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第3話:透明なわたし


第3話:透明なわたし


雨音で目が覚めた。

昨夜、凛子さんから告げられた真実が、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。

——亡くなった奥さんの名前、『雨宮 葵』さんって言ったのよ。

——顔もね、びっくりするくらい、そっくりなのよ。

鏡の前に立ち、自分の顔を覗き込む。

寝癖のついた前髪、少し腫れた目元。ごく普通の、どこにでもいる20歳の女子大学生。

(この顔も……この名前も……)

今まで自分のものだと思って疑わなかったすべてが、急に借り物のように思えてくる。

時任薫が昨日、私を見つめていたあの瞳。

あれは私を見ていたんじゃない。私という「輪郭」を通して、10年前に途切れてしまった「彼女」を見ていたんだ。

「……ハは、笑っちゃうな」

自嘲気味に呟いた声が、狭い部屋に虚しく響いた。

胸が痛い。

出会ってまだ数日。好きだなんて口にするのもおこがましいくらいの短い時間。

なのに、どうしてこんなにも息ができないくらい苦しいんだろう。

——私は、ただの残像だ。

エプロンの紐を結ぶ手が、重く冷たかった。


「おはようございます、時任さん」

階下に降り、努めて明るい声を出す。

カウンターの奥で仕込みをしていた薫が振り返り、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。

「おはよう、バ……」

薫は一瞬口を噤み、それから気まずそうに目を逸らした。

「……おはよう。昨日は大声を出してごめんね。驚かせちゃったでしょう」

「いえ、私の方こそすみませんでした。大事なものだったんですね」

「……うん」

薫はそれ以上何も言わず、ドリップポットに手を伸ばした。

沈黙が流れる。

カチ、カチ、と……聞こえるはずのない古時計の秒針の音が、頭の中で鳴っている気がした。

「あの、時任さん」

「ん?」

「今日の開店前の賄い……私に作らせてもらえませんか? 実家から仕送りで野菜がたくさん届いて」

「え? ああ、うれしいな。助かるよ」

薫が少し驚いたように目を丸くする。

葵はキッチンに入り、包丁を握った。

(私は、あの人じゃない。生きている、今の私だ)

必死に自分に言い聞かせる。

亡き妻の面影ではなく、目の前にいる「雨宮葵」という人間を知ってほしい。

葵は実家直伝の、少し甘めの玉子焼きと、具だくさんの味噌汁を作り始めた。亡き妻がどんな料理を作っていたのかは知らない。だからこそ、自分の「家の味」を作った。

「できました。どうぞ」

カウンターに並べられた朝食。

薫は「いただきます」と手を合わせ、箸を伸ばした。玉子焼きを一口口に運ぶ。

葵は息をのんで、彼の反応を見つめた。

薫の動きが、ふっと止まった。

彼は咀嚼しながら、どこか遠くを見るような、迷子のような目をした。

「……美味しいよ。すごく、優しい味だ」

薫は微笑んだ。けれど、その笑顔はどこか寂しげで、切なかった。

「彼女はね」

ぽつりと、薫が呟いた。頼んでもいないのに、彼の口から「彼女」の話題が出たのは初めてだった。

「……料理がすごく上手でね。出汁の引き方にすごくこだわりがある人だったんだ。玉子焼きも、甘いのじゃなくて、しょっぱい関西風が好きでさ」

「……そう、ですか」

葵の指先が冷たくなっていく。

薫に悪気はないのだと分かっている。

ただ、目の前の料理を食べながら、彼の脳裏には「別の誰かの味」が再生されている。

私がどれだけ新しい時間を差し出しても、彼はそれをすべて「過去との答え合わせ」に変換してしまう。

私の存在そのものが、彼にとって過去を呼び覚ますトリガーでしかないのだという現実が、容赦なく突きつけられていた。

「ごちそうさま。すごく美味しかったよ」

薫は静かに器を下げた。

葵は、残った味噌汁を喉に押し込んだ。味が、まったくしなかった。


昼過ぎ、大学の講義を終えた葵は、足重く商店街を歩いていた。

(帰るのが、こわいな……)

『古時計』は居心地がいい。住人たちも優しい。

けれど、あの店にいる限り、私は「透明な存在」だ。

時任薫の目に映っているのは、私であって、私ではない。

「おい、葵!」

後ろから声をかけられ、振り返る。

同じゼミの同級生・佐々木(ささき) 陸(りく)が、自転車を押しながら追いかけてきていた。

「陸? どうしたの」

「どうしたの、じゃないよ。ゼミのレジュメ、机に忘れてただろ。届けてやろうと思って」

陸はそう言って、紙の束を差し出した。

大企業への就職が決まっている要領の良い男で、葵とは1年からの友人だ。何かと葵の面倒を見たがる節がある。

「あ……ありがとう! 助かった……」

「お前さ、最近なんか顔色悪くない? 下宿先変えたんだろ? ちゃんと食べてんの?」

「食べてるよ。ちょっとバイトが忙しいだけ」

「ふーん……。あ、そうだ。今から駅前のカフェ行かない? お礼にコーヒー奢ってよ」

陸は気安く葵の肩を叩く。

同世代の、まっすぐな視線。

隠し事も、過去の影もない、等身大の言葉。

一瞬、胸がふっと軽くなるのを感じた。

彼と話している時だけは、私は誰の身代わりでもない、ただの「雨宮葵」でいられる。

「……うん。行こうかな」

「よっしゃ! じゃあ乗れよ、後ろ」

陸が自転車の荷台を叩く。葵が笑って乗り込もうとした——その時。

「葵ちゃん?」

聞き覚えのある、低く落ち着いた声が響いた。

振り返ると、買い出しの大きな紙袋を抱えた時任薫が、少し離れた歩道に立っていた。

「……あ」

薫の視線が、葵と、その隣にいる陸へと注がれる。

薫の表情は、いつもの穏やかなマスターの顔だった。けれど、その瞳の奥には、わずかな動揺と——どこか冷ややかな「諦め」のような色が浮かんでいた。


「知り合い?」

陸が怪訝そうに薫を見る。

「あ……うん。バイト先の、マスター」

葵は慌てて陸から離れ、薫の元へ駆け寄った。

「時任さん、買い出しですか? 手伝います!」

「ありがとう。でも大丈夫だよ、そんなに重くないから」

薫はすっと紙袋を抱え直し、葵から一歩距離を取った。

そして、後ろに立つ陸に向かって、丁寧にお辞儀をした。

「お友達かな? 仲が良くて羨ましいな。大学生活、楽しんでね」

その言葉は、どこまでも「親切な大人」のものだった。

そこには嫉妬も、焦りも、独占欲もなかった。

ただ、「若い君たちには、君たちの時間がある」と、線引きをするような残酷な優しさだけがあった。

「じゃあ、僕は店に戻るから。ゆっくりしてきてね」

薫はそれだけ言うと、一度も振り返らずに歩き去っていった。

その背中を見送りながら、葵は拳を強く握りしめた。

爪が掌に食い込む。

痛かった。けれど、胸の痛みの方がずっと強かった。

(どうして……どうしてそんな顔をするの?)

「踏み込んでくるな」と拒絶するくせに。

他の男と一緒にいるところを見ても、平気な顔で微笑むくせに。

どうしてあの人は、あんなに寂しそうな背中で歩いていくのだろう。

「葵? 大丈夫か?」

陸が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「……陸、ごめん」

「え?」

「カフェ、また今度でもいい? 私……帰らなきゃ」

「え、あ、おい! 葵!?」

陸の制止する声を背に、葵は走り出した。

夕暮れの商店街を、夢中で駆け抜けた。

追いかけても、届かない。

どれだけ手を伸ばしても、彼の心は10年前の雨の中に置き去りにされたままだ。

でも——それでも。

(身代わりでもいい。残像でもいい)

(私を見てよ……薫さん……!)

息を切らしながら、『古時計』のドアを強く押し開けた。

真鍮のベルが、激しく、切なく鳴り響いた。

(第4話へつづく)


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