番外編2:甘い珈琲と呼び捨ての壁
恋人同士になった。
——はずである。
「雨宮さん、お冷やの補充お願いできるかな」
「……はい、ただいま」
午前11時、開店直後の『古時計』のカウンター。
葵はグラスに氷をカランと浮かべながら、密かに小さく溜息をついた。
「雨宮さん」。
仕事中なのだから公私混同を避けるのは当然だし、大人として正しい対応なのは重々分かっている。分かってはいるのだが——
(昨日の夜、二人きりの時は『葵』って呼んでくれたのに……!)
昨夜、営業が終わった後の静かな店内で、照れくさそうに「……葵」と呟いてくれたあの低くて優しい声。あの瞬間の胸のときめきを思い出すたび、今の「雨宮さん」というビジネスライクな響きが、なんだか寂しく思えてしまうのだった。
「……あの、薫さん」
カウンター越しに、葵は少し背伸びをして小声で囁いた。
「なに? 葵ちゃ……あ、雨宮さん」
「……誰もいない時は、『葵』って呼んでくれてもいいんですよ? 二人だけの秘密みたいで、その方が嬉しいですし」
上目遣いで訴えると、薫は手にしていた珈琲カップを危うく落としそうになった。
彼はあからさまに動揺し、視線を右へ左へと泳がせる。
「つ、不意打ちはいけないよ……! 僕だって努力はしているんだ。でも、長年のクセというか、君を呼び捨てにするなんて馴々しいんじゃないかという理性が……」
「私、薫さんの彼女ですよ? 馴々しくていいんです!」
「ぐっ……そ、それはそうなんだけどね……!」
35歳のマスターは、20歳になろうかというバイトちゃんに攻め立てられ、カウンターの陰で耳まで真っ赤にして悶絶していた。
「なになに〜? カウンターの裏で何甘い空気醸し出してんのよ〜?」
カランコロンとベルが鳴り、案の定、一番来ちゃいけない時間帯に凛子がやってきた。スウェット姿で欠伸をしながら、カウンターの特等席にドカッと腰掛ける。
「凛子さん、おはようございます。今日も早いですね」
「ちょっとバイトちゃん、顔が『邪魔が入った』って顔してるわよ! で、マスターは何をそんなにタコみたいに赤くなってるわけ?」
「な、なんでもないよ! ほら、凛子さん、いつものモーニングでしょ!」
薫は慌ててトースターにパンを叩き込んだが、凛子の鋭い観察眼をごまかせるはずもなかった。
「ふ〜ん……察したわ。マスター、あんたまだ人前で『葵』って呼べてないでしょ」
「っ……!」
薫の手がピタリと止まる。
「図星ね。情けないわねぇ、付き合って何日経つのよ? たかだか名前を呼び捨てにするくらいで何をもごもごしてんの。ほら、言ってみなさいよ。『葵』って!」
「り、凛子さん、煽らないでください! これには大人の事情と心の準備というものが——」
「準備なんて要らないの! 男なら一発でバシッと呼び捨てにしなさい!」
そこへ、どこからともなく神保がひょっこり現れ、新聞を広げながらトーストの横に滑り込んだ。
「神保の豆知識だがね。名前を呼び捨てにできない男性は、夜の進展も遅いというデータがある。薫くん、このままでは君たちの『針』は再び止まってしまうぞ」
「神保さんまで何言ってるんですか! 一体どこのデータですかそれ!?」
「たまきさんも言ってたわよ〜。『薫くんは奥手だから、葵ちゃんがリードしてあげないと結婚まで10年かかるわね』って!」
「10年!?」
住人たちの容赦ない集中砲火に、薫はついにキャパシティをオーバーした。
彼はダスターをぎゅっと握りしめ、覚悟を決めたように目をカッと見開いた。
「わ、分かったよ! 言えばいいんだろう、言えば!」
葵は胸を躍らせ、期待の眼差しで薫を見つめた。
凛子と神保も、ニヤニヤしながら成り行きを見守る。
薫は大きく深呼吸をし、葵の目をまっすぐに見つめた。顔は真っ赤で、鼻頭にうっすら汗までかいている。
「あ……あ……っ」
「はい!」
「……あ、あお、あお、あおひちゃん!!」
「噛んだーーーーーっ!?」
店内に凛子の爆笑が轟いた。
「あおひちゃんって誰よ!」「新しいキャラ出てきたわね!」と腹を抱えて転げる凛子。神保も満足そうに深く頷いている。
薫はカウンターに崩れ落ち、「もうダメだ……僕は大人の尊厳を失った……」と頭を抱えて突っ伏してしまった。
昼下がり、嵐のような住人たちが去り、店内には束の間の静寂が訪れていた。
カウンターの端で、まだショックから立ち直れずにいじけている薫に、葵は淹れたての温かい紅茶をそっと差し出した。
「薫さん、どうぞ。お疲れ様でした」
「……ありがとう、あまみ……葵ちゃん。僕って、本当にかっこ悪いよね」
薫は情けなさそうに眉を下げ、カップを両手で包み込んだ。
「みんなの言う通りだよ。歳の差を気にして、大人ぶって……たかが名前を呼ぶだけでこんなに苦戦するなんてさ。葵ちゃんに呆れられても仕方ない」
葵はくすっと笑い、薫の隣の丸椅子にちょこんと腰掛けた。
「呆れてなんていませんよ。むしろ……すごく愛おしいです」
「え?」
葵は自分の手を伸ばし、薫のジャケットの袖口をキュッと引っ張った。
「薫さんがこんなにパニックになるくらい、私との関係を真剣に考えてくれてるんだなって分かりますから。『あおひちゃん』も、すごく可愛かったですし」
「うぐ……それは言わないで……」
「ふふ。でもね、薫さん」
葵は少し顔を近づけ、悪戯っぽく微笑んだ。
「人前で無理に『葵』って呼ばなくてもいいです。その代わり……」
葵は薫の耳元に口を寄せ、小さな声で囁いた。
「夜、お店が閉まって二人きりになったら……絶対に『葵』って呼んでくださいね。……一回呼んでくれるごとに、私、ひとつ薫さんのお願いを聞いてあげますから」
「っっっ!?」
薫の顔が、本日一番の赤さに染まり上がった。
20歳の少女が見せた、思わせぶりで小悪魔的なアプローチ。35歳のマスターは息を飲み、絶句したまま葵を見つめるのが精一杯だった。
「……約束、ですからね?」
葵は満足そうに微笑むと、パッと立ち上がってエプロンを整えた。
「さ、マスター! 後半の営業も頑張りましょう!」
「……あ、ああ。……うん」
手元を不自然にギコギコと動かしながら、サイフォンに火をつける薫。
その背中は、相変わらず不器用で、けれどどこまでも愛おしかった。
カチ、カチ、カチ……。
壁の古時計は、二人のかみ合わない、けれど愛おしい歩幅をあざ笑うかのように、今日も楽しげに時を刻み続けていた。
(番外編3へつづく)




