第8話 世界一ばかな私と、いちごみるく飴の記憶
息を切らして家に帰り着き、少し遅れて帰ってきた両親の「小春、体調はどうなの?」「遥斗くんがすごく心配して、自分のせいで怒らせたからって謝ってたぞ」という心配そうな声に、「もう大丈夫だから、ただの貧血だから」とだけ早口で告げて二階の自室に駆け込んだ小春は、部屋の鍵を閉めるなり、着替えもせずにベッドの上へとダイブした。
「……最悪。
もう、ほんっとうに最悪……」
羽毛布団と枕に顔を深く埋め、ベッドの上で手足をバタバタと打ちつけて一人悶絶する。
「……私、世界一、いや宇宙一最悪のばかだ……っ!」
思い出せば思い出すほど、顔から火が出そうだった。
遥斗は手紙を読んでいなかった。
ただの幼馴染の軽口に、自分が一人で勝手に過剰反応してパニックになり、四日間も無視し続け、あげくの果てに日曜日の夜の路上で、フラれた前提で逆ギレしながら号泣して告白を叫ぶなんて、普段自分が読んでいるどんな三流のラブコメ小説よりも酷い大惨事だ。
しかも、遥斗が「俺の気持ちもちゃんと――」と言いかけたのを、自分の羞恥心に耐えきれずに「今は無理!」と遮って全力逃走してきてしまった。
恥ずかしい。
情けない。
消えたい。
明日からの学校、一体どんな顔をして彼に会えばいいのか、どんな顔をして周囲の噂の目に耐えればいいのか、皆目見当もつかない。
小春はベッドの上で芋虫のようにゴロゴロと転がり、床に落ちていたバッグからスマートフォンを取り出した。
恐る恐るロックを解除し、遥斗とのトーク画面を開く。
木曜日の夜から金曜日にかけて彼から届いていた『昨日はごめん』『俺が悪かった』『少しだけでいいから話がしたい』『まだ怒ってる?』という未読だったメッセージが、今になって小春の胸をギュッと痛いくらいに締め付ける。
彼は何も悪くなかったのに(少しデリカシーはなかったけれど)、こんなに必死に謝ってくれていたのだ。
小春は震える親指で画面のキーボードをタップし、入力欄に『ごめん』と三文字だけ打ち込んだ。
しかし、その横にある紙飛行機の送信ボタンを押すことがどうしてもできず、十秒ほど見つめたあと、すぐにバックスペースキーを連打して消去する。
一体、何からどう謝ればいいのだろう。
「手紙を読まれたと勝手に勘違いして、四日間も無視し続けてごめんなさい」?
「せっかくの両家の食事会を台無しにして、さらに帰り道で一方的に怒鳴りつけてごめんなさい」?
「あなたの話を最後まで聞かずに、また勝手に逃げてしまってごめんなさい」?
それとも――「ただの幼馴染のくせに、身の程もわきまえずに、ずっと前からあなたのことが好きでごめんなさい」?
「……分かんないよぉ……どうすればいいの、これ……」
小春は光が消えたスマートフォンを胸にぎゅっと抱きしめ、シーツの上で胎児のように小さく丸くなった。
その夜、遥斗からメッセージや電話が来ることはなかった。
翌日の月曜日の朝になっても。
火曜日になっても。
水曜日になっても。
学校で、移動教室の廊下や中庭越しに遠くから彼の姿を見かけることはあった。
たまに視線がぶつかりそうになることもあったが、遥斗は決して無理に近づいてこようとはしなかったし、メッセージで問い詰めてくるようなこともしなかった。
けれど、先週までの重苦しい時間とは違い、今回の遥斗の沈黙に対して、小春の心には不思議と冷たい不安や絶望はなかった。
むしろ、胸の奥にじんわりとした静かな安堵感が広がっていたのだ。
なぜなら、久世遥斗という男の子は、昔からそういう人だったから。
普段はデリカシーのかけらもない悪戯ばかりして小春を怒らせるくせに、小春が本当に心の限界を迎えていたり、本気で深く傷ついたりしたときは、絶対に無理やり自分のペースで心に土足で踏み込んでくるような真似はしないのだ。
ふと、ベッドの中で微睡む小春の脳裏に、遠い春の日の記憶が鮮明に蘇る。
あれは確か、小学校三年生の頃だった。
本好きの小春が、自分の誕生日に祖母から買ってもらったばかりの、本物の四つ葉のクローバーと小花の押し花がラミネートされた大切な栞。
それを、小春の家に遊びに来ていた遥斗が「これすげえ、どうなってんの?」と勝手に触り、誤って端っこをビリッと破いてしまったことがあった。
普段なら怒らない小春も、そのときばかりは本当に悲しくて、謝る遥斗に向かって「遥斗なんて大嫌い! もう一生うちに来ないで! 顔も見たくない!」とボロボロ泣きながら怒鳴りつけ、彼を部屋から追い出してしまったのだ。
あのときも、遥斗は無理に部屋に入ってきたり、言い訳をしたりしなかった。
シュンと肩を落として、黙って自分の家へと帰っていった。
その代わり、翌日の朝。
小春がまだ少し腫れた瞼をこすりながら学校へ行こうと玄関の扉を開けると、外側の冷たい金属のドアノブに、小さな透明のビニール袋がちょこんとぶら下がっていたのだ。
不思議に思って中を覗き込むと、そこに入っていたのは、遥斗が自分の少ないお小遣いをはたいて近所の駄菓子屋で買ってきたらしい、小春の大好物の『いちごみるく飴』が一袋。
テープで不器用に補強された新しい押し花の栞(遥斗が自分の庭で摘んだタンポポをセロハンテープで画用紙に貼っただけの、ひどく不格好な手作り栞)。
そして、自由帳をビリッとちぎった白い紙に、短い鉛筆を強く握りしめて書かれた、紙の枠からはみ出すほど大きな、筆圧の強いぐちゃぐちゃのひらがな。
『こはるへ。
きのうは、だいじなしおりを、やぶいてごめんなさい。
もうしません。
はると』
小春は夜の静かなベッドの上で、机の引き出しの奥にある宝物箱に今でもこっそりしまってある、あの日の不器用なひらがなの文字とタンポポの栞を思い出し、ふっと小さく息を漏らした。
「……ほんと、昔から全然変わってないなあ」
胸の奥の、恥ずかしさと不安で冷え切っていた場所に、ぽうっと小さなろうそくの灯がともるように、優しい温かさがじんわりと広がっていく。
彼が今、連絡をしてこないのも、学校で声をかけてこないのも、決して小春の不格好な告白を気持ち悪がって嫌いになったからではないのだ。
あの日曜日の夜、小春が最後に泣きながら叫んだ『お願いだから、今は追いかけてこないで!』という言葉。
それを彼は彼なりに一生懸命尊重して、小春自身のパニックや恥ずかしさが落ち着き、心の整理がつくまで、ずっと少し離れた場所で、何も言わずに待っていてくれているのだ。
小学生のあの頃と、少しも変わらず、不器用で優しいままで。
「……遥斗の、ばか」
カーテンの隙間から見える春の夜空の丸い月を見上げて呟いた小春の口元は、今度は泣き顔ではなく、少しだけ、柔らかく綻んでいた。




