第十三話 招待状
祝祭の賑わいを楽しんだ翌日。昨日の疲れが影響しているのか、アルーラはいつもより少し遅い時間に目を覚ました。
眠気に瞼が落ちそうになりながらも窓の外へ目を向けると、昨日とは打って変わって厚い雲が空を覆い、窓を叩く雨がぱらぱらと音を立てている。
乾いていた空気も、雨のおかげかしっとりとしており、伸びをしながら深呼吸を繰り返しても、喉が張り付くような感覚はなかった。
「今日は雨なのね」
何気なくそう呟くと、ちょうど朝支度の準備をしていたマイアが、少し憂いを帯びた表情を浮かべながら残念そうに頷いた。
「せっかくの祝祭期間ですのに、残念でございますね。本日のご予定はいかがなさいますか」
「そうねぇ。今日は屋敷でゆっくりと過ごしましょうか。旦那様と二人でのんびりするのも、悪くはないでしょう」
「かしこまりました。では、わたくしは屋敷の者に伝えて参りますので、あとは別の者に代わります。……エレナ、シンディ。若奥様のご支度を」
マイアがそう指示を出すと、室内で待機していた侍女二人が美しく礼をとった。
そして、いまだ眠気でぼんやりとしているアルーラを立たせると、ナイトガウンに手をかけ、するりと脱がせ、モーニングドレスを数着用意する。
朝はゆったりとしたものを着たいというアルーラの希望により、夜着に似た余裕のあるデザインばかりが並べられていたが、フィデルと朝食を共にすることを思い出した彼女は、侍女に声をかけた。
「今日は、モーニングドレスの中でもデイドレス寄りのものをお願い」
「そうなりますと……こちらのドレスはいかがでしょう」
エレナが数着のモーニングドレスを片付けている間に、シンディが新しいドレスを用意し、その中の一着をアルーラへと差し出す。
ふわりと軽やかな透け感を持つネブラモスリンの生地の下には、贅沢にもエラシルクの裏地が施されており、その滑らかな光沢がネブラモスリンを通して柔らかく浮かび上がる、上質な仕立てのドレスであった。
色合いも雨の日に似合う淡い水色で、モスリンの生地には春らしく、小花と葉の模様が等間隔に刺繍されている。
肩を少し膨らませたデザインは二の腕を一層細く見せ、スカートの裾にあしらわれた白いレースが、シンプルな中にも上品なアクセントを添えていた。
「ああ、ネブラモスリンのドレスね。胸下から落ちるシルエットが、家で着るには堅苦しすぎず、ちょうどいいわね。では、これにするわ」
「かしこまりました。アクセサリーはこちらにご用意しております」
「そうね。この中の……こちらと、こちらを使うわ」
つるりとした乳白色を放つ一角獣の角を用い、水滴に打たれてしなだれる花を繊細に彫刻したカーブドモノケロスのピアスと、喉元に一粒のアクアマリンを添えたレースのチョーカーを合わせると、より儚くも落ち着いた雰囲気を纏う。
髪をサイドにまとめ、抜け感を出しつつ、もともとのウェーブを活かして緩やかに編み込むと、あとは薄く化粧を施し、ダイニングへと向かった。
ダイニングに入ると、フィデルはすでに朝食を食べ終え、昨日と同じように窓辺で新聞に目を通していた。
しかし、彼の髪はなぜかしっとりと濡れており、濃紺の髪がいっそう深い色合いへと変わっている。
「旦那様、髪が濡れておりますけれど、どうされたのですか?」
「ああ、日課の鍛錬をした後に体を清めただけだ。……そんなに濡れているだろうか」
自身の髪をいじりながらそう零すフィデルに、アルーラは思わず呆れたような視線を向けてため息を吐く。
「もう、今にも滴りそうではありませんか。まったく、そのように濡れたままでは風邪をひいてしまいますわ」
アルーラは、共についてきた侍女二人にタオルを持ってくるよう指示を出し、すぐに受け取ると、フィデルの頭へふわりとかけた。
そして子どもをあやすように、優しくとんとんと叩きながら水分を拭き取っていくと、フィデルは慌てた様子で彼女の手を止めようとする。
「じ、自分で拭くから、君は朝食を……」
くすぐったそうに身を捩るフィデルをよそに、ある程度まで拭き終えると、アルーラは満足げに大きく頷き、ようやく彼の頭からタオルを外した。
先ほどまでの滴るようなしっとりとした濡れ感もほとんどなくなり、あとは自然乾燥に任せてもよいほどになっていた。
「いくら体を鍛えているからといっても、この時期は気候も定まりませんし、冷えは体力を奪いますから、ご自身の体調はしっかりと管理なさらなければなりませんよ」
「……なんだか、母上みたいだな」
「まあ! 年下の妻を前に、なんてことをおっしゃるのでしょう。そういうところが駄目なのですよ! 大体、旦那様は思慮に欠けた発言が多いのですわ。前にも……」
「まぁまぁ、そう怒らないでくれ。ほら、食事を取った方がいい。そろそろ冷めてしまう」
湿ったタオルを侍女に渡しながら、アルーラはフィデルに懇々と小言を言っていたが、いつの間にか運ばれていた朝食に目を留めると、途端に瞳を輝かせた。
小さく咳払いをひとつし、何事もなかったかのように流麗な所作で食卓へと着く。
そうして朝食を終え、ひと息ついた頃。
フィデルはアルーラに数通の手紙を手渡した。
そこには、彼女宛ての封筒がいくつか重なっている。
その中には、王家からのものとひと目でわかる、見覚えのある封蝋もあった。
アルーラは他の封筒をいったんテーブルへ置き、その一通だけを手に取る。
王冠を中心に、複雑に絡み合う枝葉の紋様が刻まれた深紅の封蝋。それを慎重に剥がし、ゆっくりと中の手紙を取り出した。
整然と並ぶのは、やや丸みを帯びた端正な筆跡。
差出人はミラであり、王城で本日も催されている祝祭行事――その中の晩餐会と狩猟会への招待が記されていた。
王家から正式な招待状が届いた以上、その行事への参加は事実上の義務となる。
おそらくフィデルではなくアルーラを指名しているのは、彼に直接関わることができなくなったがゆえの遠回しな手段なのだろう。
アルーラを呼べば、必然的に夫であるフィデルも同席せざるを得ない。
「晩餐会はともかくとしても、狩猟会は男性貴族の交流の場と伺っていたのですが……」
まさか紳士たちの集いである狩猟会に出席することになるとは思っていなかったのか、アルーラは手紙から目を離し、困惑した様子でフィデルを見やる。
「最近、狩りの成果を女性へ捧げる風習が再燃していてな。王室もそれを再び取り入れたのだろう。女性たちは安全な場所に留まり、男たちの狩りの功績を称える催しになると聞いている。一番の大物を仕留めた者には褒章も用意されているそうだ」
狩りの成果を女性に捧げる風習は、かつて狩猟が貴族だけの特権であり、誇りでもあった遥か昔の時代に存在していたものだ。
しかし現代では魔獣が各地に蔓延り、狩猟が貴族だけの特権とは言っていられなくなったため、次第に廃れていった風習でもある。
貴族だけが狩りを担っていては、瞬く間に国中へ魔獣が跋扈してしまう。
そうして忘れ去られていった風習を、比較的安全とされる王家の保有地で再現しようという意図なのだろう。
「去年とは随分と趣向を変えたのですね。どなたの案なのでしょう」
「おそらくアーネスト殿下だろうな。あの方は狩猟がお得意だ。婚約者であるルーン公女殿下に、ご自身の成果を披露したいのだろう」
フィデルの言葉に、アルーラは納得したように小さく頷いた。
王太子アーネストには婚約者がおり、それが同盟国であるエルシア魔導公国のルーン第二公女殿下である。
両国の関係が良好であることから、二人は幼少期に知り合い、様々な出来事を経て婚約へと至った。
政略の側面も持ちながら、互いに想いを育んだ末の結びつきであり、結果として同盟強化にも繋がる理想的な婚約だと広く歓迎されている。
輿入れはまだ先であるものの、祝祭などの行事にはシルヴァーノ王国へ訪れ、次期王妃として貴族たちと顔を合わせながら、この国に馴染もうと努力を重ねている人物だと噂されていた。
そんな彼女に良いところを見せたいという男心も見え隠れする催しなのだろうと、アルーラは先日目にしたアーネストの姿を思い浮かべ、思わず苦笑を浮かべる。
あの堂々たる様子からして、きっと見事な大物を仕留めてくるに違いない。
そのアルーラを横目に、フィデルは狩猟会の変更内容に一抹の不安を覚えながらも、当日の立ち回りについて改めて思案を巡らせていた。
七日間にわたる祝祭行事のうち、晩餐会は明日、狩猟会は六日目。
そして最終日には祝祭を締めくくる大規模な舞踏会が催され、初日と同様、ほぼすべての貴族が集うこととなっている。
もともとフィデルは、貴族の嗜みとして狩猟会に出席する予定であったが、王家の所有する森で行われるとはいえ、危険は常に伴う。
騎士たちによって定期的に魔獣の間引きが行われているため、比較的安全は保たれているものの、それでも絶対とは言い切れない。
王家の森はその規模も広大で、すべてに目が行き届くとは到底思えなかった。
「禁区」と呼ばれる立ち入りを制限された区域も存在し、その奥には凶暴な魔獣の生息地が広がっているとも聞く。
――アルーラを、そのような危険な場所へ連れて行くつもりはなかった。
だが、王家から正式な招待状が届いた以上、欠席するという選択肢はない。
フィデルは小さく息をつきながら、避けようのない現実を静かに受け入れるしかなかった。
危険な場所へ連れて行くことになるのなら、せめて危険の少ない場所で待機していてほしい。
しかし、そうした場所には王族も滞在している。
もちろん、彼女を敵視しているであろうミラも、場合によってはレイナードも同席する可能性があることが気がかりだった。
「……狩猟会では、母上と一緒に居てはくれないだろうか」
「お義母様とですか? それは構いませんけれど……やはりミラ殿下のことを警戒して?」
アルーラはフィデルの意図に気づき、真剣な面持ちのままそう問い返した。
フィデルが頷くと、彼女は何かを思案するように視線を外し、窓の方へと向ける。
雨が続けば狩猟会も中止になるはずだが、春の雨は気まぐれだ。
ヴェルナディア神の涙に縋るようなことをしても、アルーラの置かれている状況は変わらない。
それならば、権力もあり頼りにもできる元王女のイネスの側に居ることが一番の安全だろう。
「君を招待した理由は、確実に私に対するものだろう。だからこそ、君を一人にはしておけない。晩餐会では側にいることができるが、狩猟会ではどうしても離れなければならない。せめて、その間だけでも母上の側にいてほしいんだ」
「わかりました。たとえ席順が決められていたとしても、わたくしとお義母様が引き離されることはないでしょう。――むしろ、そのようなことがあれば、確実に何かが起こるということ。その時は、いっそう気を引き締めますわ」
「すまない。私のせいで、君に色々と迷惑をかけてしまう」
ミラからの執着に、フィデル自身がもっと早く気づいていれば、いくらでも対処のしようはあったのかもしれない。
他者に対する無関心が招いた結果で、もしアルーラに何か良くないことが起きてしまったなら――フィデルはきっと、誰よりも深く後悔し、そして何より自分自身を憎むことになるだろう。
ようやく互いを知ろうと歩み寄り始めたばかりだ。だからこそ、これ以上関係がこじれるような事態だけは、どうしても避けたかった。
落ち込んだ様子のフィデルを見て、アルーラは困ったように微笑みながら、そっと彼の手に自らの手を重ねた。
彼よりもわずかに低い体温の指先が、じんわりと温もりに包まれていく。
「この間も申しましたけれど、わたくし、一方的にやられ続けるのは性に合いませんの。言っておきますが、この容姿のせいで、これまで様々な修羅場を経験しておりますから――あなた様が思っているよりも、ずっと強いのですわ」
「アルーラ……」
優れた容姿は、多くのものを惹きつける。
誰もが一目で好印象を抱くという恩恵がある一方で、外見に囚われ、己のものにしようと欲を露わにする者や、この身を攫い利益を得ようと目論む者も後を絶たない。
これまでの人生で、幾度誘拐されかけたことか。
アルーラはそう振り返り、思わず遠くへと視線をやった。
フィデルと出会う以前から、アルーラは常に危険と隣り合わせで生きてきた。
今さら一つ増えたところで、彼の妻であることをやめる理由にはならない。
「ですから、わたくしにも寄りかかってくださいませ。この問題は、あなたばかりが背負うものではないでしょう? ――だって、夫婦なのですから」
アルーラに苦悩があるように、フィデルにもまた抱えているものがある。
一人で背負い続けることで思考が歪んでしまうのなら、夫婦として彼の道を照らすくらいは許されるはずだ。
「……わかった。頼りにしている」
「ええ、お任せください」
得意げに胸に手を当ててそう言ったアルーラに、フィデルは思わずといった様子で笑みをこぼし、「ありがとう」と小さく呟いた。
頼ることは男として、そして騎士として恥だと、いつの間にか自らに言い聞かせていたが、それが自身を追い詰めていたのだと気づき、フィデルの狭まっていた視野が、ほんの少しだけ開けた気がした。




