第十一話 祖父の望み
昨晩の出来事など、なにも知らないかのように今日も天気は青空を保っていた。ここ何日かはずっと晴天を保っている。今日も葵は昨日ハンスと会ったベンチに一人座っていた。ここで座っていればまたハンスが現れるのではないかと思っているからだ。
「また、ここにいるのか」
その声はハンスだった。葵の予想は当たりハンスはまたここに現れた。葵はすぐに後ろを振り返るがそこにハンスの姿はない。確かに声が聴こえたと葵はキョロキョロしながらハンスを探す。
「こっちだ」
声は上からした。見るとハンスは木の太い枝に座っている。確かにこの位置なら周りからは葉やら枝やらが邪魔してハンスがここにいることなどはまったく見えはしない。ハンスを見つけるためには木の下まで来て上を見なければ分からない。ハンスも少し人に見つからないための努力をしたようだ。
「あ……ありがとう。昨日は。おかげで楽しい時を過ごせたよ」
葵は見上げながらハンスに向かって言った。ハンスは前を向いたまま葵のほうを見ようとはしない。
「それより、祖父の容態はどうなんだ? あの後どうなった?」
「うん、大丈夫。安定したよ」
「そうか」
葵は再びベンチに座り俯いた。
「もうほんとに、長くはないんだね。おじいちゃん今まであんな風に血を吐いたことなんていままでなかったのに」
葵の目から涙が零れている。葵は今とても辛いだろう。ずっと、大切にしてくれた祖父の死が間近に迫っている。本当にいつ死んでもおかしくはない。そんな状況で葵の心は深く深く堕ちていた。死んでしまえば、もう話すどころか姿すら見ることが出来なくなる。人間はいつかは死ぬものだと分かってはいてもそれが現実となった時本当に辛いものだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「え?」
ハンスの突然の問いに驚き、葵は思わず顔を上げる。目にはまだ大粒の涙が残っている。ハンスはその涙を見て一瞬、動きを停めたがすぐに質問をはじめた。
「おまえは、祖父のことを大切に思っているんだな? 出来ることなら死んでほしくないほどに」
葵は、声で答えることなく頷いた。
「だが、おまえの祖父はもういつ死んでしまってもおかしくはない状態だ。おまえはそんな祖父を見て、叶えられる願いがあるのなら叶えてやりたいと思うか?」
葵は、不思議そうな顔をしながらも再び頷いた。
「そうか。じゃあ、お前は祖父を殺せるか?」
「……え?」
葵はここに来て初めてハンスの質問に対し突発的に声が出た。ハンスの予想外の質問にあまりに驚いたためである。
「どういうこと?」
葵は、ハンスの言葉の真相を確かめるためにハンスに問いただした。
「昨日、おまえの祖父が血を吐いた時、俺には祖父の心の声が聞こえた。お前の祖父が今望んでいるのは出来るだけ長く生きることじゃない。少しでも早く今の苦しみから抜けるために早く死にたいと願っている。だが、ここは病院だ。早く死にたいと願っていてもそれはできない。だから俺に頼んできた。『自分を殺してくれ』と」
ハンスの言葉に葵は言葉を失う。しばらくの沈黙の後、葵の口が動いた。
「あ、あなたも冗談言うのね。でも、言ってもいい冗談と言っちゃ駄目な冗談があるのよ!!」
葵はハンスのほうを睨みつけてハンスに大声で言い放った。ハンスは無表情のままで葵のほうを見ている。
「俺が……冗談を言うと思うか? お前は俺に言ったな人を殺すのはよくないことだと。命を大切にしろと。そして祖父が大切で望みを叶えてやりたいと。だが、祖父が望んでいるのは『死』だ」
葵は思わずベンチから立ち上がりハンスの顔を見ながらゆっくりと後ずさりする。葵の目には再び涙が溢れてきている。
「そんなの信じない。……おじいちゃんがそんなことを思うわけがないじゃない。おじいちゃんだって生きたいと思ってる。だから今も頑張ってるじゃない。やっぱりあなたの能力は信じることができない!」
葵は振り返ると病院のほうに向かって走りだした。手を目のところにやり、泣いていることを覆い隠すように必死で必死で走っていく。ハンスはそんな葵の姿を表情一つ変えずに葵の姿が見えなくなるまでひたすらずっと見ていた。
祖父の命はもう長くはない。末期の癌で手の施しようがなく今はただその時を待つだけの状態。発展した現在の医療のおかげで祖父は長く延命しているだろう。この医療技術がなければもうとっくに死んでいたかもしれない。そんなことは、病院の関係者も、葵の家族も、祖父もそして葵もよく分かっていた。
そして、葵はほんとうは気が付いていた。祖父が望んでいることは生きることではなく死ぬこと。祖父は入院してからずっと苦しんできた。食べ物も受け付けず、歩くことも出来ず寝たきりで床ずれを起こし痛み、腰に負担はかかり呼吸するだけでも機械に頼らなければ満足にすることもできない。そんな苦しみから解放されるためには死しかないと。ただそれでも葵は気持ちの面で、心でそれを認めたくはなかった。
祖父が死を望んでいるなんてことは考えたくもなかった。たとえ気が付いていてもそれを考えないようにすることで気持ちに嘘を覆い被せてでも、祖父に生きていてほしい。それが葵の望みだった。だからずっとそのことには触れないでいた。
葵はただ自分のベッドで布団に蹲って泣くしかできなかった。自分の力ではどうすることも出来ない現実を突きつけられ、その無力さと儚さに涙するしか方法はなかった。
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