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第2話【チェレステに非ず(下)】

「……MIRANO7の中から絞り込むだけでも、朝から夕方までかかりましたからねぇ……」


東洞院六角のサイクルショップ『GIRO』で繰り広げられた、あの膨大な作業量となったフィッティングと機材選定の激闘を思い出したのか、結愛(ゆあ)はどこか遠い目をして呟いた。


整然と工具が並ぶピットの中、健矢(けんや)は作業の手を止めることなく、重々しい声で言葉を継ぐ。


「そうだろう?MIRANO7だけでも選ぶのに苦労しただろう? だがな、OL RACE選ぶ時の俺ん時に味わった苦労はそんな比じゃなかったんだよ」


健矢の視線は、部屋の片隅に静かに佇む真っ黒な一台——BiancoのOL RACEへと向けられていた。


使い込まれても未だに鈍い光を放つそのフレームを見つめながら、脱初心者としてBiancoという巨大なブランドに再び対峙していくであろう結愛の未来を思い描くように、彼は静かに語り始める。


「Bianco乗りの生態ってのはな、ある程度.....決まってるんだ。いっぺんその魅力に取り憑かれた奴は、次も結局Biancoの中から選ぼうとする。お前さんがこれから二台目やカーボン機へとステップアップする時、必ず同じ壁にぶち当たるはずだ」


「同じ壁、ですか……?」


「ああ。お前さんが経験したMIRANO7の選定以上に癖のあるラインナップの中から、まずは『全車種から車種を絞り込む作業』から始めなきゃならんかったからな」


健矢は腕を組み、過去の苦々しくも愛おしい記憶を手繰り寄せた。


「実を言うと……OL RACE(コイツ)は俺にとって第2希望だったんだ。当時の第1希望は、エンデュランスモデルのINF(アイエヌエフ)の旧型だった」


「えっ!? 健矢さんでも第1希望じゃないバイクに乗ることがあるんですか!?」


結愛が驚いて目を丸くすると、健矢は苦々しい表情で鼻を鳴らした。


「仕方ねえだろ。当時の俺は『絶対非チェレステ(黒)』という鉄の意志を持って探していたんだが、非チェレステのINFは思ったより売れていてな......俺の身体に合うフレームサイズの国内在庫が完全に枯渇していたんだよ。型落ちセール品だから、入荷待ちなんて選択肢すらない状況だけに、泣く泣く諦めるしかなかった」


健矢は少しだけ肩の力を抜き、ポツリと本音を漏らした。


「当時のINFはな、CV(カウンターヴェイル)こそ排されたが......型落ちのセールも重なって30万円を切ってたんだよ。あのスペックと快適性、見る角度によっては紫がかった独特のグレーを味わえる上にCVなしでCV搭載した先代の光景に堂々と持ってこれるだけの出来!


なのに型落ちでセール品って条件で30万切りだぞ? 正直、今でもあの時のINFにはちょっとした未練があったりはする」


いつも完璧で合理的な判断を下す健矢の口から出た「未練」という泥臭い言葉に、結愛は少しだけ親近感を覚えた。


「でも……どうして、第2希望のこのOL RACEに決めたんですか?」


「簡単だ。どれだけ見てくれが好みで、どれだけコスパやスペックが良くてもな……『自分の肉体とミリ単位でフィット』しなきゃ、その自転車はただの豪華なガラクタになるからだ」


健矢の目が、サイクリストとしての鋭い光を取り戻す。


「どんなに欲しいモデルがあろうが、サイズが合わなきゃ乗れん。無理な選択を強行すれば、膝だの腰だのが必ず悲鳴を上げる。だからバイク選びってのは、最終的には『今、自分の身体に完璧にフィットする在庫が存在するかどうか』というサイズ感で絞り込むしかないんだよな……」


健矢はそう言って、力なくハハッと笑ってみせた。


「まあ……ロードバイク選びってのは本当に難しい。ショップの敷居を跨いだそのタイミングで、必ずしも100点満点の『最高の選択』ができるわけじゃない。予算、在庫、カラーリング、時代の過渡期……色んな制約の中で妥協や方向転換を強いられるのが普通だ。」


「妥協……ですか」


「ああ。新作ですら1ヶ月で国内在庫が払底することだってある。だがな、結愛」


健矢は黒いOL RACEのサドルをポンと力強く叩いた。


「実際に乗って、風を切って、何百何千キロと路面を共に走り込んでみろ。『あの時は妥協した』と思っていたはずの選択が、自分の脚と馴染み、かけがえのない最高の体験へと塗り替わっていく……それもまた、ロードバイクという乗り物の持つ不思議な魅力なんだよ」


かつて第1希望から溢れ、消去法で選んだはずの真っ黒なエアロロード。しかし健矢が語る言葉の端々には、長年共に過酷な路面を駆け抜けてきた愛機に対する、紛れもない情熱と誇りが溢れていた。


「……最高の選択に、自分で育てていくんですね」


「そういうことだ。だからお前さんも、そのMIRANO7を自分だけの最高の1台に仕立て上げてみせろ」


「はいっ! 健矢さん!」


力強く頷く結愛の返事に満足したように、健矢は小さく頷くと、再びメンテナンス工具を手に取った。旧時代の残滓と呼ばれた黒いロードバイクは、新しい世代のサイクリストを見守るように.......


静かにその佇まいを深めていた。

MIRANO7を選ぶ本編での物語。ゼロから始めるローディーとしての生活のスタートの酸いも甘いも凝縮したパートなのでこちらも是非、お楽しみください!

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