第六話 夜の庭園を眺めて
王族への挨拶を終え、当主夫妻とも会場で別れた二人はそのまま社交に勤しんでいたが、やがてそれもひと段落し、王城の庭園が一望できるテラスの席で酒を嗜んでいた。
向かい合い、酒を酌み交わす――それは夫婦となってから初めてのことである。
それにもかかわらず、二人の間に会話らしい会話はない。
周囲に人の気配がないことも相まって、祝祭の華やぎとは相容れぬ、重く沈んだ空気だけが静かに漂っていた。
王城の広大な庭園には、魔石を用いた灯りが至るところに配されており、夜の闇の中から浮かび上がるように、丹念に手入れされた景観を美しく照らし出していた。
しっとりとした夜気が花弁を包み込み、魔灯のやわらかな光を受けた花々は、昼間とは異なる表情を見せている。
ワイングラスを片手に、言葉を交わすでもなく庭園を眺めていると、向かいに座るフィデルがふいに口を開いた。
「アルーラ、最近はどうだろうか」
「どう、とは?」
唐突な問いに、アルーラは素っ気なく問い返す。
フィデルは言葉を探すように一瞬視線を彷徨わせ、それでも続けた。
「何か、不自由していることはないだろうか。屋敷の者には、よく仕えるように言っておいたのだが……」
「特にはございませんわ。強いて言うのであれば、やることがなくて退屈なことくらいでしょうか」
――そう、アルーラは退屈しているのだ。
オルティス伯爵家にいた頃は、日々忙しく過ごしていた。
どの爵位へ嫁いでも恥じぬ教養と、この美貌に引き寄せられる有象無象を退けるための術を叩き込まれてきたのである。
しかし、いざ嫁いでみれば、家内の務めを果たす機会すら与えられない。
こうして社交の季節にのみ伴われ、飾りの妻として振る舞うばかり。
それ以外は屋敷に留め置かれ、日常的に果たすべき妻としての社交さえ任されていない。
何もするなと言われている以上、アルーラが独断で動くわけにもいかず、結果として、社交の季節にのみ現れる不出来な妻になりつつあった。
それが何を意味するのか、周囲にどう見られるのかを――フィデルはまるで理解していない。
アルーラはワイングラスを傾け、ゆっくりと口元へ運ぶ。
葡萄の芳醇な香りが鼻腔を抜け、渋みの奥に潜むやわらかな甘みを舌で受け止めながら、静かに喉を鳴らした。
「旦那様は、いったい何をお考えなのでしょう」
この機会を逃さず、アルーラはフィデルの本心を問うことにした。
ようやくまともに言葉を交わせる時が訪れたのだ。今を逃せば、次がいつになるか分からない。
グラスを軽く揺らし、立ちのぼる香りを引き出しながら、何気ない話題を装って口を開く。
「婚姻したにもかかわらず、あなた様は屋敷にも戻らず宿舎での生活を続け、わたくしには家内の務めすらお任せにならない。言葉を交わすことさえ避けておられる。――それでいて、こうして社交の場には伴い、わたくしを妻だと示して異性を牽制なさる。わたくしには、あなた様のお考えがまったく分かりませんの。何をなさりたいのか、今後どうされたいのか……何も、分からないのですわ」
ワインの酒精が口を滑らかにしたのか、アルーラはフィデルを前にしても臆することなく言葉を重ねる。
それは、日頃より抱いていた不満と、あまりにも率直な疑問であった。
グラスから視線を外し、ゆっくりとフィデルへと目を向ける。
しかし、そこにあった表情は、アルーラの予想とは異なっていた。
悲壮というよりも、何かに耐えるような――沈んだ色を帯びた面持ち。
その様子に、言葉を続けるべきか一瞬ためらう。
それでも、次にこのような機会が訪れるとは限らない以上、アルーラは言葉を飲み込まずに続けることを選んだ。
「わたくしは毎夜、何のためにルース侯爵家へ嫁ぐことになったのかを考えております。嫁ぎ先で役立てるための術を学び、そのすべてを誇りとして生きてまいりました。ですが今は――それらが、まるで無に帰したかのように、何一つ必要とされていないのです。それは、わたくしにとって……己の存在意義を問わずにはいられないほど、悲しいことなのですわ」
オルティス伯爵家の教えは、誰よりも淑女であれ、そして誰よりも良き妻、幸せな妻であれというものだ。
幼いころから叩き込まれてきたその教えは、アルーラにとって指針であり、すべてでもあった。
今までの人生のほとんどを費やしてきたことが、ルース侯爵家では何ひとつ活かされない。
ただ、広すぎる屋敷の中で、生きるために息をしているだけ。
それは、根を断たれ花瓶の中で静かに生かされている切り花と、いったい何が違うというのだろうか。
「ねぇ、旦那様。お気づきでいらっしゃいますか? わたくしたちがこうして二人で語り合うのは、まもなく一年になろうとする婚姻生活の中で――これが初めてですのよ?」
近衛としての任務に加え、次期当主としての務め。
そのすべてに追われる中で、アルーラのことまで気にかけねばならないというのは、確かに負担なのかもしれない。
けれど、婚姻さえ結べばそれでよいとばかりに放置されたままでは、アルーラにはフィデルを支えることさえできない。
決してルース侯爵家の者たちに冷遇されているわけではない。
全てが整えられた屋敷に、優しい使用人たち。毎日を安らかに過ごしていける環境が揃っている。
だが仮に、アルーラがその恩に報いようと家内の務めを任せてほしいと願い出たところで、彼らは困惑の色を浮かべ、言葉を濁すばかりだろう。
何をするにも、夫であり次期当主であるフィデルの采配が必要となる。
他家から嫁いだ身で、勝手に侯爵家の内情へ踏み込むことは許されないのだ。
「もう一度お尋ねいたしますわ。……あなた様は、いったい何がしたいのですか?」
薄闇に包まれた夜のテラス。
窓の向こうから溢れる灯りに照らされ、アルーラの瞳がまっすぐフィデルを射抜く。
しかし彼は、いつものようにその視線から逃れるように目を逸らし、言葉を発することもなく、騎士らしい厚みのある体躯をわずかに丸めて項垂れた。
大広間から漏れ聞こえる華やかな演奏とは裏腹に、二人のあいだには重苦しい沈黙が横たわり、冷えた空気だけが静かに満ちていく。
「……君は、今の環境が気に入らなかったのか?」
「ええ。こうしてあなた様に直接申し上げるほどには、気に入っておりませんわ」
きっぱりと言い切るアルーラに、フィデルははっとしたように顔を上げ、ようやくまっすぐ彼女を見つめた。
その瞳は言いようのない不安に揺れ、まるで行き場を失った子どものように頼りない。
「君が過ごしやすいようにと、できる限り整えてきたつもりだが……」
「ええ、承知しておりますわ。飾りの妻として屋敷に置かれているわたくしにも、使用人たちは丁寧に接してくださいますし、困ることのないよう配慮してくださっていることも、十分に伝わっております」
「飾りの妻? いったい何の話だ」
アルーラの口から発せられたその言葉に、フィデルは信じがたいものを聞いたかのように動揺の色を露わにした。
やはり何も気づいてはいなかったのかと、アルーラは小さく息を吐く。
「社交の季節にのみ華やかに着飾り、あなた様の隣でただ微笑んでいるだけの――あなた様の妻のことですわ」
世間一般の貴族女性であっても、アルーラの置かれている状況には首を傾げるだろう。
貴族である以上、それに伴う責務は幼いころから叩き込まれるものだ。
そうして長い年月をかけて培われた教養や振る舞いは、やがてその者の内に根付き、人生を支える確かな指針となる。
フィデルが思っている以上に、社交というものは厄介で繊細なものだ。
必要な場にだけ顔を出せばよい、という単純な話ではない。
人と人とを繋ぐためには、自ら足を運び、言葉を交わし、関係を築いていかねばならないのだから。
それが叶わないことで、アルーラは周囲から“飾りの妻”と見なされている節があった。
誰かが明言せずとも、その空気は自然と伝わってくる。
時折、遠回しに気遣うような言葉をかけてくる者も、少なからず存在していた。
おそらく、今のアルーラと同じ扱いを喜ぶ者がいるとすれば、よほど人前に出ることを厭う者か、あるいは無為に日々を過ごしたいと望む者くらいではないだろうか。
アルーラの言葉は、貴族女性としてごく当然のものに過ぎない。
その家に嫁いだ以上、夫を支えるために家内を取り仕切り、子を成して次代へと命を繋ぐ――それが務めであるはずだった。
だがアルーラは、フィデルと婚姻してからというもの、何ひとつ成すことができずにいる。
それが、貴族女性として――オルティス伯爵家に生まれた者として――どれほどの屈辱であるか。
目の前の男には、たとえ言葉を尽くしたところで、理解されることはないのだろう。
「私は、飾りの妻を娶ったつもりは……ただ、君が――」
「わたくしが、なんですの?」
冷笑にも似た表情が、アルーラの顔に浮かぶ。
一年近くも彼女を放置していたフィデルが、いったいどのような言葉を続けようとしているのか。
「――君があまりにも美しかったから。ベールを上げた瞬間に思ってしまったんだ。私では、君に相応しくないと……そう、思ってしまった」
彼は尻すぼみにそう言いながら、大きく息を吐き、両手で顔を覆った。
その表情は隠れて見えない。だが耳だけは、薄暗がりの中でもはっきりとわかるほど赤く染まっている。
「……いったい、どういうことですの?」
彼のその様子に、アルーラは先ほどまでの勢いを失い、仄かな酔いさえも醒めたように呟いた。
目の前で体を小さくしている男の態度は、アルーラを嫌っているというには、あまりにも不自然なものだった。
アルーラの短い言葉に何を感じたのか、フィデルはワインを一気に飲み干すと、ぽつり、ぽつりと今の状態に至った経緯を語り出す。
長い話になりそうではあったが、祝祭の夜会は朝まで続く。
アルーラは待遇の裏にあった真実を聞くため、彼の拙い話に耳を傾けることにしたのだった。




