第2話:氷解しない距離
『古時計』でのバイト初日は、朝6時の目覚まし時計の音から始まった。
「よーし……やるぞ!」
頬を両手で叩き、葵は鏡の前でエプロンの紐をぎゅっと結んだ。
大学の講義は午後から。それまでの午前中が彼女の担当シフトだ。
階下に降りると、店内にはすでに深煎り珈琲の芳醇な香りが充満していた。
カウンターの奥では、時任薫が静かにサイフォンを見つめている。朝日が大きな窓から差し込み、彼の横顔を柔らかく照らしていた。
昨夜、暗闇の中で見たあの絶望的な背中が嘘のように、今の彼は穏やかな「マスター」の顔をしている。
「おはようございます、時任さん!」
「あ、おはよう、葵ちゃ……ううん、バイトちゃん」
言いかけて、彼は咄嗟に言葉を飲み込んだ。
一瞬だけ彼の眉根が寄ったのを、葵は見逃さなかった。
(やっぱり……『葵』って呼ぼうとして、やめた……?)
「あの、時任さん。私、名前で呼んでもらって大丈夫ですよ。『雨宮』でも『葵』でも」
葵が努めて明るく言うと、薫はサイフォンから目を離さず、困ったような微笑みを浮かべた。
「いや……僕、人の名前を覚えるのが苦手でね。それに『バイトちゃん』って呼ぶほうが、なんだかアットホームでいいかなと思ってさ」
あからさまな嘘だった。
昨日の履歴書を見た時のあの取り乱し方、そして名前を呼ぶことを頑なに避ける仕草。
けれど、それ以上追及できる空気ではなかった。薫の笑顔の裏には、目に見えない分厚いガラスの壁が存在していた。
「……わかりました。じゃあ、まずは何をすればいいですか?」
「うん。まずはテーブルの拭き掃除と、お冷やの準備からお願いできるかな」
「はい!」
壁の古時計は、相変わらず11時15分を指したまま動いていない。
その針に見守られるようにして、葵の『古時計』での日常が動き出した。
午前8時を過ぎると、店にはパラパラと常連客が訪れ始めた。
商店街の店主たちや、近所の老夫婦。葵は持ち前の元気さと笑顔で接客をこなし、すぐに常連客たちの心を掴んでいった。
「マスター、新しいバイトちゃん、愛想が良くて最高じゃない!」
「本当ねぇ、どこかの愛想ないカフェとは大違いだわ」
「はは、ありがとうございます。彼女、本当に筋がいいんですよ」
カウンター越しに客と楽しそうに話す薫の姿は、完璧な接客業のプロだった。
だが、葵は気づいていた。
薫が葵に指示を出すとき、決して彼女の「目」を直接見ようとしないことに。
いつも視線を少し落とすか、手元の作業をしながら声をかけてくるのだ。
(私、何か嫌われるようなことしたのかな……)
接客の合間、グラスを拭きながら葵の胸に小さなモヤモヤが募っていく。
その時、カランコロンとドアのベルが鳴り、派手な足音が響いた。
「ハ〜イ! 朝の栄養補給に来たわよ〜!」
ボサボサの髪にサングラス、ダボッとしたスウェット姿で現れたのは、2階の住人・近藤凛子だった。
「凛子さん、おはようございます。って……もう呑んでるんですか!?」
葵が驚くと、凛子は手に持った缶ハイボールを掲げてヘラヘラと笑った。
「失礼ねぇ、これは『めざましハイボール』よ! マスター、いつものモーニングセットと、アイスコーヒー!」
「はいはい。凛子さん、朝から呑むなら奥の席にしてね。他のお客様の目があるから」
薫は苦笑しながら、慣れた手つきで厚切りトーストを焼き始める。
凛子は大げさに溜息をつきながらカウンター席に深々と腰掛け、葵をじっと見つめた。
「ねえ、バイトちゃん。マスターの淹れるコーヒー、もう飲んだ?」
「え? あ、いえ、まだです」
「損してるわよ〜。この人の淹れるモカ・ジャバは絶品なんだから。まあ、昔はもっと『甘い理由』で淹れてたんだけどねぇ」
「え……甘い理由?」
葵が首をかしげた瞬間——
カチャン!
トーストを載せようとした薫の手元が狂い、皿とフォークが大きな音を立てた。
「あ……すみません、手が滑って」
薫の声が、かすかに裏返っていた。顔を上げると、彼の目は泳ぎ、明らかに狼狽している。
「凛子さん。……余計なこと言わないで、早く奥の席に行ってよ」
その声には、いつもの穏やかさを削ぎ落とした、冷たい拒絶の響きがあった。
店内の空気が一瞬で凍りつく。
「……ちぇっ、冗談じゃない。わかったわよ」
凛子もさすがに言い過ぎたと察したのか、肩をすくめて奥のソファー席へと移動していった。
葵は、手に持っていたダスターを握りしめた。
(いまの……何? モカ・ジャバ……?)
薫は無言でトーストを焼き直し、何事もなかったかのように作業に戻った。
だが、その背中は頑なに「それ以上踏み込んでくるな」と拒絶しているように見えた。
大学の講義を終え、夕方18時。
葵が再び『古時計』に戻ると、店はすでに閉店の準備に入っていた。
「あ、バイトちゃん。お帰り。大学はお疲れ様」
薫は何事もなかったかのように、優しい笑顔で葵を迎えた。昼間の冷たい空気は綺麗に消え去っている。
「ただいま戻りました。……あの、片付け、手伝います」
「ありがとう。じゃあ、カウンターの裏の棚の掃除をお願いできるかな」
葵は頷き、カウンターの中へ入った。
拭き掃除をしながら、葵の視線はカウンター奥のガラス棚に吸い寄せられた。
そこには、アンティークのカップやコーヒー豆の瓶に交じって、一冊の文庫本がぽつんと置かれていた。
古びたブックカバーがかかったその本には、あるページに「布製の綺麗な栞」が挟まれている。
(これ……本?)
何気なく、葵がその本に手を伸ばそうとした——その時。
「触らないで!!」
鋭い叫び声が響いた。
葵はビクッと体を硬直させ、伸ばした手を止めた。
振り返ると、薫が目を見開き、青ざめた顔で葵を見つめていた。
その手には、強く握りしめられたダスターがあった。
「あ……ご、ごめんなさい……! 私、ただ棚の掃除を……」
葵の声が震える。
薫はハッと息を呑み、自分が声を荒らげたことに気づいたようだった。彼は力なく目元を押さえ、深く、深く溜息をついた。
「……ごめん。大声を出して、ごめんね」
「いえ……私の方こそ、勝手に触ろうとして……」
「……その本はね」
薫はぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
彼はゆっくりと歩み寄り、ガラス棚の文庫本を愛おしそうに見つめた。
「大事な……人の、忘れ物なんだ。僕が、勝手に動かしちゃいけないものなんだよ」
その言葉には、途方もない悲しみと、決して癒えることのない悔恨が滲んでいた。
「大事な人」。
それが誰なのか、葵には訊くことができなかった。訊いてはいけないような気がした。
「……今日はもう上がっていいよ。疲れたでしょう」
薫は葵を見ようとせず、静かに背を向けた。
自分の部屋に戻った葵は、ベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
(大事な人の、忘れ物……)
胸が苦しい。
怒られたからじゃない。彼が隠している「過去」の深さと、そこに漂う圧倒的な孤独に、胸が潰されそうだった。
「私……何やってるんだろう」
昼間、凛子が言っていた「甘い理由」。
あの一冊の本と、挟まれたままの栞。
そして、決して自分の名前を呼ぼうとしない、時任薫。
ドアがノックされ、ひょっこりと顔を出したのは、昼間の凛子だった。
手には缶ビールを2本持っている。
「……バイトちゃん。入っていい?」
「凛子さん……はい」
凛子は部屋に入ると、ベッドの端に腰掛け、葵に缶ビールを差し出した。葵が「未成年じゃないですけど、お酒はちょっと……」と断ると、凛子は申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね、昼間は。私が余計なこと言ったから、マスターに怒られちゃったでしょ」
「いえ……大丈夫です。でも……」
葵は意を決して、凛子の目を見つめた。
「凛子さん。時任さんには……何か、過去にあるんですか? あの本とか、モカ・ジャバとか……」
凛子は困ったようにビールを一口飲み、ふうと息を吐いた。
「……マスターから聞くべきことだし、私から詳しくはおせっかいになっちゃうんだけどさ」
凛子は静かに葵を見つめ、少し切なそうな目を向けた。
「マスターにはね、昔……ものすごく愛していた奥さんがいたのよ」
「……奥さん?」
「うん。でもね、10年前……病気で亡くなっちゃったの。この店をオープンさせる直前にね」
葵の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
「あの人はね、あの日からずっと、奥さんの思い出の中で生きてるの。自分の時間も、お店の時間も……あの止まった古時計みたいに、全部止めたままでね」
凛子はビール缶を弄びながら、静かに続けた。
「……そしてね、バイトちゃん。その亡くなった奥さんの名前……」
「え……?」
「『葵』さんって言ったのよ。……雨宮葵さん」
頭の中のパーツが、一瞬でガタガタと音を立てて繋がっていく。
面接の時、履歴書を見て凍りついた薫の顔。
名前を呼ばず「バイトちゃん」と呼び続ける理由。
自分を見る目を、頑なに逸らそうとする理由。
(時任さんの……亡くなった奥さん……)
(雨宮……葵……)
「顔もね……あの人が若い頃の写真と、君……びっくりするくらい、そっくりなのよ」
凛子の言葉が、遠くで響く。
葵は自分の手を、震える手でギュッと握りしめた。
自分が選ばれた理由。
時任薫が、自分に向けていたあの「絶望」と「愛おしさ」が混ざった瞳の意味。
——私は、ただの「死んだ奥さんの身代わり」として、ここにいるんだ。
窓の外では、また静かに雨が降り始めていた。
冷たい雨音が、葵の胸の奥に、どこまでも重く降り積もっていった。
(第3話へつづく)




