かりました。・・・いらっしゃい、姫」
広げられた腕に、ルーナは身を投げ出すように飛び込んだ。
目を閉じれば、その腕が自分を優しく撫でてくるのが分かる。今、この瞬間に、・・・息絶えてしまえたらどんなに良かっただろう。こんな情けなくも恥ずかしい自分なんて、絶対にこの人だけには知られたくなかった。
だけど、誰よりも会いたい人だった。
その人が、優しくルーナの髪を撫でる。
「もう、貴族社会に戻れないかもしれませんよ?」
「いいんです。いらない、何もかも・・・」
「・・・ロシータ殿。あなたはどうなさる?」
「私は、・・・常にルーナ様と共に参ります」
そして、二人の主従は馬車から姿を消した。
少し離れた所で折り重なって倒れていたアーファイドと護衛達が目を覚ます頃には、もう夕方になっていた。起き上がれても、かなりの強い衝撃を受けた体は身動きがそうそうとれる状態ではない。
やがて、体を引き摺りながらもどうにかこうにか確認してみれば、ルーナとロシータの姿はなかった。
「アーファイド様。・・・若奥様達は連れ去らわれてしまったのでしょうか」
兵士達が不安そうな顔になる。アーファイドは蒼白になった。
デクシム領内において、次期デクシム子爵夫人が賊に連れ去らわれたなどあってはならない。身代わりを立ててでも、その事実を隠さなくては。もしくは病死したことにするか・・・。
だが、そうなるとローラン・フェイトスはどうなるのか。
「探させろっ。近くの村に応援を出させるんだっ。そして何があろうとルーナを連れ戻せっ」
アーファイドは痛む腹と首を押さえながら、それでもデクシム城に戻り、兵士達を出させなくてはと、立ち上がった。
デクシム城は大混乱となった。
特に慌てたのはデクシム子爵である。彼は妻と違い、フィツエリ男爵家を怒らせたらどうなるかを、知っていた。
「別に、あんな小娘、どうなったっていいじゃありませんの。アーファイドには違う娘を娶らせればいいだけのこと」
「何を馬鹿なことをっ。お前はフィツエリ男爵家を知らんからっ」
「何を慌ててるんです、父上? 別にフィツエリ男爵など、どうでもいいではありませんか。そりゃ、ルーナは見つけ出します。けれども、別にルーナはデクシム家に嫁いだ身。実家は関係ないでしょう」
妻と息子の言葉に、デクシム子爵は信じられない生き物を見るような目になった。
「フィツエリ男爵を恐れずにいられたのは、肝心の一人娘であるルーナ殿がうちにいればこそだっ。お前らは知らんのかっ。かつて攻め滅ぼした城の人間全てを城外に吊るした、あの悪魔の軍勢をっ!」
「・・・え? ですが、うちはそのルーナ姫が嫁いだデクシム家ですのよ、あなた? 大体、うちに恐れ入ったのか、何かと付け届けをしてきているではありませんの、フィツエリ家は」
「だからっ、その肝心の姫がいなければどうにもならんだろうがっ! アーファイドッ、何が何でもルーナ殿を見つけ出さねばならんっ。お前だって騎士団にいるのだっ、それぐらい知っているだろうっ」
だが、アーファイドは知らなかった。父のデクシム子爵も分かっていなかったが、アーファイドはあまり戦いに出るのを好まず、裏方作業ばかりにまわしてもらっていたからだ。つまり、お飾り程度にいるかいないか程度の存在だったのである。
そんな過去の戦いなど知るわけがない。
アーファイドは、騎士団に「実家でよんどころない事情が発生しまして・・・」と、長期休暇を願い出ると、父と共にルーナの捜索を指揮した。けれどもルーナは見つからず、日にちばかりが過ぎていった。
そんなある日のこと。
「旦那様。フィツエリ男爵家の方がいらっしゃいました」
家令が、一人の男を案内してくる。その後ろには彼が連れてきたらしい侍女達もいる。
「デクシム子爵にはご機嫌麗しく存じ上げます。実はルーナ様にお目にかかりたくまかりこしました」
「ルーナ殿に・・・。いや、実はルーナ殿には体調が思わしくなく、臥せっておいでなのだ。客人に会える状態ではなくてな」
使者は、「それは何としたこと」と言って、困った顔になる。
「病気一つしたことのないルーナ様が・・・。では、侍女のロシータ殿にお会いできますでしょうか。彼女なら分かると思いますので」
「ロシータに? 何か切羽詰まったご用事でも?」
デクシム子爵が尋ねると、フィツエリ男爵家の使いは、にこやかに答えた。
「ええ。そろそろルーナ様が嫁いで日も経ちますし、そろそろご懐妊の知らせなどあっても良いかと思いまして・・・。それでしたら必要なものなどもあるでしょうしと、それをうかがいに参ったのでございます。彼女達はルーナ様の服を仕立てる為に連れてまいりましたが、そのままルーナ様にお仕えさせても構いませんし」
嫁いで以降、ルーナの衣装や身の回りの品は、デクシム家ではなくフィツエリ家が用意している。どうやら、連れてきた侍女たちは採寸を行う為に連れてきたらしい。
「いや、生憎とロシータもルーナ殿と一緒に寝込んでしまっておってな。性質のよくない流行病なのだ。今回は、遠慮してもらえぬだろうか」
「では、看病に彼女達をどうぞお使いくださいませ。何と言ってもルーナ様は、我が主フィツエリ男爵のたった一人の姫君でございます。ご病気となれば、医師も寄越さなくては」
「い、いや、それなのだがな。・・・実はルーナ殿はとても素晴らしい女性で、うちのアーファイドには勿体ないぐらいの方であると、常々感心しておるぐらいだ。今まではフィツエリ家からルーナ殿にかかる全ての用意をしてもらっていたが、あんなにも素晴らしい女性に対して、それはあまりにも情けない。これからはルーナ殿の用意はデクシム家でしたいと思うのだが・・・」
デクシム子爵は、ルーナを褒めることで、もうフィツエリ男爵家からの使者を迎えない流れに持って行きたかったのである。
しかも、こんなにも侍女を受け入れては、ルーナがいないことがばれてしまう。
既にアーファイドは数日前に、これ以上は休めないと、王都ロームに戻っていっていた。
ルーナの生存、もしくは無事な発見は絶望視されていた。デクシム子爵一家としては、何としてもルーナは病死に持って行くしかないと、考えていたところでの訪問だったのである。
「そんな必要はございません。ルーナ様のお仕度を、どうしてフィツエリ家が厭うことがございましょう」
「いやいや。それこそデクシム家にとっても大切な次期当主夫人。今後はデクシム家こそが大事にしてまいりたい」
そんなやり取りを経て、結局、フィツエリ男爵家の使者は帰っていった。
そして数ヶ月後、ルーナの病死がデクシム子爵から様々な場所へと報告されたのである。
あれ程に若く元気だったルーナが亡くなったとはと、その知らせに、何とフィツエリ家の次期当主であるロカーンばかりではなく、フィゼッチ将軍夫妻からの使者も駆けつけた。更には、何とリガンテ公爵の使いも寄越され、彼女の亡くなった時の様子を是非教えていただきたいと述べる始末である。
実兄であるロカーンにしても、妹のルーナは全く病気などしたことのない健康で若い娘だったのだから、余計に詳しく話を聞きたいとも言う。
デクシム子爵と長男であるアーファイドは、必死に作りあげたルーナの闘病の日々を語り、そしてどんなに彼女を失ったことが心の痛手なのか、そして最後までどんなに自分達が彼女を愛していたか、それらを話し続けていた。
王都にあるデクシム子爵邸。そこは、ルーナの夫であるアーファイドが生活する拠点である。
「ルーナも病死で片付いた。・・・当分、これで静かに暮らせる」
「おいおい、アーファイド。可哀想だと思わないのかよ、もしかしたら盗賊共の慰み者になっているかもしれないんだぜ」
「知ったことか」
アーファイドは言い捨てた。その様子に、ローランは満足そうな顔になる。
「まあ、俺は構わんがな。この邸は居心地がいい」
騎士団での使い込みが発覚して投獄されたローランだったが、その使い込んだ金はアーファイドが支払うことで、牢から解放された。しかし、ローランは近衛騎士団をクビになった。
それ以来、ローラン・フェイトスはデクシム子爵邸に転がり込んで暮らしている。
「じゃあ、俺はそろそろ仕事に行ってくるから」
「ああ、アーファイド。そろそろ新しい服が欲しいんだが・・・」
「ローラン、・・・またか。言っておくが、君の使い込んだ金だってルーナの持参金でどうにか間に合わせたんだ。あれだって父に知られたらどんなことになるか。君だって騎士団の給料は知ってるだろう。そうそう我が儘を言わないでくれ」
さすがのアーファイドも苦言を呈した。
ローランはなかなかの美丈夫だが、今は無位無官の身。そうそう服も必要ないというのに、ローランは浪費傾向がかなり強い。普通の服ならばともかく、ローランの言う服は、それこそ仕立て屋を呼んできっちりと採寸し、全てのオーダーを行うものだった。
「分かった分かった。そう怒らないでくれ、アーファイド。君がいない間は暇すぎて、それしかすることがないんだ。・・・早く帰ってきてくれよ?」
「ああ。ローラン」
二人は軽くキスをすると、アーファイドは出て行った。それを見送り、ローランは頭をがしがしと掻く。
衣食住が揃っているデクシム子爵邸での暮らしは悪くないが、毎日同じ日々を過ごすというのは飽きるものだ。やはり色々な人間に囲まれて楽しみたい。
(だが、近衛騎士団には戻れないしな)
王都騎士団なりローム国騎士団なりにでも入り込めたら・・・。アーファイドは金遣いにもうるさすぎるのだ。自分は子爵どころか、伯爵家の人間なのに。
アーファイドの金で助けてもらっておきながら、その時が過ぎてしまえばローランは、それも過去のことと割り切ることが出来る男だ。思うような贅沢をさせてくれないアーファイドに、今度は不満が出てくる。
肝心の伯爵からは勘当されており、実家は頼れない有り様だったが、伯爵家出身というのがローランの心の拠り所でもあった。
パンパンと手を叩いて侍女を呼ぶ。
「ローラン様。お呼びでしょうか?」
「ああ。着替えを手伝ってくれ。・・・ただし、君との時間が済んでから、な」
ローランはやってきた侍女に口づけると、そのままソファに押し倒した。
(アーファイドが金を出してくれたから、あの使い込みはなかったことになってる。王都騎士団にでも入団するか)
異動とは違い、新しく入団といった形にはなるが、元は近衛騎士団で現役の騎士だった自分である。問題なく受かるだろう。何より、ここでの暮らしには飽きた。アーファイドのいない隙に侍女達をつまみ食いするぐらいしか、やることがない。
侍女との時間を楽しんだ後、早速ローランは王都騎士団に行き、そして入団したいのだと告げたのである。
この時点で、ルーナの話を聞いていたトレストとエルセットには、たらーっと汗が一筋流れていた。
「あ、あの・・・。ルーナお母さん、それって・・・」
「言うな、エルセット。ルーナ様のお気持ちも考えろ」
小さくトレストがエルセットを制する。だが、ルーナはさばさばとしたものだった。
「ええ、そうよ。アーファイド・デクシムはね、男のローランが好きだったの。だから女遊びだなんて話も全くなかっただけだったのよ。・・・そしてね、私が嫁ぐまではちょくちょくローラン・フェイトスは王都にあるデクシム子爵邸にも入り浸っていたわけ。だーかーらー、私に対してあそこの侍女達も冷たかったのよっ。・・・そりゃそうよねっ。もしかしたら自分が貴族の人間であるローランに望まれて結婚できるかもしれないって夢を見てたんだもの。私が女主人としてデクシム邸にいる限り、気兼ねして来ないんじゃ、憎まれるわよねっ!」
そのローランは男も女もいけるタイプだったらしい。使い込んだ金も、そっちに費やしていたようだ。誰しも羽振りが良くて見た目も悪くない男がいたら寄っていくだろう。
「だけど、・・・だからってルーナお母さんをサーラお母さんが誘拐しちゃって大丈夫だったの? それにサーラお母さん、一人で護衛の兵士達を倒しちゃったの?」
エルセットとしては、そこも気になる。しかも死んだことになっているルーナは生きている。
「ああ、そっちはね・・・。ケリスエ様だけじゃなくて、お父さんと部下の人達が協力してくれたみたい」
サーライナが行くとなれば、カロンだって同行する。だが、カロンは信用が無さすぎた。
ちょっと休暇をとって出掛けてきますと言っても、クネライ将軍から各部隊長に至るまで、誰もがそのままサーライナにくっついて居所不明になる可能性を考えたのである。
「いいか、ケイス第六部隊長。まあ、ケリスエ前将軍が王都を離れるっていうだけならまだ容認できる。お前が残ってるからな。そしてお前だけが出かけるのも容認できる。ケリスエ前将軍が王都にいる限り、お前は戻ってくるからな。・・・だが、二人が一緒にどこかに行くとなっちゃあ、それこそこちらもな、警戒せざるを得ん」
「いやいや。ちょっと待ってくださいよ、クネライ将軍。ちゃんと戻ってきますって」
「じゃあ、どこに何をしに行くか、言ってみろ」
「言えません。・・・どうなるか、分からないので。ただ、今、行かないとまずいんです。せっかくあちらに動きが出るように持って行ったんですから」
「だからな、あの方が色々と仕組んで動く以上、可愛らしいお出かけじゃないことぐらい誰だって分かるっつーんだっ。ほら、吐け。全部、吐け」
「勘弁してください。俺だってあの人に口止めされてるんですからっ」
「てめえは今の将軍と前の将軍、どっちが偉いと思ってやがるっ」
「俺にとってはあの人だけが全てですっ」
「だろうよっ。・・・ああっ、もうっ、あの方も口を割らないし、俺にどうしろっつーんだ」
しかし、サーライナにしてもカロンにしても、まさか貴族の奥方を誘拐しに行くなどとは言えない。場合によっては皆を危険にさらすからだ。
仕方なく、何をしに行くのか、行き先も理由も問わない、そして知ったことを部隊長以外には話さないことという条件をつけて、数名の人間を連れて行った。
そして蓋を開けてみれば、ローム国騎士団の人間にとっても見知らぬわけではないルーナとロシータがいて、しかも二人は、どんな日々だったかを言葉少なに語る。それを聞いてしまえば、騎士達も同情せずにはいられなかった。
報告を受けたクネライ将軍と部隊長達、そして副官達も、なるほどと沈黙を守った。
それは、フィツエリ男爵家が黙って済ませるかどうかといった問題も孕むからである。
「聞いてないからな、俺は何にも聞いてないからな」
「だから言ったじゃないですか、クネライ将軍。あの人は、あなたが困ることになるだろうからと、言わなかったんです。巻き込まない為に」
「いいんだよっ。それでも役立っただろうが、つけた奴らは」
誰しも素直ではない。クネライにしても、本当は二人を信じていないわけではなかった。わざとごねて、手伝いを連れて行かせてやりたかっただけだ。分かってて、サーライナも連れて行った。
使用人を置いていないケリスエ前将軍の屋敷は、ルーナとロシータがこっそりかくまってもらうにはぴったりの場所でもあった。
日頃は使っていない片翼を二人に提供し、四人で暮らす日々が始まった。
やがて、王宮に文官として勤務しているキルケイド・ジランも顔を出す。やはりロシータが心配だったからだ。涙ながらに感謝を伝えるロシータに、キルケイドはもう一度、結婚してほしいと言った。
「いいんじゃないの? ロシータ、あなただってずっと好きだったんでしょ? 私は失敗しちゃったし、もう結婚なんてこりごり。だけどあなたは好きな人と一緒になりなさいよ」
しかし、フィツエリ家に何の相談もなく、そういうわけにもいかない。
ルーナのことに関しては、ケリスエ前将軍からロカーンに状況を連絡し、フィツエリ男爵家の返答を待っているところでもあった。
すぐにロカーンがケリスエ前将軍の屋敷に駆けつけ、二人から話を聞き出す。
「まずは、デクシム子爵の出方を見るか・・・」
やがてデクシム子爵から、ルーナの病死が発表された。
「ルーナ。お前は対外的には死んだことになった。・・・さて、ここでフィツエリ家としては、だ。遠縁の娘を養女に迎えることにした。お前は養女として俺の妹になる。名前も同じルーナだがな」
「分かりました、お兄様」
ロカーンはそう言って、サーライナに礼を述べた。
「今まで、長らく妹がお世話になりました。ケリスエ殿、ケイス殿。デクシム子爵からルーナの病死が発表された以上、これで何の問題もなく、フィツエリ邸にルーナを引き取ることができます」
「使用人もいない屋敷で、姫にはご不便をお掛けしました。ですが、その分、姫の情報は洩れてはおらぬと存じます。・・・姫、どうぞこの後は心安らかにお暮らしください」
「ありがとうございます、ケリスエ様」
ルーナは王都にあるフィツエリ邸に移り、そしてロシータはキルケイドと結婚して王都の小さな家に暮らすこととなった。
【終わらないダンスを君と】
あの兄二人を持って産まれた瞬間から、自分はスペアなのだと決まっていたのだ。彼は、常々そう思っていた。
ガーラント・リストリ。リストリ家の三男である彼が、これから一生、兄達のスペアとして生きていくのだと理解したのは、いつの頃だっただろう。
リストリ家の長男である兄・フェルエストが王宮で勤務しているのはいい。そして次男である兄・セイランドが騎士団で勤務しているのもいい。
だが、貴族としては領地の管理をする人間が必要なのだ。・・・本来、長男であるフェルエストこそがそれに専念し、それこそ王宮などで勤務するのは自分で良かった筈だ。
(何が、決まりきった領地運営などするのは飽きるからな、だよ)
元々、リストリ家の三兄弟は、書類仕事を厭わない傾向があった。だからだろう。長男はそれこそ自分の天職だと思ったのか、王宮に勤め始めてしまい、今は「大変だ」とか、「やってられん」とか言いながらも楽しそうに働き、邸に帰るとバタンキューと寝台に倒れ込む生活をしつつも、張りがある様子である。面倒だとかぼやきながらも、そんな生活が性に合っているのだろう。
そんな跡取り息子の本来スペアであるべき次男のセイランドは、よりによって騎士団に入ってしまった。そう、いつ戦死するかも分からない騎士団である。・・・・・・スペアどころか、三人の中で真っ先に昇天しそうだ。
自分の好きな道を選んで実行してくれた兄二人のおかげで、三男であるガーラントの人生設計は狂ったと言ってもいい。
(普通、俺の立場なら、跡取り息子のいない貴族令嬢の婿になるのが一般的だった筈なんだが・・・)
世の中には、娘しかいない貴族もいる。ガーラントのような貴族の三男坊は、そういった家に娘婿として迎えられるのが当然だっただろう。
だが、領地へ帰ることもなく王宮で書類仕事と陰謀と腹の探り合いに明け暮れている長兄に、リストリ領の管理は出来ない。そして、別に家を構えた上に、いつ戦死してもおかしくない次兄も論外である。
そうしたら、リストリ家を守れるのは自分しかいないではないか。しかも、虚しいことに、どれだけリストリ家を守っても、次期当主はフェルエストときたものだ。兄二人が跡取り息子を残さずに死なない限り、リストリ家はガーラントのものにはならない。
(やってられるか・・・)
ガーラントが何かと兄達に皮肉っぽい言い方をする弟になってしまったのは、それなりに無理からぬこと、きちんと理由はあったのである。尚、ガーラントに比べて大雑把な性格の兄二人は、そんな弟の鬱屈に気づいていない傾向があった。
そして、代々リストリ領内での管理を任せている家の男には、ちょうどガーラントと良い年まわりの娘がいて、何となくガーラントは、自分はその娘と結婚するのだろうと思ってもいた。恋愛感情は全くないが、それでもリストリ家の安定を考えるなら、それが一番良い。
その娘も、そういった親の思惑を受けて行動している気配があった。次期領主の末弟の妻ならば、お互いにリストリ家の発展に寄与できる良い関係を築いていける、・・・そういうことだろう。
歴史とは、そういうドラマ性も何もない普通の人々が送っていく人生を織りこんで作られるタペストリーのようなものだ。
(ま、妥当な組み合わせだよな。次期リストリ伯爵の末弟と、代々に渡ってその管理を任されている家との縁組なら問題も起きにくい。誰が聞いても無理のない組み合わせだ)
偉大なる人物、歴史に名を残す逸材、・・・そんな綺羅星の如く光り輝く大物は本当に僅かで、名もなき人々が生まれて死ぬことで世界は構築されているのだと、ガーラントはそう思っていた。自分もその大きなうねりの中にあるとても小さな構成物にすぎず、ありふれた一人の人間として、生きて死んでいくだけなのだと。
王都ロームから東に位置する街、スクリッス。
そこは、かつての戦いにおいて傷ついた人々を受け入れた街であり、今も多くの傷ついた人々が送り込まれてくる医療の街でもある。
だが、そう言えば聞こえはいいが、実情は弱った人々を受け入れることで街としての力を失速させた土地でもあった。たしかに医療に携わる人々は多い。けれども、ちょっとした医術っぽい作業で金稼ぎをしたい人間にとっては、バカバカしくてやってられない場所だ。
スクリッスは、あくまで野戦病院の街なのである。そこには常に怨嗟と嘆き、そして救済と慈しみがあった。
「こっちに積み上げられていた包帯は全て洗い終えました。今、干しております、ブラザー」
「ありがとうございます、シスター。ちょっとこれからきつい作業が始まりますので、ご婦人方は外へ出て行ってくれませんか?」
ブラザーと呼びかけられた男は、彼女にそう言って困ったような顔を見せた。そこには、研がれたばかりの斧がある。シスターと呼ばれた女は、小さく目を伏せた。
「分かりました。では、・・・せめて噛みしめることのできる布を取ってまいります。それからにしてくださいませんか、ファーザー?」
「ありがとう。助かるよ、シスター」
近くにいた初老の男にファーザーと呼びかけると、そちらの男は小さく礼を述べる。間違っても舌を噛まぬようにとの配慮だが、男と違って女のシスターが用意するものは、きちんとお日様の香りもする清潔な布だ。それだけでも少しは救いになる。
そこは教会を開放し、傷ついた人々を受け入れた建物である。元の建物に敬意を表し、そこで働く人々は、互いをブラザー、シスターと呼んでいた。医師はファーザーだ。
何人かいるファーザー達を中心に、ブラザーと呼ばれる男達とシスターと呼ばれる女達が、傷ついた人々に救いの手を差し伸べる。けれども、そこに宗教的なものは関係ない。
そこで働く者達は、わざと個人の名前を呼ばないことで、互いに等しく人々を救う立場にある。そういう理想を掲げて発足した一団体だった。
「え? ラント兄さんってば、あっちの団体に行ってたの?」
「そう。折角だからね、これも経験だと思って、ファンルケさんに頼んで研修ってんで紛れ込ませてもらったんだ。お手伝いってことで」
「そうなんだ。言われてみれば、色々な場所に行ってみた方が経験になるよね。私なんて全く思いつかなかった。やっぱりお師匠様といるのが当たり前って思ってるから、そういう思い込みがあるのかも」
ユリアナが目を丸くして問い返すと、ガーラントは少し得意そうに言った。
ちなみに場所は、スクリッスにあるファンルケ医師の自宅である。
先日からガーラントはスクリッスに一人で来ていたのだが、今日になってユリアナもやってきたのだ。何故なら、セイランドが出陣したからである。セイランドが留守にすると、ユリアナはスクリッスにやってくる。
ちなみにガーラントがスクリッスを時々訪れていることは、家族の誰にも話していない。留守にしても、単に友人の所に泊まり込んでいるか、旅に出ているのだろうと思われている。信頼が厚いのは良いことだ。
「何ならユリーもそっちに行ってみる? で、シスターって呼ばれるのさ」
「・・・シスター、かあ。それもちょっといいかも。で、ラント兄さんをブラザーって呼ぶのよね。ぷぷっ、ブラザー・・・、ラント兄さんをブラザー、・・・ぷっ、似合うけど似合わないっ」
ユリアナは、隣にあったクッションをパシパシと叩いて笑い出す。頭のてっぺんを丸く剃ったガーラントを想像してしまったからだ。
「いや、ユリアナ。別にブラザーとかシスターとかって呼んでいても、別に教会とは無関係だからな」
ユリアナの養い親であるファンルケ医師は、そう言った。たしかに教会だった建物を使用しているが、それだけのことだ。たとえブラザー、シスターと呼ばれていても、修道士や修道女というわけではない。
ユリアナもファンルケに注意されるまでもなく知っていた。だが、連想してしまうのだ。
「駄目、・・・想像しちゃうっ。頭を丸くトンスラしたラント兄さんっ、・・・いやぁっ、絶対駄目っ」
ファンルケは溜め息をついた。こうなるとユリアナはひとしきり笑い転げるまで終わらない。
(仲がいいのは結構なんだが、ユリアナもガーラント殿もお互いを異性として全く意識していないから注意もしづらいんだな)
夫のいない隙に、義姉と義弟が、家族にも内緒で一緒の家に泊まる・・・。これは、普通の人からみたらかなり怪しい関係だ。だが、二人の話題はあくまで病人と治療についてである。全くもって、男女間の色気は無い。しかも、今は既にその話の内容はトンスラに移っていた。
トンスラとは、髪の毛を鉢巻型になるように一周させて残し、それ以外は剃りあげてしまう修道士の髪型のことである。ユリアナにしてみれば、ブラザーといえばトンスラだ。
ガーラントも、ユリアナも女性ではあるのだろうが、弟といるような気分になって楽しい為、あまり義姉という感覚はない。お返しにと修道女の格好をしたユリアナを考えてみた。
「それを言うなら、ユリーだってシスターなんだぜ? シスター・・・、それこそ厳かな雰囲気漂うシスターがユリー・・・、ぶっ、似合わないっ。ユリーがシスターって、・・・ははっ」
ガーラントもそんなユリアナを具体的に想像してしまい、笑い転げた。いつでもはしゃいでは笑い転げているユリアナが禁欲的なシスターなど、・・・常に手は自分を抓り続けていないと、真面目な顔も保てないだろう。ユリアナがシスターになろうものなら、太腿は自分の指で抓った青あざだらけになるに違いない。
既に二人は、その施設での呼び名は、宗教とは全く関係ないことをそっちのけにしていた。
「ラ、ラントがブラザーっ。何、その似合わなさっ、ぷっくふふふ」
「ユリーがシスターっ。無理無理、絶対に無理っ。ははっ、笑えるっ」
大体、そんな個人の名前を呼ばないことで、人としての慢心をどうだのと言われても、無私の心がなんだのと言われても、意味が分からない。
「私が思うにはね、きっと、最初の人が名前を憶えるのが苦手だったのよ。だから、もういっそ、名前を呼ばずに、ファーザー、ブラザー、シスターとだけ呼ぶようにしようって決めたに違いないわ」
「言える言える。もしくは呼び間違えまくったとかさ。『おや、ジョーン、元気そうだね』『昨日も言いましたが、私はロイです』『おや、すまないね。ああ、メアリー、そこの器具を取ってくれないか?』『私はレーナです』とかさ。きっと、そんな会話を患者に聞かせられなくて、そんなご立派そうなお題目を持ってきたに違いないよ」
あれだけの人間が働いていて、呼び方がファーザー、ブラザー、シスターの三種類だけというのはないだろう。ちゃんと誰にだって名前はあるのだから、普通に名前を呼べばいいだろうに、何を考えてるのか。もう、これは笑うしかない。
二人はヒーヒーとお腹が痛くなるまで笑ってから、ようやく落ち着いてお茶を飲んだ。
「ですが、これはなかなかに憂慮すべき事態であると思うのです、ラント隊員。そんな教会を拠点とする集団が何故か最近になって広がっているという・・・。どうでもいいことながら、我らはその謎を解かねばなりません」
「その通りです、ユリー隊員。我らは身を賭して入り込み、全く興味はないながらも、その真相を究明しなくてはなりません。死して屍拾う者なし。我らの犠牲が、明日の・・・我らの好奇心の役に立つのであります」
厳かな口調で二人は呟き、重々しく頷いた。
仕事でセイランドはいない為、二人を止める人間は存在しない。日々の生活で精神力を使い果たしているファンルケは、もう匙を投げていた。好きにしてくれという奴である。どうせ二人とも手際は良いし、どこに入り込もうが、きちんと仕事はしてくる。ならばどうでもいいではないか、と。
(というより、どうせならアンナを連れていってほしいぐらいだ。居てくれる方が邪魔になる。・・・いや、あんなのをよそに押しつけるなど、人として許されん所業か)
別にどんな団体が勢力を拡大していようと、患者が救われるならそれでいいと、ファンルケは思っている。たしかに、あの教会だった建物を使っている団体が、最近になって何故か働く人数も増えているのはどうしたことかとは思っていたが・・・。
「見ててください、お師匠様。私がその謎を解いてきますからねっ」
「いや。別にどうでもいいから・・・。そんなことよりも、ユリアナ。まずはその男の子の格好をどうにかしてきなさい。ブラザーとして入り込むならそれでもいいが、・・・さすがにもう誤魔化しはきかなくなってるだろう」
「そうだね。旅する時程度は、擦れ違う一瞬だからいいけど、同じ時間を過ごすのなら、もう男の子っていうのは無理があるよ」
「やっぱりラント兄さんもそう思う? ま、寂しいけど仕方ないよね。うん、着替えてくる」
というわけで、一人のブラザーと一人のシスターがスクリッスに誕生した。
そうは言いながらも、そこはガーラントとユリアナも、苦しんでいる人々がいればまず真面目に対応する人間だ。同じ団体に入り込みながらも、互いに私語を交わす時間を惜しんで作業に当たっていた。
どんどん勢力を大きくしているというだけあって、受け入れている患者数も多い。ファンルケ医師の所みたいに、互いに言葉を交わして患者個人を把握していく余裕がないのだ。
「ありゃあちょっとな・・・。患者だって、もうブラザーやシスターの名前を憶えてらんないよ。というより、かなり日によってばらつきがありすぎるぜ、あそこのブラザーもシスターも」
「それは言えるのよね。ラントと私はちょくちょく行ってるけど、あそこのファーザーはともかく、ブラザーとシスターって、来る日と来ない日がかなり極端よ」
ちょっとした好奇心から行ってみたガーラントとユリアナだったが、今ではそこの施設に足を一歩踏み入れた瞬間から互いに会話する余裕もなく働いている有り様だ。ファンルケ医師の家に戻ってきて、やっと話し合えるといった状態になっていた。
そんな二人だったが、それでも学んだものは多い。流れ作業的に数をこなしていく為、スキルがかなり上がっていた。同時に、戦場にも行っていたファンルケ医師が、どうして今の患者数でやっているのかも理解する。
「お師匠様。・・・やっぱり私、よそに行ってみて分かることってあるんだなって思いました」
「俺もです。ああいう数を重視するやり方も、こちらのやり方も、そして限られた人しか受け付けないやり方も、全てに良い面と悪い面があるって、体で理解できた気がします」
疲労しきってテーブルに頭を突っ伏しながらそんなことを言う若い二人に、ファンルケは優しく微笑んだ。
「様々な経験は大事だ。そして一方的な見方ではなく、多面的に物事を捉えることも。・・・私にとっては、二人がどこへ行っても学び続けられる人間であることが誇らしい。どこに出しても恥ずかしくない、自慢の二人だ。きっと、今の経験も二人の糧となるだろう」
そこまでは良かったが、その後でファンルケは疲れたような表情になった。
「だから、どうせなら出来れば君達はうちで確保していたかった。・・・それこそ、彼女とトレードしたいぐらいだ」
彼女とは誰を指すのか。・・・二人にもそれはすぐに分かった。同じ敷地内にある小さな家に住むカップルの片割れである。ファンルケ医師が同じ敷地内で住まわせているのは、本当に正しい判断であるとしか言いようがないぐらいに、男の方のルクスもおっとりとしていて見ていて心配になる。女の方は、・・・そう、問題は女の方だ。
見た目は、なかなかの美女なのだが、・・・悪気はないで済むなら誰も苦労しないと言いたいぐらいに、壊滅的に人の世話をするのには向いていない。
「余計なお世話だろうとは思いますが、彼女は人の看病をするよりも、どこかに大人しく飾られているのが一番似合うんじゃないかと・・・」
アンナの素性を知らなかったガーラントだったが、その仕草などを見れば分かるものもある。ユリアナを詰問して聞き出したそれに頭を抱えたのは、ずいぶん前のことだ。もういっそ、親に頭を下げて実家に戻れとも思ってしまう。
そのことに加担した過去を持つユリアナは、力なくハハハと笑って誤魔化した。
そんなガーラントだったが、最近、一人のシスターと何かとつるむことが多い。というのも、ガーラントもやはり貴族の人間だけあって人を使うのに慣れている。だから、近くに手の空いていそうな者がいれば頼んでしまうのだが、ちょくちょく自分についてくるシスターがいるのだ。
「シスター。すみませんが、そこの布を取ってもらえますか? 俺がここを押さえている間にそれを巻いて。はい、二周だけでいいです。・・・結び方はそれじゃ駄目です。こうやって、・・・はい、覚えるように自分でもやってください」
ガーラントは結構スパルタだ。相手が女性だからと言っても、同じ女性であるユリアナが最初のスタンダードとなってしまったせいで、かなり要求度が高い。そのシスターはもたもたしているものの、学ぶ意欲はあるのか、言われた通りにこなそうとする真面目さがあった。そうなると、何度失敗しようとも、ガーラントはきちんと面倒をみる。
以前のガーラントなら冷たく言い捨てて終わりだっただろうが、それはファンルケ医師の影響でもあった。慣れないガーラントに苛立つこともなく手取り足取り教えてくれたファンルケ医師のやり方は、彼に大きな影響を与えていたのだ。
「ブラザー。良かったら一緒に食事でもいかがですか?」
「ありがとう。そうですね。そろそろ休憩しましょう」
そのシスターは、何かと他のブラザーやシスターに纏わりつかれることが多いらしい。だが、そんなことを一切しないガーラントは、安全牌だと思われたらしく、いい虫よけに使われているようだった。
(ま、いいけどね。どうせ、いい所のお嬢さんなんだろうしさ)
騎士道精神というわけじゃないが、金持ちの商人の娘か、それとも豪農の娘ではないかと想像できる程度に、そのシスターには育ちの良さが透けて見えた。だが、アンナと名乗っているスザンナのように、人々に傅かれて育ったという程のものは感じない。それに、アンナのように高価なものでも惜しげなく使える感性は持っていなかった。
だから恵まれた家庭で育ったものの、堅実な育ちなのだろうと、ガーラントは感じ取っていたのである。
「じゃあ、シスターは、文字通り修道女になりたいんですか?」
一緒に、ハムやチーズを挟んだパンを齧りながら、ガーラントは驚いて尋ね返した。恥ずかしそうに、そのシスターは頷く。
「はい。ですから、きっとこういうお手伝いをさせていただくことで、きっと修道院でもお役にたてるだろうと、・・・だからなるべく身につけたいと考えているのです」
やれやれと、ガーラントは呆れ返った。
赤毛に近い金髪に青い瞳のシスターは、驚いたことに正真正銘のシスターを目指していたらしい。
「ですが、修道院の暮らしはきついですよ。それにかなり清貧を要求される。あなたのようなお嬢さんには向かないと思いますがね。そりゃここもきついが、それでも毎日、家には帰れる。だからあなたの体も持っているんですよ。・・・悪いことは言いません、諦めた方がいい」
勿論、修道院と言ってもピンキリだ。中には、貴族の人間ばかりを集めている裕福な修道院もある。そこであれば、さほど厳しい生活というわけではない。
けれども、話の流れ的に、彼女が行こうとしているのはそういう場所ではないだろうと、ガーラントは感じた。
「見れば分かりますよ。シスターは結構良い所のお嬢さんでしょう? ならば、きちんとした良家の子女が入る修道院の方がいい」
「ですけど、そういう所ってそれなりの寄付金が必要でしょう? 私が修道院に入ったら、きっとうちの跡を継ぐ人は出してくれませんもの」
悟っているかのように、彼女はそう微笑んだ。
敷地内にある木陰にあるベンチで並んで食事をしながら、それでも二人は疾しいことが無いことを示す為に、少し離れて座っていた。というのも、さりげなく二人の様子を見ている人間がいるからだ。色恋沙汰にチェックの余念のない人間は、どこにでもいるものである。
素性を訊かれたくないガーラントは、人の素性も詮索しない育ちの良さがある。だからなのかもしれない。そのシスターは、家名こそ言わなかったものの、ぽつりぽつりと自分の事情を話した。
「うちの家には私しか子供がいなかったものですから、・・・跡を継ぐ男子がいないのです。本来は私が婿を取るところなのですが、それなりの家の息子さんを婿に頂くには、うちではそこまでのお金も出せませんし・・・。暮らしに困る程ではありませんでしたが、そういった余裕はないんです」
なるほどと、ガーラントは相槌を打つ。
「そういう時に、婿に入るのだからと支度金を吹っかけてくる家は多いですからね」
「ええ、そうなんですの」
我が意を得たりとばかりに、シスターが何度も頷く。良くも悪くも兄二人のおかげで、様々な事情には精通してしまったガーラントだ。頭でっかちの点は否めないが、そういう中流や上流ならではの世知辛さも見聞きしていた。
「そういった支度金など無くてもと仰有ってくださる家の方は、どうしても父の知り合いと言いますか、父の下で働いてくださってた方の息子さんになるわけでして・・・。それはそれで有り難い話なんですけども、・・・どうも、そうなるとうちを乗っ取るおつもりらしいんですの」
仕方ありませんわよねと、シスターは寂しそうに呟いた。
「私が男の子で産まれていればよかったのでしょうけど・・・。けれども、そんな方と結婚生活だけは送りたくなかったんです。うちの家は・・・、ちょっと独特な商売をしておりまして、家を潰すわけにはいきません。婿でも来てくださる方がいるのなら、それで良しとしなくてはならないんです。けれども・・・、それなら、もうその方を養子にもらった方がいいかと思いまして」
そうして自分は修道院に入るつもりなのだと、彼女は言った。
(よほど、嫌な男だったんだろうな。その婿候補ってのが・・・)
彼女の手はあかぎれが出来ている。毎日家には帰るからだろう、朝にはきちんと油も擦り込まれて手入れされてきているのに、毎日の水仕事や何やらで夕方には荒れてしまうのだ。
けれども毎晩手入れが出来る家の娘となれば、少なくとも世話をしてくれる下女の一人はいることは確かだ。自分で手入れをしているわけではないのは、毎日の仕事ぶりを見ていたら分かる。
「けれども、シスター。・・・ご両親に、その婿になる予定の男性が嫌だというのは言いましたか? 言わなくても分かってもらえるっていうことはないですよ。支度金はともかく、由緒ある家業をお持ちなんでしょう? あなたが嫌だと言えば、まだご両親も健在でいらっしゃるなら、・・・きっと違う男も探してくれる筈です。修道院に入るのは、最後の手段でもいいのではないですか?」
ガーラントは、言葉を選んでそう言ってみた。というのも、場合によっては彼女が知らないだけで、既にその婿候補の男が、彼女の家を買収している可能性もあるからである。歴史を金で買うというのはよくあることだ。そうなると、打てる手はない。
「・・・え?」
「あなたが嫌がっているその男が食指を動かす程度には、あなたの家はそれなりの魅力もあるのでしょう。ならば、・・・他に、まともそうな男であなたを大事にしてくれる人を探す努力もしてみてもいいかもしれませんよ」
ガーラントがそう重ねて言うと、シスターは、呆気にとられた顔になった。どうも、そういったことは全く考えていなかったらしい。・・・親に言われた通りに結婚するのが当たり前の社会だ。自分の意見を親に伝えるだなどということは、思いもしなかったのだろう。
「そんなこと、・・・許されるんでしょうか」
「少なくとも、こんな場所に足しげく足を運ぶよりも、ご両親にとっては分かりやすく対応しやすい事態だと思いますよ」
ガーラントは、風に揺れる梢を見ながらそう言った。恐らく彼女は、それなりに人を使っている商売人の娘なのだろう。
自分とは身分が違い過ぎる。・・・平民と縁組した貴族がいないとは言わないが、それでも自分はリストリ家のスペアだ。せめて自分が四男であれば、良かった。リストリ家を支える男が他にいてくれたなら、自分が貴族社会から姿を消しても問題はなかっただろう。
(だからこのアドバイスだけが、君に出来るせめてもの・・・)
ガーラントは、自分一人では何も出来ないのだと、己の無力を強く自覚した。自分では何もしてやれない。彼女を助けることも。自分の気持ちに正直になることも。
(一生スペアな人間なんて、その程度さ。所詮、な)
だから、何も言えない。言えるのは、そんな相談役のセリフだけだ。
(俺はそんな卑怯な人間なんだよ。お嬢さん・・・)
男だから強いわけじゃない。女だから守られるわけじゃない。世の中には言ってもどうしようもないことがあるのだ。ならば口を閉じるしかないだろう。
・・・・・・互いの瞳の中に相手を想う気持ちが見え隠れしていることに、お互いが気づいていたとしても。互いの姿をそっと横目で追ってしまう自分に気づいていたとしても。
それでも、・・・言えない言葉がある。
様々な戦が続いたからだろう。軍部、つまり騎士団を労うといった理由をつけて舞踏会が開かれることになった。貴族の令嬢ばかりではなく、中流家庭の令嬢や夫人も参加できる、少し気楽なタイプのものだ。
その為、ユリアナはリストリ家に来ている。恥ずかしくないドレスを仕立てる為、姑であるリストリ伯爵夫人を頼ることにしたのだ。また、フェルエストの妻になったシルフィーナも、ドレスには詳しい。
「だから、さ。ユリーのエスコートをしといてやってくれ、ガーラント」
「ふざけんなよ、セイランド兄さん。自分の妻でしょうが。どうして俺にユリアナ義姉さんをエスコートさせるんだ」
「忙しいからだ」
セイランドはきっぱりと言い切った。
部下の家族を労う為にも、それこそ部下の妻達を誘って踊り、踊りながらいかにその部下が頑張ってくれているかを褒め続けるのが、その舞踏会におけるセイランドの仕事だ。それが部下達の家庭内平和のコツであり、そういった努力を上司はしなくてはならないのだと、セイランドは殉教者の面持ちで語った。
「何か言ってやってくれ、ユリアナ義姉さん。あなただって、自分の夫が他の女性と踊り続けるなんて嫌だろう?」
「え? いえっ、別に全くっ」
だが、ユリアナはガーラントの思惑を外し、ぷるぷると首を横に振る。
「お願いです、ガーラント様。私、セイランド様の妻だなんて知られたくないんですっ。それぐらいなら男装してガーラント様の弟に化けたって構いません。私っ、絶対っ、人前でセイランド様と踊りたくなんてないんですっ」
「・・・はぁっ!?」
事情を知るフェルエストとセイランドは、ユリアナから視線を逸らした。ユリアナは保身に生きることにしたらしい。セイランドの立場上、その妻が欠席するわけにはいかないが、目をつけられたくはない為、顔を憶えられないよう、セイランドからその日は距離を置いていたいのだろう。
「どんな事情があるかは知らないけど、セイランド兄さんだって、義姉さんにそんなこと言われたら傷つくだろうに。兄さんも何か言ってやってくれ」
「え? いや、別に? だって、俺は家でユリーと踊るからいいんだ。・・・なあ、ユリー?」
「ねー、セイランド様」
どうやら二人は、恥をかかないようにダンスの練習とやらで、毎晩二人で踊っているらしい。月明かりしかない夜の庭でも、暖炉の火だけが赤く周囲を照らす中でも、音楽が無くたって人は踊れるもんだからなと、セイランドは余裕の表情で言ってのけた。
ユリアナも赤くなりながら、セイランドに寄り添って腕を絡めた。二人はそっと視線だけで何かを語らい始める。
ガーラントは小さな声で哀れっぽくフェルエストに言ってみた。
「もう、俺、帰りたいんですけど・・・。ええ、ここがうちなんですけどね」
「言うな。俺だって嫌気がさしてるんだ。これを見て、シルフィが自分も自分もって言い出すんだぞ。どんな恥ずかしいことを要求し始めてきてると思う? 真っ暗な中で踊らされて、それが終わったら、次は愛の言葉がどうだのこうだの、そしてロマンチックな何がどうのこうのと」
「あー・・・。そうか、ユリーとシルフィ、仲良かったですよね」
ガーラントはフェルエストに同情した。そうだった、ユリアナとシルフィーナはツーカーの仲だったのだ。
ガーラントと二人でいる時のユリアナは、まさに色気も何もない弟のような存在だが、これがセイランドのいる場所となれば、一気に可愛い妻に変身する。おかげで、ガーラントもユリアナと交わす言葉づかいは、まさにその場その場で変わりまくりだ。
(ユリーをそこまで女にさせるセイランド兄さんが凄いのか。それともセイランド兄さんをそこまで手玉にとれるユリーが凄いのか。男と女だけは分からない)
どうせダンスだけで終わらず、そのままキスから何からになだれこんでいるのだろう、セイランドは。それをうっとりと語るユリアナがいれば、聞くシルフィーナはどう思うか。
なるほどと、男だからこそ分かるそれはそれとして、かなりムカつくフェルエストとガーラントである。相思相愛のカップルというのは、どうしてこんなにも人を不快にさせるのだろう。
目の前で、うふふと笑いながらセイランドの頬をツンツンとしているユリアナはともかく、あのセイランドも何を嬉しそうに妻のこめかみにキスしているのか。そのまま庭の噴水に投げ込んでやりたい。
しかし、そんな二人だけで完結しているカップルやその周囲の思惑をよそに、舞踏会の夜は来たのである。
舞踏会とは、未婚の男女にとってのお見合いの場でもある。その為、既に結婚しているユリアナとシルフィーナは気楽に参加していた。気忙しいのは、二人の引率を任されたガーラントである。
そう、エスコートではない、引率だ。誰が見てもそうだろう。「引率じゃないだろう、両手に花じゃないか」などと寝言を言う人間がいたら、即座に説教をかましたくなる荒んだ気持ちで、ガーラントは二人を見守っていた。
「ね、ラント兄さん。あそこにいる令嬢はね、亡くなった前の隊長さんの娘さんでね、本当はその部下の人と婚約していたのに、お父さんが亡くなったらそのまま婚約は無しになったんだって。信じられないよね、そんな男が出世するだなんて間違ってると思わない?」
ユリアナはまじない師をしていたせいか、人の話を聞き出すのがうまい。独身の令嬢が、付添人や既婚の親族女性に色々と言いきかされているのを聞いたりして、仕入れた情報を持って帰ってくる。
近くに人がいないのを確認した上で、ガーラントに話しかけてきた。
そこへ、美味しそうな飲み物を持って帰ってくるのはシルフィーナだ。
「まあ。本当に男の風上にも置けませんわね。ね、ユリーさん。これ飲んでみて? かなり美味しいジュースなのよ」
「あら、本当。酸味が少なくて美味しい。チェリーかと思ったら違うみたい。ね、シルフィさん。そういえば、あっちのパイ、食べてみた? さくっとしていて美味しいの。さっきね、その女性と一緒に美味しいですねって言ってたのよ」
「え? 食べてないわ。どれなのか教えて? ところで、その女性って、あの女性のこと? ・・・そう言えば、さっきね、面白い髪飾りをつけた方を見かけたのよ」
どうして気の毒な女性に同情していたと思ったら、ジュースの美味しさに移れるのか。ガーラントには、パイと人間を並行して考えられる女性の思考こそが謎だ。
二人が控室にある軽食コーナーに行くというので、ガーラントはちょっとテラスで涼んでくると言って、一人になる時間を作った。
(二人で相加効果なんてもんじゃない。相乗効果って奴だな。・・・次回はフェルエスト兄さんに押し付けてやる)
理解できないパワーに自分の生気が吸い取られてしまった気のするガーラントだ。それとも精気だろうか。どっちにしても自分の何かが枯渇しているのは分かる。
一人になりたくて、わざと暗い林の方へとガーラントは歩いて行った。どうせ怪しげな行動をする男女が行くのは繁みの方だ。林の方は、あまり人が行かない。
だが、そこには先客がいた。
小さな会話が聞こえてきて、ガーラントは足を止めた。立ち聞きするつもりはなかったが、人がいると知って立ち止まってしまうと、今度は足音を立てるわけにもいかなくて、立ち去れなくなってしまう。
こういう場所での盗み聞きは、あまり好きではなかった。碌な結果にならないからだ。
「けれども叔母様。・・・出会いと言われましても、どうしたらいいのか分かりません」
「そう自分を卑下しないのよ。大丈夫、あなたは素敵な令嬢よ、自信を持ちなさい」
どうやら、そこにいるのは二人の女性らしかった。
「いい? あの男の息子と結婚したくないなら、せめて領外から他の男を見つけるしかないの。領内では、どうしてもあの男の影響が強すぎるもの。誰か見つけても握り潰されるわ。・・・・・・だけどね、これは騎士団の慰労の為の舞踏会だもの。騎士団のそれなりの人ならば、スクリッスの犠牲を知ってる。そのスクリッスを治めていたあなたのお父様の犠牲もご存じよ。決してないがしろにはされないわ」
「でも・・・」
けれども、令嬢の方は自信が無さげだ。
「騎士団の男じゃなくてもいいのよ。貴族の子弟でも。・・・そりゃ、厳しいかもしれないけど、親の爵位は問わず、誰でもいいからあなたを大事にしてくれる人と出会ってしまえばどうにかなるもの。ね、勇気を出して。こうして私が隠れ蓑になっていても、あまり余裕はないわ。いずれバレる。・・・だから、なるべく早く出会いを見つけるの」
「はい、叔母様」
スクリッスという地名に、ガーラントの心臓が跳ねた。けれども暗くて、二人の姿すらよく見えない。やがて、二人は舞踏会の広間へと衣擦れの音を立てながら戻っていった。
(そうか。そうだったのか・・・・・・)
ガーラントは、そのまま立ち尽くしていた。
スクリッスという街を一つ開放してまで重篤な傷病者を受け入れた、かのリファイディス領主。
たしか彼には一人娘しかいなかったが、そんな割の合わない貧乏籤を引いた為、リファイディス領の収入はかなり落ちた筈だった。本来、娘しかいないとなれば、他家の貴族から婿養子をとるものだが、そういった事情もあって、あまり良い婿入り先とは看做されない。
だから、彼女は領主に仕えている男の息子との結婚話が持ち上がっていたのだろう。
(それならば、あの彼女が出入りしていた団体が急速に拡大していたのも頷ける)
領主の一人娘が身分を隠して出入りしていたのだ。手伝いという名目で、彼女を守る為に何人もの男女が送り込まれもしていただろう。
どんなに暗くて姿が見えなくても、その言葉が小さな単語を連ねただけのものであっても、・・・ガーラントは好きな女性の声も分からぬ間抜けではなかった。
(貴族、だったのか・・・)
修道院に行くのだと覚悟を決めていた瞳。
慣れない手つきだけれども、一生懸命に患者の血液を拭い、励ましていた彼女の指先。
手入れが行き届いた髪を結い上げて邪魔にならないようにしつつも、どこかに漂う気品と誇り。
何よりも、偶然に交わしてしまった視線と触れる指先に、自分達は言葉にならぬ何かを感じていた・・・。
(俺は、リストリ家の・・・・・・。だけど、俺は・・・)
ガーラントは、リストリ領にいる、その管理を任せている男の娘の顔を思い出した。
いずれリストリ伯爵夫妻となるフェルエストとシルフィーナの顔も。
自分が支えるのだと思っていた、それら全てを引き換えにしてまで行動するべき程の価値は、スクリッスには無い。既にあそこは、金を生み出すことのない、価値のない土地と化して久しい。そのスクリッスを抱えているリファイディスは、斜陽の一族だ。
貴族社会の人間が考えるべきは、それが利益に繋がるか否か。リファイディスの娘に、利益など見込めない。
そんなこと、貴族の子弟なら誰だって分かる。
「いつかは自分と向き合う日が来るわ。ただ、それを死ぬ瞬間まで引き延ばすのか、それとも今か。あなたに選べるのは、それだけのこと」
気づけば、誰かがガーラントの前に立っていた。暗くて見えないが、声で誰かは分かる。
「・・・ユリー?」
「あなただけが決められるの。あなたの心が何を求めているかを」
慣れ親しんだ声なのに、その抑揚はいつもと違って落ち着いており、ガーラントに諦めも物わかりの良さも許さない響きを持っていた。
ガーラントは見えない彼女の瞳を見ようとした。何も見えなかったが、そこにガーラントはユリアナではなく、自分を見たような気がした。
自分の心が、やがて澄みきっていく。
そこに残ったものは、何だっただろう。全てを曝け出した心の底にあった、自分の本当の望みは・・・・・・。
ガーラントは広間へと駆け出した。
流れる音楽とざわめきの中で、今日のドレスの色も髪型も分からないまま、一人の人を探す。日頃からクールな彼にしては珍しく、色々な人にぶつかっては謝り、そしてあちらこちらに視線を巡らせた。
(いた・・・!)
たとえ蝋燭の明かりで本来の色よりも暗く見えていようとも、あの赤みを帯びた金髪を自分が分からぬ筈がない。
ずっと、その髪に自分の指を絡めたいと思っていた。
誰はばかることもなく、その白い頬に手を添えたいとも。
彼は深呼吸して鼓動を落ち着かせると、その見知らぬドレスを着た女性に背後から近づき、その指先をとって声を掛けた。
「失礼、ご令嬢」
まさか後ろから指を取られるとは思わず、彼女の肩がびくっと跳ねる。けれども、振り返ったその顔は、思った通りの青い瞳だった。
「リストリ伯爵家の三男にあたります、ガーラント・リストリと申します。どうぞ一曲、お相手を願えませんか、レィディ?」
彼女の、驚きに見開かれた瞳が、ガーラントを映し出す。まさか、平民であると思っていた彼の姿をここで見るとは思わなかったのだろう。
あまりのことに、声も出せないらしい。
ガーラントは再び微笑んで、彼女の指先に口づけるフリをしてから、返答を促した。自分は、ちゃんと自然に笑えているだろうか。こんなにも、一人の女性を前にして緊張することがあるとは思わなかった。
泣き笑いのような顔になり、彼女がつっかえながらも、言葉を絞り出す。
「レ、レオノーラ・・・、レオノーラ・リファイディス、ですわ。・・・ええ、喜んで」
ずっと、お互いの名前も素性も知らなかった二人は、そうして舞踏会の片隅でゆっくりとその足を滑り出すようにして踊り始めた。その指先が震えていたのは、それこそお互いしか気づかない。
それは沢山の人々が踊る中、誰も見ていない、ありふれたワルツを踊るカップルだっただろう。
けれどもガーラントにとっては、一生一度の大きな決断を下す、とても大切なダンスだった。
決して楽な道のりではなかった。
それでも人生の終わりになって、ガーラント・リファイディスは、その人生に悔いはないんだよと、年老いた妻の手を握りながら、子供達にそう語った。
かつて重傷な患者ばかりが送り込まれ、死を待つ街と呼ばれたスクリッス。そこは後年、たとえ医師に見捨てられようともスクリッスに行きさえすれば助かるとも言われる程に、名医を生み出す街となった。
権力と富を追い求める貴族社会の中で、リファイディスは、誇りと清貧と信頼とを意味する家名とも謳われるようになる。
それは、かつてスクリッスを傷病者の為に明け渡した領主と、その娘婿が為した努力によるものだった。
「知ってるかい、レオノーラ? 君と出会うまで、自分が自分だけの存在として生きる意味を、私は知らなかったんだ・・・」
「それは私のセリフですわ。あなたが来てくれたから、私は私として生きられたの」
あの時、触れ合った指先に、運命を感じた。けれども感じ取った運命を生かすか殺すかは、自分次第だ。
辛いこともあった。それでもお互いを支え合ってここまで歩んできた。
華やかな軍功でもなく、奇跡的な発明でもなく、地道な努力を積み重ねた日々。
レオノーラの父であるリファイディス伯爵も、娘が連れてきたガーラントの素性を聞いて、一時は支度金が用意できないからと、その話を潰そうとした。それこそ、リストリ家がリファイディス家を乗っ取ろうとしているのではないか、レオノーラは辛い立場に追いやられるのではないかと、案じたのだろう。
けれどもそんな誤解も解かれ、やがて義理の父と息子は、様々な苦労を重ねてリファイディス領を守り、発展させていった。
「舅殿も私も、派手なことは出来ない男だったな。レオノーラには、華やかな生活も贅沢もさせてやれなかった」
「十分晴れがましいものを頂きましたわ。・・・ねえ、あなた。スクリッスは今やロームでも医学を学ぶ人達の聖地となってるんですのよ。お父様が始めて、あなたが完成させてくれたの。私達が出会ったあの街を」
「レオノーラ。だけど、君には煌めく宝石も、美しいドレスもなかなか贈ることができなかった。君はあんなに美しかったのに、若く光り輝く時代を苦労ばかりさせてしまった。それだけが心残りだ」
「・・・それを言うなら、あなたにあれだけの名家を捨てさせたのは私ですのよ、あなた」
レオノーラは首を横に振って、夫に微笑みかけた。
自分達夫婦の生き方は、きっと誰が見ても地味で慎ましいものだっただろう。けれども、レオノーラの瞳に映る、父と夫の魂はいつでも輝いていた。
「君がそう言ってくれるなら、・・・全てが報われる」
ガーラントは、年老いて涙もろくなった瞳を潤ませた。
数えきれない人々の人生を縦糸に、そして時間を横糸にして歴史という名のタペストリーは織られていく。
それでもスクリッスの歴史を織り上げた彼らの努力はとても輝かしい色合いをしていた。彼らが愛したレオノーラの髪の色のように。




