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第5話:雨の終わる場所


視界がゆっくりと開けていく。

見慣れない白い天井。微かに漂う洗剤の匂い。

「……あ、葵! 気づいたか!?」

体を起こそうとすると、枕元から焦ったような声がした。

パイプ椅子から身を乗り出してきたのは、ゼミの同級生・陸だった。

「陸……? ここ……」

「駅前の俺のアパートだよ。お前、雨の中で倒れそうになってさ。熱測ったら38度以上あって焦ったんだぞ。スポーツドリンクと粥買ってきたから、ちょっと待ってろ」

陸は甲斐甲斐しくキッチンへ向かう。

葵は自分の手を見つめた。着せられたTシャツの袖口から、微かに陸の柔軟剤の匂いがする。

(私……逃げ出したんだ)

あんなにも酷い言葉で、時任薫の過去を、傷口をこじ開けて。

「身代わりでもいいから私を見て」なんて、自分の寂しさを押し付けただけだった。

彼が10年間、どれほどの罪悪感と絶望をあのアパートと喫茶店に閉じ込めて生きてきたかも知らずに。

『頼むから、もう僕に関わらないでくれ』

あの絶望に満ちた声を思い出すたび、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛む。

「ほら、食えそうか?」

陸が温かいお粥の鉢を運んできてくれた。

ベッドの端に腰掛け、心配そうに葵の顔を覗き込む。

「……ありがと、陸。迷惑かけて、ごめんね」

「迷惑なんて思ってねえよ。ただ……お前があんな顔して泣いてんの、初めて見たからさ」

陸は言葉を切り、葵の目をまっすぐに見つめた。

「あの喫茶店のマスターだろ。……お前、あの人のこと好きなのか?」

葵は返事ができなかった。ただ、ぎゅっと布団を握りしめる。

「お前がどこで誰と暮らそうと自由だけどさ……あんなボロボロになるまで追い詰められる場所、もう戻んなくていいんじゃないか? うまく言えないけど……俺なら、お前にそんな思いさせないよ」

陸の声は、まっすぐで、優しかった。

同世代の、等身大の温もり。彼と一緒にいれば、きっと傷つくこともなく、穏やかで普通の幸せを歩めるのだと思う。

でも——

葵の脳裏に浮かぶのは、薄暗い『古時計』のカウンターで、たった一人で止まった時計を見上げていた、あの人の背中だった。


その頃、『古時計』の共有リビングは、重苦しい静寂に包まれていた。

「……マスター、本当に探さなくていいの?」

凛子が、珍しく酒も飲まずにソファで腕を組んでいた。

たまきも心配そうに外の雨を見つめ、神保も静かに煙草の煙を燻らせている。

薫はカウンターの奥で、無言でグラスを磨いていた。

その手はかすかに震え、顔色は蒼白だった。

「……いいんだ。僕が、ひどいことを言ったから。彼女はきっと、もう戻らない」

「バカねぇ」

凛子の低く冷ややかな声が落ちた。

「マスター、あんた本当にズルいわ。そうやって『俺は過去に囚われたかわいそうな男です』って顔して、あの子を傷つけて追い払って……それで満足なの?」

「凛子さん、やめなさい」

たまきが制しようとしたが、凛子は立ち上がり、薫に歩み寄った。

「あのね、マスター。あの子はね、あんたの死んだ奥さんの『身代わり』にされそうだから怒ってたんじゃないのよ! あんたが、今の雨宮葵(あの子)をちゃんと見てくれないから泣いてたの!」

薫の動作が、ピタリと止まる。

「あの子はね、あんたの過去も、傷も、全部引き受けようとしてたのよ! 未熟で、不器用で、一生懸命背伸びして……あんたの止まった時間を動かそうとしてたの! なのにあんたは、自分の傷を守るために、また逃げるの!?」

凛子の言葉が、一語一語、薫の胸を強く突き刺す。

『私を見てよ……! 葵さんじゃなく、今の、ここにいる私を……っ!』

昨夜の、葵の泣き叫ぶ声が脳裏に蘇る。

(僕は……逃げていただけなのか?)

葵が亡き妻に似ているから苦しかったのではない。

まっすぐに自分を求め、ぶつかってくる「今の彼女」の眩しさに耐えかねて、自分の臆病さを「過去への嫉妬」という言葉ですり替えて、彼女を遠ざけようとしたのだ。

『君は、あいつじゃない』

あの一言で、彼女の存在そのものを否定してしまった。

どれほど残酷な言葉で、彼女を傷つけてしまったのか。

薫は手にしていたグラスを置き、ゆっくりと崩れ落ちるようにカウンターに両手をついた。

「……僕は、なんてことを……」


雨が、少しずつ弱まり始めていた。

陸のアパートで少し熱が下がった葵は、身支度を整えて立ち上がった。

「行くのか?」

陸がドアの前で尋ねる。引き止めるような、諦めたような目だった。

「うん。……荷物、引き取りに行かなきゃいけないし。それに……ちゃんと、謝らなきゃいけないから」

「……お前さ、ホントに頑固だな」

陸は苦笑し、葵の頭をポンと叩いた。

「行けよ。でも、また泣かされたら速攻で電話してこい。飛んでくから」

「……うん。ありがと、陸」

ドアを開けると、雨上がりの湿った風が頬を撫でた。

葵はゆっくりと、歩き出した。

あの路地裏へ。古びた木造の看板がある、あの場所へ。

もう「私を愛して」なんて高望みはしない。

ただ、彼の傷を無神経に抉ってしまったことを謝り、そして——ちゃんと、お別れを言おう。

商店街のアーケードを抜け、路地を曲がる。

『古時計』の前にたどり着いた時、葵の足が止まった。

店のドアが開いていた。

雨上がりの店先で、傘もささずに立っていたのは——時任薫だった。

ずぶ濡れの髪、しわくちゃのシャツ。

いつもの完璧で穏やかなマスターの面影はどこにもなく、彼は今にも倒れそうなほど憔悴した顔で、路地の先を見つめていた。

「……あ」

葵の口から、小さな声が漏れた。

薫がハッと息をのみ、葵を見つけた。

彼の瞳に、激しい光が宿る。

「……葵ちゃん……!」

薫が、走り出した。

大人の余裕も、綺麗な足取りも捨てて、なりふり構わず葵に向かって駆けてくる。

「え……時任さ——」

言い終わるより早く、葵の身体は強い力で抱きしめられていた。

「っ……!」

香ばしい珈琲の匂いと、雨の匂い。

薫の細い腕が、折れそうなほど強く葵を抱きしめている。彼の身体が、激しく震えていた。

「……ごめん……ごめんね、葵ちゃん……!」

葵の耳元で、彼の押し殺した声が弾けた。

「僕が間違っていた……! 僕は……君が恐ろしかったんだ。君のまっすぐな瞳が……君と一緒にいると、僕の止まっていた時間が動き出してしまうのが、怖かったんだ……!」

「時任、さん……」

「君を傷つけた……! 『あいつじゃない』なんて、ひどいことを言った……! でも、違うんだ……僕は、君を見ていたんだよ……! 雨宮葵(君)が、愛おしくて……たまらなかったんだ……っ!」

薫の温かい涙が、葵の首筋にぽたりと落ちた。

葵の目から、溢れ出していた涙が止まらなくなる。

身代わりなんかじゃなかった。

残像なんかじゃなかった。

彼は、不器用に、怯えながらも——「今の私」を見ていてくれたのだ。

葵は震える手を伸ばし、彼の濡れた背中を、ぎゅっと抱き返した。

「……薫さん……っ」

初めて口にした、彼の名前。

雨は上がり、雲の隙間から柔らかな夕陽が差し込み始めていた。

ふたりを包み込む光の中で、止まっていた何かが、静かに、けれど確かに溶け出していく。

店舗の奥、カウンターの壁で。

10年間動かなかった古時計の針が、チクタクと、小さな音を立てて動き始めていた。

(第6話:最終話へつづく)


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