第十九話 この感情の名は
ミラたちが嵐のように去り、アルーラが場を移した先では、再び和やかな歓談の声が広がっていた。
それなりの諍いがあったというにもかかわらず、それを見て見ぬふりをする辺りは、実に貴族らしい。
王族との揉め事に安易に介入すれば、自身までもその権力に焼かれかねない――そんな懸念を抱いている者も少なくないのだろう。
もっとも、その裏で先ほどの一件が瞬く間に広まっていくことも容易に想像できた。
それこそがアルーラの目的であり、同時に、私欲に走るミラへの牽制でもあった。
もし手を上げた相手が、模範的な貴族令嬢であったなら、ミラの高圧的な物言いに怯え、権力という名の槌に押し潰されていたことだろう。
家のことを思えば強く出ることもできず、言われるがまま身を引いていたかもしれない。
しかし、アルーラは違う。
彼女は、この国においてとある理由から特別視されるオルティス伯爵家の生まれであり、さらにフィデルとの婚姻も、政略的な事情を含んだ重要な結び付きの上に成り立っている。
その間へ王族が軽々しく口を挟めば、それこそ越権行為として、両家から王家へ抗議が入ることになるだろう。
アルーラには、自身がある程度強い言葉で言い返したとしても、それが正当なものであると理解されれば、王家も強くは出られないだろうという打算があった。
「アルーラ! 大丈夫かっ!」
名を呼ばれたアルーラが声のした方へ振り返ると、髪をわずかに乱したフィデルが、焦った様子でこちらへ向かってくるのが見える。
彼はアルーラのもとへ辿り着くなり、おもむろに大きな手を伸ばし、赤くなった頬へそっと触れた。
壊れ物を扱うように優しく撫でる指先から、じわりと彼の体温が伝わってくる。
今までフィデルから触れられることなどなかったからこそ、その感触に意識を奪われ、アルーラは別の意味で頬が熱を帯びそうになるのを感じた。
「すまない。側にいると言ったのに……」
「いいえ。わたくしが、離れても構わないと申し上げたのですもの。お気になさらないでくださいませ」
悲しげに眉を下げ、肩を落とすフィデルの腕を、アルーラはぽんと軽く叩いてみせる。
すると彼は、困ったように小さく笑い、ゆっくりと頬から手を離した。
痛みはもうほとんど引いており、今はわずかに腫れて赤みが残っている程度だろう。
非力な令嬢の平手打ちなど、受ける衝撃もたかが知れている。
アルーラの肌は雪のように白く皮膚も薄い為、余計に赤みが目立ってしまうのかもしれない。
だが、それも時間が経てば自然に薄れていくだろう。
そこまで心配するほどではない――そう伝えるように、アルーラはフィデルへ穏やかに微笑みかけた。
「前の同僚とはそれほど長い話ではなかったんだが、すぐに面倒なお方に捕まってしまってな」
「フィデル、その言い方はないんじゃないか?」
フィデルに気を取られていたアルーラだったが、彼の背後から聞こえた声に、はっとしてそちらを見る。
すると、そこにはいるとは思ってもいなかった二人が並んで歩いてきていた。
アルーラは、目の前に現れた相手に動揺を隠しつつも、スカートの裾を摘まみ、優雅に一礼した。
「アーネスト殿下、ルーン殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
二人はアルーラの礼を笑顔で受けながら、顔を上げるよう促す。
そして、快活な笑みを浮かべたアーネストが、彼女へ声をかけた。
「やぁ、ルース若夫人。そうかしこまらなくてよい。それにしても、先ほどはうちの妹が夫人に大変な失礼をした。頬は大事ないか?」
「……お見苦しいところをお見せいたしました。少し熱を持っている程度です。手荒なことなどしたこともない女性の力ですから、痛みはありませんわ」
「ははは、夫人は強いなぁ」
「笑い事ではございません。なぜ駆け寄ろうとする私をお止めになったのですか」
不機嫌さを隠そうともせずアーネストを睨むフィデルに、彼は呆れたように肩を竦めた。
「お前が入れば余計にこじれるからだ。ただでさえ女性同士の争いに男が割って入ると、ろくなことにならないというのに。その中へ、お前という諍いの原因を投げ込んでどうする。まったく……相変わらず機微というものがわからないやつだな」
アーネストの言葉に、フィデルはさらに不満げに眉を寄せた。
気心の知れた従兄とのやり取りだからだろうか、その表情はどこか年相応に幼く見える。
今は近衛としてこの場に立っているわけではない。親族としての顔を見せたところで、誰に咎められることもないのだろう。
アーネスト自身もそれを望んでいるようで、フィデルの肩を半ば無理やり抱き寄せ、王族らしからぬ気安さで接していた。
「いやぁ、あの我儘な妹をやり込めた手腕は実に見事だった。さすがは、才女を輩出することで名高いオルティス伯爵家の娘だ。獰猛な森狼みたいなミラが泣きべそをかいて去っていくとは――さては夫人、相当な鬼畜だな?」
「……至極光栄にございます」
絶対に褒められてはいないと理解しつつも、アルーラは顔を引きつらせないよう気を付けながら、再び優雅に一礼した。
先に良からぬ噂を流したのはそちらの妹君でしょう――そう言い返したくなる気持ちをどうにか呑み込み、アルーラは慎重に言葉を選ぶ。
祝祭初日に挨拶を交わした際には感じなかったが、どうやらアーネストは人をからかうのが好きな性格らしい。
しかし、その王太子らしからぬ気安さと、政務には誰よりも真摯に向き合う姿勢こそが、彼の人気の理由なのかもしれなかった。
「アーネスト様、意地悪もほどほどになさいませ」
「うっ、そんな顔をしないでくれ。だが、ルーンよ。夫人は少々冷静過ぎると思わないか? 少しくらい取り乱すところを見せてほしくなるではないか」
「悪趣味」
アーネストの悪戯心に口を挟んだのは、呆れたような視線を向けていたルーンだった。
小柄な彼女からは想像もできないほど、その声音は冷ややかで、責め立てるような氷の眼差しが真っ直ぐにアーネストを射抜く。
「そもそも、わたくしは反対しましたわ。たとえ芯がお強い女性であっても、ああして囲まれて詰られることが怖くないわけありませんもの。……アルーラさん、傷を見せて?」
ルーンはそう言うと、アルーラの頬へそっと手を当て、小さな声で呪文を詠唱する。
まるで歌のように滑らかな詠唱が終わると、淡い光と共に優しい温もりが頬を包み込み、赤みはみるみるうちに引いていった。
やがて光が収まる頃には、肌はすっかり元の白さを取り戻し、わずかに残っていた熱も気にならなくなっている。
回復魔法という繊細な術式を、まるで呼吸をするかのように扱えるのは、魔法に造詣の深い魔導公国の公女だからこその技量なのだろう。
「まったく、わたくしが行くと言ったのに、アーネスト様が許してくださらなくて……。もう、こんな怪我をするくらいなら介入した方が良かったわ」
「ルーン殿下、ありがとう存じます」
「これくらい、いいのよ。それにしても、ミラ殿下も困ったものだわ。王族である限り、発言ひとつ、行動ひとつに責任という重責が付きまとうというのに」
頬に手を当てたまま呆れたようにため息をつくルーンは、まだ幼さを残した容貌に似つかわしくない冷静さでそう言った。
たとえ降嫁が決まっていたとしても、それまでは王族として相応しい振る舞いを心掛けなければならない。
王族としての特権を持つのなら、それに見合う責任を背負い、常に自らを律する必要がある――公女であるルーン自身、そう考えているのだろう。
アルーラより二つ年下の十七歳だと聞いていたが、その立ち居振る舞いには、公女という肩書に相応しい聡明さと品格が感じられた。
「それに、政略による婚姻に互いの意思などほとんど反映されないのだから、アルーラさんばかりが責められるのもおかしな話よね」
「……それがわかっていても、感情が追いつかないのでしょう。ある程度は仕方のないことだと思っておりますわ。それに先ほどの件は、わたくしも随分と煽り立ててしまいましたから」
貴族女性であれば、誰もが一度は向き合うことになる、政略結婚という名の檻。
アルーラもまた、自身の意思とは無関係にルース侯爵家へ嫁ぐこととなった身だ。
貴族として生まれた以上、それは避けては通れぬ道である。
だからこそ、その檻の中で少しでも幸福を得るために、必要な教養を身に付け、相手へ礼節を尽くしながら、“その中で生きる術”を模索していくのだ。
ルーンもまた、国同士の繋がりのために結ばれた政略的な婚約である。
だが、婚約者であるアーネストとは良好な関係を築いていた。
異国へ嫁ぐ以上、気候も、食文化も、細かな習慣さえ異なる。決して最初から順調だったわけではないはずだ。
それでも二人の関係が穏やかに成り立っているのは、互いの立場を理解し、歩み寄ろうと努力してきたからなのだろう。
ミラもまた、政略結婚という言葉が持つ意味を理解していないわけではないはずだ。
しかし、それでもなおアルーラに対する不快感を隠そうともしなかった。
此度の婚姻に、アルーラ自身の意思などほとんど反映されているはずもないというのに、彼女はこれまで、逆恨みに近い理不尽さで幾度となくアルーラを貶めた。
フィデルの隣にいるのが自分ではない――その現実に、ミラがどうしようもない嫉妬と絶望を抱いていること自体は理解できる。
だが、その感情の矛先を向けられている以上、アルーラとて腹立たしさを覚えないはずがなかった。
「王家唯一の末娘ということもあって、父上も母上も揃って甘やかしているせいだな。先日も話したと思うが、あのお二人はレイナードとミラにはどうにも強く出られない。……私にも、その甘さを少しくらい分けてほしいものだ」
「アーネスト殿下……」
先ほどまでの快活さを潜め、自嘲気味にそう口にしたアーネストに、アルーラは何と返せばよいのかわからず言葉に詰まった。
幼いころから周囲の期待を一身に背負い、その期待に応えるためだけに励み続けてきたアーネスト。
彼にとってもまた、レイナードやミラの境遇を不憫に思う一方で、羨ましいと感じる部分があるのかもしれない。
王族という最高位の身分でありながら、その身分故に頑丈な檻から決して出ることのできない自分。
そして、完全な自由ではないにせよ、その檻の外へ飛び立つことが許されている二人。
その明確な違いが、兄妹の間に確かな溝を生み出しているのだろう。
「公女殿下、妻を治療してくださりありがとうございます」
「よくてよ。そもそも、あなた様が不甲斐ないからこのようなことになるのです。聞きましてよ? あなた、アルーラさんを蔑ろにしていたそうじゃないの」
「あっ、いや……それには少々事情が――」
ルーンの憤りがまだ収まらぬ様子に、フィデルは動揺しながらも弁明しようと口を開く。
しかし、そんな言い訳など聞く価値もないとばかりに、ルーンは扇を広げてその言葉を遮った。
「あなたの情けない事情などどうでもよろしいのよ。そもそも、相手に明確な隙を与えるからこうなるのです。あなたが煮え切らない態度を取るからこそ、ミラ殿下も加減を間違えるのよ。これまでのことは、決してミラ殿下だけの責任ではないのだと知りなさい。それと、もっと妻を大切になさいな!」
「はい……申し開きもございません」
小さな身体でぴしゃりと言い放つルーンに、フィデルはしゅんと肩を落とし、落ち込んだように項垂れる。
アルーラは内心、盛大な拍手を送りたい気持ちでいっぱいだったが、それを表情に出さぬよう小さく咳払いをして誤魔化した。
「ルーン殿下、わたくしの代わりに怒ってくださり、ありがとうございます。これでも、以前よりはだいぶ良くなったのですよ」
「今更良くなっても、と思わなくはないけれど……まあ、これ以上はわたくしが口を出すことではないわね。アルーラさんも、嫌なことがあったらきちんと相手に伝えるのですよ? 他人同士が結ばれる夫婦という関係には節度も必要だけれど、過度な遠慮は毒になりかねないのですから」
「うむ。円満への道筋を語るなら、まずは話し合うことだな。下手に偽らず、格好もつけず、言葉を飾りすぎずに相手へ伝える。貴族である以上、なかなか難しいことではあるが、せめて私的な空間では家族として、本音で語り合う時間を設けるといい」
親身になって助言を重ねるルーンを、アーネストは穏やかな眼差しで見つめていた。
そして時折、自身の体験も交えながら言葉を添えるように相槌を打つ。
まだ夫婦ではない二人でありながら、その佇まいはアルーラたちよりもよほど完成された伴侶のようで、互いに築き上げてきた強い絆が自然と伝わってくる。
その姿に、アルーラは羨望にも似た感情を覚えた。
政略結婚を当然のものとして様々な教育を受けてきたアルーラもまた、オルティス伯爵家の教えの一つである『幸せな妻であれ』という言葉に、かつては淡い憧れを抱いていた。
だが、フィデルとの空虚な結婚生活の中で、その憧れはいつしか薄れ、気付けば心の奥底へと押し込められていたのだ。
まさか、その想いを再び掘り起こされる日が来るとは思ってもいなかった。
けれど、何ひとつ変わることのなかったあの日々を思えば、今はようやく微かな希望が見え始めているようにも感じられる。
もっとも、夫婦という関係であっても、話し合うだけでは分かり合えない相手もいる。
人としてどうしても相性が合わず、共にいることそのものが苦痛になることもあれば、欠点ばかりが目についてしまう相手もいるのだ。
では、フィデルはどうだろうか。
そう思い、アルーラがちらりと彼を盗み見ると、フィデルは相変わらずしょぼくれた様子のまま、二人の説教混じりの話を聞きつつ、シャンパンで乾いた喉を潤していた。
まともに会話を交わすようになったのは、つい先日のことだ。
それ以前の二人は、同じ屋敷に暮らす同居人程度の距離感でしかなかった。
それでも、彼と行動を共にし、他愛のないやり取りを重ねるうちに、アルーラは彼の人間性そのものを否定したいとは思わなくなっていた。
アルーラのこととなると空回りばかりしている彼を、最近ではどこか不憫に感じることさえある。
アルーラに恋をしていると言いながらも、貴族らしい甘い愛の言葉を囁くことはなく、ただ真っ直ぐに彼女を見つめて、短い言葉ばかりを不器用に贈ってくる。
照れくさそうに視線を逸らし、その先をどう続ければよいのか迷った末、結局何も言えなくなってしまう。
そんな彼の姿を見るたびに、アルーラの中で少しずつ愛着のようなものが育っているのを感じていた。
まるで、これまでの空白を取り戻そうとするかのように。
フィデルはもう、アルーラから逃げずに向き合おうとしてくれている。
アーネストの言葉どおり、偽らず、格好もつけず、言葉を飾り立てることもなく、自分の想いを伝えようとしているのだと感じていた。
だからこそ、アルーラもまた彼に向き合うため、あえてミラを焚きつけた。
彼女の未来に、フィデルという理想の騎士は決して存在しない。
今、彼と向き合っているのは――アルーラなのだから。




