番外編3:ジェラシーは深煎りの香りで
その日の『古時計』に漂っていたのは、いつもの香ばしく甘い珈琲の香り……ではなく、焦げつくような苦みを含んだ、なんとも不穏な空気だった。
「……マスター、これ本当にブレンド?」
カウンター席で一口呑んだ凛子が、思わず顔をしかめてカップを置いた。
「なにこれ、苦っ! 舌が痺れるわよ! 今日なんか悪いものでも食べたの?」
「……いえ、いつも通りの深煎りですが」
カウンターの奥でサイフォンを片手につけた薫は、一切の笑顔なく、冷ややかな声で答えた。その眼差しは、いつもなら丁寧に手入れされているガラス器ではなく、カウンターの端に置かれた「大学のレジュメ」に向けられている。
葵は冷や冷やしながら、お冷やのグラスを磨いていた。
(薫さん……めちゃくちゃ機嫌悪い……)
理由は明確だった。
今日の夕方、葵はゼミのグループ課題のため、同級生の陸と二人で大学の図書館で勉強することになっていたのだ。
昨日の夜、葵が「明日の夕方、陸と課題をやってから帰りますね」と報告した際、薫は大人らしく「うん、しっかり勉強しておいで」と優しく微笑んでくれた。
——はずだったのだが。
「マスター、素直になりなさいよ」
凛子がニヤニヤしながら、手元のカップを突く。
「『葵ちゃんが男友達と二人きりで勉強するのが嫌だ』って、顔に『嫉妬』って書いてあるわよ? だからこんな毒薬みたいな激苦コーヒー淹れてるんでしょ」
「凛子さん、滅茶苦茶なことを言わないでください。これは豆の焙煎度合いを……少し試しているだけで……」
「言い訳が苦しい〜! 35歳にもなって20歳の男の子にジェラシーとか、可愛すぎてお腹痛いんだけど!」
「っ……! 僕は嫉妬なんてしていません! 葵ちゃんにも大学生活という大切な時間があるんですから、それを尊重するのは当然の『大人の対応』です!」
フンと背を向けてドリッパーを洗い始める薫。
だが、その力加減が強すぎて、スポンジがキュッキュと悲鳴を上げていた。
「おーい、葵! こっちこっち!」
夕方17時、大学の図書館。
陸が手を振りながら、資料を広げたテーブル席を指さした。
「陸、お待たせ! 資料まとめるの、手伝うね」
葵がノートパソコンを開き、二人で黙々と課題に向き合い始めて1時間ほどが経った頃。
陸がふと手を止め、ペンをくるくると回しながら葵の顔を覗き込んできた。
「……なぁ、葵」
「ん? なに?」
「お前、さっきからチラチラ時計見すぎ。そんなに早く帰りたいのかよ」
「えっ! あ……ごめん、そんなつもりじゃ……」
葵は慌てて手元のノートに目を落とした。
(だって……薫さん、絶対無理して『大丈夫』って言ってたし……)
「ハぁ……分かりやすすぎ。あのマスターのこと考えてんだろ」
陸は呆れたように息を吐き、椅子に深く背をもたれかけた。
「アイツさ、お前が俺と二人で勉強するって言った時、なんて言ったわけ?」
「『勉強がんばってね』って、笑顔で送り出してくれたけど……」
「ハッ、ダサ。そこは『他の男と二人きりは嫌だ』って引き止める場面だろ。大人の余裕ぶっちゃってさ。お前、ホントにそんなスカしたオジサンで満足してんの?」
「スカしてなんか……!」
葵が言い返そうとした、その時。
「——スカしてはいませんが、少し心配にはなりましたので」
落ち着いた、けれど少しだけ低い声が頭上から降ってきた。
「……え!?」
葵が弾かれたように見上げると、そこにはトレンチコートを羽織った時任薫が立っていた。
手には、少し潰れた洋菓子の紙袋。
「か、薫さん!? どうしてここに……!?」
「お店の買い出しのついでだよ。近くまで来たから……その、差入れでも持っていこうかと思って」
明らかに買い出しルートからは外れている。
薫は少し気まずそうに目を逸らしながらも、しっかりと葵の隣の席(陸の真向かい)に腰を下ろした。
図書館の静けさの中、陸と薫の視線がバチバチと交差する。
「……どうも、マスター。わざわざ監視ですか?」
陸が挑発的に唇を端を上げると、薫はどこまでも穏やかな、けれど一切目を笑わせない「完璧な大人の笑顔」で返した。
「監視だなんてとんでもない。葵ちゃんがいつもお世話になっているお礼だよ。佐々木くん、シュークリームは好きかな?」
「……好きですけど。俺、葵に言ったんですよ。もしあんたが葵を不安にさせたり泣かせたりしたら、いつでも奪いにいくって」
陸のまっすぐな宣戦布告。
葵はヒヤヒヤしながら二人を見比べる。
薫は差し入れの袋を優しくテーブルに置くと、少しだけ瞳の奥の光を強めた。
「……ありがとう。君が彼女を大切に思ってくれているのは伝わるよ。でもね」
薫はゆっくりと立ち上がり、葵の肩にそっと手を置いた。その手には、いつもより少し強い力が込められていた。
「葵ちゃんを泣かせるつもりも、誰かに渡すつもりも……僕には一微塵もないんだ。君の気持ちには感謝するけれど、心配は無用だよ」
「……っ」
陸が言葉を詰まらせる。
大人の余裕を装いつつも、決して譲らないという強い独占欲。
「じゃあ葵ちゃん、課題が終わったら一緒に帰ろうか。夕飯、君の好きなハンバーグを作って待ってるから」
薫はそう言うと、葵の頭を優しく撫でた。
大学からの帰り道。
秋の涼しい夜風が吹き抜ける商店街を、ふたりは並んで歩いていた。
薫は相変わらず無言で、少し固い表情のまま歩を進めている。
「……薫さん」
「ん?」
葵は隣を歩く薫のコートの袖を、ギュッと引っ張って足を止めた。
「……嫉妬、してくれたんですか?」
薫の手がピタリと止まる。彼は慌てて明後日の方向を向き、咳払いをした。
「し、嫉妬なんて……僕はただ、差入れを——」
「嘘つき」
葵は薫の前に回り込み、上目遣いで彼の顔を覗き込んだ。
「今日の珈琲、すごく苦かったって凛子さんが言ってました。それに……図書館に来た時、薫さん、すごくかっこよかったです」
「……っ」
「大人の対応なんてしなくていいです。『他の男と二人で会うな』って、怒ってくれた方が嬉しいのに」
葵が不満そうに唇を尖らせると、薫は観念したように大きな溜息をついた。
そして、葵の頬をそっと両手で包み込んだ。
「……本当は、嫌でたまらなかったよ」
薫の低い声が、夜の静寂に溶け込む。
「君が他の若い男の子と笑い合っているのを見るだけで……胸が焼けるように痛かった。自分がいかに不格好で、情けない男かを思い知らされたよ」
「薫さん……」
「……次は、絶対に二人きりで行かせないからね」
少しだけ拗ねたような、けれど強い愛おしさがこもった言葉。
薫は葵の額に、静かに自分の額をこつんと重ねた。
「……約束だよ、葵」
(……あ! 呼び捨て……!)
二人きりの夜の街で、ごく自然に呼ばれた自分の名前。
葵の顔が一瞬で赤く染まる。
薫はそれに気づくと、ハッとして真っ赤になりながら手を開いた。
「あ、ごめん……! 今のは、その……っ!」
「ふふっ、言えましたね! 『葵』って!」
「う、うるさいな……! ほら、早く帰るよ! ハンバーグが冷めちゃうから!」
照れ隠しに早歩きで先を行く薫の背中。
葵はその大きな背中を追いかけながら、ぎゅっと彼の手を握りしめた。
『古時計』の壁で刻まれる針の音は、今夜もどこまでも甘く、二人を包み込んでいた。
(番外編4へつづく)




