第八話 真実は完璧な夫婦の始まり
「――つまり、旦那様は遅まきの初恋とやらに振り回され、わたくしから逃げたと。そうおっしゃるのですね?」
「……」
「わたくしと迎える初夜に怖気づき、離れることで平静を保とうとなさった、と」
「……」
「さらには、あなた様に執着しているミラ殿下からの圧力がわたくしに向かわぬよう、宿舎に泊まり込んで接点を断ち、その間に一人でどうにかしようとなされた――その結果が、今……と」
「……繰り返さないでくれ、頼む」
フィデルはアルーラの言葉に力なく頷きつつも、自身が行ってきた所業を彼女の口から繰り返されるたび、どんどんと羞恥と後悔に体を丸め、声も小さくなっていく。
酒の勢いもあったのか、フィデルが赤裸々に語った内容は、アルーラにとっても衝撃的なものだった。
彼なりの気遣いと優しさ、そして彼を取り巻く状況が、結果としてこうなってしまったのだということは理解できた。
だが、それにしてもあまりにも不器用すぎる――そう思いながら、アルーラはフィデルを見つめ、心の内でため息を吐く。
婚姻にあたって交わされた誓約書は、ごく一般的な条項ばかりであった。
ミラのことについても、その時には何も聞かされていなかった。だからこそ、婚姻後にミラとの噂が耳に入った時には、やるせない気持ちになったものだ。
あれほど縁談先にこだわるオルティス伯爵家が、こうも突然縁談を決めたことに疑問を抱くべきだったのに――と、アルーラは今さらながら、当主である母を追及しなかったことを後悔する。
学園に在籍していた頃も、学びにばかり意識を向けていたせいで、外の話題に目を向けてこなかったことも、アルーラ自身の落ち度だ。
だからといって、まだ未熟なアルーラがすべてを見通せるはずもない。
一方的に大人たちに振り回されたことへの、悔しさと怒りが滲む。
先ほど見たミラの様子を思い起こせば、従兄妹という立場を免罪符のように振りかざし、フィデルを自分の物のように扱おうとしていたことは明らかだった。
あの憎悪と嫉妬に塗れた眼には、アルーラも覚えがある。
それは、アルーラに懸想している男性を想う女性たちから向けられてきた視線と、まったく同じものだった。
権力のある人物が、そんな歪な感情を誰かにぶつけるとなれば、生半可な立場の者を彼の妻として迎えることはできない。
だが、オルティス伯爵家は、王家からも認められた特別な家。
確かに、彼の隣に据えるにはちょうどいい人材だったことだろう。
しかし、男性として完成された見た目でありながら、情緒や機微に乏しく、突然やって来た遅まきの初恋に心を乱されて、すっかりぽんこつと成り果ててしまった――そんな話を聞かされたアルーラは、彼にどう返してよいかもわからず、言われた言葉を繰り返すように口にすることしかできないでいた。
かっちりとした正装に身を包み、ルース侯爵家次期当主として振る舞う姿は非常に洗練されたものだった。
初めはぎこちなく感じていたエスコートも、しばらくすればさり気ない部分にまで気を配れるスマートなものへと変わり、ダンスもまた、やや距離を感じるものの実に見事であり、社交の場で貴人たちと言葉を交わす様子もよどみなく頼りになるものだったはずだ。
どれもアルーラより五歳年上であるがゆえの余裕かと思っていたが、彼の心中は、アルーラが思っていたよりもずっと乱れていたようだ。
冷遇されているわけではないが、仕事からは遠ざけられ、屋敷には帰ってこず、会話すらままならない――そんな飾りの妻となった理由がわかったこと自体は、よしとすべきなのだろう。
だが、それがすべて、いい歳をした男性が初恋を拗らせた挙句の暴走であったと知り、怒りをぶつけるべきか、それとも呆れてため息をつくべきか、わからなくなってしまった。
公の場でもあまり表情を動かすことのないフィデルが、これほどまでに憔悴した様子を見せる限り、言い訳でも何でもなく本当のことなのだろうと察する。
しかし、だからといって一年近くもアルーラを顧みなかったことは、看過できるものではない。
話し合うことさえないまま結ばれた関係だからこそ、お互いが何を求め、どう接すればよいのかを、二人で考えなければならなかった。
アルーラとフィデルの間には、致命的なほど会話が足りなかったのだ。
アルーラは、頭が痛いとでもいうように深くため息を吐きながら眉間を指で押さえると、ゆっくりと首を横に振る。
「あなた様のお考えはわかりました。しかし、だからといって今までのことをなかったことにはできません」
「本当に、すまない。君の言いたいことは……わかっているつもりだ」
「いいえ、あなた様は理解しておられない。わたくしが歩み寄ろうとした時も、声をかけた時でさえ、ろくに目も合わせず、会話もないまま。屋敷の者たちは、そんなあなた様のことをよく知っているからこそ口を出さずに静観していたのでしょう。でも、わたくしは何も知らなかったのです。あなたが何を思ってそのような行動をとっていたのかなど、言われなければ伝わるはずもありません」
フィデルを今まで見てきた者たちからすれば、それは微笑ましいだけの光景だったのだろう。
遅い春がやってきたのだと言って、余計な口を出して拗れることのないよう、見守ることにしたのだ。
しかし、それは身内であるからこそわかるものであり、アルーラのようによそから来た者にとっては、ただ蔑ろにされているようにしか思えなかった。
ただ黙って環境を整えればよいというものでもなく、アルーラに必要だったのは言葉を交わすことだったのだ。
人であるからこその強み――言葉を交わすことで、わからなかったことも理解できるようになる。
それがあって初めて、互いのことを知ることができるのだから。
夫婦として、隣に立つために何ができるのか。
知らない者同士が肩を並べるために、どのような歩み寄りが必要になるのかを、いずれは話し合わなければならなかった。
「ミラ殿下についても同様ですわ。あなた様が一人で抱え込み、わたくしにあえて近づかないようにすることで、ミラ殿下からわたくしへ向かう圧力を避けようとなさったのかもしれません。ですが、婚姻を成立させた時点で、それはすでに意味を成しておりません」
「そんなことは……現に、殿下は今まで君に直接接触してこなかったはずだ!」
フィデルは慌てたようにそう言いながら、ガタリと音を立てて席を立つ。
彼の低い声が思ったよりも夜の庭園に響き、アルーラは眉を顰めつつも落ち着くように目配せしながらフィデルに着席するように扇で促す。
無作法に気付き改めて椅子へと腰かけたフィデルは、整えるように息を吐きながら再びアルーラの言葉に耳を傾け始めた。
「確かに、今日まで接触はされておりませんでしたわ。ですがすでに、殿下は社交の場において、わたくしに関する良からぬ噂と、あなた様との関係を匂わせる発言をそれとなく流しております。先ほど、アーネスト殿下がミラ殿下に忠告していたではありませんか。社交の場における言動が目に余る、と。ミラ殿下は、あなたに近づく女性をすべて排除したいのです。婚姻関係を結んでいるわたくしなど、あなた様の行動があろうとなかろうと、とっくに標的となっていたのですよ」
飾りの妻であるという話も、いつの間にか広まっていた噂だ。
アルーラ自身がそう自認していたのは事実だが、公式の社交以外に姿を見せないというだけで、ここまであげつらわれるのは不自然である。
公式の場では、常に睦まじい様子を見せてきたはずだ。それにも関わらず、この広がり方は、発言力のある高位貴族の中の誰かが扇動しない限り起こり得ない。
おそらくは、ミラがそれとなく流しているのだろうと推測できた。
「このままでは、ミラ殿下の思うとおりになりますわよ」
「思うとおり……まさか、君の排除、か?」
「えぇ」
アルーラは真剣な面持ちで頷く。
本当にミラを牽制したいのであれば、この状況は――あまりにも分が悪い。
相手は継承権のない王女とはいえ、もっとも地位の高い王族である。
こちらから下手に手を出せば大きな問題となるからこそ、誰からも糾弾されない正当な理由を使い、彼女を牽制しなければならないのだ。
だからこそ、アルーラは青ざめているフィデルに、とある提案をした。
「ですから旦那様。わたくしたちは、ここから始めなければならないのです。本当の夫婦となるための努力を。――そう、付け入る隙のない、完璧な夫婦を目指すのですわ」
「完璧な、夫婦?」
アルーラの言葉に、フィデルは思わず困惑の眼差しを彼女へと向ける。
先ほどまでの彼女の言動を思い、離婚を切り出されるのかもしれないと思っていたのだろう。
確かに、すでに後手に回ってしまっているこの状況をどうにかしなければ、いずれこの婚姻はミラの思うとおりに破綻し、アルーラにも明確な瑕疵が残ることになりかねない。
しかし、アルーラとしては、これから嫁ぐ先を選ぶであろう妹たちに足枷をつけることだけは避けたかった。
彼の戸惑いを気にすることなく、アルーラはゆっくりと、しかし力強く頷く。
「アーネスト殿下のご配慮により、この祝祭の一週間、ミラ殿下であろうともあなた様を呼び出すことはできないでしょう。だからこそ、完璧な夫婦となるために、この期間を使ってわたくしにあなた様なりの誠意をお見せください。わたくしも、あなた様が抱いたというその想いと、きちんと向き合いたいと思います」
「それは……つまり、これからも私と夫婦関係を続けてくれる、ということで構わないのだろうか」
「いいですか、旦那様。そもそも、まだ始まってすらいなかったこの夫婦関係を、この一週間で構築していくのです。今までのことを許すつもりはありませんけれど、これ以上言ったところで過去は過去。――ひとまず、これまでのことは脇に置くことにいたしました」
そう言って、アルーラがふんと鼻を鳴らすようにそっぽを向けば、フィデルはようやく安堵の息を吐き、小さく笑った。
「そ、そうか……よかった。てっきり、情けないと呆れられて、君に捨てられてしまうのかと思っていた」
「そう簡単には捨てませんわよ。誓約書がありますもの」
「そこはもう少し、その……言い方というものが」
「ありません。旦那様は、ご自身の行動を顧みてから、わたくしに物を申していただきたいですわ」
呆れたようにそう言って肩を竦めるアルーラは、フィデルより五歳も年下とは思えぬほど達観した言葉を口にする。
しかしその節々には、彼女の負けず嫌いな気質がしっかりと滲んでいた。
儚げで麗しい見た目との差に困惑しつつも、フィデルは改めて彼女の内面を知ったことで、確かに惹かれていく自分を自覚していた。
アルーラは空のグラスを手に立ち上がると、フィデルのもとへ歩み寄り、ゆっくりと空いた手を彼に差し出す。
そして、形のよい唇に蠱惑的な笑みを浮かべると、導くように立ち上がらせた。
「わたくし、一見儚げに見られがちですけれど、実際は気が強いのです。やられるばかりでは悔しくて、夜も眠れませんわ。――今まで我慢してきた分、旦那様にはきっちりと、お付き合いしていただきますから」
息を飲んでアルーラに魅入るフィデルを、挑むように見上げたアルーラの髪が、春の風にさらわれてやわらかく揺れる。
月影を受けて、ぼんやりと金色に輝くその姿は、どこか現実離れしていた。
人らしい言葉と表情、そして手から伝わる温もりがなければ、フィデルは彼女を本物の精霊だと錯覚していたかもしれない。
――それほどまでに、目の前の彼女は、どうしようもなく美しかった。




