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第4話:止まった針の音



「カランコロン」と、激しく鳴ったベルの音。

息を切らし、肩を上下させながら店内に飛び込んだ葵を、カウンターの奥から薫が驚いたように見つめた。

「葵ちゃん……? どうしたの、そんなに急いで」

薫の手には、先ほど買い込んできた食材が握られている。

店内には香ばしいコーヒーの香りと、夕暮れ特有の薄暗い静寂が満ちていた。

葵は言葉を出せなかった。

ただ激しく上下する胸を押さえ、まっすぐに薫を見つめる。

(何を言えばいいの?)

(「私を見て」? 「あの人じゃなくて、私を」って? そんなの……私の身勝手な我が儘じゃないか)

沈黙が二人の間に落ちる。

カチ、カチ……。

聞こえないはずの、カウンターの奥にあるあの止まった古時計の音が、またしても葵の頭の中で鳴り響く気がした。

「……友達と、何かあったの?」

薫が静かに尋ねてくる。その声には、どこまでも控えめで、一定の距離を保とうとする優しさがあった。それが今の葵には、何よりも冷たく感じられた。

「……違います」

葵は振り絞るように声を絞り出した。

「陸とは……ただの友達です。別に、何もありません」

「……そう。なら、よかった」

薫はフッと目を細め、安心したように微笑んだ。

「若いんだから、もっと外で遊んでおいで。ここみたいな古臭い店にずっと縛られてる必要はないんだからさ」

その言葉が、葵の胸の奥でぷつりと何かが切れる音を立てた。


「……どうして」

「え?」

「どうしてそうやって、他人事みたいに言うんですか!」

葵の叫びに、薫の体が硬直した。

「若いから? 友達と遊んでこい? ……時任さんは、そうやって私を遠ざけたいだけじゃないですか! 私がここにいたら、都合が悪いから!」

「葵ちゃん、何を——」

「知ってます! 凛子さんから聞きました!」

言い捨ててから、葵はハッと息をのんだ。けれど、もう言葉は止まらない。溜め込んできた感情が、堤防を壊した濁流のように溢れ出していく。

「亡くなった奥さんの名前……『雨宮 葵』さんだって。顔も、私とそっくりなんだって……!」

薫の顔から、一瞬にして色が失われた。

いつもの穏やかな笑みも、柔らかい眼差しも消え去り、そこには凍りついたような拒絶の表情だけが残された。

「……凛子さんが、そんなことを」

「私……ずっと疑問だったんです。時任さんが時々、すごく切ない顔で私を見つめる理由。どうしてこんなに優しくしてくれるのか」

葵は一歩、カウンターに近づいた。

「時任さんに見えていたのは、私じゃない。10年前に亡くなった、奥さんだったんですね」

薫は何も答えない。ただ、固く唇を結び、床の一点を見つめている。その拳が、小さく震えていた。

「私の名前を呼ぶとき、誰を思い出してるんですか? 私が作った朝ごはんを食べながら、誰の味を探してるんですか!?」

「やめなさい、葵ちゃん」

低く、押し殺したような薫の声。

だが、葵は止まれなかった。止まってしまったら、自分が完全に「透明」になって消えてしまいそうだったから。

「私を見てよ……! 葵さんじゃなくて、今の、ここにいる私を……っ!」


「——やめるんだ!!」

鋭い怒声が、狭い店内に響き渡った。

葵は弾かれたように言葉を失った。

薫が、今まで見せたこともないような激しい感情を瞳に宿し、葵を睨みつけていた。

「君に……君に何がわかるんだ……!」

薫の肩が激しく上下する。その瞳には怒りと、それ以上の深い苦悩が滲んでいた。

「似ているから優しくした? 違う……! 逆だ!」

「え……?」

「君が葵に似ているから……あいつと同じ名前で、同じ顔をしているから、僕は……苦しくてたまらないんだよ!」

薫は頭を抱えるようにして、カウンターに突いて立ち尽くした。

「店に置いておきたくなんてなかった! 視界に入るたびに、あの日死んだ葵の姿が……冷たくなっていったあいつの顔がフラッシュバックする! 君を見るたびに、僕は自分の罪を思い出されるんだ!」

「罪……?」

「僕があの日、あいつを引き止めなかったから……僕のせいで葵は死んだんだ!」

薫の声が絞り出される。10年間、彼がこの古びた店の中で、たった一人で抱え続けてきた黒い塊。

「君を見るたび、胸が引き裂かれそうになる……! なのに、君はまっすぐな目で僕を見る。僕を求める! それがどれだけ残酷なことか、君にわかるか!?」

薫の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。

「……君は、あいつじゃない。そんなこと、僕が一番よくわかってる。だから……頼むから、もう僕に関わらないでくれ」

痛切な拒絶。

それは、葵の心を木端微塵に砕くには十分すぎる言葉だった。


「……ごめんなさい」

葵の口から、かすかな声が漏れた。

自分がどれほど愚かで、身勝手だったかを知った。

「私を見て」という言葉が、どれほど薫の傷口を抉り、追い詰めていたのかを。

自分の存在そのものが、彼にとって拷問だったのだ。

「……ごめんなさい。私……知らなかった……」

ポロポロと、涙が溢れて止まらない。

視界が歪み、薫の顔がよく見えなくなった。

「すぐ……出ていきます。今まで、お世話になりました」

葵は深々と頭を下げると、振り返って店のドアへ走った。

「葵ちゃん!」

後ろで薫が呼ぶ声が聞こえた気がした。だが、もう振り返ることはできなかった。

外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。

土砂降りの雨の中へと、葵は飛び出した。

冷たい雨粒が全身を叩きつける。

涙なのか、雨水なのかわからないものが、顔中を濡らしていった。

(バカだな、私……)

すれ違う人々に奇妙な目で見られながら、葵は街を走り続けた。

どこへ行けばいいのかも分からず、ただ、あの愛おしくて、残酷な場所から遠くへ逃げたかった。

(行き場なんて、最初からなかったのに)

傘もささずに雨の中に立ち尽くし、葵は膝から崩れ落ちた。

その時——頭上から雨が当たらなくなった。

「……葵?」

聞き覚えのある声。見上げると、そこにはビニール傘を差し出し、目を見開いて立っている陸の姿があった。

「お前……なんでそんな濡れて……何があったんだよ!?」

陸の温かい手に腕を掴まれ、葵の視界は真っ白に染まっていった。

(第5話へつづく)


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