20 そのひと針にこめられたもの (弟子と師匠6)
○月×日
匿名X:いきなりの将軍の交代に驚いてます。そりゃ、俺達のトップが女ってのは色々と言われてたし、悔しかったけど、・・・・・・けど、それがうちだったわけじゃないですか。
匿名A:うん、で、何が言いたいんだ、X?
匿名B:Aも分かってて意地悪なこと書くなよ。
匿名C:どの部隊長もピリピリしてるけど、気持ちは分かる。こういう交代は誰もが納得出来ねえよ。どんなに強かろうが、・・・それでも女性だったんだよな。
匿名D:王宮もわざわざ女官を差し向けたなんて破格じゃねえ?
匿名B:俺達だってそうだろ。たとえどう言われ、俺達も言ってたにしても、・・・実は気に入ってたってこった。あの将軍を。Xもそうだろ? どんなに強かろうと、女だ。だから、俺達はあの人を守りたいと思って戦えてたんだ。
ふと、気づいてカロンはサーライナに尋ねた。
「ライナ、昼食は何を食べてるんです? どうも食材が減っていないように思えるんですが」
「ああ。最近、屋敷で食べてないからな」
「よそに行ってるんですか?」
「ああ。日中は外に出てることが多い。だから出先で適当に食べてる」
「なら、いいんですが。・・・昼食を食べられないというわけではないんですね?」
「食べてるぞ、ちゃんと。朝と夜だって食べてるだろ? お前は心配しすぎなんだ。普通は一日二食だろうが」
「そりゃそうですけど・・・」
通いで来てくれていた家政婦のフィオナと、その娘のリサだったが、元々体の弱かったフィオナが冬に体を壊し、リサはその看病につきっきりとなり、そういった理由で来られなくなっていた。
そして二人がラファイ王国のジレームに出向いている間に、フィオナは亡くなったという。
「そうか。フィオナが・・・。優しい、いい人だったのに」
「あの・・・。カロン様。母は亡くなりましたけど、私はこれからもこちらにお世話しに来たいのです。やはり家の中のことをする人間は必要ですし、あの方はそういうこと、何もなさらないではないですか。・・・何でしたら、私、こちらに住み込みでも構いません」
「何を馬鹿なことを・・・。リサのご主人もきちんと商家で働かれているだろう。子供さんもいらっしゃるし、家のことを一番大事にしなくては。・・・・・・うちはもう、家政婦を雇う気はないんだ」
「別に、そんなの構いません。私は・・・」
家政婦としてリサに自分を雇い続けてもらえないかと言われたカロンだったが、ちょうど王宮から女官や下働きの人間を寄越してくれたことで、リサには今後の家政婦を雇うつもりはないと、断りを入れた。
「元々、フィオナはご主人を亡くし、その上で両親と子供達を抱えていた。その状況では路頭に迷うだけだと、ケリスエ将軍が同情して雇っていただけだ。・・・フィオナが亡くなったなら、その必要はない。リサもフィオナを支えてくれてありがとう」
「・・・そんな!」
「今、そのケリスエ将軍には、王宮から女官達が差し向けられてきている。・・・もう、いいんだ」
「あの方ではなく、私はカロン様を心配して・・・」
「俺は自分のことは自分で出来るし、俺には必要ない」
さすがにその動作すら洗練された女官達、そして下働きといえども貴人に仕える人々である。自分とは比較にならないそれらを示され、リサは引き下がるしかなかった。
とぼとぼと帰っていくリサに対し、不憫な気持ちにならなかったわけではない。けれども母親であるフィオナがいなくなった以上、リサを雇えなかったというのも事実だ。
カロンは溜め息をついた。
(せめてライナに対して好意的な女性ならば、雇い続けていられたんだが・・・)
考えてみれば、思い当たることは多くあった。フィオナに対しては優しかった妻が、リサに対してはあまりそうではなかったことに、どうして自分は長く気づかなかったのか。
この屋敷の持ち主も、雇い主もケリスエ将軍だということを、リサは分かっていなさすぎた。通常、女は男に従うものだ。だからそれは仕方なかったのかもしれない。けれども・・・。
(この屋敷において、あの人を俺よりも優先してくれないのでは困るんだ)
リサも悪い人間ではなかった。それは分かっている。フィオナの働きであれ程の給料をもらえていたならば、自分もそうやって働きたいと思う気持ちだって分からないわけじゃない。
けれども、そこに雇い主に対する敬愛がないのであれば意味がないのだ。
ましてや、夫のいる身でありながら、愛人をも夢見る女性ではかなり困る。・・・カロン自身にその気がない上、それを誰よりもいち早く察するケリスエ将軍とあれば、尚のこと。
リサを窘めているフィオナとの会話を盗み聞きして、カロンはその事実を知った。それ以来、なるべく距離を置くようにしていたが、もう歯止め役になっていたフィオナはいない。
王宮から差し向けられていた女官達がいなくなった後も、リサは屋敷に近づけないようにと、カロンは道路を封鎖している兵士達に命じていた。カロンが駄目ならと、ケリスエ将軍に直談判されたのでは困るからだ。
ロシータは、最初からケリスエ将軍に対する敬意を持ってくれており、カロンに対する恋愛感情も全くなかったので、そこは助かったのだが・・・。
そうして、使用人を雇う必要はあると思いながらも、他人がいると落ち着かない妻のことを考えると何も出来ず、結果として誰も雇わないまま、二人の暮らしは続いていた。
「俺は、あなたを閉じこもらせてしまっているのではないかと、案じてるだけなんですけど」
「ちゃんと出歩いてるぞ?」
「・・・ずっと働いていた人がいきなり退職すると、心が燃え尽きてしまって毎日のやる気が失せてしまうものだと聞きました」
「全員がそうというものでもないだろう。・・・それに、人殺しの手段を考え続ける必要もなくなって、かえって気は楽なんだがな」
そういうサーライナの気持ちは嘘ではなかった。実際、今は心が軽い。まるで日々の空気をそのまま感じていた昔に戻ったかのようだ。
「だけどあなた、最近、女性らしい格好を心がけてるでしょう。変なことにならないよう、出かけるにしても、ちゃんと気をつけておいてください」
「女性らしい格好の方が、騎士や兵士達に私だと気づかれにくいからそうしてるだけだ。いきなり礼を取られても困るからな。しかし、別によそに潜入してるわけでなし、いざとなったらちゃんと変な男は撃退できる。心配するな」
その言い分は間違っていない。カロンも黙るしかなかった。
以前は、たまには女性らしい格好をしてもらいたいと思ったものだが、毎日してくれるとなると、それはそれで心配なことも出てくる。・・・ちょうどいい落下地点はどこなのか。
「しかし、今日はかなり暑くなりそうだな。ちょっと水浴びしていくか?」
「そうですね。今の時点でかなり暑い」
今日は、朝から気温も高い。裏の庭には枯れ葉も落ちているというのに、夏のような暑さだ。今日は袖無しの服でいる人間も多いことだろう。
まだ出勤するには早かったこともあり、裏の泉で冷たい水に体を浸すと、一気に体が冷えていった。明るい朝の光に包まれてその冷たさを心地よく感じながら、カロンは水の中に広がったサーライナの髪をブラシで梳かした。
「本当にお前ってマメだよな」
「あなたがズボラすぎるんです」
濡らしている時点で梳いておけば、乾かす時にも通りがいいのだ。やがて先に上がり、岩に腰掛けながら、サーライナは髪を手で梳りながら、体についた水を自然乾燥させていく。
カロンはまだ泉の冷たさを楽しみつつ、小鳥の泣き声や風が木の葉を揺らす音を感じて目を細めた。
それは、こうしてゆったりと座っている彼女を見るのが好きだったというのもある。サーライナ自身は髪を一通り梳かしたら終わりにしてしまう。最初から手入れをする気がないからだろう。
濡れた髪を体にまとわりつかせながら、目を閉じている姿は、何かを思ってもいるかのようだ。・・・・・・何も考えていないと、カロンは既に学習していたが。
やがて、目を閉じているサーライナの周りに鳥達が集まってくる。中にはカラスなどもいるのだが、大小さまざまな鳥達は、まるでサーライナの近くだからこそ安ぐのだと言わんばかりに舞い降りてきた。
(将軍職を退いてから雰囲気が変わった・・・。今まで、こんなことはなかったのに)
けれども生き物に寄り添われているサーライナの姿はとても穏やかで、カロンにしても、その時だけはその鳥達を食料にしようとは思わない。サーライナも、持ってきたパンくずを与えて楽しそうだ。
鳥達を驚かさぬよう、サーライナとは反対側の方向へ上がり、体を軽く拭いてからカロンは衣服を身につけた。
「ライナ。俺はもうそろそろ時間なので・・・」
「ああ。そう言えばそうだな。・・・さ、もう空にお帰り」
サーライナがそう言うと、鳥達が次々に空へと戻っていく。
「どうやったらあんなにも鳥達を集められるんです?」
「さあ。何か寄ってくるようになったな。・・・そう言えば、何でだ?」
「ええ。そういう人ですよね、あなた」
本人も分かっていなかったらしい。サーライナはまだ残っていた水分を拭き取ると、さっと下着を身につけた。
「だが、鳥だろうが、獣だろうが、ああも寄ってこられると、捕まえて食べる気にはならんもんだな」
「そうですね。・・・って、獣?」
「ああ。この間、山に入ったら、イタチやら狐やら兎やらがわさわさと・・・」
「何ですか、それは」
「言わなかったか?」
「聞いてません」
先日、王宮の裏にある山の中腹、そこにある廃墟と化した神殿まで散歩に行ったのだとか。だが、神殿の石に腰掛けていると、やがて周囲に獣達が集まってきたのだという。
冬なら暖かくて良かったかもしれないが、自分の周りで目を閉じている彼らを見ていると、さすがに晩飯にするのも、毛皮にするのも可哀想になって、そのまま「もう、お帰り」と言って帰ってきてしまったそうだ。カロンは呆れずにいられなかった。
「今までそんなこと無かったですよね? 異常だと思わないんですか」
「・・・そりゃ変だなとは思ったが、特に問題もないしな。ただ、おかげでちょっと山に行く勇気がない。なんだか蛇も寄ってくるしな。あと少しで踏みつけるところだった。・・・ま、いざとなったら食料調達はどうにかなるだろ」
「・・・・・・」
カロンはサーライナを抱きしめた。闘病生活の後、彼女は変わったと思ってはいた。そしてそれは、雰囲気だけではなかった。
彼女は自分を異常だと思わないのだろうか。まるで、今の彼女は・・・、そう、人としての枠組みから外れていってしまいそうで不安になる。
「お願いだから行かないでください」
「どこに?」
「いや、どこに、じゃなくて・・・」
うん、こういうところはどこまでも無神経な人間そのものだ。けれども、変わったのは雰囲気だけではないことに、彼女は気づいているだろうか。
長く臥せっていたことが原因なのか、彼女の体つきはかなり変化していた。筋肉も落ちていたし、日焼けしていた肌も白くなっている。こうして抱きしめれば、柔らかな感触すらあった。
剣を持って打ち合えば、たしかに筋肉が落ちた分、カロンの剣が持つ威力を受け流すスタイルにはなっていたが、それでも速さは変わっていなかった。けれども・・・何かが違う。何がとは言えなかったが。
「ライナ。あなたがどんな存在でもいい。・・・俺を置いて行かないでください」
「・・・馬鹿だな。お前が私を置いていくのに」
「え?」
その意味を尋ねることは出来なかった。
何故なら、サーライナの両手がカロンの首に伸ばされたからだ。彼女から仕掛けられた口づけに、カロンが抗うわけがなかった。
最近、上司のフィゼッチ将軍が、生き生きとした様子でリガンテ大将軍の所へ出かけていく。それは構わない。仲良きことはうつくしきかな、である。
だが、セイランドはそれでもおかしいと思わずにはいられなかった。今までそんなにちょくちょくと大将軍の所に行く人ではなかったからだ。
「え? セイランド殿の所もか? うちもそうなんだが」
ロメスに会った時、ロメスも最近、エイド将軍がリガンテ大将軍の所に行く頻度が増えたと言い、そこで二人は首を傾げた。
そうなると、もう一人にも尋ねずにはいられない。
「え? うちのクネライ第一・・・じゃない、クネライ将軍か? 言われてみれば、最近、ちょくちょくと王宮に出向いてるな。てっきり上司もいなくなったことだしと、堂々と女官を口説きに行ってるのかと思ってたんだが」
カロンは、訪ねてきた二人に、そう答えた。同じ第六部隊長の執務室にいたサフィヨールも、そこでカロンに同意する。
「言われてみりゃ、最近クネライ将軍が王宮に行く頻度は高い。・・・てっきり俺も女官との密会だと思ってたが、リガンテ大将軍の所だったとしてもおかしくねえやな。やれやれ、何をやってるのやら」
サフィヨールの言葉に、セイランドもそこで手を顎に当てて考え込んだ。
「なるほど。気になりますね、それは。うちのフィゼッチ将軍とエイド将軍だけではない、と」
「ま、おかしいと思ったら確認しとくってのは大事だ。な、カロン殿?」
「別にどの将軍も大事なことなら皆に言うだろう。わざわざ言わないものを知る必要もないんじゃないか?」
セイランドやロメスと違い、カロンは人のことを探りたいとは思わないクチだった。
「あのなぁ、カロン。たまにはお二人のそういうところも見習えや。相手が隠していることは暴いて晒してナンボだろうが。遠慮してたって人には伝わらんぞ。ほら、来い」
「そもそも俺、クネライ将軍に伝えたいことも伝えてほしいことも、全く何もないんですけど・・・」
だが、好奇心をもやもやとさせた三人は、カロンを引きずるようにして、第一部隊長の執務室に連れて行った。珍しい組み合わせのメンバーがやってきたことにキヤンが目を丸くする。
「え? うちのクソじょ・・・いえ、クネライ将軍ですか?」
現在、クネライは将軍と第一部隊長を兼任しているのだが、それはケリスエ将軍が着任するまで当然のことだった。今までケリスエ前将軍が使っていた将軍の執務室は、彼女の為だけに用意されたものであり、移るのも面倒だと、クネライは従来の執務室を使っていたのである。
「ああ。最近、王宮に行く頻度が増えてるので、てっきり女官なり下働きの女の子なりにちょっかい出してるんだろうと思い、鉄拳制裁しようかと思ったんですけど・・・。行き先がリガンテ大将軍というので、諦めたんですよ。一応、嘘だったらと思って、こっそりリガンテ大将軍の所にも確認を取ったら、間違いなくあちらを訪れているとのことでしたし・・・」
上司の上司であるリガンテ大将軍にまで確認を取っているあたりが、クネライの信用の無さを物語っている。しかし、キヤンの証言もあり、こうなると三騎士団の将軍がリガンテ大将軍の所を、定例会議でもなければ非常事態でもないのに訪れているのは間違いがない。
「俺達にも内緒たあ、水臭えやな」
と、サフィヨールが呟けば、
「ですが、リガンテ大将軍の所に行っても、今更、話し合うことなんてあるでしょうか。てっきりうちの上司の書類不備なりの訂正で、呼びつけられているのかとも思ってたんですけど。フィゼッチ将軍やエイド将軍もご同様となれば、違いますよね」
と、キヤンも不思議そうな顔になる。
「戦いがあるというのなら、俺達にも一言あっても良さそうなものだが、フィゼッチ将軍の様子からして、何だかお茶を飲みに行っている雰囲気だったんだよな」
そう、セイランドが言葉を重ねる。勿論、大将軍と将軍達だ。戦に関しての話し合いというのであれば、当然のことかもしれない。
だが、リガンテ大将軍は公爵でもある。戦にも不慣れな名前だけの総責任者だ。
自分達に何も言わずに、何をしに行っているのやら。
ロメスがニヤリと笑った。
「そうなると、何の悪だくみをしているのやら、気になるってもんだよな、カロン殿?」
「え? いや、俺は別にどうでも・・・」
「気になるよな、勿論。何と言っても、奥方であるケリスエ将軍の跡を継いだクネライ将軍だ。彼が何をしているか、気にならないなんてことはないよな、カロン殿?」
正直、カロンにしてみれば世界はたった一人を中心に回っている。本気でどうでも良かったのだが、ロメスばかりか、セイランドまでが笑って、否を言わせない。
カロンはそれでも逃げようとした。
「いやいや。俺は関係ないだろう。何と言っても今の三将軍の副官は、セイランド殿とロメス殿、そしてキヤンだ。ならば三人で話し合えばいいことだと思うんだが・・・」
「それが副官だからこそ言えないんですよ、ケイス第六部隊長。何と言っても、副官として上司から言われたことは絶対です。それゆえに、探りに行きたくても、俺では立場上、出来ません。きっとリストリ殿もフォンゲルド殿もそうだと思います。・・・が、あなたは違うんです。ですから、『用事があった』と理由をつけて訪れれば許されるじゃないですか」
上司の命令は絶対どころか、普段はその上司をビシバシ叱りつけているくせに、キヤンはそんなことを言って、カロンを逃がさなかった。
「タイムリーにもうちの上司がトンズラこいた書類がここにあります。ちょうど王宮に行く用事があったケイス第六部隊長が、困り果てていた俺の為に、クネライ将軍にサインをもらってくるということで訪れたなら、話に無理はありません」
「・・・無理はありまくりだと思うんだが。大体、キヤンがそういうことで俺を使い走りにするとは、誰も思わんだろう」
「いいから行って来い、カロン。ちゃんと何があったか教えろよ、待ってるから」
「サフィヨール様、あなたって人は・・・」
諦めの境地で、カロンはその書類を手に取り、四人に送り出されて王宮に行ったのである。
(何で俺が・・・。というより、あいつら、問題が起きれば俺に押しつければいいと思ってないか?)
本気で三将軍が何をしていようがどうでも良かったカロンである。彼の心は、今も屋敷で彼の帰りを待っているであろう妻の傍にある。
リガンテ大将軍の執務室に行き、控えていた侍従に、
「こちらにいらしている筈のクネライ将軍に用事があるのですが」
と伝えると、
「ケイス様。お久しぶりです、たまにはこちらにもお顔を見せてくださればいいのに」
と、顔見知りの侍従は笑顔で応対してきた。そして、
「クネライ将軍ですか。・・・ちょっとお待ちください。案内していいかどうか、訊いてきます」
と、自分の先輩にあたる侍従に確認しに行く。
「え? こちらにはいらっしゃらない?」
「ええ。実はお人払いをした上で、小舞踏会用の広間をお使いになってるんです。・・・どなた様も近づけないようにと命じられているのですが、ケイス様でしたら問題はございません。どうぞこちらへ」
「いやいや。人払いをしているのならば、私が行ってもまずいでしょう」
「そんなことはございません。ケイス様でしたら全く問題はございませんから」
何をどうしてそう確信できるのか、本当は「人払いされていたから」という理由でそのまま引き下がりたかったカロンだが、古参の侍従に案内され、ついていくこととなった。
(どうして、どいつもこいつも俺の気持ちを分かってくれないんだろう)
世の中には強引な人間しか存在しないのではないか。
それでも侍従には、「クネライ将軍だけ呼び出してくれればいいから」と、カロンは頼んだのだが、先に侍従が広間に入ってカロンが来たことを伝えると、「どうぞと、リガンテ大将軍も仰有ってますから」と、そのまま中へ案内されてしまったのである。
そうして・・・。
「クネライ将軍に、こちらをどうするか、そしてサインを頂きたくて来たのですが・・・」
と、カロンが説明しながらそれをクネライに差し出すと、
「ああ、ちょっと待てや。いきなり言われてもな。・・・そう言えば、この問題があったか。ケイス部隊長ならどうする?」
「最終的にお決めになるのはクネライ将軍ですが・・・。この男を信頼できないことは確かです。今回、未亡人を誑しこみ、養子に入って姓を変えていますが・・・。本来の姓の時に、問題ばかりを撒き散らしたのも、その理由の一つでしょう」
「そうか。じゃ、これはノーということで。ほい、サイン」
と、さっさとクネライはそこで終わらせてしまった。
そこまではいい。一応の用事は済んだ。だから問題はないのだ。
と、カロンは気を取り直して、向き直った。
「で、どうしてあなたがここにいるんです?」
「言ってなかったか?」
「聞いてません」
そこで彼女は僅かに首を傾げた。そういう仕草は少し可愛いと思うカロンだ。人目がなければ、そのまま頭を撫でたくもなる。
「・・・いや、言ったと思うぞ? ほら、ちょうど買い物に出掛けたら、そこで石畳に足を躓かせたご婦人がいて、彼女を邸まで送っていったことがあったと言っただろう? そしてその邸に行ってみたら、なんとそのご婦人はフィゼッチ将軍の奥方だったと。で、それ以来、時々、お茶をしているって」
「それは聞きましたけど・・・。ただ、あなた、名乗ると気をつかうだろうからと、あえて名乗らず、そのままフィゼッチ将軍の奥方とお茶飲み友達しているんじゃなかったんですか?」
サーライナが女性に対して親切なのはいつものことだ。フィゼッチ将軍の奥方ともなると、サーライナの母親どころか祖母に近い年の差があるだろうが、別に女同士でお茶をして悪いわけがない。
カロンもそんなことに目くじらを立てる気はなかった。
それにフィゼッチ夫人にしても、躓いてスっ転んだのはともかく、足首もサーライナがその場で見た所、ひねってもいなかったらしい。けれども年老いていると、一度転んだだけで不安になるものだ。サーライナが送り届けることで無事に帰宅できたならそれで良かったと、カロンもそう思う程度のことだった。
「そうそう。だから、自分の夫が騎士団にいるから、出世目当てでフィゼッチ夫人に近づいたと思われても困る、だから家名は名乗らずにいさせてほしいと言って了解され、それはそれで良かったのだが・・・。だが、ある日、ばったりとその邸でフィゼッチ将軍とお会いしてしまってな」
「・・・それは誤魔化しようがありませんでしたね」
「そうなんだ」
いくら女性の格好をしていようとも、だ。一目だけなら雰囲気が違い過ぎて分からないといえども、だ。そうなると立場上、きちんと挨拶しないわけにはいかないではないか。
さすがに、そこで「初めまして」などと言える面の皮の厚さは持ち合わせがなかったと、サーライナは言う。それはそうだろうが・・・。
「で、仕方なくだな、『お久しぶりでございます』と、挨拶することになってしまったわけだ」
フィゼッチ将軍も、自分の妻が一人で散歩していた際に助けてくれた女性がいて、しかも出世目当てだと思われたくないので名乗らないときたら、かえって興味がわいていたのである。
というのも、サーライナに助けられたフィゼッチ夫人は、帰宅したフィゼッチ将軍にウキウキとしてその日のことを話していた。
「身分が違うと仰有っておられましたし、平民とのことでしたけれど・・・。その方、全くうちの邸に怖じてはいらっしゃいませんでしたのよ。私もわざと目立たぬ格好をしてましたけど、彼女はもっと庶民って感じの服でしたのに・・・。何より素敵なことに、こんな私を抱き上げて邸まで連れて帰ってくれましたの。羽のように軽いですねって仰有って・・・。ほほ、こんなおばあちゃんなのに、年甲斐もなくドキドキしてしまいましたわ。相手は女性ですのにね」
「お前を抱き上げて歩いた? ・・・女装した男か?」
「ま。何てことを仰有いますの」
送ってくれたお礼に、帰りは馬車を出すとフィゼッチ夫人が言ったにもかかわらず、
「奥様。平民はそんな馬車を使うような家には住んでいないものなのです。・・・お気になさらないでくださいませ。フィゼッチ将軍様は国の守護神。その奥方様に何事もなく、よろしゅうございました。美味しいお茶をご馳走様でした」
と、彼女は、そのまま笑顔で立ち去ろうとしたのだとか。そのまま彼女が自分と二度と会う気はないと察したフィゼッチ夫人は、そこで彼女の手を掴んで、是非これからもお友達付き合いしてほしいと頼んだのである。
彼女は、
「貴族は貴族同士の方が良いですよ。身分差は不釣り合いのもとです」
と言ったが、
「私ももうお迎えが近い年寄りなのよ。こうなったら身分など何ほどのこともないわ。老人の我が儘ぐらい、きいてくれてもいいでしょう?」
と、フィゼッチ夫人は押し切り、その二日後にも来て一緒にお茶してほしいと頼み込んだ。
笑って彼女は「私でよろしければ」と、了承してくれたが、二日後に来た彼女は、質素ながらも貴族の邸を尋ねるに相応しい昼間用のドレスを着ていた。
「ええ。奥方様に恥をかかせないようにと思いまして、服は借りてきましたの」
と、そう彼女は言ったが、落ち着いた色合いのドレスはとても似合っていて、どう見ても彼女用に仕立てられたものだった。けれども彼女が自分のことを語る気がないのは明白で、それにそれだけの用意が出来る家の人間ならばかえって問題はないと、フィゼッチ夫人はお喋りを楽しんだのである。
「ふふふ。とても若い方なんだけど、振る舞いがすっきりしているのよ。綺麗なお花と、『奥様に映えるだろうと思いまして』って、この羽飾りを持ってきてくださったの。それに話してくださる内容が面白いのよ。私、あなたに惚れ直しましたわ」
彼女はとても楽しい話相手で、フィゼッチ夫人はすっかりご機嫌だった。夫が騎士団にいると言っていただけあって、彼女は騎士団のことに詳しい。
たとえば、フィゼッチ将軍が部下達とどんなやりとりをしているか、そして戦場ではどんな様子で戦うかなど、夫人の知らない将軍の日々を鮮やかに彼女は語った。
夫が偉いのは知っていたが、どういう状況でどんな判断を下し、その結果どうなったかを事細かく臨場感たっぷりに語られると、夫人も将軍を誇りに思う。華やかな成果の陰で、どう夫が苦慮し、どんな努力を重ね、どんな苦痛すら乗り越えてきたのかを聞かされると、改めて夫を大事にしようと感じたのである。
「む。・・・まぁ、それ程でもないがな」
褒め言葉など聞き飽きているが、フィゼッチ将軍も長く連れ添った妻から尊敬の瞳で見られるのは悪くない。女に男の仕事は分からぬだろうと、あえて家庭にそういったことは持ち込まなかったが、こうして分かってもらえるというのは、何と気持ちがいいものなのか。男としての仕事を妻に高く評価され、面映ゆくも嬉しく感じた。
そんなフィゼッチ将軍が見せられた羽飾りは普通に白鳥なり鵞鳥なりの羽で作られたものなのだろうが、美しい色に染め上げたものを綺麗に形作ってまとめられており、貴族の夫人が夜会に飾りとして使ってもおかしくないものに思えた。
「ね? 素敵でしょう? ちょっと私ぐらいの年になると派手じゃないかしらと思ったんだけど、その方がね、『そんなことはございませんわ。ほら、こうして髪に挿してごらんになってくださいましな。軽くて楽ではありません?』って、そのまま髪に挿してくださったの。言われてみれば、普通の髪飾りよりもはるかに軽いんですもの。私、気に入ってしまったわ」
「まあ、髪飾りのことはよく分からんが・・・」
今まで妻の交友関係に全く興味のなかったフィゼッチ将軍も、さすがに興味が出てきていた。
ある日、そのミステリアスな女性が訪れる予定だと聞き、仕事を切り上げて帰ってきたフィゼッチ将軍だったが、会ってびっくり、相手はかつての同輩だったというわけである。
そりゃ騎士団のことに詳しい筈だと、納得した。
そしてフィゼッチ家の使用人達も、奥様が難儀しているのを助けてくれた女性として丁寧には対応していたものの、まさか自分達の主人と同じ将軍職を拝命していた女性だったとはと、改めて平民だからとないがしろに対応していなかったことに安堵したのである。
「奥方とのお茶会はともかく、あなた、フィゼッチ将軍にもお会いしてたなんて言わなかったじゃないですか。いえ、いいんですけど。・・・そりゃ、そうですよね、奥方と身元の知れない人間が交流していたら、それはフィゼッチ将軍もご心配にもなるでしょうし」
今になって初めて聞いている様子のカロンに、周囲の瞳は同情的だ。
「うーん。夫婦の関係とは色々なんだね」
と、リガンテ大将軍が言えば、
「普通、その日にあったことは、妻は放っておいても語り続けるものだと思っておりましたが」
と、フィゼッチ将軍も同意し、
「左様ですな。こっちが聞いていなくても延々と語り続ける」
と、エイド将軍も頷き、
「あー・・・。まあ、ケリスエ将軍ですから」
と、クネライ将軍は苦笑いをした。
それはそうだろう。普通はそんなことがあったら夫には話すものだ。
クネライ将軍は慣れているが、リガンテ大将軍、そしてフィゼッチ将軍、エイド将軍にいたっては、そんな大事なことを話してもらえていなかったと知り、カロンに気の毒そうな表情を向けていた。カロンの妻に対する執着は有名だが、肝心の妻は冷たすぎるのではないだろうか、と。
三人の奥方は、大柄で存在感もかなりあるカロンに対し、怖がることもなく平然と対応しているサーライナに、「最近の若い方はこんなにも女性が強いのね」と、ちょっと自分の知らない世界を見た気分である。さすが女性ながらも将軍になった存在とは、夫に守られて暮らしている自分達とは違うスタンスなのだろうか。それでも仲は悪くなさそうだ。
「まあ、バレてしまってもあちらが気にしないでくださるならそれはそれでいいかと、そのまま夫人の所をちょくちょく訪れてお茶をしていたのだが、フィゼッチ将軍はあまり仕事のことを家庭では話されないそうでな。夫人としては、常々自分でも色々と力になりたいと思っておいでだったとか。そういうわけで、ではせめてと、ドレスを着たままでも出来る簡単な護身術を教えて差し上げるようになったんだ」
「・・・聞いてませんよ、そんなこと」
「そうだったか? まあ、大したことじゃない。お茶を飲むついでに、世間話の延長で教えただけなんだ」
だが、それを聞いて興味を持ったのは、フィゼッチ将軍の方だった。女性ならではの護身術など、それこそ興味深い。勿論、戦場で戦う自分達には意味がないが、それこそ自分も知りたいぐらいだ。王族の近くにも控える近衛騎士団となれば、女性が使うそれをも把握しておきたい気持ちは当然だっただろう。
そして、その話を王に話したら、王とリガンテ大将軍も興味を持ってしまった。
なぜかフィゼッチ夫人とのお茶会は、リガンテ大将軍の執務室で行われるようになり、そして皆が参加することになったのである。
というのも、その護身術とやらは、・・・フィゼッチ夫人は分かっていなかったが、どう考えても、女の刺客が使う手段だった。
「これは寝室にまで侵入してきた人間に対する護身術だからな。・・・国王陛下とリガンテ大将軍も身につけておいて困らないし、教えるのはいいんだが、・・・そうなるとフィゼッチ将軍ご夫妻だけじゃ不公平だろう? だからエイド将軍とクネライ将軍にも打診したら、お二方とも夫人連れで参加なさるようになってな。妃殿下には、陛下のご希望で最初から知らせていないんだが。・・・これは女性用だから、あまり将軍達自身には役立たないが、戦場での色仕掛けによる暗殺者相手の参考にもなるし・・・」
「いやいや。そこまでのことになったら、普通、俺にも言いますよね?」
「そうなのか? まあ、今、話したから問題なかろう」
「・・・そういう人ですよね、あなた。ええ、分かってましたとも」
がっくりとカロンは肩を落とした。けれども解せないこともある。
「別にそういうことなら、何も隠してやらなくても・・・。それこそ、他にも教わりたい女性は多いでしょうに」
「・・・そうとも言い難い。あのな、カロン。女性とはしたたかなものだ。そしてその場の感情に流されやすくもある。これは人を殺す手段だ。将軍のご夫人方であれば、夫君の立場上、もう覚悟は決めておいでだろう。将軍の妻なんて人質には持ってこいだからな。だが、若いということは情に流されやすく、愚かな決断をすることもある。敵と情を通じ、夫を裏切った妻など珍しくもない。教えたこれを、夫君を刺し殺す手段にしてくれては困る。だから女官にも見せることなく、こういった場所でしているんだ。・・・妃殿下とて、元は隣国のご出身だ。いつ、お立場が変わるともしれん。だからこのことは知らせていない。・・・分かるな?」
それを、集まっていた中で一番若い上に他国出身のサーライナが言うのはおかしい気もするが、それには一理あった。とはいえ、大将軍と三将軍夫妻が護身術教室・・・。国王はその日の予定によるが、不定期で飛び入り参加。
今日は、ちょうどカロンがやってくる少し前に、国王は他の用事で呼ばれ、帰っていったのだとか。
講義内容として、夫は暴漢役、妻が襲われ役で、どうやったらその体格差をものともせずに倒せるか、らしい。国王とリガンテ大将軍には、女性の刺客が誘惑しながら襲ってくる手口を教えているそうだ。
(せめてもっと早くから知っておけば・・・。今となっては知りたくなかった)
カロンの心を重くのしかかってくるものがある。
これをどう報告すればいいのか。・・・・・・しかも講師は自分の妻。
待ちかまえているであろうセイランドとロメス、そしてサフィヨールとキヤンの顔を思い浮かべ、カロンは大きな溜め息をついた。
ちょうどその日の講義は、もう終わりかけだったらしい。そのままお開きとなり、カロンはクネライと一緒にローム国騎士団の棟へと戻った。サーライナは、王宮から屋敷へ馬に乗って帰るだけだ。ご夫人方は、馬車で来ている。
「将軍もたまには騎士団に寄ってくださればいいのだが、代替わりした以上、顔を出すべきではないと仰有ってな。俺に気兼ねなどしないでほしいんだが」
「・・・クネライ将軍。もう将軍はあなたなんですから、あの人を将軍と呼ぶ必要はないかと」
「そうなんだがな。・・・今でもあれだけの腕をお持ちだ。いっそ復帰してくださっても構わんのだが、頑として断ってこられる」
「二つの頭はいらない、・・・そういうことなんでしょう。俺達の、クネライ将軍に対する忠誠を揺らがせるわけにはいきません」
「まあ、それはそうなんだろうが・・・。なあ、お前ならどう思う? あんな女用の護身術だけなら執務室で十分だ。だが、・・・なぜあんな広間を使ってるかっていうと、今日は無しになったが、その後は俺達に対する訓練があるからさ」
「はぁ?」
「護身術教室が終わったら、お茶をしてうちの女房達が帰るだろ? その後は、リガンテ大将軍は不参加だが、俺達に対する特訓が始まるのさ。内容は、剣術や体術のこともあるが、時には戦略術だったりな」
クネライは簡単にそれらをざっと述べる。聞いてみれば、カロンも昔に教わったことのあるものだった。なるほどと、「ああ、昔、無敗を誇っていた国が敗れた時の陣形ですね」と、懐かしく思い返す。
「・・・お前なあ。あれを全部教わり終えてんのかよ、何て贅沢な奴なんだ。・・・フィゼッチ将軍ももうかなりのお年だが、あの方は体に負担が掛からない戦い方を中心に教えている。・・・こう言っちゃあ何だが、元はうちの将軍だろうが。それこそ、よそを鍛えるより、うちの教官として来てくれる方がよほどありがてえよ。俺にしてみりゃ、何を言ってもうちに来ないくせに、それでも俺を含めてるとはいえ、他騎士団の将軍に教え込んでるのが全く解せん」
大先輩であるフィゼッチ将軍とエイド将軍に気兼ねして言葉は選んでいるが、クネライとしては、ケリスエ前将軍が気を配るならローム国騎士団だけでいいと、そう言いたいのである。
自分の所の先代トップが、どうしてよそにいい顔をしなくてはならないのか、と。
「どうでしょうね。恐らく、あの人が鍛えたいのはクネライ将軍だけでしょう。・・・何と言ってもあの人にとっての後継者です。しかし、ローム国騎士団に来るわけにはいかない。ですが、場所が王宮で、フィゼッチ将軍とエイド将軍と一緒ならば・・・、そういう思いがあるんじゃないかと思いますがね」
「・・・後継者なんてお前一人だろうが」
かつてケリスエ将軍がカロンを後継に選び、自分を殺させてでもと代替わりしようとしていたのは忘れられない。クネライにしてみれば、妥協で自分の名を挙げただけではないかと、そんな思いもあった。
「弟子は俺だけでしょうけど、仕事は別じゃないですか。大体、フィゼッチ将軍もエイド将軍も代替わりなんて時間の問題です。近衛・王都の騎士団を強くすることが目的なら、その次の世代を鍛えますよ、普通。あくまで三将軍揃ってのそれは、クネライ殿に対する周囲への目くらましでしょう」
クネライは黙り込んだ。カロンが言うなら、そうなのだろう。誰よりも無愛想で誤解されやすいくせに、年上の部下達を思いやる女将軍だった。
同じ家に住み、配偶者となりながらも、彼女はこの講義のことをカロンには話していなかった。それは、このことはカロンには無関係だと割り切っていたからではないのか。
ぐっとこみ上げるものがある。だが、そこでちょっと足掻きたくもなるわけで、少しひねくれた感じに言ってみる。
「・・・そうかねえ?」
「だと思いますよ。やっぱり急な代替わりでしたからね。心配してたんじゃないですか? 何も言いませんでしたけど。部隊長達も自分の娘みたいな年だってんで、あの人のこと、色々な意味で守ってたじゃないですか。・・・あの人、そういうの、忘れない人ですから」
クネライの心にじんわりと熱いものが広がる。
女として見たことはない。だが、自分の子供のような年でありながら、黙々と皆を叩き伏せていくその姿に、どこか心が痛んでいたことも事実だ。その強さには感心したが、それを喜びもしない頑なさが、どこか殻に覆われているかのようで・・・・・・。たしかに、カロン程ではないが、自分達もあの年若い将軍を大事に思っていた。
けれども、この年になると素直に感動も表せない。クネライは首を振って話題を変えた。
「なあ。あの護身術、本当はもっとえげつない技があるんじゃないのか?」
「そうですけど、女性用ならあれで十分でしょう。それ以上は、まさに暗殺者のそれですよ」
「勿論、お前はもっと教わってるんだろうな」
少しやっかみが混じるのは仕方ないだろう。だが、カロンはそれに気づかなかったようで、肩を竦めてみせた。
「まあ、そうですけど・・・。だけど、俺の体じゃ色仕掛けは無理ですからね。俺達みたいに正面きって戦う人間には無縁ですよ。それにあの人、ああいう技そのものは身につけていても使いません。やる時はしっかり素手で一ひねりです」
「・・・だよな」
「俺にしてもその方が早いです」
「だろうな」
「クネライ将軍だって、仮に教わっても使う日はきませんよ」
「そりゃそうだ」
クネライは考えるのも馬鹿馬鹿しくなった。言われてみればその通りである。変な小手先の技を使わなくても、自分達は力で乗り切った方が早い。あれはあくまで、王や大将軍という、放っておいても女が忍んでくる立場の人間用の講義だ。
カロンは、そこで溜め息をついた。
「そんなことより、どう言えばいいんだか・・・。まさかあの人が講師役だったなんて、俺、みんなに馬鹿にされるだけですよね」
「知るか、そんなの」
実は、三将軍の副官それぞれが、各将軍の行動を怪しんでいると言ったら、
「うん、副官になら知られたところで全く問題はないからね。話していいよ」
と、リガンテ大将軍もにこにこと笑って言ってはくれたのだが、待ちかまえているであろう四人に話した途端、何を言われるかなど、カロンとて想像がつく。
「何で自分の奥方の行動を把握してないんだ?」とか、
「お前、自分の妻のことだろうが」とか、
「本当にお前って振り回されてんのな、ケケ」とか、
「それはいいんですが、どうしてあなたが最後に知らされてるんです?」とか、思いっきり馬鹿にされそうだ。
カロンのその予感は大当たりした。
護身術といっても、一通り教えたら、後はすることもない。ちょうど冬の冷え込む時期に入ったのを期に、奥方達を誘っての王宮での護身術レッスン兼お茶会は終了した。
その代わり、今度は不定期にリガンテ大将軍に呼ばれて昼食やお茶をしに行くようになったサーライナだった。
「退職したのに、仕事している時よりも気忙しくなっているような気がするのは何故なんだろう」
「知りませんよ。・・・俺にしてみれば、大将軍はともかく、俺が一緒にいられないのに、あの小娘があなたに引っ付いてるってだけで不愉快ですけど」
フィツエリ男爵家のルーナは、会えなかった分を取り返すかのように頻繁に訪れては、サーライナにくっついていた。サーライナもならばと、一緒に遠乗りに出掛けたり、こまめに相手をしてやっている。
それでも、カロンが休みの日は絶対に予定は空けておいてくれるし、カロンとしても、サーライナが食事を用意して待っていてくれる屋敷に帰る日々は、悪くなかった。
仕事で屋敷を空ける日は、切なかったけれども。
「誰だって、戦場に妻を連れてはいかんだろうが。・・・今までがおかしかっただけだ。ほら、頑張って行って来い」
「そりゃそうですけど・・・。戦に行かなくていいような門番の兵士とか、街中の警備兵に異動願いを出したいぐらいです」
「即座に却下されるな」
「ええ。されました。・・・降格どころじゃないそんなことが出来るか、と。何か不祥事を起こせばいいらしいんですが、いかんせん不祥事と言われても何をすればいいやら」
「そんな不祥事など起こしたら、一番に責められるのは私だな」
「・・・じゃあ、やめときます」
良くも悪くもサーライナが仕込んだカロンである。体調を崩して寝台の住人となっていた間に、それまでサーライナの所へ不定期に情報を持ってくる者達が、屋敷を訪問していた。カロンはサーライナの代わりに会うことで、その情報の内容と報酬金額とを、既に把握してしまっていた。
彼らは商人だが、様々な場所へと向かう。そのついでに訪れた場所で、サーライナに頼まれた情報収集を行い、そしてその結果を持ってきてはサーライナから報酬を受け取っていたのである。
「ああ、悪いが、こっちから支払っておいてくれ。その内容につき、この程度だ」
「分かりました」
「変に吹っかけられるなよ。あくまでこれ以上は出せん。しかし役立つ情報なら別だ。これが、今までの記録。正しかったら次回に上乗せして払うことになってるから、・・・今回はこの分の正確な情報料をこの程度加算して払っておいてくれ。聞きとった内容は、全部これに記録しておく。次回の加算を割り出す為にな」
「はい」
結果として、サーライナの資産管理もしてしまうことになり、真面目なカロンは自分の蓄えもそこに合算してしまった。
そうなると、カロンとて別に門番程度の給料であれ、その蓄えに手をつけなくても生活はどうにでもなると、算盤を弾き終えてしまっていたのである。
「カロン。お前なあ・・・。何で支払いの後に、金が増えてるんだ? お前、自分の金を足しただろう」
「どうせ、俺はそう使い道もないですから」
「アホか。お前のものはちゃんとお前で持っておけ」
「・・・そうかもしれませんが、あなたが俺を捨てなければいいだけの話ですよね」
何という捨て身のやり方なのかと、呆れたサーライナだ。捨てるも何も、自分に浮気はあり得ないと何度言えばいいのだろう。
結果として、カロンは今もサーライナが部族の生き残りを探していること、そして国外の動きには特に目を光らせていたことを知ってしまった。普段から様々な所へ出かけて情報収集していたのは知っていたが、こういう伝手も数多く使っていたらしい。今まで自分に知らされていたのは、彼女が使っていたその一部だったのだと、カロンは実感した。
「あなたがその部族の人達を探せない分、俺が探します。だから・・・」
「別にもういい。あれは・・・、単に惰性で続けていただけだ。部族の人間を探すのは、もう諦めてる。カロン、私の身内はお前だけでいい」
「ライナ・・・」
情報に関しては国外の動きだけでいいと、そう伝えておいてくれと言っていたサーライナだったが、カロンは部族の生き残りを探すというそれを続行させていた。彼女の願いを叶えたかったからだ。
そうして、月日は流れていった。
ローム国騎士団の棟にある、第六部隊長の執務室。普段から部隊長ではなく、その副官が一番幅を利かせているそこに、疫病神が訪れていた。
「あー、お姫さん。悪いが、うちの部隊長は訓練指導中でな、ここにゃいねえんだ。で、どうしたよ? お宅の大好きなお人なら、うちの騎士団にゃもういねえぜ?」
部隊長の椅子に腰かけたまま、副官であるサフィヨールは大きな欠伸をした。
「そんなの分かっててよっ。本当に部隊長も部隊長なら、副官も副官で失礼ねっ」
「相手に合わせることにしてんだ、俺は。そりゃケリスエ元将軍相手なら、まずは立ち上がりもするし、ぞんざいな口調もしねえが、お姫さん相手にゃあな・・・。俺はこれでもカロンの味方なんだ」
そこへ、カロンとリールス達が戻ってくる。
「終わりました、サフィヨール様。・・・って、何かご用ですか、ルーナ姫?」
カロンはルーナを確認した途端、嫌そうな顔になる。
「用事がなきゃ来ないわよ。・・・ちょっと手伝ってほしいことがあるから来たんじゃないっ」
「生憎、うちでは暗殺は請け負っておりませんので。・・・さぁ、さっさと帰れ、この小娘」
「誰が暗殺なんて頼むのよっ」
「闇討ちもお断りします。・・・リールス、お客様のお帰りだ。ちゃんと門まで送って来い。二度と入れるなと、門番にも徹底させろ」
「ちょっと! 話ぐらい聞きなさいよっ」
「聞く価値なんぞあるか。・・・ああ、言い忘れてました。ご婚約おめでとうございます。末永くお幸せに。・・・じゃ、さよなら」
そんな取りつく島もないカロンの服を、ルーナはがしっと掴んだ。下から見上げるというより、睨みあげてくる視線は、射殺さんばかりである。
「いいから話ぐらい聞きなさいよっ。このまま私を放り出したら、ケリスエ様と心中騒ぎを起こしてやるからねっ」
「・・・・・・。リールス。水でいい。招かれざる人間に茶の必要はない。・・・で、話とは?」
これが自分相手の脅しならポイッと外に放り出したであろうカロンだが、妻の名を出されては話も別である。ルーナの要求に渋々と応じた。
そして、さすがに水というのも憚られたリールスがお茶を用意して下がると、面白そうな顔をしたサフィヨール、仏頂面のカロン、不機嫌そうなルーナの三人で、話が始まったのである。
「どうしてあなたがまだいるのよ?」
「いやいや、お姫さん。何と言っても、若い男女を二人っきりにはさせられんだろうが。俺は年長者としてカロンがお姫さんに不埒なことをしないかどうか、見張ってやってんだ」
ルーナは貴族の姫君である。サフィヨールも万が一のことがないよう、不祥事を避ける為にも同席しているのだと説明したが、・・・単なる好奇心であることは明白だった。
「まあ、いいわ。ものは相談なんだけど・・・」
そして、ルーナの話を聞き終わると。
サフィヨールは、机をガンガンと叩いて笑い転げた。
「くぅっ、・・・いや、もう最高だなっ、お姫さんっ。ガハハハ、・・・くっ、腹が苦しいっ」
呆気にとられていたカロンは、額に青筋を立てて怒鳴りつける。
「馬鹿かーっ。どんな話かと思えば、お前は男をどこまで馬鹿にすりゃ気が済むんだっ」
「馬鹿とは何よっ。これしかないでしょうがっ。最善の策って奴よっ!」
「最善の策は、お前が黙って嫁に行くことだっ」
カロンから、既に敬語は抜け落ちていた。元よりルーナに対する敬意など全くないからである。
フィツエリ男爵令嬢ルーナ姫の結婚が決まったと、カロンもサーライナから聞いていた。その状況で自分を訪ねてきたとなれば、その婚約者とやらを殺してくれという話に違いないと思っていたのだが、さすがにそこまでは血迷っていなかったらしい。
それはそれで結構だ。が、しかし。
(この小娘だけは通さないように、門番に徹底させとくんだった・・・)
カロンはもう、話を聞いて怒鳴りつけることしかできなかった。
しかし、ルーナとて普段からカロンが避けるぐらいに気は強い。自分よりもはるかに大柄なカロンに怒鳴りつけられようが、机をバンっと叩かれようが、そんなことで怯むものではない。
―――来るなら来い。返り討ちにしてくれてよ。
たとえカロンに一度として剣で勝ったことはなくても、ルーナの根性は頑丈さがウリだ。小さい体に不屈の魂を乗せて、彼女は堂々とカロンに言いきった。
「あんただってちゃんと考えてみなさいよっ。うちのお父様とお兄様は私をどこかに嫁に行かせて片付けたいのっ。それしか考えてないのっ! ただのまっすぐしか走れない猪なのっ。だから頭が禿げるのよっ!」
「禿げるのは関係ねえだろっ。男が禿げるのは男らしさの証拠だろうがっ!」
男として、カロンもそこは譲れない。別にカロンが禿げているわけではないが、性欲が強く、男くささの漂う男にそういう傾向があるのは確かだった。
男の価値を分かっていない女は、どうして髪の毛の有無だけで決めつけるのか。髪があろうが、男らしさのない男はかえって軟弱すぎたりもするではないか。強さを望むなら、頭皮にこだわるべきではない。
ついでにルーナの兄であるロカーンは禿げてはいない、・・・まだ。父親はともかくとして・・・。
「男らしさがあるなら、娘に無断で婚約者なんて決めないわよっ!」
「娘の我が儘に付き合っていつまでも決着つけない方が、よほど男らしさの欠如を問われる事態だっ」
「そんなこと言ってるから、あんたも禿げるのよっ」
「勝手に呪うんじゃねえよっ!」
話は、その時点でずれにずれまくっていた。カロンとて、妻にバレないのであればルーナに喧嘩を売るどころか、遠慮なく罵る男だ。ルーナが女でなければ実力行使もしていただろう。
「ま、そんなことはどうでもいいのよ。それはともかく・・・」
さすがに、短くしているとはいえ、決して禿げてはいないカロンにそれを言っても仕方がないとルーナも思ったらしく、そこで素早くそれまでの会話をなかったことにして、話を続けた。
「だからあの人達、勝手に婚約者を決めてしまったのよっ。信じられるっ!? だけどねっ、私はこうやって毎日ケリスエ様といちゃいちゃしながらロームでラブラブに暮らしたいのっ。あんただってどうせいつかは戦死するわよっ、そうしたら二人っきりになれるじゃないっ。人生は幸せに生きる為にあるのよっ、当たり前でしょっ」
「全力で、俺の幸せの為にもお前が消えやがれっ、このお邪魔虫っ」
人の妻をつかまえて、何がいちゃいちゃラブラブだ。
カロンは速攻で屋敷に帰りたくなった。これはもう、愛しいサーライナと一緒に過ごすことで癒されるしかない。
そりゃ、こんな娘を持ってたら、父や兄とて勝手に婚約者も決めるだろう。全くもって信じられる事態でしかない。疑問を感じているのは、この小娘ぐらいである。
だがルーナに、そこで話を終わらせる気はなかった。チッチと、人差し指を左右に振りながら自分へと注意を向けさせてくる。
早く帰れ、この疫病神がと、カロンは一気にイラっとした。
「・・・じゃあ、その為にはどうすればいいか。そこでしょう、そこっ。勿論、婚約破棄よ、破棄っ。だけどその為には、婚約が破棄されるようなことがなくちゃ駄目なのっ。つまり、私が先に誰かと結婚するとかねっ」
「・・・勝手に結婚しろよ、勝手に。婚約者だろうが、そこらの馬の骨だろうが、勝手にな。別にこっちを巻き込まずにいてくれりゃ、お前が誰と結婚しようと駆け落ちしようと、気にしねえよ」
完全に聞く気をなくしているカロンに、ルーナの機嫌は一気に突沸した。物わかりの悪い生徒に苛立つ教師のように、カロンを怒鳴りつける。
「だからぁっ、その相手を差し出せって言ってるんじゃないのっ! こんだけムサい男ばっかりなんだから、適当な男の一人や二人、いるでしょうがっ」
「条件が悪すぎるわっ」
よりによってルーナは、偽装結婚の相手を差し出せと言ってきたのである。「腐っても第六大隊を率いてんだから、男の一人や二人、私の為に差し出してみせなさいよ」と、こういうわけだ。
前第六部隊長かつ現第六部隊の実質支配者であるサフィヨールが笑い転げたのも無理はない。第六大隊の人間を戦力と見做されることはあっても、・・・まさかそんな使い方を考える人間がいるなど、前代未聞だった。
「本当に私に手を出されたら困るから、人前では夫婦っぽく振る舞ってくれるだけの人がいいの。それで、私とケリスエ様がいくら仲良くても邪魔しない人がいいわ。・・・つまり、同居人みたいなものね。も・ち・ろ・ん、白い結婚でよろしく。だから、顔とか財力とかをとやかく言うつもりはないわ。その代わり、私にも妻らしいことは求めないでほしいの」
カロンが呆れて怒鳴りつけたのも無理はない。
「そんな結婚のどこに、男のメリットがあるんだっ」
「私みたいな可愛い娘と暮らせるのよっ。家だって私が用意するわ。ロシータ達が作ってくれる料理だって食べさせてあげるんだから、十分幸せじゃないのっ」
「手が出せない女なんて、女としての価値など全くないだろうがっ。お前は男にどんな苦行をさせる気だっ! ついでにお前ほど可愛げのない娘は存在しねえよっ」
既にサフィヨールは笑い過ぎて苦しさのあまり声が出ない。
「じゃあ何よっ。私に愛のない結婚をしろって言うのっ!?」
「それが貴族ってもんだろうがっ」
「自分はケリスエ様を無理矢理に襲って手に入れたくせにっ」
「誰も襲ってねえっ! 言っとくが、合意の上での結婚だし、どっちかってっと、あの人が俺を襲ったんだろうがっ」
さすがに自分が手籠めにしたのだと言われてはブチ切れるカロンである。自分がどうして彼女をそんな目に遭わせるというのか。何より、そんなことをしたら、どんなことになるか。
が、しかし。
カロンの言い方はかなりまずかった。
「・・・え。何それ、・・・やっぱりヘタレよね」
「るせえよっ」
そこへ、息が絶え絶えになりかけたソチエト第五部隊長が、よろけながら入室してくる。
「す、すまん・・・。立ち聞きする気は、なかったんだが、笑えて・・・。お二人とも、ちょっと、・・・声を、小さくしてもらえます、かな? この部屋の・・・、前にいる人間、皆、立ち上がれなく、なっております、ぞ」
カロンとルーナは真っ赤になって口を閉じた。サフィヨールは既に椅子からずれ落ちて、床をバシバシ叩いている有り様である。
そこに手を差し出したソチエト第五部隊長と一緒になって、二人は笑いを止めようとしては腹の痛みに耐えて、笑いが止まりかけてはまた噴き出していた。
やがて、サフィヨールが椅子に座り直すと、ソチエト第五部隊長も勝手にそこにあった椅子に座る。
「・・・っかしよう、お前なあ、カロン。男なら女に襲われてんじゃねえよ。てか、お前が押し倒されたのかよ、情けねえ」
ひぃひぃと、未だに笑いの余韻を隠せないサフィヨールが、駄目な奴と言わんばかりにカロンを見遣る。
「ほっといてください。俺からあの人に無理矢理なんて出来るわけないでしょうが」
「そりゃそうだろうけどよ。・・・まあ、男が女を襲うのは、相手が女でさえありゃ誰でもいいってもんだが、女のそれはちゃんと男を見定めた上でのことだ。・・・良かったじゃねえか」
「まあ、始まりなんてどうでもいいんですけど」
ぷいっとカロンは横を向いた。そう、始まりは関係ない。大切なのは今だ。いつだって今、その瞬間の自分の心を、あの人だけが鷲掴みに出来る。
そんなカロンに、ルーナは唇を噛んでいた。
(本当に気に食わない男。何よそれ、・・・まるでケリスエ様がこいつを選んだみたいじゃない)
本当は、分かっていたけれども。
ルーナだって分かってはいたのだ。いつだって彼女が傍にいることを許すのは誰なのか、ぐらい。
それでも諦められなかった。我が儘を言えば許してくれる、そんな特別な存在もまた、自分一人だと分かっていたから。
たとえ叶わない想いでも、それでもずっと傍にいたかった・・・。
瞬きを繰り返して目が潤まないようにするルーナに、ソチエト第五部隊長が声を掛ける。
「ルーナ姫も、そう悲観したものでもありますまい。お相手が良い方であれば、幸せになれるものですぞ。フィツエリ男爵家の令嬢のお相手となれば、お父上も滅多な方はお選びにならんでしょう。・・・どちらにしてもケリスエ前将軍は女性でいらっしゃる。男性であればともかく、・・・それに既に結婚しておいでだ。あの方は、浮気はなさるまい」
「分かってるわよ、そんなこと」
ルーナの目に涙が浮かぶ。
「それでもっ、それでも諦められない想いがあるからっ、人は足掻くんじゃないのっ」
その血を吐くような叫びが、その場にいた他でもなくカロンの胸を射抜いた。
その想いを、知っているからだ。
「ルーナ姫・・・」
「嫌いよ、あんたなんてっ。私が一番欲しい存在も何もかも手に入れてっ! ・・・その余裕も大っ嫌いっ。自分が全部手にしてるからってっ!」
遠慮なく、ルーナはカロンの胸をバカスカと殴った。カロンは甘んじてそれを受け続けた。
やがて殴り疲れたルーナは、世界で一番嫌いな男の胸倉を掴んだまま、下を向く。カロンの服は、どんどんと濡れ続けていった。
呆れたような声で、カロンは呟いた。
「どうせ泣くなら、あの人の所で泣いてくればいいものを」
「・・・ケリスエ様に、悲しい思いをさせるわけにいかないじゃないのよ。そんなのも分からないから、あんたはどこまでもヘタレなのよ、この意気地なし」
お互いに恋愛感情はない上、ライバルでしかなかった。その勝者と敗者というだけのことだ。
けれども、二人は同じ感情を知る者同士でもあった。
ルーナの気持ちを本当の意味で理解できるのはカロンしかいなかっただろう。だから彼女はここに来たのだ。たった一人で。
「それでもルーナ姫。あの人はあなたの幸せを願っている。嫁ぎ先で幸せになってほしいと、・・・それこそがあの人の願いだ」
「・・・知ってるわ。ただ、そこに私の幸せがないだけよ」
カロンの腕がその小麦色の頭を抱えて、ゆっくりと撫でる。ルーナの嗚咽が小さく響いた。
ソチエトとサフィヨールが頷き合って部屋を静かに出て行く。二人きりになった部屋で、カロンは小さく呟いた。
「仮に俺と言う存在がなかったとしても、・・・女同士の関係に未来はない。あの人はあなたの為に、絶対に手は出さなかっただろう。仮に出せたとしても」
「そんなの、私の為でも何でもないのよ」
「誰からも後ろ指を指されることなく、貴族令嬢として、やがては誰もが憧れる貴族夫人になる。あの人は、あなたがそうあるべきだと思っている」
「私は望んでないのよ、そんなこと」
「ルーナ姫の愛が全く違ったものだとしても・・・。それだって、あなただけに向けるあの人の愛だ」
「・・・知ってるわ。誰よりも優しいくせに、誰よりも分かってない人だってことぐらい。・・・それでも、好きなの」
「知ってる・・・」
もしかしたら、それこそ出会いが早かったか遅かったかの違いだったのかもしれない。自分とルーナは、同じ魂の持ち主に惹かれ、魅了された存在だった。
カロンは、目を伏せた。
こうして悔し涙を流すルーナ。・・・それはカロンの辿っていたかもしれない姿でもあった。
ある日、カロンが使っていない片翼の二階を掃除し始めた。
「何やってんだ、お前は」
「いや。たまには客人用にきちんとしておこうかと」
そうはいっても、王宮から差し向けられた人達がしっかり手入れをして、埃よけの布もかぶせていっていた部屋は、簡単な掃除だけしてしまえばすぐに使えるようになる。
「何だ、もしかしてまた見習いでも受け入れるのか? まあ、適当にしとけ。あまり甘やかすと、面倒なことになるらしいぞ。何でも、あまり手をかけすぎてはいかんらしい」
「はあ」
誰から聞いたのかは知らないが、彼女の考え方はかなり偏っていることを誰よりもカロンは知っていた。出来ればもっと自分に手をかけてほしかったと、言ってもいいだろうか。
寝具もきちんと干して、干したラベンダーをしのばせる。香りもいいし、虫よけにもなるからだ。
そんなカロンに影響されたのか、普段、自分達が使っている方の片翼を、掃除し始めたサーライナだった。二人暮らしなのに、なぜか凄い量の寝具が干され、全ての窓が開け放たれ、隅から隅まで磨き上げられる。
全ての暖炉の前には薪も積み上げられ、灯りの油も補充された。
「掃除もきちんとやると、かなりの肉体労働だよな」
「そうですね。埃で真っ黒です。・・・ライナ、今日は多めに湯を沸かしますから、ゆっくり入って隅々まで洗ってください。・・・きっと鼻の奥まで埃で真っ黒になってますよ、お互い」
「そうだな」
そして、その日の夕食の席で、カロンは、
「ライナ。明日はちょっと帰宅できないと思います。・・・ローム郊外で、村人が次々と斬り殺されている事件がありました。誰がやったのかは分かりませんが、その周辺の森を捜索することになるでしょう。今日の内に薪は積みあげましたし、部屋もきれいに掃除しました。食べ物も補充してあります。俺が帰ってくるまで、外には出ないでください。・・・もしかしたらロームの中に入り込んでいる可能性もあります」
「・・・・・・うちに入ってくる方が危険だと思うが」
「俺も実はそう思ってるんですけど、念の為です。巡回兵士は倍増されてますから」
と、サーライナに説明し、カロンは早朝から出掛けて行った。
そこまでは、よくある日常の一コマだっただろう。
「おはようございます、ケリスエ様」
カロンが出かけた後、ルーナが遊びにやってきた。珍しく、ロシータも連れずに一人である。
「ルーナ姫。お一人で出歩くものではありませんよ。何かあったらどうするのです?」
「大丈夫ですわ。私とて、剣は扱えますもの。・・・それよりもケリスエ様。今日はですね、お願いがあって参りましたの」
「ちょっと待ってください、ルーナ姫。あなたがいらしているとなれば、話は別です。屋敷の門を閉じ、閂を掛けましょう。私一人であればどうにでも出来ますが、変な人間に入り込まれて、あなたに危害が及んでは一大事です」
人の命など一瞬で奪えるのだ。さすがに凶悪な人間がうろついているかもしれないとなったら、サーライナも警戒するものがあった。・・・自分を過信しないことも、生き延びる術の一つだ。
ましてや、ルーナは結婚の決まった令嬢である。髪の毛一筋の怪我もさせられない。
サーライナは門の所まで行き、門扉を完全に閉めてから閂を下ろした。そして馬小屋にいた馬達を外に出し、敷地内を自由に行き来できるようにする。
「うちの馬は気性も荒い。変な人間が入り込んだら、それこそ蹴り飛ばします。さ、どうぞ。ルーナ姫」
「ありがとうございます、ケリスエ様」
応接室に通そうとしたら、同じ場所でいたいと言われ、結局、台所でお湯を沸かしている間も、ルーナはベンチに座ってサーライナが飲み物の用意をする様子をじっと見ていた。
「応接室が嫌なら、食事室に運びましょうか」
「いいえ、ケリスエ様。ここで十分ですわ。・・・だって、いつもここで済ませていらっしゃるのでしょう?」
「そうですけどね。・・・内緒ですよ? きちんと食事室に運ぶこともしていないだなんて」
「ええ、勿論ですわ」
悪戯っぽく笑って口止めしてくるサーライナに、ルーナも笑顔で頷いた。二人は向かい合わせに座り、熱々の飲み物を、息を吹きかけて冷ましながら飲み始める。
「実は、このベールなんですけど、皆に刺繍を入れてもらえば入れてもらえる程、いいって言われて・・・。お願いです、ケリスエ様。一刺しだけで構わないので、入れてもらえませんか?」
ルーナが結婚衣装のベールを差し出すと、サーライナは目を瞠ってから、笑顔で頷いた。
「私でよろしければ。ここで汚しては大変です。飲み終えたら他の部屋で、早速やらせていただきましょう」
そして、普段は使っていない方の片翼の一階にある応接室を使い、二人はベールを広げたのだった。
「なるほど。ほとんどの刺繍は終わってるのですね。白いベールに水色を中心にした色糸で花模様、ですか。きっとお似合いでしょう」
サーライナは一つ一つの柄を確認しながら、全体像をも見ていく。決して花嫁自身が手を加えてはならないと、それはされている。花嫁の幸せを祈る人達に刺繍を入れてもらえば入れてもらえる程、幸せな生活がおくれるというジンクスがあるのだ。
「ルーナ姫。今日のご予定は?」
「こちらに来ることだけですわ」
「なら良かった。ちょっと待っててください」
サーライナは立ち上がると、しばらくしてから戻ってきた。手に、小さな容器を持っている。
「これはガラスで出来た小さな筒なのですが、花の中心にこれを一つずつ付けていってもいいでしょうか? きっと光を反射して綺麗に光ると思うのです」
ルーナが覗き込むと、容器の中には青色のビーズが沢山入っていた。
「まあ。綺麗ですけど、これは私が手を出してはいけないのです。持って帰って、ロシータに縫い付けてもらえばいいでしょうか」
「まさか。ルーナ姫の幸せを願って糸を通していくものではありませんか。私がしていきますよ」
「え? ケリスエ様、針はお使いになれますの?」
「最低限程度は」
そう言うと、サーライナは次々と花の中心にビーズを縫い付けていった。ルーナはそれを黙って見ていた。自分の為に、大切そうに針を通していくその姿を。
思いがけないことに、かなりサーライナの手際は良かった。
「ルーナ姫に青色はよく似合いますからね。・・・時間はまだあるな。姫、良かったらこの花に更に花弁を足しても?」
「勿論ですわ。ケリスエ様がしてくださることなら」
花の中心に縫い付けたビーズが濃い青だったからだろう。花弁がグラデーションになるようにと、ビーズの周りに少し濃い目の青い色糸で、そしてその外側にはそれよりも薄い青い色糸でと、最初に水色で刺繍されていた大きな花弁の内側に、サーライナは次々と模様を刺していった。
それがひと段落すると、今度は少し太めの白い糸を持ってきて、何やら編んでいく。
「それ、何をなさってますの?」
「少し待ってくださいね、姫」
出来上がったのは小さなリボンだった。それをきゅっと一方の長辺だけで寄せてしまえば、白いリボンのバラに似た造花が出来上がる。幾つか作ってから、サーライナは、そのベールの上に、それを仮置きしてみせた。
「これを、花模様の間に、縫い付けていけば、かなり可愛らしいでしょう」
ひと針、それだけでいいと思っていた。なのに、ビーズを縫い付けるだけでなく、花弁を足し、その上にこんな小さな可愛らしいバラまでもつけようと言ってくる。
ルーナの瞳に涙が滲んだ。ああ、この人は本当に・・・・・・。
「ケリスエ様・・・っ!」
ルーナは何をどう言えばいいのか、分からなかった。ただ、名前しか呼べない。
「泣かないでください、ルーナ姫。あなたが仰有ったのでしょうに。・・・これは、花嫁の幸せを願うものだと。せめて、それぐらいさせてください。・・・あなたが幸せになれるように」
サーライナは次々と、その白いリボンを編んでいった。あまりにも遠い記憶だったが、かつてのサーライナは花模様の刺繍をよくしていたものだ。思い出せば、体は勝手に動く。
笑顔が世界で一番可愛らしい小麦色の髪をした小さな女の子の為に、こんな花も糸を使って編んだものだった。サーライナとて、最初はぎこちなく失敗もしていたのだが、やがてはうまくなった。今の自分は、かなりその腕も上達していると思う。
誰よりも可愛く思っていた異母妹の為には出来なかったけれど・・・。せめてルーナには、幸せを祈り、誰よりも美しい花嫁に仕上げてやりたい。そう思えばサーライナの指も、糸を素早く美しく編み上げていく。
昼食はパンとチーズ、そしてスープと果物で済ませ、夕方までに見事なベールが完成した。
「かぶってみてください、姫。・・・ああ、やっぱりよくお似合いですね。・・・このガラスもまだ沢山余ってるし、どうせなら顔の周りにもこのビーズが垂れるように、半円形の形でベールの外側に縫い付けていきましょうか。今晩はこのベールをお借りできませんか、姫? 明日の朝にはお届けに参りますよ」
「・・・そんな。ケリスエ様。だけど、この色つきのガラス、・・・高いんでしょう?」
「そんなことはありませんよ。何かの際に、どなたかに頂いたものです。ああいう仕事をしていたせいか、色々と物をもらうことも多くありましたしね。・・・ですが使い道もなく、放置してあったのです。姫の身を飾ることができたら、これも本望でしょう」
本当は、かなり高価で希少なものだった。しかし、全くそんな様子を見せず、サーライナは軽くいなした。
それでもルーナとて、色々な飾りは見慣れている人間である。サーライナの嘘などすぐに見抜ける。こんな深い紫に近い青色のガラスなど、そうそう見ない。
「・・・今日は、こちらに泊めていただけませんか、ケリスエ様。一晩、だけでいいんです。何ももう、望みません。ただ、一緒に・・・。それだけでいいんです」
「ですが、お邸の方には・・・」
「今日は帰らないと言ってきました。ロシータは、だから置いてきたんです。・・・どうか、お願いです。せめて今夜だけ・・・」
下を向いて泣くのを堪えるルーナに、サーライナもカロンの意図を察する。道理で、客室用の掃除をしていたわけである。最初からこうなると踏んでいたのか。それこそ、自分が今日は留守にすると、わざわざルーナに伝えて出て行ったに違いない。
普段ならサーライナもカロンのことなら気づくものなのだが、ルーナが結婚することにかまけていて、ここ数日のカロンには全く注意をはらっていなかった。
「今夜一晩、だけですよ? それに、・・・私はあなたに何もしませんよ?」
「・・・添い寝だけでも駄目ですか?」
意外とと言うべきか、やはりと言うべきか、泊まれるとなったら、ルーナは結構ちゃっかりしていた。
夕食は、一緒にやってみましょうかとサーライナが誘い、二人で小麦粉を練って作ったものを入れたスープを作り、そして肉を焼いてみた。
二人で台所のベンチに並んで食べるという、貴族では考えられない食事だったが、フィツエリからロームへ旅したことを思い出し、ルーナは嬉しかった。
「自分で食事を作ったのは初めてです」
「二度とない経験かもしれませんね。けれども、初めてなのにお上手でしたよ、姫。ほら、こんなに美味しい」
「本当っ。ふふっ、私、天才かもしれません」
「そうですね。・・・ずっと覚えておきましょう、この味を」
尚、その焼いた肉は、カロンがハーブや何やらで下ごしらえをしており、ただ焼けば美味しく出来上がるように仕込み終えていたものである。だが、ケリスエ将軍はいらぬことを言わなかった。
「私、ずっとこうして、・・・ケリスエ様の為に食事を作っていたかったですわ」
「姫が貴族でなければ、そうですね、そういう日々もあったかもしれませんね。・・・ただ、そうなるとカロンと三人暮らしでしょうか」
「・・・あの盾、かなりしぶといのですわ」
早目の夕食を終えると、ルーナが一人では出来ないと駄々をこねた為、「仕方ありませんね」と、サーライナがルーナを入浴させたのだが、予想通りというべきか、思いっきりびしょびしょにされて、結局、二人で湯を使ったりもした。
「ふふ、こういう入浴って初めてしましたわ」
「使用人がいないことが多いですからね。色々と手を抜けるようにしているのです」
「・・・ケリスエ様って、きちんとしていそうで、そういう所はズボラでいらっしゃいますよね」
まさか、血臭を落とす為にたっぷりの湯を使えるようにしているのだとは言えず、サーライナが誤魔化すと、ルーナはそう言って笑った。
「ズボラ、ですか・・・。カロンにも言われましたが、そんなにもバレバレでしょうか」
少し情けなさそうな顔になるサーライナの頬に、そっとルーナは口づけた。
「そんな所も好きです」
「・・・それは。ありがとうございます」
脱衣室にしっかり夜着も布も置かれているのを苦々しく思いつつ、サーライナはルーナを客室の寝室に誘った。そこの暖炉に火を入れる。これで夜の冷え込みも大丈夫だろう。
「姫は寝台に入っているか、暖炉の前にいてください。風邪をひかないように」
「暖炉の前にいますわ。ケリスエ様の手を見ていたいんですの」
大き目の寝台が一つ入っている客室もあったが、あえて寝台が二つある客室の方をサーライナは案内した。その客室の暖炉前にテーブルを持ってきて、そこにベールを広げる。ルーナに暖かな上着を着せておき、サーライナはビーズの縫い付けに掛かり始めた。
「これをどうなさるんですか?」
「糸にこのガラスの管を通し、半円になる位置でベールの周囲に取りつけていくのです。ちょっと待っててくださいね」
少し、そのビーズを取り付けた状態で、サーライナはそれをルーナに見せる。
「ほら。こうして連ねていけば、あなたの裾にまでこの青いガラスが縁取りとなるでしょう?」
夜更け前には、それらも出来上がった。頭からかぶり、ルーナが嬉しそうな顔になる。
「とても素敵ですわ」
「着こなせる姫が素敵なのですよ」
汚さないようにと、サーライナはベールを屋敷にあった布に包んだ。自分でもかなり満足できる出来映えである。サーライナはほっとした。さすがにロームに来てから刺繍などはしていなかったからだ。
フィツエリ男爵家は男爵という低めな爵位とはいえ、ないがしろにできない領地と勢力を持っている。だが、ロームで暮らす貴族の中には、爵位だけで決めつけようとする馬鹿も多い。
彼女の結婚式には様々な貴族が参加するだろうが・・・、せめてこのベールが彼女のお守りになればいいと、サーライナは祈った。
「かなり夜更かししてしまいましたね、姫。もう寝なくては。さ、そちらの寝台にどうぞ」
「・・・一緒に寝てください、ケリスエ様。添い寝だけならいいでしょう?」
「・・・・・・」
やはり大き目の寝台が入っている部屋にすべきだったと、サーライナは思ったが、もういいかと思って諦める。
二人は寝つくまで色々なことを話した。
「私の子供の頃ですか? そこは暖かい気候の場所でしてね、・・・とても森や山の恵みが豊富な場所でした」
「私も行ってみたかったですわ。・・・ねえ、ケリスエ様。初恋はどうでしたの?」
「初恋・・・。そういうものがあったのかどうかも分かりませんが、恋のような気持ちなら、・・・うちの部族の神そのものだったかもしれません」
「まあ、神様?」
「ええ。時に我らの神は、部族の者の心に降り立つと言われてまして、本人には分からずとも周囲には神の気配が分かるのです。一度、神官長様の所に降り立たれ、・・・人ではあり得ぬ美しさだと感動しました。顔だちや姿すら神々しい輝きに満ちて、目が離せぬ美しさだったのです。・・・その後、神が天に帰られたら、また、ただの小言の多い神官長様に戻ってしまってがっかりしました」
「ま、小言? ケリスエ様にも?」
「そうですね。かなり言われました。何でも私は考えが足りなかったそうで、言葉を出す前によく考えろと・・・。知ったからといって、顔や口に出すなと、よく叱られたものです。おかげで、今になって『言わないと何も分からないのだから』と、周囲に説教を喰らってます」
「まあ。・・・ふふ、そんなケリスエ様の子供時代・・・。見たかったですわ」
やがて話し疲れた二人が眠りにつく頃には、まだ空は暗かったが、どこかで鶏の鳴き声が響いていた。
「朝になってしまいましたね。・・・せめて今からでも眠らなくては」
「ええ。おやすみなさいませ、ケリスエ様」
「おやすみなさい、姫」
そうしてサーライナが目を閉じた後、しばらくして空も白み始めた。ルーナは目を閉じたまま、木窓の枠から差し掛かってくる太陽の光を感じていた。
この屋敷は周囲に民家もなく、静かな立地にある。明るくなろうが、喧騒とは無縁だ。
太陽の光も、木窓のおかげで室内を照らすには弱すぎる。だから外が明るくなろうがゆっくりと眠れるだろう、昼過ぎまで。
けれども。
(好きな人と一緒で、・・・眠れるわけなんてないじゃない)
それでもいい。こうやって温かい体に寄り添えば、それだけで切ない喜びがこの身に満ちる。その寝息すら、今は自分一人だけのものだ。
自分の体に掛けられたサーライナの片腕の重みに心臓をドキドキさせながら、ルーナは眠ったふりをしていた。
(誰よりも好き。あなた以外、欲しい人なんていない)
ルーナは目を開けてそっと体を伸ばすと、その唇に自分のそれを重ねた。彼女を起こさぬように、すぐに離したけれども。初めてのキスは、一番大好きな人としたかった。
(いいの、この想いは私だけのものでも。それでも好き)
静かに再び寄り添えば、ラベンダーの香りが寝台からだけではなく、サーライナの髪からもふんわりと立ちのぼる。
(全部、覚えておく・・・。この香りも、あなたの吐息も)
昨夜の、入浴の名残りだ。きっと自分の髪からも同じラベンダーの香りがしていることだろう。
同じ寝台で、同じ香りを分け合って、・・・この一日こそが一生に一度の夢だった。
(それでも今だけは・・・・・・)
自分の為に針を動かしてくれた指に口づけ、その手を握ったまま、ルーナは再び目を閉じた。
【弟子と師匠6】
我らが神よ。どの地にあって、どの名を名乗り、どのものに帰属しようとも、我らは常にあなたと共にある・・・。
その日、ルースレイルは唸っていた。
「どうした、ルース? お腹でも痛いのか?」
「違うの、サーラ。実はね、今日はパパの所に行ったの」
ルースレイルは、今日は父の所へ出掛けていたのだという。
その父親はサーライナの父でもあるが、とっくに独り立ちしているサーライナにしてみれば、自分が物心ついた時に実母のパートナーとなっていた男の方が父親という感覚が強い。
ルースレイルにしても、物心ついた時には母親のケリスロードは次々とパートナーを替えており、実父についてはあまり知らなかった。だが、やはりそのケリスロードがいなくなったとなれば、話は別である。
今まで何のコンタクトもなかった実父だが、ある日、
「すまなかった、ルース。お前が一人になっていたとは知らなかったんだ」
と、ルースレイルを訪ねてきたのだ。
異父姉であるサーライナが面倒をみていることもあり、父親としてルースレイルが不憫になったのだろう。それ以降、たまにルースレイルの所を訪れたり、遊びに来させたりしている。
その際、サーライナにも
「たまにはサーラも俺の所に遊びに来ないか?」
と、誘ってきたのだが、
「何をしに?」
と、サーライナに問い返されて撃沈していた。
子供の頃に手を掛けておかないと、年頃を過ぎてしまった子供に今度は相手にされなくなるという、まさに分かりやすい事例である。
だが、子供は部族の宝だ。父親の現在のパートナーも、ルースレイルが遊びに来るのを喜んで迎えた。
ルースレイルも、父親とそのパートナーに遊んでもらえばなつく。ルースレイルの世界は、それなりに広がりを見せていた。
「でね、パパがね、私のこともね、『マイ・ハニー』とか、『マイ・スウィート』とかって呼ぶの。どうして? って訊いたらね、大好きな人は甘いからそう呼ぶんだよって教えてもらったの」
「そうだね。いつかルースも大好きな人が出来たら、その人はルースをそう呼ぶかもしれないし、ルースもそう呼ぶかもしれないね」
サーライナは微笑んだ。あの父親は相変わらずらしい。何かというと、老若問わず女性をいい気分にさせるのだ。
「だけどルースの手、甘くないよ?」
ルースレイルは自分の手の甲をぺろりと舐めた。どこが甘いのだろうと、困惑している様子だ。
「本当に甘いわけじゃないよ、ルース。心の問題だ。大好きな人はそれだけで、誰よりも何よりも甘く心が感じる。だから、自分の知る一番甘い名前で呼ぶだけだよ」
「じゃあ、サーラも甘い?」
トトトッと近寄ってきて、ルースレイルがサーライナの頬をちろっと舐める。
「甘くない・・・けど、甘い気が、するかもしれない?」
「馬鹿だなぁ、ルースは」
サーライナはそんなルースレイルを抱き上げて、その頬にキスした。
「大好きだよ、ルース。だから私にとってもルースは世界で一番甘いお姫様だ」
「ルース、甘い?」
「ああ。誰よりもね」
きゃーいと喜んで、ルースがサーライナに抱きつく。
その様子を黙って見ていたリスエルードだったが、ルースレイルが昼寝して二人っきりになると、サーライナに、
「あなたって子はっ。妹を誑しこんでどうするのっ!」
と、拳骨を落とした。
名前とは面倒なものだと、ケリスエ将軍は常々思っている。
呼び方にも色々と気を使わなくてはならないからだ。若くして今の地位についたケリスエ将軍であるが、部下はほとんど自分より年上である。従って、姓で呼ぶようにしていた。それなりに敬意を示す為である。
が、しかし。
年月と共に、若い世代も増えてくる。今度はケリスエ将軍よりも若い人間が身近に増えてくるとなると、今度はそっちは名前で呼ばなくてはならない。自分よりも若い人間に、将軍が敬意を示してどうする、ということになるからだ。
男社会の序列は面倒である。やはり女性が世界を治めるべきではないのか。
そんなことも思うが、同時に女ばかりが社会を構成してしまうと、とんでもない世界が広がってしまうのも事実だ。ハーレムといった女性だけで構成される社会を見れば、いかに女同士で怖い世界を作りあげるものか、明白ではないか。何事も大切なのはバランス、それに尽きる。
(女が男社会の中で生きるというのは、難儀なことだ)
もしも自分に続く女性兵士や女性騎士といったものが生まれてくるのであれば、その為にはきちんと制度を整えておくべきなのだろうが、きっと自分に続く存在は出てこないだろう。だから仕方ない、ケリスエ将軍はそう思った。
(カロンは男だから、そんなことも思わないで済むだろうが・・・)
女は男に守られているもの。だから女は従順であるべしとされるローム文化で、自分は異端だ。
けれどもそれが弟子には引き継がれないならそれでいいかと、ケリスエ将軍は小さな吐息を漏らした。
「将軍。馬が一頭増えてましたが、お買いになったんですか?」
「お前にやる。好きに名前をつけろ」
「・・・! ありがとうございますっ」
騎士見習いになったカロンが目を輝かせる。それだけを確認して、ケリスエ将軍は踵を返した。
出先で買った、全身が黄褐色の栗毛である。軽く走らせてみたら、思った通り、なかなかの駿馬だった。きっとカロンの体がもっと育っても、悠々と乗せて走ることだろう。
(今度はどんな名前を付けることやら)
今までいた馬の名前を訊かれ、「特に名前はない」と言ったら、カロンはがっかりした顔をしていた。そしてこっそりと名前を付けて呼んでいる。
今回は自分が名前を付けろと命じたのだから、新しい馬を堂々と名前で呼べるだろう。別に自分で名前を付けたいのであればそう言えばいいものを、カロンはどうも内にこもるところがあるらしい。
その辺りの性格を開け放たせようと思い、旅先では便宜上の自分の名前をカロンにつけさせているが、次から次へとよく思いつくものだと思うほどに、カロンは様々な名前を考え出してくる。
(変な趣味があるんだな。・・・名前を付けるのが好きなのか、あいつは)
世の中には様々な趣味の持ち主がいる。蟻の数を数えると心が落ち着く人とか、変わった武器を集めるのが好きな人とか、こっそりと裸になって往来を歩くのが好きな人とか、人形を集めるのが好きな人とか、裁縫が好きな人とか、自分の体を傷つけて苛めるのが好きな人とか、それは様々だ。
カロンの趣味も尊重してやるべきだろう。そして、それが彼の趣味ならば伸ばしてやりたい。
「良かったわね、カロン君。・・・兵士さんから聞いたんだけどね、ケリスエ様、あの馬、牧場まで直接買いに行ったらしいわよ。ふふ、ケリスエ様には兵士さんや私が喋ったなんて内緒よ?」
「え・・・?」
何日か悩み、カロンは馬にジレイエと名付けた。
「お聞きになりました、ケリスエ様? カロン君の国では、ジレイエって南から吹く風のことなんですって」
「へえ。・・・だが、フィオナ。別にあの馬は、南の国で買ってきたわけじゃないんだが」
「何でも、温かい気持ちになるからって南風を意味するその言葉にしたんだそうですよ」
そこでケリスエ将軍は考え込んだ。
(名前をつけるのが趣味なのはいいんだが、カロンの感性はおかしいんじゃないだろうか)
馬に乗ったら風を感じる分、体は冷えるものだ。フィオナから名前の由来を聞いて、ケリスエ将軍は少し養い子のことが心配になった。
しかし、名前のセンスについてどうこう言うこともあるまいと、ケリスエ将軍はそこで自分の意見を腹におさめた。世の中には壊滅的に名前のセンスが崩壊している人間もいるのだ。それに比べれば何ということもあるまい。
時が流れ、結婚の祝いにと、王から名馬が二頭、贈られてきた。
「・・・適当に名前は付けといてくれ」
「たまにはあなたも考えてください。・・・それに、俺達の結婚の祝いにもらったものですよね? じゃあ、あなただって名前を付けてくれてもいいと思うんです」
「私は人の趣味にはとやかく言わない人間のつもりなんだが」
「・・・何ですか、それは?」
カロンは不思議そうな顔になった。
「だって、お前、名前考えるの好きだろ?」
「別に。そんなことありませんが?」
そのカロンの表情に嘘はなく、そこでケリスエ将軍は考え込んだ。もしかしたら、自分は勘違いをしていたかもしれない、と。
「そんな変な理由をつけて、俺に押しつけないでください。どちらかというと、俺はあなたがどんな名前を付けるかの方が知りたいです。大体、あなた、馬になんて、いつも『今日もご機嫌だな、ハニー』とか、『頑張って走ってくれよ、ベィビー』とか、『お前は最高だ、マイ・ドリーム』とか、どこの口説き文句かと思うような呼び方しかしてないじゃないですか。たまには普通に名前を付けてくださいよ」
「・・・・・・それで馬も機嫌よく走るなら、それでいいだろう」
最近、カロンは言わなくちゃ損だと考えたのか、どうも主張してくるようになったと感じるケリスエ将軍である。根暗な奴だと思っていた、少年時代が少し懐かしい。
「馬を口説いてどうするんですか。最初に聞いた時は自分の耳を疑いましたよ、俺は。馬に欲情してるんじゃなければ、普通に名前ぐらい付けてやってください」
自分より大きく育ったのはいいのだが、説教くさいところが爺むさい。
だが、そう言われてみれば、自分も名付ける義務は半分あるのかもしれない。
「分かった。じゃあ、一頭は私が名付ける。お前はもう一つな」
「はい。・・・あなたが名付けた方を俺が乗って、俺が名付けた方をあなたが乗るのでもいいですか?」
「別に私はどっちでもいいが」
普通は自分の馬に自分で名付けるのだと思うのだが、カロンはやはり感性がおかしいのかもしれない。
そう思いながらも、ケリスエ将軍はちょっと考えた。
「じゃあ、リシルで」
カロンがびっくりしたような顔になった。
「何か変だったか? 昔、お前が私に付けた名前の一つだろ?」
「え、ええ・・・。覚えていてくれたんですね」
カロンが嬉しそうに破顔する。何がそんなに嬉しいのやらと、ケリスエ将軍は少し戸惑った。
「じゃあ、こっちの濃褐色は、リシルにしましょう。もう一頭の薄茶色をロイシルに」
「何だ、今回は結構あっさりと名前を決めたんだな」
「ええ。・・・リシルといえばロイシルですから」
どちらの馬も栗毛だったが、色合いは少し異なる。
サーライナが名付けたリシルは、濃褐色に近い栗毛だった。頭の部分には小さな白い環状の毛が二つ生えている。
もう一頭のロイシルは、同じ栗毛でも薄茶色に近い。頭の部分にしずく型の流星と呼ばれる白い毛が生えていた。
「何だ、意味がある名前だったのか?」
「ええ。リシルは月の神様の名前なんです。そうしたら太陽神のロイシルでしょう」
「ふーん。それならそれでいいが」
カロンはリシルと名付けられた褐色の馬に近づくと、その顔を撫でてやった。馬の色はケリスエ将軍の髪と良く似ていて、しかも名前はリシルだ。きっと特別な馬になるだろう。
(月光神リシルは夜空に輝く女神。夫である太陽神ロイシルと、いつでも仲良く両手を繋いでくるくると回っているのだと言われていたが・・・)
リシルに向かってカロンは微笑んだ。
カロンの髪色に似たロイシルに乗る度に、ケリスエ将軍も自分を思い出してくれたら・・・・・・・・・、うん、あり得ないだろう。この人にそんな感傷はない。
けれども、ロイシルとリシルは仲が良い夫婦の神様だと言われている。離れられない絆があるのだ。同じように離れられない絆を、この人と結んでおきたい・・・・・・。
思えば、戦うこの人にとって馬は特別な存在の一つだ。だから、最初の馬もジレイエと名付けた。この人の気持ちがとても嬉しかったから。
いつだって、馬を名付ける時には、ケリスエ将軍を想起させる名前を考えずにはいられない。他の馬も、その時その時のケリスエ将軍の表情や行動を見て、名付けていった。
結婚の祝いに贈られた馬に、決して離れないぐらい仲の良い天上の夫婦神の名前だなんて、最高すぎる。しかも、その一つは彼女が考えたのだ。そう、彼女が。何て幸せなのだろう。
カロンはそんなことを思いながら、ロイシルの頭も撫でてやる。
「そうだ、たしか台所に林檎があった筈です。みんなに持ってきてやりましょうか」
新しい馬が入ったことだしと、前からいた馬達にも林檎をやろうとカロンが振り返ると、ケリスエ将軍は顔を赤くして、片手で口元を押さえていた。小さく、「知るわけないだろう」とか、「先に言え」とか、聞こえた気もするが、何を呟いているのやら。
「ど、どうしたんですっ?」
「・・・何でもないっ」
「何でもないって、・・・真っ赤ですよっ!?」
「うるさいっ」
そのまま屋敷へ入ろうとするケリスエ将軍の腕を掴んで、カロンはその顔を無理矢理に自分へと向かせる。額に手をやれば、特に熱もなさそうだが・・・。
「いいから放せ、カロン」
「ですが・・・」
特に病気というわけでもなさそうだと思うと、今度はこんなにも近づいてしまったのだからと、自分に言い訳してしまう。
「何でそこで人を確保するんだ」
「せめて抱きしめていると言ってください。・・・今でも夢のようなんです。あなたが俺の腕の中にいることが」
誰に憚ることもなく、こうして自分の腕に囲い込むことが出来る日がくるなんて、あの頃では夢にすら見られない夢だった。
「カロンッ」
「お願いです。今だけこうしていてください」
「それなら人の体をあちこち触るんじゃないっ」
「・・・・・・背中ぐらい、いいでしょう」
「良くないっ」
「いや、いいでしょう。背中を触らず、どうやって抱きしめるんですか。誰だってそれは俺に軍配を上げます」
そういった攻防を繰り返して。
カロンは、「お前っ、林檎をやるんじゃなかったのかっ?」と叱られるまで、ケリスエ将軍を抱きしめ続けていた。
ある日のこと。
「お前達、長い付き合いなのに、セイランド殿、ロメス殿、カロン殿って呼び合ってるよな。・・・普通、あそこまでつるんでいたら、呼び捨てにするもんじゃないのか?」
ケリスエ将軍はそうカロンに尋ねた。
「あー・・・。それなんですけど、俺は別に呼び捨てにしてくれていいって言ったんですよ。ただ、ほら、今は俺達ってお互いに似たり寄ったりの立場だからいいんですけど、あいつらってフィゼッチ将軍とエイド将軍が引退したらすぐに将軍になるじゃないですか」
「まあ、そうだな」
カロンはポリポリと鼻の頭を掻いた。
「だけど俺は別に将軍なんてなりたくないし、俺はあなたの傍にだけいたいんですよね。あいつらはそういうわけじゃない。・・・だけど、そうなったら、よりによって近衛騎士団の将軍と、王都騎士団の将軍を、俺が呼び捨てにする関係になってしまうこともあるわけじゃないですか。・・・それはいいことじゃないですから」
「ああ、なるほどな」
今ではなく、やがてくる未来を考えて、最初から呼び捨てはしないことにしたのだとか。
セイランドとロメスも、そのカロンの言い分を聞いて、
「そんなこと、別に気にしなくても・・・」
「別に俺への呼び方一つで部下に侮られるようなことはないつもりだが」
とは言ったものの、カロンが頑として、二人に敬称はつけることをやめなかったので諦めたらしい。そうなると、二人もカロンに敬称をつける。三人の中で、一番侮られやすい立場のカロンの為に。
「それこそ、うちの将軍位なら、お前ならすぐに手に入れられるんだがな」
「欲しくないものをくれても困ります。それにライナ・・・。俺が欲しいのはもう手に入ったから、俺はそれだけでいい。これ以上は望みません」
「・・・お前もたまには違う方向に興味を持って生きてみろ。私にばかり囚われるんじゃない」
だが、カロンは静かに笑って、「出世ばかりが全てじゃないですよ」と、そのまま彼女の額に口づけた。
更に年月が流れた。
「どうした、キヤン?」
「あ、こちらにいらしたんですか。探してたんですよ。今、馬商人達が来てまして、結構、いい馬が揃ってたので、皆に声を掛けてるんです」
「キヤンが良い馬というのなら、なかなかの粒ぞろいだろうな。・・・なら、俺も見に行こう」
カロンは騎士団に馬を扱う商人が来ていると聞き、顔を出した。様々な商人達がそれぞれに自慢の馬を持ち寄ってきている。
「へえ。本当に良い馬が揃ってるな」
「これは、・・・ケイス様。毎度お世話になっております。どうです、こちらにお勧めしたい馬がおりまして」
商人はカロンに気づくや否や、別に区分けしていた馬の所へと連れていく。
見せられた鹿毛は、なかなかだった。カロンはその場でそれを購入し、家に連れて帰った。
「お父さん。馬が増えてる?」
「ああ。新しい馬だ。何ならエルセットが名付けてくれるかい?」
「うんっ」
ロシータに抱きかかえられた小さなエルセットは、帰宅したカロンが新しい馬を繋いでいるのを見て目を丸くした。ルーナは、
「あら、なかなか良さそうな馬ね」
と、興味深そうに眺めたものの、馬にはさほど興味もないからだろう。すぐに、あふっと欠伸した。
「そんなことより、ロシータ、私、お腹が空いたわ」
「屋敷のご主人様であるカロン様がお帰りになったというのに、ルーナ様、少しは奥様らしくなさってくださいましっ」
「別にいいわよ。このヘタ・・・いえ、お父さんも気にしてないわよ。ねー、エルセット?」
そんなエルセットは新しい馬に興味津々で、ルーナの言葉など聞いていない。ロシータの腕から降りると、そのままカロンに近づいて、その足に掴まりながら恐々と馬を見ている。
蹴られたら危ないから、大人のいない時には馬に近づいてはいけないと、口を酸っぱくして皆に言われているからだ。
「急がなくていい。エルセットが素敵な名前を付けてくれるのを待ってるよ」
カロンはエルセットの頭を撫でると、そのまま抱きあげる。
「俺がエルセットをみていよう。ロシータ殿は、食事の用意をしてもらえるかい?」
「本当に申し訳ございません、カロン様。どこまでも恥ずかしいルーナ様で」
「失礼ねっ。私はどこに出しても恥ずかしくないわよっ」
「その認識が一番恥ずかしいことですよっ」
「ま、まあまあ、ロシータ殿。俺は気にしないでくれていいので・・・」
何ならカロンもロシータを手伝ってもいいのだが、それをすると、本気でロシータは恐縮してしまう。
昼間には通いの手伝いも来て、屋敷内のことをしてくれるのだが、夕食はロシータが腕をふるう。
だから夕食は、ロシータの夫や子供達も交えた全員で食卓を囲むのだが、ロシータに言わせると、
「本来、カロン様のお世話はルーナ様がすべきですのに、本当に何も出来ないルーナ様で申し訳ございません。・・・せめてお疲れになって帰ってきたカロン様はお座りになっていてくださいませ」
と、なるのである。
ロシータをこれ以上謝らせない為にも、大人しく待っているカロンだった。
せっかくだからと、エルセットを馬の上にも乗せてやる。
「お父さん。たかーい」
「ああ、そうだな」
ゆっくりとした動きながら、裏庭でエルセットと一緒に馬に乗るカロンに、エルセットは大喜びだ。その騒ぎを聞きつけて、ロシータの子供であるレジータやユールスも外に出てくる。
「カロン様。新しい馬をお買いになったんですって?」
「ああ。レジータもどうだ? 乗ってみるかい? 女の子だから馬は怖いかな?」
「いいんですか、カロン様?」
「勿論だ。ほら、ユールスもおいで」
「はーい」
カロンは馬を下りると、レジータを前にしてユールスと二人で馬に乗せてやった。
「ユールス。ちゃんとお姉ちゃんが落ちないように、後ろで支えてやるんだぞ」
「はい、カロン様」
そして、その手綱を自分も持って歩き始める。エルセットはカロンの肩車だ。
レジータはこの中では一番の年長だが、そろそろ年頃の少女である。日頃、母親のロシータから女の子らしい教育を受けているせいか、たまにこうやってカロンが誘うと本当に嬉しそうだ。ロシータでは、こういうことをさせてもらえないからだろう。
レジータの弟であるユールスは大人しい男の子だ。それでも何かとエルセットが危ないことをしないようにと、普段はお兄ちゃんとしてエルセットの面倒をみている。
「だけど馬は危ないからな。俺がいない時には乗っちゃ駄目だぞ」
三人は笑顔で「はーい」と、良いお返事をする。この素直さは、ルーナに爪の垢でも煎じて飲ませたいところだ。
「カロン様。この馬、何て名前ですか?」
「最初はレジータ、次はユールスに決めてもらったからな。今度はエルセットに決めてもらうつもりなんだ。二人はかっこいい名前をつけてくれたしな」
カロンがそう答えると、レジータとユールスがエルセットを見る。
「ねえ、エルセット。どんな名前にするの?」
「エルセット。名前はつけたら一生ものなんだから、ちゃんと考えなくちゃ駄目なんだよ」
母親であるロシータに倣って、最初はエルセット様と呼んでいた二人だったが、カロンは
「できればエルセットと家族のように仲良くしてやってくれないか? エルセットは一人っ子だろう。やはり二人のようなお姉さんやお兄さんが欲しかったと思うんだ」
と、頼んでいた。その為、二人は実の姉や兄のような感覚で、エルセットに対して振る舞っている。
カロンにしてみれば、ロシータ達はルーナ姫の侍女一家であり、自分に仕えているわけではないという思いもあった。だから二人がエルセットに対して敬意を払う必要もないのだ。
「まだ決めらんないよっ」
エルセットは赤くなってそう叫んだ。
次の日、エルセットは早速、頼りになるトルおじいちゃんの所に出掛けた。
トル・ソチエト元第五部隊長。
エルセットにとっては、少し離れた場所にあるお隣さんだ。
第五部隊長の職を退いてから、「もう大きな屋敷に住む必要はないからな」と、ソチエト元第五部隊長は、カロンの屋敷のすぐ近くの屋敷を購入し、そこに移り住んでいた。
「トルおじいちゃん。かっこいい馬の名前って何なんだろう・・・」
ソチエトの妻が出してくれたお菓子を食べながら、エルセットは、そう悩みを打ち明ける。この際だ、レジータやユールスよりも素晴らしい名前を思いつきたい。
「別に、名前なんてどんなものでも構わないと思うが・・・」
そうは言いつつも、ソチエトも他ならぬエルセットが頼ってきたのは自分だと思えば、なるべく力になってやりたい。
様々な人間が馬につけてきた名前を一つ一つ思い返してはエルセットに挙げてやる。様々な由来のある名前に、エルセットは「トルおじいちゃん、物知りー」と、改めてソチエトを尊敬の目で見上げてくる。
そこで、ふと、ソチエトは思い出して言った。
「そうだ、思い出したぞ。かつてお前のお父さんが初めて持った馬・・・、たしか『ジレイエ』と名付けてなかったか・・・?」
「え? お父さん、馬には自分で名前つけたくないって言ってたよ?」
エルセットは驚いて訊き返した。
カロンは、馬に名前を付けるのは好きじゃないらしく、だから子供達に馬の名前を付けさせてくれるのだ。自分で馬に名前を付けていたことがあっただなんて、それこそ信じられない。
「そうなのか? ・・・まあ、何か心境の変化があったのかもしれんが、昔、そう名付けた馬を可愛がってたぞ、とても」
「へえー。・・・ジレイエ、なんか不思議な名前だね」
エルセットは何度もその名前を口の中で繰り返す。
ソチエトは、かつて騎士見習いからすぐに騎士へとなった男が乗っていた馬を思い出す。カロンは分かっていなかったようだが、あれはかなり良い馬だった。
将軍からの借り物なのだろうと思っていたら、カロン自身に与えられていたものらしいと知って、何ともまあと、思ったものである。自分達も似たような馬は持っていたから、その程度だったが。
カロンに対する嫌がらせはあの頃も色々とあったようだが、さすがにケリスエ将軍のものと思われていたあの馬に、嫌がらせはなかった。
「とても、いい馬だったよ」
「そうなんだ。・・・ありがとうっ、トルおじいちゃん」
ソチエトが教えてくれた馬の様々な名前はとても参考になったが、エルセットは自分の父親が最初に乗っていたという馬の名前が一番心に残った。
けれども、名前は一生ものらしいのでよく考えなくては。
屋敷に戻っても、ご飯を食べていても、エルセットは、うんうんと考え続けた。
そして。
エルセットは、その晩、カロンの所に行って、「あのね、馬ね、ジレイエって名前にしたいの」と言ってみた。椅子に座って何かを見ていたカロンが、大きく目を瞠る。
「エルセット・・・。どこから、その名前を?」
「トルおじいちゃん、だけど?」
「・・・あ、ああ。そうか、なるほど」
カロンは安堵した様子になると、エルセットを手招いた。トトトッと寄っていくと、膝の上にエルセットを乗せて、カロンはエルセットの額にキスした。
「いい名前を教えてもらったな、エルセット」
そして小さなエルセットの肩に、カロンは顔を埋める。かつてあの人からもらった最初の馬の名前。何日も悩んで、そっと自分の心を込めて名付けた懐かしい名前だ。
最初は自分の馬だということが嬉しかった。やがて様々な戦いを経て、色々な人との交流が増え、何かの際にあの馬がかなりの名馬だと教えてもらったのは、とても後のことだ。
ケリスエ将軍は、それこそポイッという感じでくれたものだったから・・・。
「ジレイエというのは、心に温かい風を吹かせる、南風の名前だ。きっとジレイエは他のどんな馬より、速く雄々しく走ることだろう」
カロンは目を閉じた。
最初にあなたがくれた剣。最初にあなたがくれた馬。・・・周囲にどう思われていようとも、あなたはいつも俺に一番良いものをくれていた。
いつだって俺を案じてくれていたのだと、あの不器用な行動が、今になってよく分かる。
エルセットは、自分の肩が濡れているように感じた。
「・・・お父さん。泣いてるの?」
「泣いてないよ」
それでもエルセットは自分の小さな肩に顔を伏せているカロンの頭を撫でた。
「泣かないで。・・・僕がいるよ、お父さん」
「ああ。・・・ああ、そうだな」
いつか、母を亡くした時も嘆く父親に向かって自分は同じように言ったものだった。
―――おらがいるよ、お父。泣かないで、おらがいるよ。
こうして人は繰り返していくのだろうか。少しずつ、その姿を変えながら、それでも同じように・・・。かけがえのない人を亡くしても、小さく弱い存在が慰めることを繰り返し、人は生きていく。
(あなたがいなくなり、俺は馬に名前を付けるのをやめた。けれども・・・・・・)
なのに、自分と彼女との間に産まれたエルセットが、こうして再びその名を馬に付ける。
(ライナ、・・・あなたは、もう、いないのに。この手も、あなたのものじゃないのに・・・)
彼女と同じ色の瞳に、自分の涙を見せたくなくて、カロンは小さな子供をそのまま抱きしめていた。
自分の頭を小さな手が撫でてくるのを、切ない思いで受け止めながら。




