第6話 気まずいディナーと、傷口に塩を塗る昔話
日曜日の夜六時半。
駅前の大通りから一本入った場所にある少し高級なイタリアンレストランは、アンティーク調の柔らかな間接照明と心地よいジャズのBGM、そしてじっくりと炒められたガーリックとオリーブオイル、フレッシュバジルの食欲をそそる香りに満ちていた。
「まあ、小春ちゃん! しばらく見ないうちに、また一段と背が伸びて女の子らしくなったわねえ!」
「いやだわ奥様、お世辞でも嬉しいわ。
実際は相変わらず化粧っ気も色気もない、本ばっかり読んでる地味な子で。
それより遥斗くんこそ、すっかり肩幅が広くなって男前になって! 学校でも女子が放っておかないでしょう?」
「やだ、うちなんかバスケと寝ることしか頭にないわよ!」
久世家の両親と小春の両親は、乾杯のスパークリングワインのグラスを軽やかに合わせるなり、長年の気安さから昔話と近況報告に華やかな花を咲かせ始めた。
大人たちの賑やかな笑い声が白いテーブルクロスの上を飛び交う中、六人掛けのテーブルの端――小春と遥斗が座る一角だけが、まるでそこだけ分厚いガラスの壁で仕切られた別世界のように、重苦しく張り詰めた空気に沈んでいた。
不運なことに、親たちの「若い子たちは隣同士……じゃなくて向かい合った方が話しやすいわよね」という謎の配慮により、二人はテーブルの端で真正面に向かい合う席に座らされていたのだ。
普段着の白いブラウスに紺色のミモレ丈スカートを着た小春は、極度の緊張で膝の上の赤いナプキンを何度も強く握り直し、視線を目の前の彩り豊かな前菜とパスタの皿から一ミリも上げられずにいた。
「……久しぶり」
父親たちが仕事のゴルフの話題で盛り上がる合間を縫うようにして、テーブルの向かい側から、低く抑えた、少し掠れた声が届いた。
小春はびくりと小さく肩を揺らし、失礼にならないようにほんの一瞬だけ、恐る恐る視線を上げた。
襟付きの清潔な白いシャツを着た遥斗が、少し気まずそうに、けれど驚くほど真剣な眼差しでこちらをまっすぐに見つめていた。
整った顔立ちの目の下に、うっすらと青黒い隈が浮かんでいるように見えたが、彼の瞳の熱量を直視することができず、小春はすぐにまた自分の皿へと視線を落としてしまう。
「……うん」
小春が返したのは、すぐ隣の母親の耳にすら届かないような、蚊の鳴くような小さな相槌だけだった。
小春のグラスの水が少し減っているのに気づいた遥斗が、無言のままピッチャーに手を伸ばし、そっと水を注いでくれる。
その長い指先が視界に入るだけで心臓が跳ね、「……ありがと」と呟くのが精一杯だった。
それきり、二人の間の会話はぷつりと途切れた。
シルバーのフォークが白い陶器の皿に触れるカチャカチャという乾いた音だけが、小春の耳にはやけに大きく響く。
遥斗と一緒にいて、こんな風に息が詰まるほどの沈黙が流れるなんて、生まれて初めてのことだった。
昔なら、親たちの退屈で長い世間話に飽きると、テーブルクロスの下でこっそり足を小突き合ったり、変な顔をして目配せを送り合い、吹き出しそうになるのを必死に堪えてクスクス笑い合ったりしていた。
遥斗が親に聞こえない声でくだらない冗談を言って、小春が「ちょっと遥斗、お行儀悪いよ!」と小声で叱る。
ただそれだけで、どんな退屈な場所でも、二人だけの秘密の楽しい世界になったのに。
なのに今は、彼の顔をまともに見ることすら怖くてたまらない。
舌の上に乗せた渡り蟹のトマトクリームパスタの味なんて、砂を噛んでいるようで少しも分からなかった。
「そういえばさあ、あなたたち二人とも覚えてる?」
ワインが二杯目に入り、ほろ酔い加減で桜色に頬を染めた遥斗の母親が、突然思い出したように二人の方を向いて声を上げて笑い出した。
「この子たちったら、幼稚園の年長さんの頃、将来は絶対に二人で結婚するって毎日大騒ぎしてたのよ!」
「ああ、そうそう! 言ってたわねえ、懐かしい!」
小春の母親も、ワイングラスを置いて楽しそうに手を叩いて相槌を打つ。
「遥斗くんがね、公園で遊んだ帰りに泥だらけの顔でうちの玄関まで走ってきて、正座して『おじさん、ぼくが大きくなったら小春ちゃんをお嫁さんにして、一生守るからぼくにください!』って、お父さんに真剣に頭下げたのよねえ!」
「そうだったわ! うちのお父さん、あのとき本気で複雑そうな顔して『まだ早い!』なんて大人げなく怒っちゃって! あの頃は本当にどこへ行くにも毎日くっついて歩いて、本当の兄妹みたいで可愛かったわあ」
大人たちが、グラスを傾けながら無邪気に声を上げて笑う。
向かいの席から、遥斗が「母さん、そういう昔の話を今するのやめろって……」と、珍しく焦ったような低い声で制止するのが聞こえたが、気分が良くなった母親たちの思い出話は止まらない。
小春は、テーブルの下、膝の上で握りしめた両手の拳が真っ白になるほど力を込めた。
爪が手のひらに食い込んで、じわりと痛む。
覚えている。
忘れるわけがない。
あの日、公園で近所の年上のガキ大将たちに「眼鏡ザル」「泣き虫」とからかわれて泣いていた小春の手を、駆けつけた遥斗は、自分より体の大きい上級生たちの前に立ちはだかって追い払い、泥だらけの温かい手で痛いほど強く握りしめてくれたのだ。
『泣くなよ、小春! 誰が何て言ったって、俺がずっと小春の味方だからな! 俺が一生守ってやるからな!』
燃えるような夕日を背に受けて、鼻の頭に泥をつけたまま、まるで絵本の中の本物のヒーローみたいに得意げに笑っていた彼の顔を、小春はずっと、ずっと、世界で一番大切な宝物みたいに胸の奥の小箱にしまって、今日まで生きてきたのだ。
けれど。
今の遥斗にとっては、そんなのただの「親にバラされたくない幼児期の恥ずかしい黒歴史」に過ぎないのだろう。
さっきの「やめろって」という制止の声も、きっと今の自分にそんな気がないからこそ、迷惑がって出た言葉に違いない。
だって彼は、小春が必死の思いで書いたラブレターを見ても、平気な顔でニヤニヤと笑い、からかいの道具にするような人だ。
学校では、小春なんかよりずっと綺麗で、明るくて、可愛い女の子たちに囲まれて、眩しい世界で生きている人だ。
それなのに、どうして。
どうして大人たちは、私のズタズタに裂けた傷口に粗塩をすり込むみたいに、今さらそんな残酷で幸せだった昔話を引っ張り出して、楽しそうに笑うの。
「……やめてよ」
小春の震える唇から、小さな声が漏れた。
店内のBGMと大人たちの笑い声にかき消され、隣の母親が「え? 小春、何か言った?」と呑気に聞き返す。
その瞬間、小春の中で、木曜日の放課後からずっとギリギリで張り詰めていた我慢の糸が、パチンと音を立てて完全に弾け飛んだ。
「そんな昔の話、もうやめてって言ってるの!!」
ガタン、と木製の重い椅子が後ろに倒れそうになる激しい音を立てて、小春はテーブルから立ち上がった。
一瞬にして、賑やかだった食卓が水を打ったように静まり返る。
周囲のテーブルの客たちも、何事かとちらりとこちらを見た。
驚いて目を丸くしてこちらを見上げる両親たちの視線の中で、小春は自分の頬に、止めようのない熱い涙がツーッと伝い落ちるのを感じた。
「……ごめんなさい。
急に気分が悪くなったから、私、先に帰ります」
「ちょ、小春!? どうしたのよ急に!」
椅子の背にかけていた小さなショルダーバッグをひっ掴み、慌てて制止する母親の声を振り切って、小春は逃げるようにテーブルを離れた。
背後でガタッと椅子が鳴り、「小春!」と遥斗が立ち上がる気配がしたが、振り返る余裕など一ミリもなかった。




