第五話 王家の兄妹
フィデルを親しげに「お兄様」と呼びながらも、その瞳に宿る熱は、それ以上の何かを思わせる色を帯びている。
「それに、フィデルお兄様はわたくしの専属護衛でもあるのですもの。常にわたくしの側にいなければなりませんわ」
ふふふ、と微笑みながら、潤んだ瞳でフィデルを見上げるミラの頬には、恍惚の表情とともに、うっすらと赤みが差していた。
腕を掴まれたフィデルは、一瞬体を硬直させつつも、やんわりと振りほどこうと腕を動かす。しかし、ミラは決してその手を離そうとはしなかった。
「ミラ。いくら従兄妹とはいえ、既婚者であるフィデルに、そのような軽率な振る舞いは許されぬ。今はお前を守る近衛としてここにいるのではない。ルース侯爵家の次代当主として出席しているのだぞ」
「まあまあ、よいではありませんか、父上。せっかくの祝祭です。フィデルには、いつも通り、この我儘な妹姫のご機嫌でも取ってもらおうではありませんか」
ミラの無作法を厳しく諫めようとするサイラスを制するように口を挟んだのは、シルヴァーノ王家特有の深緑の髪と赤い瞳を持つ第二王子レイナードであった。
彼は身を預けていたソファからゆったりと立ち上がると、ミラと同じようにアルーラのもとへ歩み寄り、彼女の承諾を待つこともなく、まるで当然のようにその手を取る。
そして指先でしっとりと撫でるように触れながら、手の甲へと静かに唇を寄せた。
「その代わり、“精霊華の君”は私がお相手いたしましょう。……しかし、夫人は見れば見るほどに美しい。その神秘を宿したラヴァンダの瞳も、淡い金糸の髪も、どこをとってもまるで絵画に描かれる女神ヴェルナディアのようだ」
「……まあ、女神に例えられるなど光栄に存じますわ、レイナード殿下」
再びレイナードの視線が、絡みつくようにアルーラを捉える。
赤い瞳には恍惚が滲み、まるで運命の人に出会ったかのような熱を帯びていた。
その視線の意味を、アルーラは嫌になるほど知っている。
――これは、愛ではなく歪んだ執着。
手に入らぬと知りながらも、なお貪欲に手を伸ばそうとする、歪で仄暗い所有欲とでも呼ぶべきものだ。
レイナードのそれは、アルーラの類まれなる美貌に惹かれた愚かで哀れな男たちが向けてきたものと、何ひとつ変わらない。
確かな権力を持つ一国の王子が、そのような感情を自分に向けている――その事実に、ぞくりとした寒気が背を走る。
安易に手を振り払うこともできぬ状況に、どうしようもない焦燥が胸を締めつける。
それでも震えそうになる身体をどうにか押し留めながら、アルーラは触れられていた手を不自然にならぬよう外そうと、人好きのする笑みを浮かべた。
「レイナード殿下。婚約者様の気を引きたいからといって、わたくしをお使いになるのはいけませんわ。たとえ相手が既婚者であろうとも、戯れにそのようなことをおっしゃれば、婚約者様のご機嫌を損ねてしまいますことよ?」
「はは、私の婚約者は非常に寛容な人でね。大抵のことなら許してくれるのさ。だから、遠慮はいらない」
そういう問題ではない――その言葉が口をつきかけた、そのとき。
フィデルが、アルーラの手を取っていたレイナードの腕をおもむろに掴み、打ち捨てるように振り払った。
そしてアルーラを自身の背へと庇うように引き寄せると、レイナードを真正面から見据え、地を這うような低い声で淡々と言い放つ。
「殿下、お戯れが過ぎます。アルーラは私の妻です。どうかお手をお引きください」
先ほどまでフィデルの腕に絡んでいたはずのミラは、彼の剣幕を見て呆気に取られたように立ち尽くしていたが、自分よりも妻を優先されたと理解するや、みるみるうちに表情を歪め、羞恥と怒りに顔を赤く染めた。
「フィデルお兄様っ! どうしてわたくしを放ってその方を構うのです? 彼女など、所詮金銭で買われた――」
「ミラ、口を慎め」
ミラの言葉を遮ったサイラスの低く重い一言が、場を支配する。
その声音に滲む明確な怒気に、ミラの肩がびくりと跳ね、それ以上は言葉を継ぐこともできず、悔しげに口を噤んで俯いた。
そしてレイナードもまた、振り払われた自身の腕をさすりながら、本来王族を守る立場であるフィデルに対し、静かな怒りを滲ませていた。
しかしサイラスの前では声を荒げることもできず、忌々しげにフィデルへと視線を向けると、無理やり引きつった笑みを形作る。
「……すまないね、少し悪ふざけが過ぎたようだ」
「こちらこそ、出過ぎた真似をいたしましたこと、お詫び申し上げます」
フィデルが静かに頭を下げると、レイナードはそれ以上何も言わず、そのまま彼の横を抜けて場を後にした。
凍り付いていた空気は、レイナードが去ったことでようやく緩やかに解けていく。
そこへ、ちょうど他国の要人との歓談から戻ってきたのであろう王太子アーネストが、不思議そうに眉をひそめながら歩み寄ってきた。
「いったいどうしたのです、この重苦しい空気は。レイナードとすれ違いましたが、随分と険しい顔をしていましたよ?」
「ああ、レイナードの悪い癖が出たのだ」
サイラスがため息混じりにそう言うと、アーネストもまた同様に呆れを滲ませた表情で小さく息を吐き、フィデルたちへと視線を向けると申し訳なさそうに眉を下げた。
王族の中でもひときわ体格に恵まれたアーネストが、わずかに小さく見えるようなその仕草に、アルーラは恐縮しつつも、気遣われていることに安堵してそっと息を吐く。
「二人とも、すまなかったな。レイナードは少々……気質が変わっていてな。物であれ、人であれ、とにかく美しいものに目がないのだよ。これ以上近づけぬよう手配する。だから、今日のところはどうか堪えてはもらえないだろうか」
「……お気になさらないでくださいませ。先ほどのことは、レイナード殿下の戯れと理解しておりますから」
「そう言ってもらえると助かる。ただ……あなたは、あまり一人で行動しないようにしてほしい。その容姿はあまりにも目立ちすぎる。王城での催しとはいえ、不埒な輩が紛れ込まぬとも限らんからな」
「アーネスト殿下。彼女の側には、常に私がついております。ご心配には及びません」
フィデルのその言葉に、アルーラは言いようのない複雑な感情を抱いた。
ルース侯爵家に嫁いでほどなくして出席した夜会のことを思い出す。
ダンスを一曲踊り終えた頃、ミラに呼び出されたフィデルは「すまない、少し離れる」とだけ言い残し、アルーラをその場に残して去っていったことがあった。
あの時ばかりは唖然としてしまい、足早に立ち去る彼の背を呼び止めることもできなかった。
それからも似たようなことが幾度かあり、やがてアルーラは、彼が離れた時点で屋敷へ戻るようになった。
生まれてこのかた付き合ってきたこの容姿は、まるで虫を誘う灯のように、良からぬ者を惹き寄せる。
ゆえに、一人で社交をこなすのは危険だと判断したのだ。
たとえ従者を伴っていたとしても、爵位の高い者から向けられる言葉に対しては、盾にもならない。
それならば迷惑をかける前に去った方がよい――そう考え、フィデルを会場に残したまま帰ることが増えていった。
そんな彼に「常についている」と言われたところで、素直に信じられるはずもない。
しかしアーネストはフィデルの言葉に満足げに頷くと、穏やかな笑みを浮かべながら彼の肩を軽く叩いた。
「そうか。では安心だな。ミラにはすでに別の近衛が護衛に就いている。だから、祝祭の合間は家の務めと奥方を優先してくれ。……それとミラ。ここ最近の社交の場において、お前の言動は目に余る。フィデルは従兄であり近衛という職にも就いているが、ルース侯爵家の次期当主として果たすべき務めもあるのだ。お前の都合でフィデルを、ひいてはルース侯爵家を振り回すのはやめなさい」
「アーネストお兄様、わたくしはそのようなこと――」
「していないというのなら、私の言葉を聞き入れられるな? ミラ。祝祭の間、フィデルを呼び出すことは許さぬ」
「……はい」
「お気遣い、感謝いたします」
そのやり取りを、複雑な心境で聞いていたのはアルーラだけではない。
アーネストに窘められ、なお悔しげにアルーラを睨みつけているミラもまた同様だろう。
これまでのようにフィデルを側に置いておきたくとも、兄であり王太子であるアーネストに命じられてしまえば、祝祭の間は呼び出すことも、傍に侍らせることも叶わない。
その胸中では、アルーラへの妬みと怒りが荒れ狂っているに違いなかった。
フィデルの妻という肩書きによって、一国の王女を敵に回してしまう――恋愛感情を抱いているわけでもないアルーラにとって、それは迷惑極まりないことである。
思わずため息をつきそうになる状況でも、笑みを絶やさず淑女であり続けなければならない。
アルーラは、込み上げる言葉をすべて飲み込み、フィデルの礼に合わせるように静かに一礼した。
「……わたくし、少々気分が優れませんので、お先に失礼いたしますわ」
先ほどのアーネストとのやり取りに、よほど気分を害したのだろう。
ミラは不機嫌そうに扇で顔を隠しながらそう言うと、アルーラからつんと視線を外し、踵を返して近衛を伴い、その場を後にした。
彼女の後ろ姿を見送っていたイネスは、じとりとした目で自身の兄を見つめ、ため息交じりに口を開く。
「あの子、アルーラさんと変わらない年齢だというのに、少々お転婆が過ぎるようですわね。レイナードもずいぶんと自由に振る舞っているようですけれど……王家の教育は、もっと厳しかったのではありませんこと? わたくしが嫁ぐ前とは、まるで違いますのね」
イネスの嫌味交じりの言葉に、サイラスは苦笑を浮かべながら、二人の兄妹について語りだす。
「そうだな……王太子となることが決まっていたアーネストと比べれば、甘やかしてきた自覚はある。ミラもレイナードも、王族としての教育は十分に受けさせてきたが――常に王族として高潔であれと教えながらも、王位継承争いを避けるため、初めから王位を放棄させてしまったという負い目があってな」
この国において、王位継承は必ずしも長子が指名されるものではない。
しかし、幼いころから群を抜いて優秀であったアーネストを、貴族を含め誰もが認め、早い段階で立太子したことで、ミラとレイナードは王位継承に関わる機会すら与えられなかった。
レイナードは常に優秀な兄と比べられ、同じく王族として学びながらも、いずれは城を離れる身であることに思うところがあったのだろう。
時が経つにつれ、王族としての高潔な心構えを置き去りにし、美しいものへと傾倒するようになっていった。
ミラもまた、唯一の姫という難しい立場にあることは確かであった。
彼女自身がどう思っているかは定かではないが、女性であるがゆえに王位継承は基本的に認められず、いずれはどこかへ降嫁するほかない。
それを理解しているからこそ、せめて心から想う相手と共にありたいと願うのは、ごく自然な感情であろう。
――だが、その相手がフィデルであれば話が変わってくる。
ルース侯爵家には、すでにイネスが降嫁している。
そこへさらに王女を嫁がせることは許されない。
そのようなことになれば、権力の均衡が一気にルース侯爵家へと傾いてしまうからだ。
ゆえに、ミラがフィデルの妻となることは――決してあり得ない。
何もかもが思うようにいかない苛立ちと、想う相手すら手に入れられぬ悔しさ。
そうした感情を抱え続けていた彼女の前に、突如として降って湧いたのが、想っていた相手であろうフィデルの婚姻だ。
王族でさえ調整の余地を持てぬほど性急に決められたその婚姻は、オルティス伯爵家とルース侯爵家、両家の当主の間で交わされた契約に基づき、他者が口を挟む隙すら与えられぬまま成立したのである。
それを知った時、ミラの胸中はいかなるものであったのか。
フィデルに守られたアルーラへと向けられていた、あの激しい感情――渦巻くような熱を宿していたはずの瞳が、もはや「気分を害した」という言葉では到底片付けられぬほど、重く、冷たい何かを湛えていた。
「サイラスお兄様。たとえお兄様のお子であろうと、王族として身を置く者であろうと、我がルース侯爵家の者に何かあれば、わたくしはお兄様を決して許しませんわ。ですから……よく言って聞かせてくださいまし」
「ああ、わかっているとも。私もお前に嫌われるのは辛いからな」
サイラスはそう言うと、イネスの頭にぽんと手を乗せた。
それを子ども扱いするなと言わんばかりに軽く嫌がる素振りを見せながらも、どこか嬉しそうに口元を緩ませるイネスの姿は、一児の母でありながらも愛らしく感じてしまうほど可憐だった。




