第十八話 報われない恋はどこに繋がるか
ミラが接触してくるだろうということは、フィデルと話していたこともあり、ある程度予想していた。
晩餐会でフィデルとの仲睦まじい様子を見せたことも影響しているだろう。
アルーラは、内心で「やはり帰ればよかった」と漏れそうになる言葉をぐっと飲み込み、空のグラスを給仕に預け、失礼にならぬよう静かに一礼する。
ミラは、次の言葉を待つアルーラをじっと見つめていたが、やがて嘲るように小さく笑いながら口を開いた。
「あら、フィデルお兄様はお側にいないのね? せっかく、わたくしが手放して差し上げているというのに」
美しく手入れされた深緑の髪を指先で払いながら、ミラはさも当然のようにそう言い放つ。
まるでフィデルが己の所有物であるかのような口ぶりには、彼女の高い身分ゆえの傲慢さが透けて見えた。
ミラはゆっくりとアルーラの側へ歩み寄ると、畳んだ扇の先で彼女の顎をそっとすくい上げる。
「美しく着飾るだけでは、フィデルお兄様の心など到底掴めなくてよ? ――ねぇ、いつものように早々にお帰りになったらいかがかしら」
そう言って、取り巻きの令嬢たちと愉快そうに笑うミラの瞳の奥には、燃え盛る嫉妬にも似た激しい敵意が宿っていた。
要するに、いつものように“飾りの妻”はフィデルを置いて帰れ――そう言いたいのだろう。
遠回しにすらせず、ここまで露骨に感情をぶつけてくるミラに、アルーラは内心で呆れながらも、差し出された扇を遮るように自身の扇を開き、口元を隠して静かに答えた。
「……夫でしたら、かつての同僚の方々と歓談中ですわ。命を預け合った者同士の語らいに、新参の妻が割って入るなど無粋にございましょう。ですから、こうしてお待ちしているのでございます」
彼女たちの心ない嘲りなど、アルーラを傷つける刃にすらならない。
フィデルの妻となった日からではなく、それ以前からずっと人の醜さと向き合ってきたアルーラにとって、この程度の悪意など、羽虫が飛び回っているのと大差なかった。
表情ひとつ変えず、淡々と受け流すアルーラに、ミラは苛立ったように眉を顰める。
退けられた扇を軋むほど強く握り締め、憎々しげに唇を歪めた。
だが次の瞬間には、再び陰のある笑みを浮かべると、ミラはアルーラの耳元へそっと顔を寄せ、蔑むように囁く。
「あなた、ドレスすらまともに贈られなかったのでしょう? 当然よ。飾りの妻などのために、フィデルお兄様が自ら品を選ぶはずがないもの。――ああ、本当にかわいそう。金銭で売られたお人形さんは、せいぜいお屋敷で静かに飾られていなさいな」
“かわいそう”と口にしながら、その表情にはどこまでもアルーラを侮る色が滲んでいる。
周囲の令嬢たちまで巻き込みながら、下卑た話を楽しげに語るその姿に、アルーラは内心で冷ややかな視線を向けた。
――彼女は気づいているのだろうか。
今まさにミラが口にした言葉は、そのままフィデル自身への侮辱にもなっているということに。
捉え方によっては、まるでフィデルが妻を金銭で買い、屋敷へ閉じ込めて愛でるような劣情の持ち主であるかのような言い草だ。
あまりにも極端な物言いに、アルーラは思わずくすりと笑みを零した。
「……何が、おかしいというの?」
「いえ。ミラ殿下は、わたくしの夫に対して随分なおっしゃりようだと思っただけでございます。まるで、妻に対して気遣いひとつできず、金銭で買った妻を屋敷へ閉じ込めて愛でる趣味でもお持ちの方のように聞こえてしまいましたもの。ご自身の大切な騎士に対して、さすがにそれはお気の毒ですわ」
「なっ……! 何を――」
アルーラが小首を傾げながら穏やかにそう返すと、ミラは怒りに唇を震わせ、声を荒らげかけた。
だが、その言葉を遮るように、アルーラはあえて静かな声音のまま続ける。
「確かに、わたくしの夫は少々、女性への接し方に疎いところがございます。けれど、決してミラ殿下がおっしゃるような方ではございませんわ。もちろん、お人形を愛でる趣味などありませんし……何より、妻であるわたくしに対して、誠実であろうと努力なさっているお姿を、この目で知ってしまいましたもの」
ミラが本当に言いたいことなど、アルーラも理解していた。
それでも彼女は、わざとその言葉の意味を歪め、悪意がそのままミラ自身へ返るよう誘導していく。
確かにフィデルは、見目こそ女性慣れしていそうな精悍な美丈夫であるが、実際には女性関係にひどく不器用で、驚くほど鈍感な男だ。
騎士としては誰よりも優秀でありながら、遅すぎた初恋に怯えて逃げ出し、どう接してよいのかもわからぬまま、妻を放置してしまうような情けない一面も持ち合わせている。
そのせいで、アルーラは長い間、精神的な孤独を抱え続けてきた。
出口の見えない閉塞感の中で、ひとり静かに追い詰められていたのだ。
――そう考えれば、今さら彼を庇い立てする理由など、本来どこにも無いのかもしれない。
だが、この数日でアルーラの中の彼の印象は、少しずつ変わっていった。
自らの至らなさを真摯に悔い、不器用なりに言葉と行動を尽くして、懸命に向き合おうとしてくれている。
アルーラ自身もまた彼と向き合ううちに、その不器用さの奥に隠されていた誠実さや、胸が温かくなるほどの優しさを知った。
口数こそ少ないものの、アルーラの言葉を生意気だと切り捨てることなく最後まで耳を傾け、否定せず受け止めようとしてくれる。
女性をただの添え物と見なす貴族男性も少なくない社交界において、それはひどく貴重なことだった。
たった数日、彼と向き合ってみて思ったことは、今までのことを含めても、決して憎みきれない人であるということ。
アルーラは、怒りと羞恥で表情を歪ませるミラを真っ直ぐ見返しながら、なおも凛とした面持ちを崩さぬまま、ゆっくりと言葉を重ねていく。
「そのような方が、妻に対してわざとドレスを贈らないなどという陰湿な真似をなさるとは、とても思えませんの。ですが、彼のことですもの、そのような礼節をうっかり失念してしまったか――あるいは、彼へ助言を与えた方がいらしたのかもしれません。彼の弱みに付け込み、貶めるために、あえて妻へドレスを贈らせぬよう仕向けた……そのようなことも、なくはございませんでしょう?」
そこでアルーラは、わずかに目を細めた。
「それにしても、不思議ですわね。その件を知る者など、ごく限られた身内だけのはずですのに……どうしてミラ殿下が、ご存じなのでしょう?」
優しく問いかけるようでありながら、わずかに低く落とされた声音は、まるでミラこそが黒幕であるのだろうと仄めかすように、静かに彼女の戦意を削いでいく。
そもそも、今アルーラが身に纏っているドレスが、フィデルから贈られたものか否かなど、外から見ただけで判別できるはずがない。
それを知り得るとすれば、当事者――あるいは、その件に深く関わった者くらいのものだ。
アルーラの悠然とした態度に、ミラの周囲に侍っていた令嬢たちが「なんて不敬な」と声を上げかける。
だが、ミラはどこか引きつった笑みを浮かべながら、扇を軽く掲げて彼女たちを制した。
「さあ……どこかで耳にしたような気がしただけよ。でも、その反応では、やはり彼から贈られてはいないのでしょう? 特別な祝祭のドレスすら贈られないなんて……それはもう、妻として認められていないも同然ではなくて?」
自身にかけられた疑惑を誤魔化すように早口で言い募るミラを、アルーラは落ち着き払った様子で見つめながら形の良い唇に笑みを乗せる。
「ふふ……わたくしと旦那様の婚姻は、両家が正式に認めたものですもの。それに、たとえ旦那様ご自身に、妻として認めていただけていなかったとしても、別にかまいませんのよ」
「なんですって?」
さらに機嫌を損ねたミラが、苛立たしげに扇を握り締めながら、鋭く聞き返す。
アルーラは華奢な指先でスカートをつまむと、その場で優雅にくるりと身を翻した。
シャンデリアの灯りを受けて、しっとりとした質感のエラベルベットが滑らかな光沢を帯び、波打つようにふわりと舞い広がる。
その一連の所作は、ドレスの美しさだけでなく、アルーラ自身の儚げな美貌までも際立たせていた。
まるでその場だけが舞台へと変わったかのような、目を奪う華やかさである。
「このドレスは、ルース侯爵領でもごくわずかしか生産されない希少な布地を用い、丁寧に仕立てられた特別な品なのです。わたくしは、その希少な布を纏うことを許された――それだけで、十分なのでございます」
ドレスに用いられている“エラベルベット”は、ルース侯爵領でのみ僅かに生産されている特別な織物であり、現状ではルース侯爵家の者だけが身に纏うことを許されている希少な生地だ。
それはイネスが婚礼祝いとして贈ってくれたものであり、その布地で仕立てられたドレスを纏うということは、すなわちアルーラが正式にルース侯爵家の身内として迎え入れられた証でもある。
そして同時に――次期侯爵夫人として、その隣に立つことを認められた証でもあった。
アルーラは背筋を伸ばしたまま、ミラと彼女を囲む令嬢たちへゆっくりと視線を巡らせる。
ラヴァンダ色の瞳には、静かな刃を思わせる鋭さが宿っていた。
「これ以上、旦那様を貶めるのは、おやめくださいませ。わたくしは何を言われようと、慣れておりますから構いません。けれど、その結果として、あの方が積み上げてこられたものまで傷つけるようなことを……殿下もお望みではありませんでしょう?」
今まで流した噂も、この場での発言も、すべて“アルーラを利用してフィデルを貶めている”ということと同義であるのだと、さらに強調してみせる。
ルース侯爵家の身内となった彼女を侮辱することは、結果としてフィデル自身の立場を危うくしかねない。
その事実を静かに突きつけられ、令嬢たちはそれ以上何も言えず、押し黙った。
そして改めてミラへ視線を向ければ、彼女は憎悪に満ちた目でアルーラを睨み返してくる。
「……わたくしは、あなたをフィデルお兄様の妻だとは認めないわ。あの人は昔からずっと、わたくしの騎士だったの。これから先も、ずっと……わたくしだけを見て、わたくしだけを守る騎士でなければならないのよ」
悔しさに歪む唇から漏れた低く暗い声音は、ミラの心情を生々しいほど鮮明に映し出していた。
思い通りにならない現実への焦燥。
そして、どうしようもなく膨れ上がる怒りと憎悪。
王族として叩き込まれた理性が、辛うじて彼女の均衡を保ち、アルーラへ直接手を上げることだけは押し留めている。
だがその胸中では、何度アルーラを殺したところで足りないと思っているのだろう。
扇を握り締めた指先には、音が鳴りそうなほど強い力が込められ、白く色を失っていた。
その様子からも、彼女が激情を必死に押し殺していることが窺える。
目の前で怒りを露わにする彼女が、いつからフィデルに“愛”という感情を抱いていたのか――それはアルーラにもわからない。
王太子であるアーネストと同じ王妃の子として生まれながら継承権を持たず、王族としての厳しい教育ばかりを受けて育ったミラにとって、フィデルという存在がどれほど眩しく、救いのようなものであったのか。
それを安易に想像することなど、アルーラにはできなかった。
始まりは、きっと美しく淡い恋心だったのだろう。
けれど、自身の置かれた環境や、叶わぬ願いを捨てきれずに絶望する日々。
そうしたものに少しずつ蝕まれ、かつての面影すら失うほど歪んでしまったのだとしたら――誰かがその執着を断ち切らない限り、ミラは前へ進むことなどできない。
フィデルに従兄妹として、そして騎士として側にいてほしいと言いながら、妻として彼と共にあることを許されたアルーラを消したいほど憎み、疎んでいる。
ミラが口にする「わたくしの騎士」という言葉は、心優しく誠実なフィデルを繋ぎ留めるための、都合のよい口実に過ぎないのだろう。
昔から親しく育った従兄妹であるがゆえに、彼は彼女を強く突き放すことができない。
ミラはその優しさに甘え、専属騎士という立場で彼を側に置き、縛り付けることで、叶わぬ願いを今なお見続けているのだ。
たとえそれが、フィデル自身の望みや未来を奪う行為であると理解していたとしても、ミラはきっと己の欲望を優先する。
――ならば、その捻じれた想いが鎖となって彼を縛ろうというのなら、その鎖ごと、アルーラが断ち切ってみせる。
「旦那様は……フィデル様は、確かに殿下の専属騎士でいらっしゃいます。ですが同時に、わたくしの夫でもあるのです」
アルーラは改めて、静かな声で諭すようにミラへと言葉を向けた。
「たとえ殿下の専属騎士であろうとも、フィデル様は既に既婚の身。そして殿下もまた、王族であると同時に、未婚の女性でいらっしゃいます。――どうか、夫のためにも、今少し節度をお持ちいただけませんでしょうか」
アルーラが“夫”という言葉を口にするたび、ミラの心は激しく揺さぶられ、乱れていく。
穏やかに窘めるような声音であるからこそ、その言葉は容赦なく、彼女の柔らかく脆い部分へと触れていく。
王族として繕ってきた外面を崩しかねないほどに、聞きたくもない現実を、アルーラは淡々と突きつけていた。
それがどれほど残酷なことか、アルーラ自身も理解しているが、それでも――言わねばならなかった。
やがて、その言葉の意味がミラの中で完全に結びついた瞬間、胸中で渦巻いていた激情が、一気に理性を食い破る。
均衡を失った先に残ったのは、王族としての矜持ではなく、剥き出しの本能にも似た原初の感情だった。
――パシンッ。
乾いた音が響き、軽い衝撃とともに、アルーラの顔が横へ弾かれる。
頬が熱を帯び、じわじわとした痛みが遅れて広がっていった。
「あなたに何がわかるのっ! わたくしが一番欲しかったものを……何の苦労もなく手に入れたあなたに、わたくしのことをあれこれ言われたくなどないわっ!」
ミラは涙混じりの叫びをアルーラへ叩きつけると、踵を返し、その場から足早に立ち去っていく。
取り巻きの令嬢たちも、慌てたようにその後を追っていった。
だが、そのうちの一人だけが途中で足を止め、不快感を滲ませた表情のまま、アルーラへ向き直る。
「あなた……殿下を、わざと煽りましたわね?」
「……何のことでしょう? わたくしは、ただルース侯爵家の者として、殿下に苦言を呈しただけですわ」
アルーラが涼しい顔でそう返すと、令嬢は眉を顰め、呆れたように彼女を見つめた。
「わざと手を上げさせることで、周囲の同情を買い、ミラ殿下への心証を悪くするおつもりだったのでしょう? たとえ、あの方に報われない恋を諦めさせるためだとしても……そのやり方は、あまり感心できませんわね」
「そのように仰らないでくださいな。そもそも、先にわたくしへ敵意を向けてこられたのは、そちらではありませんか」
アルーラは頬を押さえたまま、静かに言葉を返す。
じわりと疼く頬の赤みをそっと撫でながら、目の前の令嬢がたじろぐほど真っすぐに、強い眼差しを向ける。
「生憎と、わたくしはただ黙って傷つけられるほど、殊勝な性格はしておりませんの。たとえ性格が悪いと言われようとも、傷つけられたなら、相手にも同じ痛みを返したい――ただ、それだけですわ」
「……はっ。精霊のような綺麗な顔をしておいて、随分と苛烈なお方ですこと」
「精霊というものは、元来苛烈な存在だと聞きますもの。特に、自らの領域を乱されることを何より嫌うのだとか」
アルーラが静かにそう返すと、令嬢は再び呆れたように息を吐き、わずかに目を細めた。
「正直、あなたとはこれ以上関わり合いたくありませんわね。……失礼いたしますわ」
そう言い残すと、彼女もまたミラの後を追うように、その場を後にしていく。
アルーラは遠ざかっていく背中を静かに見送りながら、自身もまた周囲の視線から逃れるように、その場を離れた。
これだけ賑やかな場である。
ミラが最後に叫んだ言葉を除けば、会話の内容そのものが周囲へ漏れ聞こえていた可能性は低いだろう。
だが、激情に駆られた末に、王女であるミラが人前で侯爵家の若夫人の頬を打った――その事実だけは、確かに多くの者の目に焼き付いていた。
それが今後、社交界でどのような噂となって広がっていくのか。
いずれは、ミラ自身がその身をもって知ることになるだろう。
これまで彼女がアルーラへ向けてきた悪意が、形を変えて返るだけのことだ。
少しくらいは同じ痛みを知ってもらわなければ、割に合わない。
そんなことを考えながら、アルーラはどこかやり切ったように小さく息を吐く。
そして、近くに置かれていた新しいシャンパンのグラスを手に取ると、誰に向けるでもなく、ひとり静かに杯を掲げた。




