第十四話 君に贈るもの
それからしばらく、晩餐会や狩猟会での互いの動きを確認し合い、つい話し込んでしまったが、やがてひと段落つき、二人は気分を変えようとダイニングを後にし、温室へと場所を移した。
本邸から渡り廊下で繋がった温室へと立ち入ると、少し湿り気を帯びた暖かな空気の中に、草の青く瑞々しい香りがふわりと混じり合う。
雨は未だ勢いを衰えさせることなく降り続き、温室の高く丸みを帯びたガラスの屋根を打ちつけては、断続的に硬質な音を響かせていた。
ルース侯爵家本邸に構えた温室は、この国でも有数の広さを誇る。
結界魔法を施したガラスと、湾曲した特殊素材の柱とを組み合わせ、まるでステンドグラスのように連なった、柔らかな曲線を描く優美な造形をしていた。
外気から繊細な植物を守る結界魔法と、希少なドワーフ建築の技術が融合した、極めて珍しい建造物である。
騎士を多く輩出するルース侯爵家が、これほどまでに温室に力を入れているのには理由があった。
騎士とは、常に怪我と隣り合わせの職であるからだ。
ルース侯爵家に仕える騎士たちは、領内における盗賊や魔獣の討伐、災害時の救援、さらには有事において他領へ派遣されることもある。
当然ながら危険を伴う任務が多く、疲弊が蓄積するにつれ、負傷の機会も増えていく。
彼らに必要な薬や資材を他領から取り寄せるのでは、緊急時に対応が遅れる恐れがある。
ゆえにこの温室では、騎士たちのために多種多様な薬草と、それに関連する植物が栽培されているのだ。
温室内はさらにガラスで区画され、それぞれの植物に適した気候ごとに環境が整えられている。
錬金術師たちは魔法具を用いて温度や湿度を調整し、薬師たちは細やかに植物の管理を行う。
こうして育てられた薬草は調合され、騎士たちの怪我や病を癒やすために用いられていた。
アルーラが温室を訪れたのは、嫁いでしばらく経つにもかかわらず、これで二度目であった。
嫁いだ日に屋敷の案内として入口までは訪れたものの、こうして中へ足を踏み入れるのは今日が初めてである。
なにせこの温室は、ルース侯爵家の機密を担う場所でもある。
他家から嫁いだ身である自分が、フィデルの許可なく立ち入ることは許されないと思っていたのだ。
「このような背の高い木まで栽培されているのですね……まるで森の中にいるよう。瑞々しくて、とても息がしやすい気がいたしますわ」
色濃く茂る木々の葉にそっと触れながら、アルーラは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。
まるでオルティス伯爵領にある精霊の森を思わせる、深い森の香りが彼女の胸を満たしていく。
「ここには、騎士たちの傷を癒すための様々な薬草が栽培されているんだ。主な管理は母上が担っているが、いずれ当主が代替わりすれば、ここの管理は君に任せることになるだろう」
「わたくしが、ですの?」
「ルース侯爵家の伝統のようなものだな。騎士である夫を支える妻の役割の一つが、この温室の管理だ。とはいえ、実際に君が薬草そのものを扱うわけではない。ここで作られる薬の流通や、人員の配置・管理など――規模は小さいが、領地経営に近い役割を担ってもらうことになる」
「なるほど。家内の務めの一環ということですのね。ですが、お義母様方は主に領地で生活していらっしゃると思っておりましたわ。この温室の管理は、どのように行われていたのでしょう?」
アルーラのもっともな疑問に、フィデルは温室の外を指さしながら続けた。
「敷地内に、領地と繋がる転移装置があるんだ。起動には相応の魔石を消費するから頻繁には使えないが、それでも一週間に一度はこちらへ来て、まとめて業務を片付けては戻っているらしい」
「まあ……さすがはルース侯爵家ですわね。王家の許可がなければ設置できない転移装置をお持ちだとは思いませんでしたわ」
転移装置は、本来都市の要所にしか設置されない極めて貴重な設備だと聞いている。主に物資輸送や高位貴族の長距離移動に用いられ、その使用にも多額の費用が発生するはずだ。それが一貴族の屋敷内に存在するなど、にわかには信じがたい。
「これも、初代当主が王家から賜った褒章の一つなんだ。実はその転移装置は王城とも繋がっていて、有事の際には、王族の避難先としてこのルース侯爵家が指定されている。当時の国王は、よほど初代当主を信頼していたのだろうな。もっとも、こちらから王城には飛べない。それに、王族であれば誰でも使えるわけではないから、ミラ殿下やレイナード殿下が突然現れるようなことはない。その点は安心してくれていい」
「それは、よかったですわ」
フィデルの話を聞く中で胸をよぎっていた懸念も、彼の続けた言葉によって払拭され、アルーラは思わず安堵の息を吐いた。
使い方次第では、この屋敷に王族が自由に出入りできてしまう。何らかの制限が設けられているのか、それとも詳細が伏せられているのかは分からないが、少なくとも過度に気を張る必要はなさそうだった。
それにしても――本来であれば相当に機密性の高い話であるはずなのに、フィデルは躊躇いなくそれをアルーラに伝えた。
以前のように遠ざけるのではなく、家族の一員として、そしてルース侯爵家の嫁として正しく扱おうとしてくれている。その変化を感じ取った瞬間、驚きと戸惑いに揺れていた心が、ふわりと温かくほどけていく。
「管理の方法については、いずれ母上が君に直接指導するはずだ。その時は頼む。ただし、無理はしすぎないように」
「もちろんですわ。あの退屈で嫌なことばかり考えていた日々に比べれば、忙しくしている方がよほど心の健康に良いですもの」
楽しみなくらいですわ、と明るく微笑んだアルーラの何気ない一言は、思いのほか鋭くフィデルの胸に刺さる。
彼は再び過去の自分を悔いるように胸元を押さえ、小さく呻いた。
「うっ……本当にすまない……私は、なんてことを……」
「もう、そのお話はよろしいでしょう? わたくしを連れて行きたい場所があるのでしょう。さあ、参りましょう」
湧き上がる感情に押され、再び殻に閉じこもろうとするフィデルの背を軽く押しながら、アルーラは穏やかな足取りで歩き出す。
二人はそのまま、温室の奥にある目的の場所へと向かっていった。
やがて辿り着いた扉の前で、フィデルが取り付けられた魔導具に手をかざす。
わずかな間を置いて、重厚な扉がガチャリと硬質な音を立て、ゆっくりと開いた。
「――なんて、美しいの」
目の前に広がる光景に、アルーラは言葉少なに感嘆の息を漏らした。
そこには、手入れの行き届いた庭園の上品な美しさとは異なる、自然のままに息づく小さな野原のような景色が広がっていた。
足元を踏みしめれば、ふわりと草の柔らかな感触が伝わり、どこからともなく吹き抜ける穏やかな風が、花の甘い香りを運んでくる。思わず目を細めてしまうほど、心地よい空気に満ちていた。
それほど広くはないはずの室内であるのに、どこまでも続いているかのように感じられる。
薄桃、黄、薄紫――やわらかな色彩を宿した小花たちが、まるで絨毯のように一面に咲き誇っていた。
「さあ、こちらだ」
フィデルに手を引かれ、目の前の光景に圧倒されながらも石畳に沿って進むと、やがて蔦の絡まる鳥籠を模した東屋が現れる。
その中には、ゆったりと身を預けられる革張りのソファとローテーブルが置かれ、小さな花畑を一望できる造りになっていた。
これが雨の日でなければ、差し込む陽光が花々を柔らかく照らし、さらに鮮やかな色彩を見せてくれるのだろう。
この光景はいったいどのように管理されているのだろうかと、アルーラは周囲へと視線を巡らせる。
景観を損なわぬよう巧妙に配置された魔導具が、さりげなく各所に設置されている。苔むした水路の陰にも、小型の装置がひっそりと組み込まれていた。
他の区画と同様に、温度や水分、空気の循環は魔導具によって制御されているのだろう。そこに人の手による細やかな手入れが加わることで、この繊細な景色が保たれているに違いない。
「ここは、庭師と私たち家族しか立ち入れないプライベートルームだ。父と母はこの空間を好んでいて、よくここで二人の時間を過ごしていたらしい」
「お二人が好まれるのも納得ですわ。ここだけ時間がゆったりと流れているようで、自身の立場や重圧さえ忘れてしまいそうな、優しい空間ですもの」
ソファに腰を下ろすと、しなやかな革の質感に体が深く沈み込む。
まるで優しく包み込まれているかのような心地に、アルーラは無意識に笑みをこぼした。すると、その様子につられたように、フィデルの口元にも穏やかな笑みが浮かぶ。
「このソファも父上の特注らしい。あの人は“休む”ということに関しては一切妥協しない人でな。特に母上と過ごす時間をより良いものにするためなら、どんな手間も惜しまない」
「ふふ、そうなのですか? 愛妻家だとは伺っておりましたけれど、この場所を見ると、本当にお義母様を大切にしていらっしゃるのがよく分かりますわ」
アルーラはそう言いながら、寄り添う二人の姿を思い浮かべる。
彼女の両親も仲睦まじいが、フィデルの両親は顔を合わせるたび、まるで新婚のような甘やかな空気を纏っていた。
――あの二人のもとで育ったフィデルが、どうしてここまで恋愛に無頓着なのか。
ふとそんな疑問が胸をよぎり、アルーラはじっと彼を見つめる。
その視線に気づいたのか、フィデルはわずかにたじろぎ、居心地が悪そうに首を傾げた。
それでも、以前のようにすぐ目を逸らすことはない。
ここ数日で少しは慣れてきたのだろう。頬をわずかに赤らめながらも、どこか緊張した面持ちでアルーラと向き合っている。
「アルーラ……君に渡したいものが、あってな」
そう言うと彼はアルーラの手を取り、彼女の手のひらにすっぽりと収まるほどの小さな箱をそっと渡した。
「これは……?」
「本当は昨日のうちに渡したかったんだが、なかなかタイミングがつかめなくてな。その……女性に贈り物をするのは初めてだから、君が気に入るかどうかは分からないが、どうか受け取ってほしい」
真剣な眼差しが、まるでアルーラを射抜くように強く向けられる。思わず彼女の頬も、じんわりと熱を帯びた。
手元の箱を包むリボンに指をかけ、するりと解くと、アルーラはゆっくりと蓋を開ける。
そこには、艶やかな濃紺の土台に、光の当たり具合で青や緑、紫へと移ろう不思議な花が咲き乱れる意匠が施され、随所に繊細な彫刻があしらわれた装飾品が納められていた。
この辺りでは見かけたことのない見事な細工に、アルーラは思わず口元を押さえながら顔を上げてフィデルを見つめる。
彼はどこか照れくさそうに髪をかき上げながら、静かに口を開いた。
「昨日、露店で煌月国の装飾品を見ていただろう? あの時、店主に相談して、君に似合いそうなものをいくつか見せてもらって……その中から選んだんだ。これは煌月国の櫛で、髪を梳かすだけでなく、装飾品としても使えるらしい」
彼はそう言うと彼女の手から櫛を取り、編み込んだ髪の根元にそっと差し込む。
アルーラの淡い金色の髪に、濃紺の櫛が美しく映え、彼女が顔を動かす度に意匠が滑らかに輝き、不思議な光を放つ。
「この不思議な輝きは、真珠を薄く削り出して嵌め込んで作られているのだそうだ。君の髪には少し暗いかもしれないとも思ったのだが……よく似合っている」
無意識に髪へ差し込まれた櫛に手を添えながら、アルーラは目を細めて微笑むフィデルを見つめた。
彼から初めて贈られた品。そして、初めてかけられた誉め言葉。
なぜ今更、という思いを持ちつつも、彼が示してくれた初めての好意の証に、確かに安堵している自分が居る。
よく似合っている――ただそれだけの言葉なのに、向けられる眼差しはあまりにも甘く、蕩けるように優しくて。それ以上の言葉など必要ないと思えるほど、まっすぐで、飾り気がなかった。
今までにも、飾り立てた言葉と共に贈り物を捧げられることは幾度となくあった。
けれど、そのどれとも違う何かが、抑えきれない感情となってアルーラの胸の奥から込み上げてくる。
口元を押さえていた指先が、かすかに震えた。
この感情が何なのかは、まだ分からない。ただ、喉の奥が締めつけられ、息が詰まりそうになるほど――泣きたい時と似ているのに、不思議と苦しくはなく、ふわりと浮かぶような心地だった。
異性に贈り物などしたこともないという、不器用な彼が。戸惑いながらも店主に相談し、自分なりに考え、アルーラに似合うものを選んでくれた――その事実が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
不安を抱えた日々から解放されつつあるという喜びに、心の奥が震えているのがわかる。
そして、目の前の彼がアルーラと真剣に向き合うと決めた証が、この贈り物であるのなら――。
嬉しくないはずが、なかった。
「……あ、ありがとうございます。旦那様。とても嬉しいですわ。本当に……嬉しい」
アルーラの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。
「アルーラ、な、なぜ泣くんだ……っ」
「いやだわ、少し……感極まってしまったみたいです。恥ずかしい」
頬を淡く染め、涙に潤んだ瞳のまま照れたように笑うアルーラに、フィデルは言葉を失った。
やがて彼は顔を手で覆い、隠すように俯く。その頬は、彼女に負けず劣らず赤く染まっていた。
――どうして、もっと早く、この無邪気な笑顔を見られるように動かなかったのか。
今さら悔やんでも、取り戻せない時間がある。
それでもなお、胸に込み上げる後悔は消えなかった。
気高く、けれどどこか儚い――大人と少女の狭間に立つ彼女の在りように、フィデルは抗えないほど強く心を惹かれていた。




