(最終話):針はふたたび時を刻む
雨上がりの夕暮れ。
橙色の柔らかい光が、濡れたアスファルトと『古時計』の看板を鮮やかに照らし出していた。
店の前で抱き合ったまま、静かに涙を流すふたり。
薫の腕の力強さと、伝わってくる確かな体温に、葵は胸がいっぱいになっていた。
「……葵ちゃん」
薫がゆっくりと腕を緩め、葵の肩を両手で包み込んだ。
濡れた前髪の間から覗く彼の瞳は、もう逃げていなかった。迷いも、過去の影を追うような遠い目もそこにはない。まっすぐに、目の前にいる葵の瞳だけを見つめていた。
「風邪、ひいちゃうね。中に入ろう」
「……はい」
店内に入ると、カウンターの奥からカチ、カチ……と、聞き慣れない規則正しい音が聞こえていた。
葵がハッとして壁を見上げる。
10年間、「11時15分」で針を止めていた大きなネジ式の古時計。
その振り子が静かに左右へ揺れ、長針がゆっくりと「11時16分」へと進もうとしていた。
「これ……」
「僕が……さっき、ネジを巻いたんだ」
薫は愛おしそうに古時計を見上げ、それから葵へと視線を戻した。
「10年前、あいつが亡くなった時に、僕は自分の人生の時計も止めたつもりでいた。過去の中に閉じこもっていれば、もう誰も失わずに済む。誰も傷つけずに済むって、そう思って逃げていたんだ」
薫は静かに歩み寄り、葵の手を優しく、包み込むように握りしめた。
「でも……君が現れてくれた。僕の頑なな壁を叩いて、泣いて、まっすぐに僕を連れ戻そうとしてくれた。……君の温もりが、僕の止まっていた時計のネジを、もう一度巻いてくれたんだよ」
葵の目から、またぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちた。
「身代わりなんかじゃない。君は……今の、僕の目の前にいてくれる『雨宮葵』だ」
「薫さん……っ」
「歳の差もある。頼りないマスターだし、過去を完全に消し去ることはできないかもしれない。……それでも、君の隣で、新しい時間を歩んでもいいかな」
「……当たり前です……! ずっと、ずっと……そうしてほしかったんです……!」
葵は薫の胸に飛び込んだ。薫は優しく微笑み、愛おしそうに葵の頭を撫でた。
「ちょっと〜! いつまでふたりで甘い空気出してるのよ〜! 寒気がしてきちゃったわ!」
階段の上から、茶化すような声が響いた。
振り返ると、手すりから身を乗り出した凛子が、缶ハイボールを片手にニヤニヤと笑っていた。
「凛子さん……見てたんですか!?」
「当たり前じゃない! シェアハウスの住人総出で、高みの見物よ!」
見上げれば、凛子の後ろからたまきがハンカチで目を拭いながら「よかったわねぇ、本当に……」と感動しており、その奥から神保が「いやあ、実に素晴らしい映画のラストシーンのようだ。ところで私の部屋の壁の穴だが……」とひょっこり顔を出していた。
「みんな……」
薫は気まずそうに苦笑いしながら、葵の手をギュッと握り直した。
「みんな、心配かけてごめんね。それと……ありがとう」
「フン、マスターが素直になれたんだから、今夜は盛大にお祝いパーティーね! たまきさん、唐揚げ揚げまくりましょう!」
「任せなさい! 今夜は朝まで宴会よ〜!」
賑やかな歓声が、小さな喫茶店の中に響き渡る。
もうそこには、重苦しい静寂も、冷たい拒絶も存在しなかった。
数ヶ月後。
澄み渡る秋晴れの朝。『古時計』のカウンターには、今日も芳醇な珈琲の香りが漂っていた。
「マスター、いつものモカ・ジャバひとつ!」
「はい、ただいま」
エプロン姿の葵が、慣れた手つきでオーダーを受け、笑顔で店内を駆け回る。
カウンターの奥では、薫がサイフォンを静かに見つめながら、温かい眼差しで葵の背中を見守っていた。
ふと、葵はカウンター奥のガラス棚に目をやった。
そこには今も、あの一冊の古びた文庫本が置かれている。
けれど、もうそれは二人を隔てる「呪い」ではなかった。薫が歩んできた愛おしい人生の1ページとして、そこに静かに佇んでいるだけだ。
「葵ちゃん」
薫が優しく声をかけてくる。
「何ですか、薫さん?」
「今日さ、バイトが終わったら……少し散歩に行かないか? 近くに新しい公園ができたみたいなんだ」
「え……それって、デートですか?」
葵が少し悪戯っぽく微笑むと、薫は照れくさそうに目元を掻いた。
「……うん。デート。ダメかな?」
「ううん! すっごく嬉しいです!」
満面の笑みを浮かべる葵に、薫も柔らかく目を細めた。
カチ、カチ、カチ……。
カウンターの壁では、古時計の針が力強く、未来に向かって時を刻み続けている。
雨宿りは、もう終わり。
止まっていたふたりの時間は、ここから、どこまでも続いていく。
(完)




