第1章閑話①「健矢の2台体制再び」
営業後に店の片付けと些末な用事をいくつか片した後、いつものようにコレクションルームへ向かおうと足を向けた結愛に、コレクションルームにしている建屋の軒先ですれちがった管理AIシオンの澄んだ声がかけられた。
「マスターでしたら、店を閉まった直後に東洞院六角の中嶋さんの店に向かいましたよ。戻るのは夜遅くになると思います。あ、ちょうど今しがた『Vinsere』のレース・プロというタイヤをご購入されたようです……ふむ、なかなかのチョイスですね」
シオンからの報告を聞き、結愛は「じゃあ、また中嶋の大将のところで自転車談義に花を咲かせているんですね」と納得しながら、その日は自身の練習走行や夕飯などの日課をこなし、静かに眠りについた。
そして翌朝――。
いつものように店に顔を出した結愛は、我が目を疑った。店の奥にいつでも漕ぎ出せるよう配置してあるメインマシン、F50の傍らに『ある物』が置かれていたからだ。
最近はすっかりコレクションルームの隅に鎮座していた使用感の目立つ黒いエアロロード――OL RACEが、堂々と鎮座していたのだ。しかも、足元にはコレクション用のハリボテの車輪ではなく、新品の『アールコルセ』のホイールと、昨夜シオンが言っていた『Vinsere』のタイヤがしっかりと履かせられている。
「……えっ? えっ……?」
絶句する結愛の背後から、エプロン姿の健矢がコーヒーの入ったマグカップを片手にひょっこりと現れた。
「おはよーさん、『何故OL RACEがここに!?』って、顔にデカデカと書いてあるぞ」
「そりゃそうですよ!? だってコレ、一昨日までコレクション扱いでしたよね!?」
開店前の朝の食卓を囲みながら、健矢はふっと息をつき、その真相を語り始めた。
「昔はな、このF50とOL RACEを『とっておきのロングライド用』と『普段の実用機』として、AI時代が到来するより前はしっかり乗り分けていたんだ。……だが、お前さんとこの前、機材について話しているうちに思い出してな。
違う特性のバイクを乗り比べること自体が、なかなか効率的なトレーニングになっていたりモチベーションを上げてたってことに気付いたんだよ」
トレーニングの質をさらに充実させるため、もう一度このOL RACEを現役復帰させる――健矢はそう決断したのだという。
しかし、ただ戻すだけでは面白くないとばかりに、彼は納屋の奥で長いこと埃を被っていた貧乏時代に購入したという古い中華カーボンホイールを引っ張り出して機体を中嶋の大将の店へ持ち込んで、入念な振れ取りやハブの調整などを行ってもらっていたのだった。
「健矢さんが、再びビアンコを……本格的に乗り直すんですか?」
「ああ。やっぱりな、自分で実際に跨ってガシガシ踏み倒してこその相棒だろ」
健矢が再びそのイタリアンブランドのバイクを日常の相棒として使い始めると聞いて、結愛の胸のうちはなぜかパッと華やぎ、密かな喜びで弾むのを感じた。
チェレステカラーそのものではなくとも、同じ血統を引く機材を師匠が再び選んでくれたことが、同じ機材を駆るファンとしても弟子としても誇らしく思えたからだ。
「……おい、結愛。なんだかさっきから妙にニヤけてるぞ……?」
じっと顔を覗り込んできた健矢が、不審そうに首を傾げる。
「えっ、別にニヤけてなんかいませんよ!」
「そうか? 別に朝食の米の量がいつもより多いとか、焼き魚の切り身が一段とデカいとか、そういう変なサプライズは無いはずだが……」
相変わらず核心からズレた的外れな指摘をする健矢の姿に、結愛は思わず呆れたような溜息をついた。
『……まったく、そういうところですよ、マスター』
いつの間にかひょっこりとスポーツ新聞を持って現れたシオンが、まるで呆れ果てた執事のようにやれやれといったトーンでツッコミを入れる。しかし、当の健矢の頭の上には、相変わらず大きな『?』マークがふんわりと浮かんでいるだけであった。
弟子の敬慕の念や機材愛には全く気づかないまま、しかしその背中では着実にサイクリストとしての熱い哲学を背負い続ける不器用な師匠。そんな日常のひとコマにクスリと笑いながら、結愛は今日もいつも通り、自分のMIRANO7(ミラノ・セブン)のペダルに足をかけ、新たな朝のトレーニングへと飛び出していくのだった。




