第4話【1台目の中古ロードはどうなったの?】
「……あの、健矢さん」
コレクションルームの片隅に佇む、真っ黒で使い古されたOL RACEのフレームを眺めながら、結愛はふと疑問を口にした。
今の健矢は、こんなにも立派なコレクションルームを構え、数々の高級機材を悠々と眺めて暮らす富豪っぷりを見せつけている。
しかし、愛車選びの際に考慮すべきガレージ事情などについて彼が語る時には、何故か決まってほんの少しだけ表情を曇らせて遠い目をしていることに結愛は気づいていた。
「どうした急に。俺の顔になんかついてんのか?」
「いえ、そうじゃなくて……。以前、このOL RACEが第2希望だったって聞いたじゃないですか。じゃあ、その前に乗っていたっていう『健矢さんの最初の1台』……一番最初の中古ロードバイクは、いったいどうなっちゃったんですか?」
その問いかけに、作業台を整理していた健矢の手がぴたりと止まった。彼はふっと息を吐き出すと、どこか気まずそうに頭を掻き、ぽつりぽつりと過去の記憶を語り始めた。
「……あぁ、アイツのことか。……まあ、このOL RACEを納車してもらったと同時に、泣く泣く廃車にしてもらったよ」
「はいっ!? 廃車、ですか……? そんなにボロボロだったんですか?」
「いや、車体としての性能面....10年物だったが、遅いとか耐久性そのものとか、そういう理由じゃない」
健矢は苦々しい笑みを浮かべ、当時の厳しい現実を振り返る。
「当時はちょうど、リムブレーキからディスクブレーキへとメインストリームが激しく移行していく過渡期でな。あの最初に知人から買った中古ロードはバリバリのリムブレーキ仕様で........
今のメインマシンであるF50や、このOL RACEあたりとはパーツの互換性が微塵もなかったんだよ。規格がすべてが変わっちまったから、将来的に維持する苦労が目に見えていたんだ」
「互換性がないと、パーツが壊れた時とか性能アップを考える時に大変ですもんね……」
「ああ。実際、壊れたり消耗したパーツを『格安の中古パーツで何とか掻き集めて強化修理してやろう』って最初は目論んだんだ。だがな……いざ探してみると、適合する程度のいい旧規格パーツなんて全然なくて........
あっても法外なプレミア価格が!.....とまでいかないまでも、地味に安くはすまなくてな。結局、修理しようと見積もっただけで、予想以上に予算が嵩んで、当時の許容値を軽く超えやがった。」
金銭的な負担だけでも十分すぎる痛手だったが、それが決定打ではなかったと健矢は続ける。
「一番の決定打はそこじゃない。……悩みながら騙し騙し使っているうちにな
.....わからされたんだ。」
「わからされた?」
「ああ、フレーム自体の剛性とバランスが完全に負けちまってた事実にな。俺が出力するペダリングパワーを受けるのが、明らかにフレームにとって......キツそうだった。これ以上無理させたら、そのうち走行中にフレームがバッキリ折れて大怪我をする――そう直感するくらい、剛性が限界を迎えていたのさ」
「フレームの剛性が限界だったんですね……」
「ああそうだ。……それに、何より当時の俺は今みたいに裕福じゃなかった。貧しかったんだよ」
健矢は寂しそうに目を伏せ、コレクションルームの冷たい床を見つめた。
「仮に金があったとしてもだな……当時の西陣の街は、今みたいに大衆がドームにすっぽり収まってゴーストタウン化する前で、人間がごった返していた。狭いアパートの部屋はもちろん、街中にも自分の自転車を安全に保管しておくスペースを確保する目処なんて全くなかった。
だから、それなりに気に入っていたし、愛着もあった最初の1台だったが……思い出と一緒に自宅へ残しておくことすら、物理的に叶わなかったんだよ」
寂しげに述懐する健矢の横顔には、かつての一騎掛け時代の苦難が色濃く残っていた。
「今みたいに、店も開店休業状態じゃなかったし、それなりに客でにぎわってたが、一方で自由にスペースを使えるわけでもなかった上に、カフェ経営なんぞで得られる実入りなんてたかが知れていたからな……ハハ、昔は本当に余裕がなかったもんだ」
力なく笑う健矢の姿に、結愛は胸が締め付けられる思いがした。
いま私たちが享受している穏やかな日常の裏側には、どれほどの涙ぐましい苦労があったのだろうか。潤沢な予算の制約、そして床面積や壁面積といった物理的なスペースの制約――
大衆がドームへ粗方おさまり切った今の時代では想像もつかないような切実な事情やサバイバルの歴史が、この西陣の街の片隅にひっそりと埋もれている。
その歴史の重みを肌で感じ取りながら、結愛は自分の愛機であるMIRANO7(ミラノ・セブン)のハンドルを、これまで以上に大切そうにそっと撫でるのであった。




