第二十五話 忙しない朝
「若奥様、朝で御座いますよ」
いつもの調子で声掛けをするマイアによって、カーテンが開け放たれる。
窓から入る陽の眩しさに眉を顰めつつも、アルーラが起きたてのぼんやりとした思考のまま身を起こせば、周囲ではせかせかとした様子で侍女たちが部屋の中を行き交い、今日の催しのための準備を整えていた。
柱時計へと目をやれば、まだ陽も昇りたてという時間帯だ。いつもよりも早い時間に、眠気に抗えずに再び横になろうと身を傾ければ、すぐさまマイアの手によって阻止され、寝台から下ろされてしまう。
「駄目ですよ。今日は狩猟会で御座いましょう? 催しは昼からと伺っておりますから、今から準備をせねば間に合いませんわ」
「そんなに張り切らなくても良いのよ?」
「まぁ! まぁたそんなことをおっしゃって! せっかく若旦那様との交流が出来るようになりましたのに、この機会を無駄に終わらせるのはもったいのう御座います」
「もったいない……」
ふと、昨日の出来事が脳裏を過り、アルーラは自身の手の甲へと視線を落とす。
唇を捧げられた時の、柔らかな感触。切れ長な彼の瞳が祈りを捧げるように伏した時、アルーラは確かに彼の姿に見惚れ、そして動揺した。
オルティス伯爵家の者として、美しい者は見慣れているはずであるのに、伏したままの瞳がもう一度こちらへと向いてくれないだろうかと思うほど、心惹かれてしまった。
それはきっと、フィデルの本質と、その誓いがアルーラの心に優しく触れたから。
夫として守ると言ってくれたその言葉と真摯な誓いは、憧れていた物語の一場面のようで、蕾のまま枯れかけていた乙女らしさに水を与えられたようだった。
思い出すだけでじわじわと頬が熱くなる。
無意識に頬へ手を当てていたアルーラは、侍女たちへと指示を出すマイアによって鏡台の前へと座らされ、丁寧に櫛で髪を梳かされる。
「互いに歩み寄り始めた大事な時期に、いつものように気を抜くなど以ての外ですわ。より良い夫婦関係を築くのなら、相手にはことさら美しく見えるように整えねば!」
櫛を握りしめたまま拳を振り上げて力説するマイアに、侍女たちが同意するように大きく頷いた。
しかし、狩猟会の場は王家の所有する森の中である。
いくらそれ用に場を整えてあるとはいえ、恐らく地面は土のままであるし、周囲には豊かな緑が溢れていることだろう。
あまり色味が強く宝石が散らされたような華美な装いをしていれば、虫や獣を寄せ付けてしまうかもしれない。
それに、天幕の周囲に魔物除けを焚くはずだ。火を使うような場では、ひらひらとしたドレスは危険に繋がりかねない。
「今日は外での催しだから、あまり華美な服装はできないわ。もちろん光るような装飾品や香水も駄目よ。むやみに森の住人たちを刺激したくはないの。そこを考慮してくれるかしら? やるなら最終日の舞踏会であなたたちの腕を見せてちょうだいな」
彼女たちの勢いに押されつつも苦笑交じりにそう言えば、マイアたちは至極残念そうにしながらも髪を梳いていた手を止め、軽く礼をする。
「非常に残念ではありますが、畏まりました。では、本日はどのような装いになさいましょう」
「そうねぇ……では、なるべく動きやすいものにしましょう。白を主軸にいくつか出してちょうだい。ああ、緑色が入るものは外してね。あと……その、フィデル様の色を取り入れたいの。今までみたいに差し色としてではなくて、ちゃんとした形で……どうかしら?」
もじもじと居心地悪そうにしながら言葉尻を小さくしてそう言えば、マイアは今まで見たことのないほど表情を明るく輝かせた。
「まぁ、まぁまぁまぁ! 畏まりました! さぁ、皆さん聞いたわね? 衣裳部屋から若奥様の希望の物を持ってきてちょうだい!」
歳を感じさせない少女のような微笑みを浮かべたマイアは、ぱんぱんと手を叩いて侍女たちの視線を集めると、すぐさま侍女たちへと指示を飛ばした。
彼女たちは一様に嬉しそうに返事をすると、部屋から慌ただしく出ていき、部屋の中は一気にがらんと物寂しくなった。
「あらあら、侍女たちがはしゃいでおりますわね。本来は注意せねばなりませんが、今回ばかりはあの子たちの態度に共感してしまいますわ。だって、若奥様は本当にお美しい方ですのに、全然若旦那様のために着飾ろうとはなさいませんでしたもの」
「そう? 公式の場ではちゃんと着飾っていたじゃないの」
アルーラが呆れたようにそう言うと、マイアは鏡越しに残念なものを見るような視線を隠しもせず、ため息を吐いた。
本来なら侯爵夫人にこのような態度は無礼に当たるだろうが、彼女は侍女でありながらも元々高位貴族の出身であり、訳ありではあるが、長年ルース侯爵家を支えてきた重鎮でもある。
アルーラの乳母によく似た雰囲気を持つマイアには、嫁いできたばかりの頃から今まで、心身ともに随分と助けられた。
結局フィデルもアルーラも、優しくも厳しい第二の母のようなマイアには、どうしても甘くなってしまうのだ。
「違います。全然違いますわ! ただ飾るだけではなく、夫に美しい姿を見せたい……そのお気持ちにこそ意味があるのです。わたくしはもう老齢と言っても良い歳ではありますが、どんなに歳を取ろうとも、恋が絡む事柄にはときめきを感じて心が潤うものです。だというのに、若奥様も若旦那様も全然距離を縮めようとはなさらず……わたくしたち使用人一同、随分とやきもきしていたのですよ」
「……そうなの?」
髪へ香りの少ない香油を馴染ませ、美しく編み上げていくマイアの手元をぼんやりと眺めながら、アルーラは少しばかりばつが悪い顔をして彼女の話に耳を傾ける。
「ええ、わたくしは若旦那様が子供の頃からお仕えしておりましたので、あの方のことはよく知っております。婚姻を結んでからというもの、若奥様への気持ちを拗らせて変な行動をとっている旦那様に、それはもう何度も苦言を呈しましたのよ? それなのにああだこうだと言い訳をして、そのうち屋敷にも帰ってこなくなるのですから、これはもう騎士団へと乗り込んで引きずり出してしまおうと思ったのですが、流石に執事長に身体を張って止められましたわ」
「なんていうか、強いわね……マイア」
「このルース侯爵家は心の在り方からして戦士の家系ですからね。常にこれくらい強気でなければならないのです。それに突拍子もない時に、大人という皮を脱ぎ捨てて少年のようになったりもいたしますしね。恋愛事に関してはもだもだうじうじと、まるで思春期がぶり返したような行動をとるのがルース侯爵家の男性の特徴ですわね。本当に、旦那様の時も大変でしたわ。あの方の場合は愛情表現に歯止めが利かなくて――」
そうして、マイアから聞いていいのかどうかもわからないロキとイネスの甘酸っぱい恋愛事情を聞きながらも、支度は順調に進んでいく。
女性が着るには聊か珍しい、詰襟に燻し金釦をあしらい、ジャケットを思わせる白を基調としたデイドレスは、華美な装飾をそぎ落とし、代わりに襟や袖、裾などに金糸の刺繍を用いて複雑な模様を描き、華やかさを出している。
濃紺の花の刺繍がスカートを繊細に彩り、白地のスカートの下に重ねられた濃紺の生地がドレス全体にめりはりを出し、動く度に裾から覗くことで、可憐でありながらも上品な装いに仕上がっていた。
最後は結わえた髪に濃紺のリボンバレッタを付け、足元は歩きやすいようにヒールの低い白のブーツを履く。
あとは程よく化粧を済ませれば、狩猟会への準備は完了だ。
「さぁ、出来ましたわ。若旦那様の準備も終えて御座います。では、わたくしはその他の準備の確認をさせていただきますね」
「ええ、わかったわ」
マイアが侍女たちを連れて部屋を退出していく中、アルーラは部屋に置かれたチェストへ目をやると、ゆっくりと近づいて一番上の段を開ける。
そして、そこに保管されていたある物を手に取ると、手のひらで軽く転がしながら、誰に向けるわけでもなく小さく頷いた。




