第十五話 女の戦場
晩餐会の装いは、いっそう豪奢で華やかなものでなければならない。
一般に晩餐会では、舞踏会のように動きやすさを重視したドレスではなく、床に届くほどの長いロングドレスが主流とされている。
私室にて、アルーラは目の前に掛けられた数着のドレスを、じっと見据えるように眺めながら、どれを選ぶべきか思案していた。
フィデルへの当てつけとして仕立てさせたものであるため、どのドレスも差し色は控えめだ。とはいえ不自然さはなく、晩餐会用としては、どれを選んでも問題はないだろう。
着席する場であることを考え、スカートの膨らみを抑えた、すっきりとしたシルエットが望ましい――そう判断し、いくつかの中から二着にまで絞り込む。
だが、晩餐会にふさわしい華やかさもまた欠かせない。
似た意匠の二着のうち、アルーラは鮮やかな深紅の生地を用いた一着を手に取った。しっとりとした滑らかな手触りが、指先に心地よく残る。
重厚でありながら気品を湛えたその生地は、ルース侯爵家の特産であるエラシルクの織り方を変え、まったく異なる質感へと昇華させた「エラベルベット」と呼ばれる織物である。
その贅沢な生地を惜しみなく用い、濃紺の糸で大ぶりの花の刺繍を施したドレスは、晩餐会にふさわしい格調と華やぎを兼ね備えていた。
とりわけ、後腰に生地を寄せてあえてボリュームを持たせることで、女性らしい曲線を際立たせながらも、足元の広がりを抑えた落ち着きある印象に仕上げられている。
大胆な色彩も、その洗練されたシルエットによって見事に調和していた。
「これにしましょう。旦那様の装いも、これに合わせてちょうだい」
「かしこまりました」
侍女たちの手を借りてドレスに身を包むと、色味を揃えたパリュールを身に着ける。首元が美しく映えるよう、髪は高い位置で編み込み、先日購入した艶のある赤いカンザシを挿してすっきりとまとめられた。
姿見に映る自身の姿をひと通り確かめたあと、アルーラはふと視線を逸らし、私室のテーブルへと目を向ける。
そこには、小さな箱が開かれたまま置かれていた。
フィデルから贈られた櫛――今もなお、窓から差し込む陽光を受けて、青や緑、紫へと移ろう美しい輝きを放っている。
本当なら今すぐ髪に差したいところだが、あの櫛にふさわしいのはこのドレスではない。
もっと異国の趣を宿した、この国ではあまり見かけない意匠のドレスが一着だけあることを思い出したことで、最終日の舞踏会の装いも早々に決まっていた。
長い支度を終え、居間へと向かうと、すでに身支度を整えたフィデルがソファに腰掛け、コッファを嗜んでいた。
コッファ特有の、濃厚でありながら香ばしい香りが室内に漂う。アルーラも使用人にコッファを淹れるよう頼み、向かいのソファへと腰を下ろした。
「女性はコッファが苦手だと思っていたんだが、君は平気なのだな」
「たしかに、特有の酸味や苦味が苦手だとおっしゃる方は多いですわね。でも、わたくしはコッファの香りが大好きですの。飲むと頭も冴えますし、ミルクコッファにすれば苦味もまろやかになって、とても美味しいですもの」
紳士の嗜みとして広まったコッファではあるが、決して女性が口にしないというわけではない。
近頃では、王都の評判のカフェでミルクと砂糖を加えた甘いコッファが売り出され、それをきっかけに新たな魅力に気づいた女性たちが、こぞって愛飲するようになったと聞く。
アルーラもまた、かつてカフェで味わった一杯が忘れられず、屋敷でコッファを飲む際には、必ずミルクと砂糖を加えさせていた。
やがて運ばれてきたのは、シナモンスティックを添えた特製のミルクコッファ。
コッファの香ばしさとミルクのやわらかな甘い香り、そしてシナモンスティックの深みのある温かな香りが織り合いながら立ちのぼる湯気に乗って広がる。
アルーラはカップへ口をつける前に、そっと目を細めてその芳香を楽しんだ。
「今日の晩餐会は、来賓たちの歓迎と交易の交渉も兼ねているのだろう。私たちは王族の側ではなさそうだな」
招待状には席の指定もされており、フィデルとアルーラは、当然ながら夫婦として隣り合う席に配置されていた。
「でも、旦那様は王族関係者ではありませんか。近すぎるということはなくとも、話が振られる距離に席が用意されているのではないでしょうか」
「そういう場合は、私ではなく当主である父上に話が向くだろうから、心配はないと思いたいが……ミラ殿下やレイナード殿下の反応が気がかりではあるな」
「さすがに陛下や来賓の皆様の前で、何か失態を犯すようなことはなさらないでしょう。王族としての品位を損なうことは、いかにお子に甘い陛下であってもお許しにはならないはずですもの」
王族席には、ミラやレイナードも同席している。
王族としての自覚があるのなら、来賓の前で無用な騒動を起こすことはないだろうと、アルーラはコッファを口に運びながら静かに語った。
彼らの素行は決して褒められたものではないが、決定的な過ちを犯したわけでもない。
許される範囲の中で、最大限に自由を振る舞っているに過ぎないのだ。
「晩餐会が終わった後は、別室で夜会が開かれると聞いておりますが……もし何かあるとすれば、この時でしょうね」
もともとフィデルとの関係を匂わせたり、アルーラのことを飾りの妻だとする噂を誇張して流したりと、社交界で様々に画策しているミラが、この場で何も仕掛けてこないとは考えにくい。
アルーラがフィデルの側にいることで、ミラがどのような反応を示すのかは、初日の夜会ですでに窺い知れている。
あの激しい嫉妬心が牙を剥くとしても、公の場で為し得ることなど、たかが知れているはずだ。
「たとえミラ殿下が何かを仕掛けてこられたとしても、わたくしが対処いたします。ですから、よほどのことがない限り、旦那様は見守っていてくださいませ」
「……わかった。君がそう言うのなら、私は君の後ろに隠れていよう」
肩をすくめ、おどけるようにそう言ったフィデルは、残っていたコッファを一気に煽ると席を立つ。
そして躊躇いなくアルーラの手を取り、ゆっくりと彼女を立ち上がらせた。
改めてアルーラの艶やかな装いを目にしたのか、フィデルは頬に朱を差しながら、どこか不安げにぽつりと零す。
「やはり、今回も露出が多いような気がする」
「……そうでしょうか?」
初日と似たようなことを口にする彼に、アルーラは呆れたように息をつき、ドレスのスカートを軽く持ち上げて、その場でくるりと回ってみせる。
ふわりと広がる意匠ではないものの、後ろへ長く流れた裾が優雅に翻り、高めのヒールを履いた足元に美しい線を描いた。
大きく開いたデコルテは確かに大胆ではあるが、決して下品にはならず、宝石を散りばめたパリュールが、アルーラの真珠のような肌をキャンバスとして、いっそう繊細な輝きを添えている。
すべてが計算された装いではあるが、異性に縁の薄かったフィデルにとっては、やや刺激が強いらしい。
「この間も同じようなことをおっしゃっていましたけれど、これでも、他の方に比べれば随分と抑えておりますのよ」
「確かにそうかもしれないが……君は、誰よりも美しいじゃないか」
「なっ……何を急に」
彼はわずかに眉を下げ、アルーラをまっすぐ見つめてそう言った。
あまりにも率直に褒めるフィデルに、彼女は思わず言葉を失う。
美しさを称えるために言葉を尽くす貴族たちの中で、そのあまりに飾り気のない一言にうまく反応できず、頬だけがじわりと熱を帯びた。
「姿ももちろんだが、凛としたあり方が美しいからこそ、男たちは君から目が離せなくなるのだと思う。――私も、そうだ」
女性を褒め慣れていないからこそ、飾らない言葉が自然と口をつく。
聞き慣れた賛美など頭の片隅へと追いやられてしまうほどに、フィデルの言葉はアルーラの胸を甘く疼かせた。
「そんな君がさらに磨きをかけて着飾っていれば、夫として不甲斐ない私も、その……嫉妬くらいはする」
アルーラから目を逸らし、気まずそうにしながら、次第に声を小さくしていくフィデル。だが、その耳は正直なほど赤く染まっていた。
ふと、祝祭初日に彼が口にした言葉を思い出す。
『あまり、派手な格好はしないでくれないか。露出が多すぎる』
あのときは、ただ自分の選んだドレスに難癖をつけられただけだと思っていた。
けれど彼の性格をある程度理解した今なら、その言葉の意味も自ずと知れる。
目を逸らしたままのフィデルをまじまじと見つめながら、アルーラは思わず口元を押さえた。
「では、あの時の言葉も……?」
「……」
問いかけに答えず沈黙したままのフィデルだったが、その表情にははっきりと肯定が滲んでいる。
――あのときも、今と同じ気持ちだったのだ。
たった数日で、ここまで彼の見え方が変わるとは。
気づけばアルーラの口元には、隠しきれない笑みがこぼれていた。
祝祭の前までは、フィデルのことを無表情で何を考えているのかわからない人だと思っていたが、その本質に触れてみれば、乏しいように見えた表情の奥にも確かな感情が息づいている。
「ふふふ、だんだんあなた様のことがわかってきた気がいたしますわ。本当に、不器用な方なのですね」
「私も、君のことが理解できてきたよ。君は少し……意地悪だな」
「まぁ! そんなことはありませんわよ?」
「私をからかうのが楽しくて仕方がない、といった顔をしているぞ」
「あら、わかってしまいましたか?」
「まったく、君は意外といい性格をしているな」
「ふふふ」
少し拗ねたような言い方に、アルーラは大げさに驚いてみせながら、楽しげにフィデルをからかう。
年上の男性に向けるには些か無遠慮かもしれないが、フィデルは困ったように眉を下げるばかりで、決して怒りを向けることはなかった。
こんなやり取りができる日が来るなど、少し前までは想像もしていなかった。
顧みられることもなく、ただ淡々と色褪せていくだけだと思っていた日常が、ここ数日で一気に色づき、華やいでいく。
歩み寄るだけで、これほどまでに視界は広がり、明るくなるものなのか。
彼と向き合い過ぎていく時間は、これまでと違い、まるで一陣の風のようにあっけなく駆け抜けて、溢れる感情に心が溺れてしまいそうになる。
「ドレスのことは諦めてくださいませ。あなた様が贈らなかったのが悪いのですからね」
「それを言われると、何も言えなくなってしまうな……わかった。我慢するとしよう」
アルーラが澄ました顔のまま、彼の胸元に扇の先をとん、と軽く当てながらそう言うと、フィデルは言葉に詰まったのか、渋々といった様子で頷いた。
「さぁ、そろそろ参りましょうか」
アルーラは彼の腕に手をかけると、先ほどまで見せていた年相応の無邪気さを胸の内に押し留め、背筋をすっと伸ばす。
その佇まいはすでに、ルース侯爵家の若夫人のそれへと切り替わっていた。
社交の場は、女にとっての戦場でもある。
これまでのアルーラは、飾りの妻としてフィデルの傍らでただ微笑み、嫋やかに咲いているだけだった。
だが、もう違う。フィデルという一人の人間と真摯に向き合い、その隣に立つ妻としての役割を果たしたい――そんな確かな意志が、彼女の中に芽生えていた。
この数日で、これまでの日々が消えるわけではない。
けれど同時に、自分にも至らぬ点があったのだと、アルーラは改めて理解した。だからこそ、彼という存在をもっと知りたいと願ったのだ。
どれほど噂が蔓延しようとも、ミラが声高に何を言おうとも、アルーラはフィデルの隣で微笑むことをやめない。
たとえ「金で買われた飾りの妻」だと嘲笑されようと――それすらも薙ぎ払うほどの圧倒的な美しさと立ち回りで、黙らせればいいだけのこと。
この晩餐会は――決意を新たにしたアルーラにとっての、戦場である。




