第1話【チェレステに非ず(上)】
MIRANO7(ミラノセブン/ミラノセッテ)が納車されてから数日。ポジションの微調整とメンテナンスの手ほどきを受けるため、結愛は健矢の自宅にあるコレクションルームを訪れていた。
整然と工具が並び、オイルの匂いがかすかに漂う室内。そこには、思わず息をのむほど美しいロードバイクが鎮座していた。
濃紺に黄色のブランドロゴが輝く限定チームカラーのPINARELLIのコンペティションモデルの最上位機種。
『Campa』の芸術的なチェーンリングが特に際立つアンティークなクロモリのDE ROSSIに限定カラーのBianco OLのストイックな最上位機種。
などなどの豪華すぎるラインナップだが、結愛の目を奪ったのはそのどれでもなかった。その華やかな主役の陰――部屋の片隅に静かに佇む一台のロードバイク。
「この黒いBiancoは一体……?」
結愛は問いかける。他の煌びやかなコレクションと比べ、その車体はどこか異質だった。フレーム全体がどこまでも真っ黒で、使い古された独特の使用感が深く刻まれている。
「まだ、大衆がドームにホイホイ吸われて旧市街がゴーストタウンになる前の.......時代の残滓だ。」
健矢は愛機から視線を外すことなく、淡々と答えた。
「機種はOL RACE。かつて、トライアスロン選手なども愛用した使い勝手のいいエアロロードバイクの末弟モデルだ」
無駄をぎりぎりまで削ぎ落とした鋭角的なフレームフォルム。使い込まれたサドルやバーテープの擦れ具合が、このマシンが一筋縄ではいかない激闘をくぐり抜けてきた歴史を物語っている。
「お前さんと一緒に買いに行ってたらコイツは多分チェレステだっただろう。俺だって好きだからな」
健矢は少しだけ目元を緩め、どこか愛おしそうに黒いフレームのトップチューブを撫でた。そして腕を組み、過去の記憶を手繰り寄せるようにポツリ......ポツリ.....と語り始めた。
「コイツを選ぶのにエラい難儀したっけな。あの時は、初心者卒業したって言える段階だったから。」
「健矢さんでも、やっぱり迷うものなんですか?」
「迷うに決まってるだろ。当時の俺は、機材の構造もジオメトリも一通り叩き込んで、自分の走り方が固まりかけていた時期だった。
だからこそ.......余計に深みにハマった。
ただ軽ければいいわけじゃない。ただ硬ければいいわけじゃない。自分の脚質、路面の状態、これから訪れる時代の変化に対応してくれる一機はどれか……とな」
健矢の視線は、どこか遠い昔の路面を見つめるように深くなった。
「世間のニワカどもも、ドームで不毛なレスバに興じる頭でっかちなオタク共も、猫も杓子も『ビアンコ=チェレステ』だ。俺もそうだが、あの鮮やかな天空色に憧れる気持ちも分からんではない。
だがな……街中にチェレステ色のロードバイクを停めてみろ。目立ちすぎて速攻で盗難ドローンの標的になるか、プロの窃盗集団に目をつけられる。」
「えっ……盗難対策、ですか?」
「俺の場合は実用上の防犯対策が一番大きかった。だから選んだのは、『カーボン打ちっぱなしの黒とグレー系』のOL RACEだ。無骨で、光を反射せず、夜の路地に紛れる実力主義のカラーリングだ。どんな服やウエアにも合わせやすいってメリットもあったがな」
健矢はそう語りながらも、突如として苦々しい顔をして鼻を鳴らした。
「だが、誤算もあった。黒は黒でロードバイク全体で人気色だったから、『単なる黒のバイクとして狙われる』というのがBiancoの悩ましいところだと知ったのは契約した後の話でな。
しかも、白系だとチェレステと変わらんくらい目立つし......やはり人気色だった。盗難ドローンや清掃ドローンに見つかりにくい点は助かったが。」
盗難への抵抗としては弱い選択だったと力なく笑いながらオチを明かす健矢。
「だがな、問題はそこからだ。俺がその黒いOL RACEに乗って街を走ったり、ドームに飼い殺されている系のしょうもない機材オタクどもと出くわすと、どいつもこいつもパッと見の印象だけで好き勝手抜かしやがる。
『えー、ビアンコなのにチェレステじゃないんだ?』
『ファッションブランドのバッグでも乗せてるの?』
『ビアンコにしてはストイックすぎません?』
ってな」
「えぇ……っ、そんなこと言われたんですか!?」
「ハッ! 笑わせるな! ビアンコをただのおしゃれ服屋のノベルティ扱いするニワカどもが!」
健矢の口調に一気に熱が帯びる。怒りを思い出したのか、血管が浮き出そうな勢いで手元の工具を握りしめた。
「あのOL RACEがどれだけの空力モンスターか知らんくせに! お値段が手ごろだったからって、バカにして......!
ホビーレーサーにとっちゃぁ充分が過ぎるほど削ぎ落とされた空力フォルム……ペダルを踏み込んだ瞬間に風を切り裂いて加速するあの感覚は断じてファッションなんかじゃねえ!服屋のノベルティとしてつくられたチャチなロードバイクなんかじゃねぇんだ!純粋な『兵器』なんだよ!」
「け、健矢さん落ち着いてください……!」
熱弁を振るう健矢の迫力に、結愛は圧倒されながらも苦笑いして宥めた。
「ぐっ.....お、落ち着いてなどいられるか! 伝統と技術の結晶を『チェレステじゃないから』とかいうアホな理由でナメ腐った奴らに、俺は何度機材の真価について反論.........じゃなかった、懇々と説教し返してやったか……!
街中に溢れるサドル激低・ノーヘル・私服のライト層のせいで変な偏見がつくのも本音を言えば腹立って仕方なかったからな!」
「ふふ……でも、やっぱり健矢さんって、その自転車のことが本当に大好きだったんですね」
結愛は温かい眼差しで、真っ黒なOL RACEと健矢を交互に見つめた。
「ただ目立つ色だからとか流行りだからじゃなくて、そのバイクが持つ本当の凄さも、裏にある技術も全部理解して大事にしていたんですね……。だからこそ、チェレステじゃないこの黒いビアンコにも、健矢さんだけの特別な誇りと愛着が詰まってるんですよね」
「う、うるせえ! 俺はただ機材の適正な評価をしてるだけで……!」
結愛の純粋な言葉に図星を突かれた健矢は、顔を少し赤くしてプイッと横を向いた。
「……まあ、お前さんがそのMIRANO7を選んだのは悪くない。お前さんとイズミが楽しそうにお揃いのチェレステで揃えて走るのも、トータルコーディネートとしては間違いじゃないし、これも自転車の立派な楽しみ方だからな」
「えっ、健矢さん.......今、私達のこと褒めてくれました!?」
「……言ってねえよ! さっさとポジションチェック始めるぞ、足上げろ!」
照れ隠しのように怒鳴る健矢の背中を見ながら、結愛はくすりと微笑んだ。部屋の片隅に佇む真っ黒なエアロロードは、契約したその日から主人が込め続けた情熱を褪せさせることなく、今も静かに鈍い光を放ち続けていた。
物語の時系列としては、本編における結愛の愛車選び編が終わったep76(https://ncode.syosetu.com/n8969mn/76)の後日から開始する日常編となります!ロードバイクをこれから始めるビギナーさんは本編の愛車選び編も是非、お楽しみください!ショップについてから用品の多さに当惑するより予算面も時間面もゆとりをもって行う意味と意義についても、きっと参考になると思いますので!(深夜までかかる描写はかなり盛ってますがw)




