第二十六話 狩猟会は、密やかな嫉妬と共に
王家の保有地――エルセリオンの森。
月待ちの森とも呼ばれ、かつて銀色の体毛を靡かせた神の如き大鹿が、冬の新月にのみ姿を現し、まるで姿を見せない春に焦がれるように黒く染まる夜空を仰いでいたという伝承が残された地だ。
その大鹿は、今もこのエルセリオンの森の奥深くに居るというが、見る限りでは伝承のような神聖さは感じられず、緑豊かなごく普通の森である。
王家によって管理されている為、森とはいっても浅い所は程よく整地され、意外と見通しが良い。
奥に行けば行くほどに鬱蒼としていき、特殊な結界によって阻まれた禁止区域のさらに向こうには、普段では目にすることのないような強力な魔物が跋扈しているという。
騎士たちに案内された森の入り口付近には、王城に繋がる煉瓦の道が敷かれ、そこから大きな天幕をいくつも設置できるくらいにはぽっかりとした平地が広がっていた。
森へ繋がる道などが整っていることから見ても、魔物が蔓延る前には定期的に狩猟会が行われていたのだろう。
長い歴史の中で、ある日突然現れた魔物という脅威に、当時の人々はどれほど生活を変えていかねばならなかったのか、当時の名残を踏みしめながら、アルーラは遥か昔の苦労に思いを馳せる。
「春らしい陽気に雲一つない空、絶好の狩猟日和ですわね」
アルーラが扇を額にかざして目元に日陰を作りながらもそう言えば、フィデルは口元に僅かながらの笑みを浮かべて小さく頷いた。
「あぁ。風も穏やかで気候も安定している。空を見る限り、当分は雨が降り出すこともなさそうだ」
広場に設置された色とりどりの豪奢な天幕は、この催しが王家の主催ということもあって、すべて王家が準備したものだ。
広さはそれぞれ十分にあり、中は過ごしやすいように椅子や机が置かれ、十分な休息が取れるようになっている。
会話を弾ませながらも割り当てられた天幕に足を踏み入れると、既にロキとイネスが椅子に座り談笑しており、その脇で王宮の使用人が卒なく持て成しの準備を整えていた。
アルーラたちが入ってきたことに気づくと、ロキたちは一旦会話を止めてこちらへと視線を向ける。
ロキは朗らかな笑みを浮かべながら、軽く手を上げて二人を歓迎した。
「やぁ、二人とも。良い朝だね」
「お義父様、お義母様、ご機嫌よう。昨日は色々とありがとうございました」
アルーラが改めて礼を述べると、ロキたちは軽く首を振りながらもアルーラたちに紅茶を勧め、この後の予定を話し合った。
アルーラとイネスは特設の鑑賞席にて貴族夫人たちと談笑を交えながら狩猟を鑑賞し、狩猟会へと参加する貴族たちは、王の挨拶を終えた後でそれぞれ装備を整えて森へと入る。
参加者は決められた範囲の中で時間内に魔物を見つけ、討伐して持ち帰る。
森の中に生息している魔物は、狼や鳥、兎系の魔物が多く、大物であれば猪や熊系の魔物も居るという。
定期的な間引きにより、危険すぎる魔物は浅い場所には居ないというが、この森は広大で禁止区域もあるような場所である。
いくら騎士たちがある程度安全を確認しているとはいえ、油断をすれば危険なことには変わりないのだ。
魔物が存在しなかった頃、こうした場で獲物を狩ることで武勇を競い、その成果を妻や婚約者へと捧げることで愛を量ったという。
アーネスト殿下が狩猟会を復活させたのは、自身の婚約者へ向けた確かな愛の形を示そうという、少しばかり邪な思いも混じっている。
しかし、こうした試みは貴族として華やかさを求めるだけでなく、武を示すことで武を重んじる家々への配慮もあったのだろう。
やはり通常の社交のみでは図り切れないこともある。
特に軍事に関わる家や、辺境を守る者たちが中央の貴族たちに力を示す場を設けることで、中央と辺境の確執が明確に表面化するのを避けたい意思もあるはずだ。
騎士団に所属している者の中でも、フィデルのように家を背負う者たちに関しては、騎士として警備に当たるのではなく、貴族という立場で狩猟会に参加することになっている。
その為、周辺の警備は第一から第四までの騎士団が、それぞれ抜けた団員を補うように団結して、周辺の警備にあたっていた。
「フィデル様は元々魔物を討伐される第三騎士団に配属されておりましたわよね。今日は独壇場なのでは?」
「いや、残念ながらそうはいかないだろうな。第三騎士団の連中も貴族籍にいる者は参加するようだし、しばらく護衛任務で魔物を狩っていないから、腕が訛っていそうだ」
天幕の中で一息ついた後、フィデルは装備を整え、腰に剣を差して背には弓を背負った。
動きやすい狩猟服は森の中でも目立つようにと、赤を基調とした騎士服に近いデザインの物だ。
参加者は皆赤い狩猟服を身に纏い、互いに獲物と間違えて弓などを誤射しないようにとの配慮であるが、赤は目に入りやすい分、魔物を惹きつける。
昔ながらの様式に則った華やかでありながらも厳かな衣装ではあるが、危険度から言えば、魔獣のいなかった頃と比べれば目を惹く分、魔物に襲われやすくなるだろう。
参加しているのは基本的に腕に覚えのある者たちばかりだから問題はないだろうが、それでも一抹の不安が胸を過った。
「赤の衣装はフィデル様によくお似合いですけれど、森の中では少々目立ちますわね。森の中で危険はないのでしょうか」
「今回に関しては、色で魔物を惹きつけるよりも、味方に気づかれないことの方が良くない。万が一誤射で相手を傷つけたとなると、家も巻き込んで後々引きずることになりそうだ。特に今回はアーネスト殿下も参加される……ある程度は仕方ないだろう」
「自身の危険よりも家同士の問題の方が優先というわけですね……。なんとも世知辛いといいましょうか」
アルーラが呆れた様子でそう言えば、フィデルは苦笑しつつも自身の装備を確かめると、椅子から立ち上がって天幕を出る。
彼に続いてアルーラも外へと出ると、既に外は参加者だろう、赤の衣装に身を包んだ者たちが今か今かと狩猟会の始まりを待っている。
今までの祝祭にはなかった新しいとも言える試みに、自身の腕を周囲に知らしめることが出来る機会だと張り切っている者も多いようだ。
この狩猟会という場は、意中の女性にアプローチできる絶好の場とも言える。
独身男性の中には、そういったことも視野に入れていたのか、実に気合が入った装いの者も居た。
そんな中、フィデルの衣装は既婚者ということもあり、飾り気のない極々シンプルな狩猟服であった。
しかし、そのシンプルさが余計に彼の容貌を引き立て、赤という鮮烈な色味が、逆に華やかさを生み出している。
騎士服に似たデザインは、独特なストイックさと色気を両立させ、周囲の女性たちの目を惹く。
フィデルは騎士の中でも特別容姿が涼やかで、男性でさえ目を奪われるような男らしくも精悍な体躯の持ち主だ。そんな彼が普段着ることのない色を纏えば、当然目立つに決まっていた。
彼の隣に並び立つと、不躾な視線が普段よりも増えているのがわかる。
アルーラにとって、そういった視線というものは慣れたものではあったが、自身のことに無頓着な彼へと向けられているとなれば、また話が違う。
フィデルに邪な視線を送る者たちに気づいたアルーラは、そんな彼ら、彼女らにゆっくりと、かつ妖艶に微笑み、牽制する。
アルーラ自身の精霊に例えられるほどの美貌を全力で使うと、それだけでフィデルに向けられた不躾な視線の数が減った。
――フィデルの隣を飾ることができるのは、自分以外にはあり得ない。
一瞬そんな思いが過るが、アルーラはすぐに我に返り、無意識に持っていた扇を強く握りしめた。
今まで、こんな思いなど感じたこともなかったというのに。
アルーラは、胸の中にじわりと湧き出でた濁った感情に、目を背けてしまいたくなった。
この気持ちに真正面から向き合うことで、今まで過ごしてきた日々が同時に蘇り、アルーラの心をこれでもかと揺さぶるからだ。
数日の間に感じた、フィデルという人物の本当の姿。会話し、共に過ごすことで理解した、彼が持つ本来の魅力。
そんな彼に早々と絆されていることに、過去の出来事についた心の傷が、決して認められないとでもいうように疼く。
そんな、一種の矜持が邪魔をして素直にはなれないでいることにもまた、気づかされてしまう。
ただの視線にさえ嫉妬してしまうなんて、なんと欲深いのか。
自分の中の認識が塗り替えられているという事実に、アルーラは改めて気づかされては心を騒めかせていた。
そんなことを思案しながらも、アルーラはフィデルと共に、森前に用意された狩猟会の会場の中で貴族たちに交じり、王族たちが来るのを待っていた。
すでに観覧席の用意がされ、周囲には魔獣が近づけないように魔獣除けが焚かれている。
さらに魔術師たちが結界を貼り、警戒は万全のようだが、それでも魔獣が跋扈しているだろう森の前とあって、不安からか顔色の悪い女性もいた。
アルーラとは違い、戦う術を持たない中央の貴族令嬢たちからすれば、このような場に出ることなど滅多にないのだ。
彼女たちは気丈にしつつも、どことなく不安げに肩を寄せ合っていた。
しばらくして、この狩猟会の主催でもあるアーネストが現れると、浮足立っていた空気が自然と静まる。
春らしい柔らかな陽光の中で、王族特有の深紅の髪が艶やかに靡くと、アーネストは髪を手で軽く整えつつも、集まっていた貴族たちに向けて口を開いた。
「此度は祝祭に合わせて、かつて我々の先達たちが行っていた古き風習を掘り起こし、再び慣習化するための催しとして、この狩猟会を開いた。魔獣が居なかった頃の世界というのは、今では想像もつかないが、我が祖先が獣を狩り、己だけの女神に捧げたように、我々もまた各々が持つ武を以てして魔物を屠り、その成果を捧げようではないか!」
アーネストがそう言って持っていた剣を掲げると、参加者たちは皆一様に己の剣を頭上に掲げ、アーネストの言葉に答えるように声をあげた。
――狩猟会の、始まりだ。




