第7話 夜の遊歩道、涙の逆ギレ告白
店員の驚く顔を横目にレストランの重い木製の扉を押し開け、春の夜の冷たい空気の中へと一気に駆け出す。
駅前の煌々とした街灯やネオンの光が、後から後から溢れる涙で滲み、壊れた万華鏡のようにぐにゃりと歪んで見えた。
日曜日の夜八時過ぎ、駅から少し離れた住宅街へと続く歩道は人通りが少なく、自分が履いているローヒールのパンプスの乾いた足音だけが、カツカツと夜のアスファルトに虚しく響く。
どれだけ走っただろう。
息が切れ、脇腹がしくしくと痛み始めた頃、街路樹の桜とケヤキが交互に続く暗い遊歩道に入ったところで、背後から地面を強く蹴る激しい足音が迫ってきた。
「小春! 待って、小春!」
ハッとして足を速めようとした瞬間、肩を掴まれるよりも早く、街灯の光を遮る長い影が小春の前にぐるりと回り込み、行く手を完全に塞いだ。
遥斗だった。
店内に置いてきたのかジャケットも羽織らず、白いシャツの袖をまくったままの姿で全力で走ってきた彼は、広い肩でゼエゼエと荒い息をしながら、見たこともないほど必死な目で小春を見つめていた。
前髪が汗で少し乱れ、その奥の瞳が街灯の光を反射して揺れている。
「……何よ! どいてよ!」
小春は立ち止まり、溢れ出る涙を乱暴に手の甲で拭いながら、目の前の幼馴染をきっと睨みつけた。
眼鏡のレンズが自分の涙とまつ毛で汚れ、彼の顔がうまく見えない。
「なんで、なんでわざわざ追いかけてくるのよ! おいしいご飯、食べてればいいじゃない!」
「食べられるわけねえだろ、お前が急にそんな泣きそうな顔して飛び出すんだから……! 木曜日のあの日からずっとおかしいだろ! 連絡しても無視するし、学校でも逃げるし、俺が一体何をしたって――」
「そんなに私を馬鹿にするのが楽しい!?」
小春の喉の奥から裂けるように飛び出した悲鳴のような叫びに、遥斗は息を呑み、その場に凍りついたように言葉を失った。
「……は? 馬鹿にするって、俺がいつお前を……」
「昔からそうじゃない! いつもいつも私のこと子ども扱いしてからかって、私が本気で怒ったり泣いたりすると、いつも余裕ぶって面白そうに笑って!」
一度決壊した心のダムから溢れ出した言葉は、もう小春自身にも止められなかった。
胸の奥の暗い底で、この四日間ずっとどろどろと渦巻いていた黒く濁った感情が、熱い涙と一緒に次から次へと噴き出してくる。
「小春、待てって、落ち着けよ! 俺はそんなつもりじゃ……」
「あの手紙まで読んでおいて、よくそんな白々しいことが言えるわね!!」
遥斗の表情が、ぴたりと止まった。
頭上の街灯の白いLEDの光の下で、彼の茶色い瞳が信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「……手紙?」
「そうよ! 私が鞄に入れてた、あの桜色の手紙よ!」
小春は小さなバッグを自分の胸に押し潰すように抱きしめ、声を震わせて夜の遊歩道で叫んだ。
「私が……っ、私がどんな気持ちで、何日も寝ないで、何十枚も紙を無駄にしてあの一言を書いたかも知らないくせに! 全部読んだくせに、あの渡り廊下で、あんな風にニヤニヤ笑って、平気な顔で『見ちゃった』ってからかって……っ! 学校中でモテる遥斗にとっては、地味な幼馴染からのラブレターなんて何でもない笑い話かもしれないけど、私にとっては……っ!」
感情が高ぶりすぎて息が詰まり、しゃくり上げるような嗚咽が漏れる。
ああ、言ってしまった。
あんなに隠していたのに。
一番言いたくなかった、一番知られたくなかった、一番惨めな自分の本音を、こんな最悪の場所で全部ぶちまけてしまった。
でも、もう止まらない。
「……ずっと、ずっと前から遥斗のことが好きだったのにっ……! 小学生の頃からじゃなくて、一人の男の子として、ずっと大好きだったのに……っ! これじゃ私だけ、一人で真剣になって、一人で傷ついて、ただのピエロみたいで、馬鹿みたいじゃない……っ!」
小春はバッグを腕にかけたまま両手で自分の顔を覆い、その場に立ち尽くして子どものようにしゃくり上げた。
春の夜の少し冷たい風が吹き抜け、頭上の街路樹の葉がザワザワと音を立てて揺れる。
しばらくの間、誰もいない暗い遊歩道には、小春の途切れ途切れのすすり泣く声だけが響いていた。
目の前に立つ遥斗は、まるで頭上から本物の雷に打たれたかのように、指先一つ動かさず、呆然と泣きじゃくる小春を見つめていた。
彼の頭の中で、木曜日の放課後の小春の絶望したような瞳と、ここ数日の徹底した拒絶と、さっきのレストランでの涙と、そして今目の前で叫ばれた言葉が、激しい音を立てて一つの線に繋がっていく。
やがて、遥斗は乾ききった唇を小刻みに震わせ、喉の奥から絞り出すように口を開いた。
「……小春」
「何よ……っ、もう何も言わないでよ……これ以上惨めにさせないで……」
「俺、その手紙……読んでない」
顔を覆っていた小春の指が、ぴくりと止まった。
「…………え?」
小春はゆっくりと顔から手を下ろし、涙で濡れた眼鏡の奥から、恐る恐る遥斗を見上げた。
そこにいた遥斗は、いつもの余裕たっぷりの王子様でも、悪戯好きな幼馴染でもなかった。
今まで十六年間で一度も見たことがないほど苦渋に満ちた、今にも彼自身の方が泣き出してしまいそうなほど歪んだ顔で、ぶんぶんと首を横に振っていた。
「中身なんて、本当に一文字も知らないんだ。
俺は、その手紙を読んでない」
「……嘘、よ。
だって木曜日に、お前が俺に渡そうとしてた手紙見ちゃったって……」
「嘘じゃない! 神様に誓って読んでない!」
遥斗はたまらず一歩前へ踏み出し、自分の白いシャツの胸をドンと叩くようにして、必死の形相で言葉を継いだ。
「あの前の日の水曜日の放課後、俺が部活のミーティング終わって昇降口に行ったとき、お前が下駄箱の陰で、ピンク色の手紙みたいなのを慌てて鞄に隠すのを、たまたま遠くから見ただけなんだ! 誰かに渡そうとしてたのかと思って、それが他の男へのラブレターなんじゃないかって無性に気になって、怖くなって……だから木曜日に、『俺に渡そうとしてた手紙、見ちゃった』って……ただのカマかけで、いつもの調子でちょっとからかっただけで……!」
そこで、遥斗はハッと言葉を詰まらせた。
あの日、小春が下駄箱の前で必死な顔をして鞄にしまい込んでいた淡い桜色の封筒。
あれが、他の誰でもなく、本当に自分宛てだったこと。
そしてその便箋の中に、小春の『ずっと前から一人の男の子として大好きだった』という、震えるほど真剣な想いが綴られていたこと。
それを今、自分の愚かで思慮のない一言のせいで、こんなにも小春を傷つけ、泣かせ、最悪の形で吐き出させてしまったという取り返しのつかない事実に、彼の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「……ごめん。
小春、本当にごめん……。
俺、お前がそんな気持ちで手紙を書いてくれてたなんて、これっぽっちも知らなくて……俺のせいで、あんなに泣かせて……本当に、ごめん……」
遥斗が、まるで罪人のように深く頭を下げる。
小春は、夜の冷たいアスファルトに両足を縫い付けられたように、一歩も動けなかった。
夜風が吹き抜け、涙でぐしょぐしょに濡れた小春の頬を冷たく撫でていく。
……読んでいない?
遥斗は、あの手紙の中身を読んでいなかった?
じゃあ、木曜日の夕暮れの渡り廊下で、彼があんな風に悪戯っぽく笑っていたのは、私の恋心を知って上から目線で嘲笑していたわけじゃなかった?
ただ、昇降口で封筒を見ただけで、いつもの小学生の頃みたいな延長線で、「俺宛てだろ」ってカマをかけてきただけ?
彼は何も知らなかったのだ。
私が彼のことを好きだということも、あの桜色の封筒の中にどんな言葉を書いたのかも、本当に、何一つ。
小春の胸の奥で、音を立てて巨大な何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚がした。
木曜日の夕方から今日まで、四日間ずっと胸の中で燃え盛っていた怒りも、身を切るような悲しみも、底なしの絶望も、すべてが「自分の勝手な早合点と被害妄想」というあまりに単純な事実の前で行き場を失い、夜の空気にぷかりと宙に浮いた。
――私、一体、何をしてたんだろう。
勝手に読まれたと思い込んで、勝手に傷ついて、勝手にトイレで泣いて、勝手に彼を無視して逃げ回って、あげくに両家の親まで巻き込んで食事会をメチャクチャにして。
そして今、一番最悪なことに。
自分の勝手な誤解だったとはいえ、世界で一番好きな人の目の前で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったこんなにも醜い顔を晒し、ヒステリックに大声で怒鳴り散らして、そのついでみたいに『ずっと前から大好きだったのに!』と大声で自白してしまったのだ。
手紙を渡すどころか、夜の路上で逆ギレしながら叫んでしまった。
先ほどまでの悲壮な絶望とは全く種類の違う、足の裏から頭のてっぺんまでが一瞬で沸騰するような、身の置き所のないほどの猛烈な羞恥心が、巨大な津波のように小春を飲み込んだ。
「……小春? あの、さっきお前が言った言葉って……俺のことが好きって、それ、本当……」
頭を上げた遥斗が、まるで夢でも見ているかのように、そして壊れ物を扱うかのように、恐る恐る右手を小春の頬へと伸ばしてくる。
彼の顔もまた、街灯の下で分かるほど耳まで赤く染まり始めていた。
しかし、その長い指先が小春の頬に触れる直前、小春はバネ仕掛けの人形のように弾かれたように一歩、大きく後ろへと飛び退いた。
「……ごめん」
「え?」
「ごめんなさいっ! 全部私の勘違いだった! 私、もう帰るから!」
「ま、待てって小春! なんでそうなるんだよ! まだ話が……さっきの言葉の返事っていうか、俺の気持ちも、ちゃんと――」
「今は、無理っ! 絶対に無理!」
小春は眼鏡がずり落ちるのも構わず、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
これ以上、この場に一秒でもとどまっていたら、そして冷静になった彼の口から何かを聞かされたら、恥ずかしさと情けなさと心臓のバクバクで、本当に血管が切れて死んでしまう。
「……お願いだから、今は追いかけてこないで! 一人にして!」
悲鳴のようにそう言い残し、小春は踵を返して、今度こそ全力で夜の住宅街の道へと走り出した。
今度は、背後から遥斗の足音は追いかけてこなかった。
街灯の白い光の下に一人取り残された遥斗の、宙に伸ばされたままの右手が、春の夜の冷たい空気を虚しく切ったことを、ただひたすらに顔を真っ赤にして走る小春は知る由もなかった。




