第七話 不器用な男の事情
フィデル・ルースを一言で表すなら、不器用である。
ルース侯爵家の始まりは、大きな戦争の最中にあった。
命を狙われた王を幾度となく救い、その見事な剣技で守り抜いたことに端を発する。
忠臣として名を馳せた初代当主は、もとはとある国の辺境に位置する子爵家の生まれであった。
しかし庶子であったため早々に家を追われ、放浪の旅を続けながら魔物を討ち、糧を得つつ己を鍛え上げた猛者である。
旅の途中で戦乱に巻き込まれ、当時身分を隠して暗躍していたシルヴァーノ国王と出会う。
やがて縁あって行動を共にするようになり、王の剣として、そして良き理解者として彼を支え続けた。
戦争が終息し、その功績を称えられて爵位を与えられてからも、彼の培った技術と精神は子孫へと受け継がれていく。
優れた騎士たちを数多く輩出し続けたことで、ついには侯爵家にまで至った――それがルース家である。
その嫡子として生まれたフィデルもまた、物心ついた頃から騎士となり、国へ忠誠を誓うべく日々自己研鑽に励んでいた。
母であるイネスは、気丈な性格とは裏腹に体が弱く、フィデルを出産できたこと自体が奇跡であるとまで言われていた。
そのため他に子を授かることは叶わず、フィデルは早くから次期当主としての立場を定められ、厳しい教育のもとで育てられる。
父からは優秀な騎士となるべく剣術を叩き込まれ、母や執政官たちからは、滞りなく政を担うための学問を授けられた。
侯爵家の跡取りでありながら騎士として身を立てることは、いずれルース侯爵家を継ぐ者としての正当性を周囲に示すためにも、必要不可欠なことであった。
もとよりの気質か、思索を巡らせることをやや苦手とするフィデルは、学問の面ではさほど振るわなかった。
だが剣の才は群を抜いており、学園に入る頃には、ルース侯爵家の私兵を相手に数人がかりで剣を交えても引けを取らぬほどにまで成長していた。
そうした日々の中で、異性と関わる機会はごく限られていた。
意図してそういった環境にしたわけではなく、様々な要因が重なった結果であった。
フィデルの身近な異性と言えば、侯爵家の使用人たちや、母であるイネス、王妃フェリーチェ、そしてその娘であるミラ――それくらいのものである。
使用人や身内を異性として意識することなどあるはずもない。
唯一、異性として意識し得たであろうミラでさえ、仕えるべき王族という前提があるがゆえに、フィデルの意識は彼女を守ることへと傾き、恋という感情が芽生えるよりも先に、その可能性は潰えていた。
騎士の育成を目的とする騎士学園に入学してからは、周囲の環境はいっそう偏ることとなる。
そこは男子のみが集う学び舎であり、教員もまた例外なく男ばかりであった。
女性のいない空間では、貴族も平民も関係なく、年頃の若者であればこそ、下世話な話題で盛り上がることも少なくない。
だが、フィデルがそうした話題にあまりにも疎いことが知れると、周囲は次第に気を遣うようになっていった。
ルース侯爵家の一員として恥じぬよう、色事に関心を示すこともなく、ただ黙々と鍛錬に打ち込み、日々自己研鑽に励む――その姿は誰の目にもひどく高潔に映った。
時には清廉な彼に良からぬことを吹き込もうとする者もいたが、やがて彼の前でその手の話をすること自体に後ろめたさを覚える者が増え、いつしかそれは、暗黙の禁忌のように扱われるようになっていったのである。
もちろん、家を継ぐ嫡子として、きちんとした閨教育も受けてはいた。
だがフィデルにとってそれは、どこか別の世界の出来事をなぞるような感覚に過ぎず、内容を額面どおりに理解することしかできなかった。
大恋愛の末に結ばれた両親を持ち、常日頃からその仲睦まじい姿を見て育ったはずのフィデルだが、騎士となるべく真摯に厳しい鍛錬を重ねてきた弊害か、恋愛という情緒がいささか乏しいまま育ってしまった。
しかし、学園を卒業し、正式に騎士として王城に登用されると、それまでの狭い世界は一気に広がり、異性との接触も急激に増えることとなる。
当初、フィデルはルース侯爵家が輩出してきた騎士たちに倣い、各地を巡って魔獣を討伐する第三騎士団に所属していた。
しかしミラの意向によって、王族を守護する近衛――第一騎士団へと転属となり、王族に侍る立場へと変わる。
表向きの理由は、王族の血を引く者を危険の多い第三騎士団に配属し続けることはできない、というものだった。
だが実際のところは、想う相手にそばにいてほしいと願う、ミラのささやかな我儘にほかならなかった。
王城に勤めるようになると、あらゆる場所に女性たちの姿があった。
花のように色とりどりのドレスを纏い、騎士の訓練場に詰めかける彼女たちは、見た目こそ可憐であったが、その瞳は爛々と輝き、まるで獲物を見つけた魔獣のような飢えを宿していた。
騎士という職業は常に危険と隣り合わせであるがゆえに、その地位は比較的高く、国から与えられる俸給も破格である。
それゆえ、出自が高位貴族である者も多く所属していた。
ルース侯爵家とは異なり、その多くは家督を継ぐことのない次男以下の者たちであるが、家を継がぬ者が己の身を立てる手段としては、正当な道であった。
しかし、その職務は過酷を極め、所属する騎士団によっては地方への遠征も多い。
家を長く空けることも珍しくなく、それが原因で婚姻関係が破綻する例も少なくなかった。
ゆえに最終的に女性たちが求めるのは、王城に常駐し続けることのできる、高位貴族出身の近衛騎士である。
理想の婚姻相手を求める女性たちは、自らをより魅力的に見せるため、香水をふんだんにまとい、華美な装いで訓練場へと姿を現す。
訓練の最中であっても、遠くから甲高い歓声を上げては、あれこれと口実を設けて騎士たちに近づこうとするのだった。
幾種もの香りが混ざり合った濃密な気配と、場を満たす熱気に、フィデルは内心で眉をひそめる。
無礼であると理解しながらも、その光景はどこか理性を欠いた生き物の群れを思わせてならなかった。
彼女らを見るたび、第三騎士団に所属していた頃、遠征先の森で目にした獣たち――その記憶が、ふと脳裏をよぎる。
なまじ、これまで接してきたのが限られた高位貴族の女性ばかりであったがゆえに、フィデルの女性に対する基準は、知らず知らずのうちに偏ったものとなっていたのである。
彼女たちの異様なまでに華奢な体つきもまた、フィデルが近づくことを躊躇わせる要因のひとつだった。
触れるだけで折れてしまいそうなその細さは、騎士として鍛え上げた自身の肉体とはあまりにもかけ離れた脆さを思わせ、言葉ひとつでさえ崩れ落ちてしまいそうなほどに危うく見えた。
これまで学んできた騎士の教えの中には、女性への接し方も数多く含まれている。
だが、女性に対して紳士であれという教えを現実のものとするには、目の前の彼女たちは、いささか淑女らしさを欠いているようにも感じられた。
フィデルが女性に対して苦手意識を抱くには十分すぎるほど、王城に詰めかける彼女たちの婚姻への熱は、あまりにも苛烈であった。
とりわけ、侯爵家の嫡男でありながらいまだ婚約者を持たぬフィデルは、群を抜いて女性たちの注目を集めていた。
騎士としての高潔さと実直さ、際立って整った容姿ゆえに、幾度となく女性たちによる無謀な“突撃”を受けることとなる。
付きまとい、積み上げられる熱烈な恋文の束、さらには社交の場で既成事実を作り上げようとする巧妙な振る舞い――そうした出来事が重なれば、女性に対する苦手意識がいっそう強まるのも、無理からぬことであった。
身内以外の女性をそのような目でしか見られなくなっていた頃から、ミラから受ける待遇にも、次第に疑問を抱くようになっていったのである。
ミラは常にフィデルを側に置き、異性としては不自然なほど距離を詰めてくる。
従兄妹である以前に、王族という立場ゆえ、本来であれば護衛対象として一定の距離を保たねばならないというのに、彼女はたびたびフィデルの腕に自身の腕を絡め、時には昔のように無邪気に抱きついてくることさえあった。
当初は、仲の良い従兄に甘えているのだろうと考え、言われるがまま兄のように穏やかに接していた。
しかし、それも次第に度を越していき、ミラの振る舞いは明らかに変質していく。
時には悪夢を見て怖くなったからと、寝所にまでフィデルを呼びつけることもあった。
だがフィデルは、どれほど懇願されようとも近衛としての立場を崩さず、扉の外で控えるに留め、決して中へ足を踏み入れることはなかった。
それが不満であったのか、ミラは次第に、フィデルへ露骨に己の欲をぶつけるようになっていく。
「フィデルお兄様は、わたくしだけのお兄様なのだから、ずっと側にいないと駄目なのよ」
「フィデルお兄様、そんなに離れていてはわたくしを守れないわ。もっと側に来て。昔のように仲良くしましょう?」
「フィデルお兄様が居れば、それだけでいいの。だって、お兄様はわたくしだけの騎士なのだから」
いかに女性の機微に疎いフィデルといえど、その言動の端々からは、従兄妹という間柄を越えようとする確かな欲が感じ取れた。
フィデルへと向けられるそれは、訓練場に集っていた女性たちのものとは明らかに質を異にしていた。
底の見えぬ沼にも似た、深く昏い瞳――それは、幼い頃に見た爛漫な無邪気さを覆い隠すほどに、陰鬱で危ういものへと変わり果てていたのである。
いったい、フィデルの何がミラをここまで狂わせたのか。
かつては愛らしく笑っていた王女は、今やただフィデルという存在のみを求め、周囲の目を顧みることなく、己が欲をさらけ出している。
フィデルの側に寄る女性を、あらゆる手段をもって遠ざけ、彼がわずかに言葉を交わしただけの相手にすら嫉妬し、露骨に牽制を加える。
彼を己の所有物であるかのように示し、他の異性を一切近づけさせない様々な行為により、ついに互いの縁談に支障をきたすこととなったのだ。
次期当主として、妻を娶ることになるフィデルにとって、王女との噂は致命的であり、まともな貴族であれば縁談を寄越されたところで首を縦に振ることは無いだろう。
しかも、相手を選び間違えてしまえばミラの持つ権力によって相手に何が起こるかもわからない。
このまま、彼女に請われるまま側にいてよいのか――そう思い悩むフィデルであったが、その間にもミラとの関係を巡る噂は不自然なほどに広まり、彼の葛藤など意に介されることもなく、いつしか二人は思い合う仲であるかのように周囲へ認識されていった。
いずれミラは、どこかへ嫁ぐ身である。
しかし、その相手は決してフィデルではない。
にもかかわらず、彼女に瑕疵が及びかねない噂が広まっていること自体、本来であれば看過できるものではなかった。
だが、幼い頃より親しくしてきた従兄妹という関係ゆえに、フィデルは事態の深刻さを理解しながらも、あと一歩を踏み出すことができずにいた。
そうした折、父であるロキに呼び出され、とある縁談を持ちかけられる。
フィデル自身の認識以上に、周囲の者たちはこの問題の深刻さを明確に捉えており、ついに当主であるロキが重い腰を上げるに至ったのだ。
高位貴族へ嫁ぐにふさわしい礼節と教養を備えた地位のある女性を、今から探し、即座に正妻として迎えるのはあまりにも無理がある。
かといって、ミラとフィデルにまつわる噂を、このまま既成事実としてしまうわけにもいかなかった。
それは政治的にも、断じて看過できぬ事態である。
権力の均衡を過度に傾けることは、これまで保たれてきた平穏を揺るがしかねない。
――ゆえにロキは、オルティス伯爵家に目を付けたのである。
侯爵家へ嫁ぐに相応の地位を持ち、家の理になる対価とオルティス伯爵家当主の厳しい精査を通過できた者のみ、たとえどのような事情があろうとも娘を嫁がせる家だ。
厳格な淑女教育を施されたオルティス伯爵家の令嬢たちは、その美貌と高い教養から迎え入れるだけで幸運を呼ぶとさえ噂されるほど、希少価値の高い人材ぞろいである。
ちょうど学園の卒業を間近に控えた娘がいることも把握していたロキは、フィデルに伝えることなくオルティス伯爵家へと縁談の打診を行った。
表向きは複数の事業提携として話を進めつつ、同時に事の内情を包み隠さず伝えることで、最終的にアルーラを迎え入れる運びとなったのである。
これまで、請われるがまま近衛としてミラを護衛してきたフィデルであったが、それも不自然にならないよう、騎士団の采配を担う王太子アーネストが、少しずつ調整を重ねた。
フィデルの次期当主としての務めを理由に、ミラから距離を置けるよう取り計らったのである。
そうすることで噂は徐々に沈静化し、ここでフィデルの婚姻の事実を流せば、事実無根の恋の噂もやがて薄れてゆくだろう――そのような算段であった。
呼び出された時にはすでに決定事項となっていた縁談は、気づけばあっという間に婚姻式の場へと移っていた。
初めて目にする自身の花嫁を前にしても、フィデルはいまだ婚姻するという実感を持てずにいた。
性急に進めたこともあり、婚姻式は高位貴族としてはありえぬほど小規模で、参列者も身内ばかりでごくわずかだった。
誓いの場で花嫁となる女性と向かい合ったとき、ふと傍らに漂ったのは、シャボンに淡い林檎を思わせる清楚な香り。
訓練場で接してきた彼女たちとは異なるやわらかな甘さが胸をかすめ、不思議と鼓動が早まるのを覚えた。
ベールに覆われ顔も見えない女性に対する印象は、この香りと凛と伸びた姿勢で、すでに良いものとなっていた。
淡々と誓いの言葉を交わし、両者の署名を済ませると、婚姻式の最後を飾る誓いの口づけのため、ベールを上げた。
――その瞬間の気持ちは、今でも言い表すことができない。
背の高いフィデルを見上げる眼差しは、やわらかな薄紫を宿しつつも、誰にも媚びることのない聡明さを湛えていた。
陶器のように滑らかな頬は、緊張からか淡く色づき、丸みを抜け出したばかりの輪郭が、幼さと女性らしさの境界を曖昧にし、彼女の未完成な美しさをより際立たせている。
急遽仕立てられた婚礼衣装は飾りも少なく簡素であったが、それがかえって彼女の類まれなる美貌を鮮烈にし、蕾が花開く瞬間を目にしたかのような、一種の感動とも呼べる感情を生み出した。
フィデルは、心が激しく沸き立つような感覚と、息もできないほどの焦燥にも似た胸の締め付けに、何が起きたのかを考える余裕すらなかった。
うっすらと紅を差した艶やかな唇に誘われるように、そっと自身の唇を重ねると、それだけで自分の中の何かが壊れるような感覚に陥る。
これほどまでに強い感情を抱いたことのなかったフィデルは、それが世間でいう初恋だとも気づかぬまま、未知の感情に振り回された挙句、初夜すら迎えることのないまま、彼女を屋敷へと置いて逃げ出したのだ。
何事にも誠実に向き合ってきたフィデルが、初めて「逃げる」という選択をした。
この歳までまともに女性と逢瀬を交わしたこともなく、気遣いらしい気遣いもできない。
ただひたすら自らを鍛え続けて剣を振るい、人々を苦しめる忌まわしい魔獣を屠り、血を浴びてきた。
そして今は、一国の王女に歪な感情を向けられ、自分に関わる異性はことごとく遠ざけられては、不幸になっていく。
そんな自分を、目の前の天使のような女性が受け入れてくれるのか――その不安と恐怖が、彼を誤った方向へと進ませてしまった。
そして宿舎に籠もり、日々仕事をこなしながら彼女のことばかりを考え、自分自身と向き合い続けた末、ようやく気持ちを整理し終えた時には、すでに婚姻から数か月もの月日が経ち、完全に妻に愛想を尽かされていたのである。
不器用すぎるがゆえに、妻への最初の対応があまりに拙かったことも問題ではあった。
だが何より、彼女と会うことで自分の心がどうしようもなく乱されることに動揺し、彼女が憂いなく過ごせるよう手配しながらも、真摯に向き合わないことへの罪悪感に苛まれ、やがて彼女と言葉を交わすことそのものが怖くなっていったのだ。
婚姻を機に、フィデルとアルーラが公私ともに仲睦まじくすることで、狭い視野で生きるミラを牽制し、少しずつ距離を取らせる――そのはずだった。
だが周囲の大人たちも、彼の突拍子もない行動にどう対応してよいのかわからず、結果として静観することしかできなかった。
彼の両親もまた、何でも卒なくこなすフィデルがそのような暴挙に至ったことに慌て、アルーラの住む本邸の者たちに、彼女の待遇には細心の注意を払うよう言い含めた。
既に成人した二人に、ここで親が口出しをすれば余計にこじれると判断し、二人をそっと見守ることにしたのだった。




