第二十話 馬車の中、名前を呼んで
その後も、アーネストとルーンによる説教混じりの雑談はしばらく続き、ようやく解放された頃には、随分と時間が経ってしまっていた。
夜会そのものはまだ続いていたが、自身の不甲斐なさを延々と説かれ続けたフィデルは、相当精神的に疲弊しているようだった。
「もう帰りましょうか?」
「そうだな……今日は、色々と疲れた」
大きくため息を吐きながら肩を落とすフィデルに、アルーラは少し申し訳なく思いつつも、小さく笑みを零した。
「ああして親身になって叱ってくださる方がいるというのは、良いことですわ。それほどまでに、あなた様を大切に思っている証ですもの」
「あれは、ただ単にからかいたかっただけのような気もするが……まあ、そういうことにしておこう」
アルーラたちは会場でフィデルの両親を見つけると、軽く言葉を交わし、一足先に馬車に乗り込むと夜会を後にした。
帰り際、イネスから「明日、二人で別邸へいらっしゃい」と声をかけられたことで、空白だった翌日の予定が埋まる。
いったい何の用だろうとアルーラが首を傾げていると、フィデルはおそらく狩猟会に関する話だろうと口にした。
「父上は武器防具の収集家でね。趣味で集めた武器や防具、それに狩猟用の道具なんかが、別邸にはこれでもかというほど揃っているんだ。好きなものを持っていけ、ということなんだろう」
「そういえば、お義父様も現役の騎士でいらした頃は、大変ご活躍されたと聞いておりますが……」
「ああ。父も深紅の騎士団に所属していた頃は、魔物相手に随分派手に暴れていたそうだ。見た目は完全に文官のようなお人だが、とにかく身軽で立ち回りが上手い。それに何より速い。そして、多彩な武器を扱うことで相手を翻弄し、対策を取らせにくくするんだ。……そのせいもあって、私と父上は相性があまり良くない」
「そうなのですね……」
騎士を多く輩出してきたルース侯爵家の当主として、ロキ自身もまた、長く戦場に身を置いてきた人物である。
フィデルよりも細身の体格ということもあり、外見だけを見れば文官のようにも見えるロキだが、その身軽さを活かした戦闘技術と、多彩な武器を使いこなす柔軟さによって、騎士たちの間でも高い評価を得ていると聞く。
一方、フィデルは恵まれた体格を活かした大剣術を得意としていた。
ときには大剣すら盾のように用いながら敵を弾き飛ばし、その隙を逃さず豪快に斬り込むことで相手を圧倒する。
大剣は、一振りごとの威力こそ凄まじい反面、その分動きは大ぶりになりやすく、隙も生まれやすい武器だ。
だからこそ、身軽で手数の多いロキと手合わせをすると、フィデルはいつも翻弄され、気付けばあっという間に転がされてしまうのである。
過去の手合わせを思い返したフィデルは、思わず苦々しい表情を浮かべた。
ルース侯爵家では、どのような形であれ、“常に強くあれ”という精神を何よりも重んじている。
初代から受け継がれてきた剣術も、極めれば王を守護するに相応しい強靭さを得られるが、その一方で、個人の体格や素質によっては、かえって毒となり得る場合もあった。
本来持っている才能を潰してまで型を叩き込んだとしても、その者自身の力を十分に発揮できなければ意味がない。
だからこそ、自らを見つめ、自身に最も適した戦い方を見出し、それを力へと昇華していくことこそが、ルース侯爵家では推奨されているのだ。
本来、一族にとって初代から受け継がれている剣術の技術は宝のようなものだが、それでも使えなければ意味がないと言い切った初代の豪快さがあるからこそ、ルース家は侯爵家まで上り詰めたのだろう。
「明日の予定は決まったからいいとして、今日は……色々とすまなかった。君には迷惑をかけてばかりだな」
そう言って肩を落とすフィデルに、アルーラは苦笑しながらも軽く首を振った。
「こうなることは予想していたではありませんか。アーネスト殿下からの謝罪もありましたし、ミラ殿下はご自身の言動によって、さらに立場を悪くされることでしょう。しばらくは、わたくしの顔も見たくなくなるかもしれませんね」
「アーネスト殿下からも叱責されるだろうから、これで少しは大人しくなってくれるといいのだが……。本来であれば、大元の原因でもある私が直接彼女を諫めるべきなのだろう。だが、何を言っても都合よく解釈されて、好意として受け取られてしまうものだから、下手なことも言えなくてな」
「おそらく、ご自身に都合の良い言葉しか耳に入らないのでしょうね」
アルーラの言葉に頷きつつも、フィデルはどこか遠くを見るように馬車の窓の外へ視線を向け、疲れたように息を吐いた。
「……私の何が、彼女をそこまでさせてしまったのだろう。思い当たる節などないし、彼女をそういう目で見たこともなかった」
守るべき王族、時には年下の従妹として、フィデルはミラに親しくも節度ある接し方をしてきた。
アーネストやレイナードと歳が近く、なおかつ親戚ということもあって、フィデルは幼い頃からよく王城へ連れて行かれていた。
そのため、生まれた頃から側にいたミラは、兄のように接してくれる彼によく懐いていたのである。
フィデルもまた、一人っ子だったこともあり、素直に懐いてくる幼い少女を愛らしく思い、妹のように可愛がっていた。
無邪気にフィデルの後を追いかけては転び、泣き出してしまうものだから、そのたびによく手を引き、アーネストたちの元まで連れて行ってやったこともあった。
『フィデルお兄さま……わたくし、泣いてないのよ。だって、しゅくじょはひとまえで泣かないのだもの』
『フィデルお兄さま! ねぇ、このあいだしてくれたみたいにだっこしてくださる? くるくるって回るのもいっしょにね!』
『大すきよ! フィデルお兄さま!』
薄暗い馬車の中で、思案するように目を閉じれば、ずっと昔――まだミラが幼かった頃の光景が、フィデルの脳裏を過っては消えていく。
満開に花が咲く王城の庭を小さな足で駆け回り、花へ近づく蝶を追いかけては、ひらひらとスカートを揺らしていた。
頬を撫でる風の心地も、漂う花の香りも、そしてミラの幼い笑い声さえも、鮮明に思い出せるほどにフィデルの中で今なお色濃く息づいている。
そう、あの頃のミラは、ころころと愛らしく笑う少女だったはずなのに。
いつしか彼女は、フィデルの思う“家族のような関係”から離れ、一人の異性として彼を見るようになっていた。
仄かに色づいていた想いは、長い年月の中で少しずつ形を変え、決して叶うことのない感情は、やがて思慕から執着へと姿を変えていったのだ。
叶わないのなら、せめて繋ぎ留めておきたい――そう願うかのように。
ミラはどこまでも身勝手にフィデルという存在を求め、彼の人生へ横槍を入れてまで、自分の側へ縛り付けようとしていた。
王族という立場から命じられてしまえば、国に仕える者として、自らの感情を呑み込み、受け入れなければならないことの方が多い。
たとえ血縁という形で王家と繋がっていたとしても、臣下としての立場がミラの命を断ることを許さない。
確かに第一騎士団に所属し、近衛という職に従事することは騎士として名誉なことであるが、決してフィデル自身が望んだものではない。
ミラの独善的な行いは、鍛錬を積み重ね、前線で魔獣を屠り、魔獣被害を減らすことで国へ貢献していきたいという彼の気持ちを、己の欲で踏み躙ったも同然であった。
「ミラ殿下のお気持ちを推し量ることはできませんが……きっと、殿下の中で、あなた様という存在が日を追うごとに大きく、眩しいものになっていったのでしょうね」
恋に落ちたきっかけなど、きっと本人にしかわからない。
胸を焦がし、己を焼き尽くすほどの想いを抱いたことのないアルーラには、彼女の感情をあくまで客観的に推し量ることしかできなかった。
フィデルは瞼を伏せたまま、どこか悔いるように眉間へ皺を寄せ、力なく首を振る。
「私は、ただ目の前のことをこなすのに必死だっただけだ。騎士になったのも、魔獣をこの手で少しでも多く討ちたいと願い、第三騎士団へ志願したのも、すべては私自身の都合で、どれほどその在り方が周囲に認められようとも……結局は、我欲に他ならない」
フィデルの歩んできた道は、確かに傍から見れば、物語に語られる騎士そのもののようだった。
常に鍛錬を怠らず、高い地位にありながらも騎士を志し、魔獣を前にしても決して臆することなく、率先して仲間たちと共に討ち果たしていく。
その姿は同僚の騎士たちからも高く評価され、周囲からは高潔な騎士だと称えられてきた。
だが、フィデル自身は決してそうは思っていない。
彼にとっては、それがルース侯爵家の者として当然の在り方だった。
フィデルだけではない。ルース侯爵家に生まれた者ならば、多かれ少なかれ似たような生き方をする。
そんな環境で育ちながら、自分だけが特別だなどと思えるはずもなかった。
それでもミラは、そんな彼にこそ輝きを見出したのだろう。
そして、その輝きを曇らせる存在として、アルーラを目の敵にしているのである。
実際には、彼の表情を曇らせているのは他でもないミラ自身だということに気づかぬまま、彼女はフィデルという存在へ執着し続けていた。
アルーラは、苦悩に顔を歪めるフィデルの手へそっと触れ、慰めるように優しく撫でた。
「ミラ殿下の置かれていた環境は、王族としては恵まれていながらも、きっと窮屈で不自由なものだったのでしょう。お忙しいお兄様方へ甘える機会も、あまりなかったのかもしれません。そんな中で、旦那様が優しく手を差し伸べていたのなら……彼女にとって、あなた様が特別な存在になっていった理由も、わかる気がいたしますわ」
「……たった、それだけのことでか?」
「感じ方は人それぞれですもの。あなた様のように受け取る方もいれば、それを救いのように感じる方もいる……ですから、あまり思い詰めないでくださいませ」
フィデルの胸の内では、様々な思い出と感情が渦を巻き、出口を見つけられぬまま、ただ滞り続けているのだろう。
美しい思い出の中にいるミラに引きずられ、今の彼女から目を逸らそうとしてしまうことに罪悪感を抱いている。
彼女を変えてしまった原因が自分にあるのだと責めながらも、我儘に振る舞い、自分を振り回す彼女へ嫌悪感を覚えてしまうことにも、さらに罪悪感を募らせていた。
そして、鍛錬ばかりに意識を向け、周囲へ目を向けられなかった過去の自分へ、どうしようもない憤りを感じているのだ。
「君には、情けないところばかりを見せているな。私は、自分が恥ずかしいよ。君に好かれるような人間ではないことを、ここ数日で嫌というほど実感した。私など、高潔とは名ばかりの、とんだ腑抜けだ」
「旦那様……」
後悔を抱けるのは、自らの不甲斐なさをきちんと自覚できた証でもある。
自身で決めた道を突き進もうとする強い意思は、ときに視野を狭める。
その弊害は、ミラへの接し方やアルーラへの対応にも表れていた。
そしてフィデル自身もまた、アルーラにそれを窘められたことで、自らを改めようと変わらざるを得なくなったのだ。
それは、彼自身にとっても、アルーラにとっても、今の関係性を思えば良い変化なのだろう。
だが、ミラにとっては決して望んだ変化ではなかった。
フィデルが変わろうとすることを受け入れられない彼女にとって、その原因となったアルーラを目の敵にするのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
狭い馬車の中で身を縮めるフィデルの姿を、アルーラはここ数日で幾度となく見てきた。
本心から反省し、自らの行いを振り返っては後悔しているその様子は、大柄な体格の男でありながら、不思議と雨に濡れた犬のようにも見える。
己の非を認めず、開き直る貴族男性も少なくない中で、フィデルが実に誠実な気質の持ち主であることは、こうした姿からもよく伝わってきた。
アルーラが、そっと撫でていた彼の手をきゅっと握ると、フィデルは驚いたように顔を上げ、彼女を見つめ返す。
薄暗い車内の中でも、彼の金色の瞳は、窓の外を流れていく街灯の光を拾い、鈍く輝いていた。
その輝きを美しいと感じながら、アルーラは彼と視線を重ねたまま、どこかおどけるように微笑む。
「確かに、あなた様は視野が狭くて鈍感で、貴族としては駄目な方だと思いますわ」
「うっ……」
「口下手で、変なところで初心で、自分のことを上手く伝えられず、すぐ逃げようとなさいますし?」
「うう……」
「わたくしからすれば、“高潔な騎士様”というより、腑抜けの方がよほどあなた様らしいとも思っておりますの」
「…………」
どんどんと顔を上げられなくなっていくフィデルに、アルーラは苦笑しながらも言葉を続ける。
「でも、それが飾らないあなた様そのものなのでしょう。……フィデル様」
そうしてアルーラは、彼の名をゆっくりと口にした。
和解したとはいえ、これまで過ごしてきた日々が脳裏を掠め、その名を呼ぶことには、どこか躊躇いがあった。
この数日も、機会を窺いながら、結局は呼べないままでいたのだ。
その名を今、アルーラは初めて、彼自身の前で静かに紡ぐ。
――もう、いいだろう。
過ぎ去った日々に囚われ、意地を張り続けるのは、向き合おうと決めた自分自身の心に対しても失礼な気がしていた。
「周囲の方々が、今のあなた様を何も言わず見守り、支えてくださっているのは、フィデル様がこれまで積み上げてこられたものが、そうさせているのでしょう。無理に飾らずとも、人が放っておけないと思うほどに、あなた様は尊い行いを重ねてこられた。でしたら、わたくしもそれを理解したうえで、腑抜けたあなた様を支えることにいたしますわ」
婚姻を結んだからといって、所詮は元を辿れば他人同士。
すぐに互いを理解し合える家族になれるわけではないことを、アルーラ自身が誰より理解していた。
だが、ルースの家名を背負うと決めた以上、その家の在り方に合わせ、自分自身の考え方もある程度変えていかなければならない。
そうすることで互いの思考を擦り合わせ、より良い夫婦としての形を築いていけるはずだ。
どの家へ嫁いでも困らぬよう教育を受けてきたはずなのに、長く放置されていたことで、随分と思考まで鈍ってしまっていたらしい。
アルーラは決意を新たにしながら、目の前で呆けたように固まっているフィデルを見つめた。
一方、突然名前を呼ばれたフィデルは、しばし呆然としていたものの、彼女の手のぬくもりを感じてようやく我に返る。
すると、じわじわと頬が熱を帯びていった。
先ほどまで暗い思考に囚われていたことも忘れてしまうほどに、彼女の口から零れた自分の名は衝撃的だったのだろう。
胸の奥に湧き上がる温かな感情に翻弄されるように、普段はあまり感情の動かない彼の表情に、隠し切れない喜びが滲んでいた。
「名前を呼んでもらえることが、これほど嬉しいと感じたのは初めてだ」
「もう、大袈裟ですわね……。実を言うと、少し意地を張ってしまって、お名前を呼ぶことを躊躇っていたのです」
アルーラは、どこか照れ隠しをするように小さく視線を伏せる。
「この数日で、わたくしたちの関係にも色々と変化があったでしょう? フィデル様からすれば、言いたいことばかり口にするわたくしを、生意気だと思われているかもしれませんけれど……実際のところ、わたくし自身も気持ちの整理が追いつかなくて、ずっともどかしい思いをしていたのですよ?」
洗練された所作と、その美貌から随分と大人びた印象を与えるアルーラだが、その内面には、まだ少女らしい無垢さが垣間見える。
家族以外の異性と、ここまで親密に接すること自体が初めてだからこそ、その距離感に戸惑うことも多かった。
夫婦としての在り方をもっともらしく口にしていても、実際には、目の前にいる彼自身を、一人の異性として理解したいと思い始めているのだ。
長くすれ違い、籍ばかりは家族でありながら、実際には他人同然だった二人。
理性だけでは割り切れない感情の波に翻弄されながら、改めて向き合うことの難しさを痛感している。
それでも、こうして互いに視線を交わし、胸の内を言葉にしていくことで、少しずつ歩み寄ろうとしていた。
弱音も、本音も。
隠していたい感情までも曝け出したうえで、それでもなお、側にいたいと思えるように。
「君も、そうだったんだな……。私も、君より歳上のはずなのに、なぜか君の前ではもどかしさばかりが募って、うまく言葉にできないんだ。気の利いた台詞ひとつ、君に言ってやれない。騎士団の同僚を参考にしようにも、あいつらの言動は、とてもではないが君に聞かせられるようなものじゃないし……本当に、上手くいかないな」
「ふふ、無理に格好をつけなくてもよろしいのですよ。急にそんなことをされても、わたくしもどう反応していいのかわからなくなってしまいそうですもの」
アルーラが彼の名を呼んでから、それまで沈んでいた空気は嘘のように和らいでいた。
馬車の中には穏やかな時間が流れ、二人は時折冗談を交わしながら、静かな帰路を共に過ごす。
そうして屋敷へ辿り着く頃には、互いの心の距離が、また少しだけ近づいたように感じられていた。




