番外編『古時計の進む針』シリーズ
『雨宿りと古時計』
番外編:振り子のかみあわせ
「11時16分」を指したまま止まっていた古時計の針は、あの日から止まることなくチクタクと音を刻み続けている。
……のだが。
「マスター、あの……コーヒー豆の袋、それ『深煎りブレンド』じゃなくて『浅煎りモカ』です……」
「えっ……あ、あぁ! ごめんごめん、手が滑っちゃって」
あからさまにうろたえながら、豆の袋を棚に戻そうとした時任薫は、あろうことか足をもつれさせてカウンターの端に腰を強打した。痛みに耐えて「だいじょうぶ、平気だから……」と情けない声を上げる35歳。
葵は呆れ半分、愛しさ半分で小さく溜息をついた。
自分の「本当の気持ち」を認め、過去ではなく今の葵に向き合うと決めた薫。
——そこまでは非常にかっこよかったのだが、いざ「恋人(未満?)」という距離感になると、彼の「大人の余裕」は跡形もなく吹き飛んでいた。
今まで完璧だった手際が嘘のように、葵の視線を感じるだけでドリップの手が震え、目が合えば妙にぎこちない敬語になり、距離を詰めようとしては不自然に一歩下がる。
(……かっこいい大人のマスター、どこ行ったの……?)
葵はカウンター越しに薫の顔をのぞき込んだ。
「薫さん。もしかして、私と話すの……緊張してます?」
「き、緊張!? 僕が? まさか……ハハ、僕はもう30半ばの大人だよ? 20歳の葵ちゃん相手に緊張なんて……するわけ……」
早口で言い訳を並べ立てながら、薫は冷えた氷水を一気に飲み干した。
その耳の先が真っ赤になっているのを、葵は見逃さなかった。
(もう……もどかしいなぁ!)
「私、もっと薫さんと手が触れたり、名前を呼ばれたりしたいのに」と心の中で叫びつつ、葵は「じゃあ、放課後のデート、楽しみにしてますね」と小悪魔的に微笑んで見せた。薫はコップを持ったまま固まり、情けない声で「う、うん……!」とうなずくのが精一杯だった。
「ねえねえ、見た〜〜!? 今のマスターの挙動不審っぷり! 挙動不審グランプリ優勝よ!」
昼下がりのリビングで、近藤凛子が缶ビールを片手に腹を抱えて爆笑していた。
「凛子さん、声が大きいです……」
葵が赤面しながらポテトチップスをつまむと、隣でお惣菜屋のたまきが温かいお茶を差し出しながら目尻を下げた。
「でもねぇ葵ちゃん、薫くんがあんなに分かりやすく狼狽えてるの、奥さんがご存命だった若い頃以来よ。大人のフリしてカッコつけてた分、反動がすごいのねぇ」
「カッコつかない大人も、乙なものさ」
どこからともなく現れた神保が、意味深に頷きながら葵の部屋の壁(の穴)を指さす。
「昨日も深夜、彼の部屋から『葵ちゃん……いや、葵……いや、呼び捨ては馴々しいか……』とブツブツ呟く声が壁を通じて聞こえてきてね。実に甘甘たる苦悩だよ」
「神保さん、盗み聞きしないでください!」
葵は叫びつつも、胸の奥がキュンと甘く痛むのを止められなかった。
薫は薫なりに、不器用すぎるほど不器用に、自分との距離感を必死に測ろうとしてくれているのだ。
「葵ちゃん、いい? 男なんてね、ちょっと強引に引っ張っていかないとダメなの!」
凛子が身を乗り出して葵の肩を掴む。
「『マスター、手繋いでくれないと歩きません!』くらい言っちゃいなさい! あの奥手オジサンにはそれくらいがちょうどいいのよ!」
「ええっ、そんなの私だって恥ずかしいです……っ!」
住人たちの温かい(そして容赦のない)からかいに包まれながら、葵は「よし、今日のデートで一歩前進してやる!」と拳を握りしめた。
夕方、大学の講義を終えた葵が駅前の改札を出ると、見慣れた人影が立っていた。
ゼミの同級生・佐々木陸だ。
いつもの軽快な雰囲気はなく、少し緊張した面持ちで葵の前に立ちはだかる。
「陸? どうしたの、こんなところで」
「……葵。お前さ、やっぱりあのマスターと上手くいってんのか?」
直球の質問に、葵は少しだけ戸惑いながらも、まっすぐに陸の目を見返した。
「うん。……すごく不器用だけど、ちゃんと向き合ってくれてるよ」
陸は悔しそうに視線を泳がせ、それから大きく息を吐いた。
「……知ってるよ。お前が店に戻った日、すげえ顔で笑ってただろ。……でもさ」
陸は葵の肩を掴み、真剣な瞳で覗き込んできた。
「俺、まだ諦めてねえから」
「陸……?」
「あのマスター、歳の差もあるし、過去の重みもあるだろ。もしアイツがお前をまた不安にさせたり、泣かせたりしたら……俺は容赦なくお前を連れ去るからな。同世代で、お前とこれから同じ未来を見られるのは俺なんだから」
まっすぐで、偽りのない情熱。
陸なりの不器用な「宣戦布告」だった。
葵は陸の腕をそっと外し、申し訳なさと感謝を込めて微笑んだ。
「ありがとう、陸。でも……私、あの人の『止まってた時間』を一緒に歩くって決めたから。泣かされても、私が叩き起こすから大丈夫」
「……ちぇっ。ホント頑固だな、お前は」
陸は頭をガシガシと掻き、苦笑いを浮かべた。
「じゃあな。泣きつかれても遅いからな!」
自転車で走り去っていく陸の背中を見送りながら、葵はふうと息をついた。自分は本当に、たくさんの優しさに囲まれているのだと実感する。
「……葵ちゃん」
後ろから、少し低く、焦ったような声が聞こえた。
振り返ると、約束の場所より少し離れた街灯の横に、時任薫が立っていた。
私服のジャケット姿。どこか息を切らせており、陸と葵が話している姿を遠目から見ていたのは明らかだった。
「薫さん! 早かったんですね」
「うん……ちょっと早めに着いちゃって。……あの、さっきの君と同世代の彼……」
薫の瞳には、隠しきれない小さな嫉妬と、大人ゆえの「若さへの気後れ」が混ざり合っていた。
「……やっぱり、彼といる時の方が、君は年相応の顔をしてるね。僕といると、君に背伸びばかりさせてしまってるんじゃないかって……」
まただ。
薫はすぐに、大人の理屈で自分を引こうとしてしまう。
葵は溜息をつくと、凛子の助言を思い出し、思い切って一歩を踏み出した。
「薫さん」
「え?」
葵は薫の大きな手に、自分の小さな手を重ね、キュッと強く握りしめた。
「……っ! あ、葵ちゃん!?」
薫が弾かれたように動揺し、赤面する。
「陸には言われました。『また泣かされたら連れ去る』って。……でも私、断りました。だって、私が一緒にいたいのは、こんな風にすぐ自信をなくして、手も繋いでくれない不器用なマスターなんですもん」
「あ……」
葵は薫の目をまっすぐに見つめ、上目遣いで訴えた。
「背伸びなんかしてません。私、薫さんと恋がしたいんです。……だから、手、振りほどかないでください」
夕暮れの街角。
薫は絶句したまま、握られた自分と彼女の手を見つめていた。
そして、ゆっくりと……本当にゆっくりと、彼の大きな指が葵の指に絡みつき、しっかりと握り返してきた。
「……振りほどくわけ、ないだろう」
薫の声は少し震えていたけれど、そこにはもう逃げ腰な大人の顔はなかった。
「ごめんね……頼りなくて。でも……君を誰かに渡す気なんて、最初からないよ」
そう言って、薫は照れくさそうに、けれど今までで一番暖かく、甘い笑顔を浮かべた。
「行こうか、葵」
「……! はい、薫さん!」
『ちゃん』のつかない、まっすぐな自分の名前。
握りしめられた手の温もりを感じながら、ふたりは落ち葉の舞う公園へと歩き出した。
遠くの路地裏では、きっと今夜も『古時計』がカチカチと心地よい音を立て、住人たちがニヤニヤしながらふたりの帰りを待っているのだろう。
進み始めた針は、もう誰にも止められない。




