第二十一話 在りし日の思い出
翌日は雨の気配もなく、雲ひとつない空がどこまでも青く澄み渡っていた。
身支度を整えた二人は、昼前に屋敷を出て別邸へと向かう。
侯爵家ともなれば所有する敷地は広大で、同じ敷地内であっても別邸へ赴くには馬車が必要だった。
本邸を出た馬車が、舗装された煉瓦造りの並木道をゆっくりと進んでいく。
馬の蹄が煉瓦を叩く乾いた音に混じり、車輪の重々しい回転音が静かに響いていた。
陽が高くなる頃には春先の肌寒さも和らぎ、わずかに開けられた車窓からは、湿り気を含んだ柔らかな風が青々とした草の香りを運んでくる。
アルーラが風に煽られた前髪を指先で整えながら向かい側へ視線を向けると、フィデルがじっとこちらを見つめていたらしく、ふいに目が合った。
互いにわずかな間を置き、どちらからともなく気まずそうに視線を逸らす。
だが、そこに以前のような刺々しさはなく、代わりに漂っているのは、どこか落ち着かず、それでいて甘く浮ついたような空気だった。
「……今日は」
「は、はい」
「その、いい天気だな」
「そう、ですわね」
あからさまに緊張されてしまえば、アルーラまでその空気に呑まれてしまう。
結局、言葉少なな返事しかできず、次へ繋がる言葉も思いつかないまま、束の間の沈黙が車内を満たした。
昨日、馬車の中で弱音を吐いてしまったことへの気まずさもあるのだろう。
フィデルは終始、狭い車内でどこか居心地悪そうに身じろぎしながらも、どうにか空気を和らげようとしているのか、不器用に会話の糸口を探しては言葉を投げかけてくる。
会話もそこそこに、なんとはなしに二人して車窓の外へ目を向ければ、並木道の樹々の合間から、美しく剪定された庭園が垣間見えた。
草木は遠目にもわかるほど瑞々しく、春の陽光を喜ぶように色とりどりの花々が咲き誇っている。
庭園では数人の庭師たちが剪定作業に勤しんでおり、馬車の音に気付くと手を止め、深々と礼を取りながらその姿を見送っていた。
しばらく馬車を走らせた先にあった別邸は、敷地内でも特に木々が生い茂る林の傍らに建てられており、暖かみのある赤煉瓦造りの、どこか落ち着いた佇まいを見せていた。
貴族の別邸としての体裁もしっかりと保たれており、品の良い外装に加え、庭園も本邸に劣らぬ美しさを誇っている。
今を盛りと咲き誇る花々が大輪を広げ、庭を鮮やかに彩っていた。
本邸とは異なる趣に、初めて訪れたアルーラは口元をそっと押さえながら感嘆の息を漏らす。
「別邸に来たのは初めてだったか」
フィデルの問いかけに、アルーラは小さく頷いた。
「ええ。お義母様方がいらっしゃることも考え、これまで訪問は控えておりましたけれど……本邸とは随分と趣の異なる造りをしておりますのね」
「数代前の当主の趣味だったそうだ。ルース領の農村にあるカントリーハウスをモチーフに建てられたらしい。いつでも領地を感じられるようにと、屋敷の周囲に植えられている草花も、ルース領でよく見られるものを好んで選んだと聞いている」
「そのご当主は、領地を深く愛しておられたのですね」
「ああ。ルース領はエラシルクの生産に適した、気候の乱れが少ない土地なんだ。風通しも良く、とても過ごしやすい場所だからな。私もここへ来ると、領地が懐かしくなる」
柔らかな風に乗って届く、青々とした草花の芳香。
ルース領に広がるマルベリー畑を思わせるその香りに、フィデルはふっと表情を和らげながら、遠く離れた故郷へ思いを馳せていた。
「わたくしも緑の多い土地で育ちましたから、そのお気持ちはよくわかりますわ。ここは……わたくしの知る農村の空気によく似ていますもの」
ふわりとなびく髪を手で押さえながらも、アルーラはどこか懐かしさを覚える光景に目を細める。
精霊の森を守護する役目を担うオルティス伯爵家は、この国のどの貴族家よりも特殊であり、同時に周囲には理解され難い事情を数多く抱える一族だった。
生まれた子供たちを婚姻という形で広く国へ送り出すことも、精霊の森と共に在り続けるという在り方も、そのすべてはオルティスの血に流れる特別な宿命に起因している。
だが、その真実を知る者は極めて少ない。
幼い頃、歳の近い姉妹たちと共に精霊の森へ入り、そこで見聞きし、経験してきた数々の出来事もまた、他者には容易に理解できるものではなかった。
軽々しく口にしてよい話でもない。
夫となったフィデルにさえ、そのことを話すのは、もう少し先になるだろう。
そんな昔の記憶を思い返しながら、アルーラはフィデルの後に続いて別邸へと足を踏み入れた。
家令と侍女に案内されて応接間へ入ると、すでに身支度を整えたロキとイネスが、穏やかな笑みを浮かべながら二人を迎える。
「二人とも、よく来たね」
「昼食はもう済ませてきたのかしら? 何か用意させましょうか?」
さっそく二人をもてなそうとする夫妻だったが、フィデルが丁重に辞退すると、少しだけ残念そうな表情を見せながらも、本題へと話を移した。
「フィデル。明日の狩猟会で使う武器を選んでいくといい。お前がいつも使っている大剣では、森の中では少々振るいにくいだろう?」
狩猟会の舞台となるのは、王家が所有する広大な森である。
木々に均等に陽光が届くよう人の手が入れられているとはいえ、それは比較的浅い区域の話だ。
奥へ進むほど木々は密集し、大剣を振るえば周囲の樹木を無用に傷つけてしまう可能性もある。
そんなことを気にしながらでは、本来の力を十分に発揮することは難しいだろう。
フィデルの主武装は大剣だが、決してそれしか扱えないわけではない。
父であるロキほどではないものの、多様な武器を使い分けることで、相手となる魔獣に応じた有効な戦い方を選択できる。
幼い頃からロキの指導を受けてきたこともあり、フィデルもまた、複数の武器を器用に扱うだけの技量を身につけていた。
「そうですね……では、ロングソードと弓を見繕わせていただこうと思います」
「では、武器保管庫へ向かうとするか。アルーラ、君はどうする?」
ロキの問いに答えたのは、アルーラではなくイネスだった。
「アルーラさんは、わたくしがお預かりしますわ。色々と、お話ししたいこともありますもの」
そう言って、イネスは紅茶で唇を湿らせながら、自身の夫へにこやかな笑みを向ける。
好きな武器の話となれば際限なく熱中してしまうロキの性分を考えれば、アルーラを付き合わせるつもりはない――そんな意味を含んだ微笑みだった。
ロキは妻の意図を察したのか、軽く肩を竦める。
「わかったよ。フィデル、行こうか」
苦笑混じりにそう返すと、フィデルを伴って応接間を後にした。
一方、イネスと二人きりになったアルーラは、どこか落ち着かない様子でソファに腰掛けながら、向かいに座る彼女を見つめる。
イネスは嬉しそうに侍女へ小声で指示を出し、侍女が一礼して去っていくのを見届けると、改めてアルーラへ向き直った。
「今日はお天気も良いことだし、ガゼボで二人きりのお茶会にしましょう? あそこから見える庭園の景色は、この時期が一番美しいの。あなたもきっと気に入るわ」
「は、はい。お義母様」
立ち上がったイネスの後に続いて応接間を出ると、軽く世間話を交わしながら目的地であるガゼボへと向かう。
そこではすでに使用人たちによってお茶会の支度が整えられていた。
赤煉瓦造りの温かみを感じさせながらも、どこか洗練された趣を持つガゼボの中央には、優雅なテーブルとチェアが配置されている。
その上には繊細な意匠が施された美しい茶器と、可愛らしく彩られた菓子が並べられていた。
おそらくイネスがあらかじめ用意していたのだろう。
並べられた茶器も菓子も、どれもアルーラの好みに合うものばかりだった。
「さぁ、座ってちょうだい」
イネスに促され、アルーラはその向かいへと腰を下ろす。
やがて侍女が、数種類の茶葉と湯を入れたポットを載せたティーワゴンを押して現れると、静かに二人の傍らへ歩み寄り、丁寧に一礼した。
ガゼボから見渡す庭園では、昼の陽光を浴びた花々がいっそう鮮やかさを増し、生命力に満ちた姿で柔らかな風に揺れている。
イネスが言っていた通り、人の手によって丹念に整えられながらも自然な美しさを失わないその庭園は、この季節ならではの豊かな色彩に彩られ、まるで草原の中に現れた花畑を思わせるような、朗らかで穏やかな空気を纏っていた。
「この庭園はね、ルース領の屋敷から見える景色を参考にしているの。王城の隙なく整えられた絢爛な庭園も見応えがあるけれど、わたくしはこちらの方が好きだわ。目にも心にも優しくて、いつまでも眺めていられるもの」
「……わたくしも、そう思いますわ。とても暖かみのある、素敵なお庭ですもの」
子どもの頃に駆け回った草原を思い起こさせる、どこか懐かしさを帯びた景色に、アルーラの口元にも自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
イネスに勧められた春摘みの茶葉を味わいながら、目で、舌で春の訪れを感じつつ、二人は他愛のない話に花を咲かせた。
イネスとアルーラは気質がどこか似ているのだろう。
彼女と過ごす時間は心地よく、またアルーラ自身に様々な気づきを与えてくれる実り多いものだった。
そうして穏やかで充実した時間は過ぎ、お茶会も終盤へ差しかかった頃、不意にイネスの表情へかすかな陰りが差す。
「……あなたには、ずっと伝えなければならないことがあったの。フィデルがあれこれ拗らせている間、あなたを一人きりで屋敷に残してしまったこと、本当に申し訳なく思っているわ」
「そんな、お義母様が謝ることではありませんわっ」
真摯な謝罪に、アルーラは思わず身を乗り出すようにして言った。
「これは言い訳にしかならないのだけれど、わたくしたちが間に入れば、余計に収拾がつかなくなると思ったの。あの子は馬鹿だけれど、愚かではないと知っていたから」
イネスはそこで小さく息を吐く。
「でも……女性に慣れていない分、どう接していいのかわからなくなっていたのね。きっと、大切なものをどう守ればいいのか、そればかり考えていたのでしょう。本当に、馬鹿な息子だわ」
そう言って今度は大きくため息を吐くと、イネスは眉間へ指先を当て、無意識に寄っていた皺をほぐすようにそっと撫でた。
「あの子はね、昔からそうなの。大切なものは、大事に仕舞っておけばいいと思っているのよ」
懐かしむように目を細めながら、イネスは続ける。
「昔、あの子へ贈り物をしたことがあったのだけれど、その時もとんでもないことをやらかしたの。――本当に驚いたのよ」
そうして語られ始めたのは、フィデルの幼い頃の話だった。
フィデルは、病弱だった母に似ることなく、幼い頃から健康そのものだった。
しかし剣の鍛錬ばかりに興味を示し、物欲らしい物欲をほとんど持たない子どもだったらしい。
そのことを、当時のイネスは少しばかり心配していたのだという。
子どもであれば様々なものに興味を持ち、あれが欲しい、これが欲しいと無邪気に親へねだるものだ。
だがフィデルは、そんな子どもらしい欲求よりも騎士への憧ればかりを抱き、暇さえあれば鍛錬場へ通っては、騎士たちの真似をして剣を振っていた。
そんな彼を侯爵家付きの騎士たちも可愛がるようになった。
鍛錬ばかりに興味を示す少年へ、少しでも子どもらしい遊びを教えようと思ったのだろう。
自分たちが幼い頃に夢中になった遊びを教え、時には領内の山や川へ連れ出した。
一介の騎士たちが領主の息子を遊びに連れて行くなど、身分よりも人柄を重んじるルース侯爵家ならではの光景だろう。
しかしロキは、それを咎めることなく笑顔で送り出した。
それはある意味、ルース侯爵家に古くから受け継がれてきた風習でもあり、ロキ自身もまた幼い頃に経験したことだったからだ。
イネスもまた、王家の教育とはまるで異なるそのおおらかさに、当初は驚かされたという。
けれど、子どもらしく目を輝かせ、無邪気にはしゃぐようになったフィデルの姿を見ているうちに、それを微笑ましく見守るようになった。
しかし、そればかりでは貴族として必要な教養が身につかないと考えたイネスは、ロキと相談し、フィデルへ宝石箱を贈ることにした。
身を飾る宝飾品を収める箱は、貴族としての嗜みや美意識を養う助けにもなる。そうした品に自然と触れる機会を作りたい――そんな願いを込めて贈ったのだ。
――それは、夏が始まってしばらく経った頃のことだった。
フィデルの衣裳部屋から、絹を裂くような悲鳴とともに大きな物音が響いた。
続いて聞こえてきたのは、普段は規律正しく振る舞う侍女たちの、半ば悲鳴にも似た騒ぎ声だった。
いったい何事かと、イネスはロキと共に急いで衣裳部屋へ向かった。
そして扉を開けた先に広がっていたのは――
「――蝉の抜け殻でびっしり埋め尽くされた宝石箱と、青白い顔で気絶している侍女……とにかく、言葉では言い表せないほど酷い光景だったわ」
当時を思い出したのか、イネスは顔を引きつらせながら肩を震わせた。
「あの子、森へ遊びに行った時に、騎士たちから蝉の抜け殻がどれほど格好いいものか、散々吹き込まれたらしいのよ」
深々とため息を吐きながら、イネスは続ける。
騎士たちから蝉の生き様や独特の造形美について熱心に語られたフィデル少年は、すっかり感銘を受けてしまったらしい。
それ以来、時間があれば森へ足を運び、せっせと抜け殻を集めるようになった。
「それに、宝探しみたいに見つけるのが楽しかったのでしょうね。見つけるたびに持ち帰っては、大事そうに宝石箱へ詰め込んでいたらしいの。あの子にとっては、宝石も蝉の抜け殻も同じくらい価値のあるものだったのでしょうね」
「そ、それは……」
宝石箱いっぱいに詰め込まれた蝉の抜け殻を想像し、アルーラは思わず身を震わせた。
しかも、それが一つや二つではなく、宝石箱いっぱいに詰め込まれていたのだとしたら、侍女たちが悲鳴を上げたのも無理はない。
子どもらしい微笑ましい失敗談ではあるが、できれば目にしたくはない光景だった。
「何も知らずに宝石箱を開けた侍女は、その場で気を失ってしまったし、他の子たちもあまりの惨状に近づきたがらなくてね。最終的には、フィデルに吹き込んだ騎士たちに回収させたわ」
「その場に居合わせた皆様には、心から同情いたしますわ……」
「わたくしも意識が飛びそうになったもの。もう二度と見たくないわ」
イネスは当時を思い出したのか、うんざりしたように肩を落とした。
どうやらフィデルは、宝石箱を“大切なものを仕舞う箱”だと認識していたらしい。
夏の勲章とでも思っていたのだろうか。集めた蝉の抜け殻を、それはもう大事そうに保管していたという。
その後、イネスに叱られたフィデルは、何が悪かったのかも理解できないまま、不服そうな顔で騎士たちと共に抜け殻を森へ埋めに行ったそうだ。
ロキは大笑いしながらもそれを手伝い、落ち込むフィデルを慰めていたらしい。
その話を聞く限り、ロキもまた幼い頃に似たようなことをやらかした経験があるのだろう。
「蝉の抜け殻だけじゃないのよ。あの子、大切だと思ったものは何でも仕舞い込んでいたわ」
イネスは指折り数えるように続ける。
「その辺で見つけた綺麗な石とか、剣みたいな形の枝とか、先の尖ったどんぐりとか……本当に何でもよ」
「それはまた、とても子どもらしいですわね」
憧れの騎士たちに教えられた遊びに夢中になる気持ちは理解できる。
なんでも素直に信じてしまう年頃だったのだろう。
貴族らしからぬ野遊びも、少年の好奇心をくすぐるには十分すぎるほど魅力的だったに違いない。
イネスは微笑ましくも少々頭の痛い思い出を語りながら、どこか遠くを見るような目で苦笑した。
「そういうわけでね、あの子は昔から、大切なものほど仕舞い込んでしまう性質なのよ」
そこでイネスは紅茶をひと口飲み、意味ありげな微笑みを浮かべる。
「つまり、何が言いたいのかというと――あなたも、仕舞われていたのよ」
「……えっ?」
思いもよらない言葉に、アルーラは戸惑いを隠せず、淑女らしく取り繕うことも忘れてぽかんと口を開けた。
そんな彼女の反応に、イネスは困ったように頬へ手を当て、再び小さくため息を吐く。
「おそらく、あの子自身も無意識だったのでしょうね。あなたを大切だと思っていたからこそ、屋敷という箱の中へ大事に大事に仕舞い込んでしまったのよ。まったく……いい歳をして、そういうところは子どもの頃から何ひとつ変わらないのだから」
「……わたくしが、大切だから?」
「信じ難いでしょう?」
イネスは苦笑を浮かべると、椅子の背もたれに寄りかかりながら肩を竦める。
「でもね。ずっとあの子を見てきたわたくしにはそう見えたの。ルース侯爵家の者は皆不器用だけれど、一途なのよ。伴侶だと認めた相手を囲わずにはいられない。本当に、困ってしまうほど独占欲が強いのだから」
肩を竦めながら呆れたようにそう語るイネスの表情は、息子の不甲斐なさに嘆きながらも、どこか穏やかだった。
それは、彼をそうさせている理由を知っているからだろう。
「ルース侯爵家の者はね、昔から伴侶を直感で選ぶと言われているの」
「直感で選ぶ……それは、いったい――」
静かに語られたその言葉に、アルーラは思わず姿勢を正した。
「驚くような話なのだけれど、初代当主の血筋は、今では姿を消したと言われている獣人へと繋がっているのよ」
獣人――。
かつて、人の姿を持ちながら獣の特徴と強靭な肉体を備えた種族がいた。
ひとたび腕を振るえば木々を薙ぎ倒し、大地さえ抉るほどの力を持つと語られている存在だ。
長い歳月の中でいつしかその姿は失われ、今では物語の中でしか語られない伝承となっている。
だが、その血は確かにルース侯爵家の中に受け継がれていた。
「この話を知ることを許されるのは、ルース侯爵家の血を引く者と、その伴侶となる者、あとはルース侯爵家に代々仕えている専属医師の一族だけよ」
イネスは声を落としながら続ける。
「もっとも、今では婚姻を重ねるにつれて血も随分と薄くなってしまったわ。影響なんてほんの僅かで、ほとんど普通の人間と変わらないらしいの」
本来、獣人というものは“番”を見つけると、その相手だけを深く愛し、掌中の珠のように大切にする生き物なのだという。
古い文献や物語にも、そうした性質はたびたび記されているらしい。
けれど、長い年月をかけて血が薄まるにつれ、獣人としての本能は人としての理性に抑え込まれ、代わりに身体能力の高さや直感の鋭さだけが受け継がれていった――それが、代々ルース侯爵家に仕えてきた専属医師の一族による見解なのだと、イネスは語った。
だからこそ、今のルース侯爵家は政略結婚であっても相手を選ばず受け入れることができる。
だがその一方で、人と交わることで獣としての本能と人としての理性がぶつかり合い、ときに歪な摩擦を生むこともあるのだという。
「ルース侯爵家の者は、実直な者が多くて周囲から慕われる傾向にあるけれど、その反面、人間関係で色々と躓くことも多いみたいなの。直情的な獣人の気質と、理性ありきの人間の在り方が、うまく噛み合わないこともあるのでしょうね」
イネスは肩を竦め、少し呆れたように笑った。
「とくに伴侶に対しては厄介よ。妙に拗らせて素直になれなかったり、逆に相手に執着しすぎて、付きまとってしまうほど入れ込んでしまったり……本当に、極端な一族なのだから」
「では、フィデル様の行動も……その血によるものなのですか?」
「まあ、原因の一つではあるのでしょうけれど……大半は、あの子自身の不甲斐なさが原因だから、あなたが変に気に病む必要はないわよ。まったく、あの情けなさはいったい誰に似たのかしら」
ルース侯爵家の事情を語るイネスは、呆れたような口ぶりの中にも、どこか愛おしさを滲ませていた。
どこまでも一途で、けれど愛情表現が過剰だったり、素直になれなかったりする――そんな一族の気質を、イネスは伴侶として身をもって知ってきたのだろう。
「でも、慣れてしまえば可愛いものよ? あなたもいずれわかるわ」
「……お義父様を可愛いと思えるような出来事でも、あったのですか?」
思わずそう問い返すと、イネスは口元へ人差し指を添え、その美しい容貌にいたずらめいた笑みを浮かべた。
「ふふ、内緒」




