第4話 針の筵の教室と、既読のつかないメッセージ
翌朝。
金曜日の一時間目が始まる前の教室の空気は、小春にとって文字通り「針の筵」そのものだった。
「ねえ、ちょっと聞いた? 昨日の放課後、二組の久世くんが血相変えて女の子を全力で追いかけてたんだって!」
「えっ、嘘! あの久世くんが? 誰を?」
「それがさ、うちのクラスの篠宮さんらしいよ。
三階の階段のところで見たって子がいてさ」
「篠宮……? ああ、図書委員の? いつも眼鏡かけてて、休み時間もずっと一人で本読んでる、なんかすっごい地味な子でしょ?」
「ええっ!? なんで久世くんがそんな子を!? 釣り合わなさすぎない!?」
廊下を通り過ぎる他クラスの生徒たちの無遠慮なひそひそ話や、教室の後ろのロッカー付近で固まる一軍女子グループからの好奇と値踏みするような冷ややかな視線が、容赦なく小春の背中に突き刺さる。
小春は窓際の後ろから二番目の自分の席で、いつも以上に背中を丸め、長めの前髪で顔を隠すようにして極限まで小さくなっていた。
机の上に開いたままの文庫本の文字など、昨日の夜から一行たりとも頭に入ってこない。
最悪だ。
本当に、これ以上ないくらい最悪の展開だ。
ただでさえ遥斗と顔を合わせたくないのに、誰に見られていたのか、こんな尾ひれのついた噂まで一晩で学年中に広まってしまうなんて。
自分が遥斗の隣に立つことすら、周りから見れば「なんであんな地味な子が」と笑われる対象でしかないという事実を、改めて残酷に突きつけられた気がした。
「……小春、ほんとに大丈夫? 目の下、すごいクマだし、顔色真っ青だよ」
前の席の親友、七瀬美咲が、自分の椅子をくるりと後ろに向けて、周囲の目を遮るように身を乗り出して心配そうに顔を覗き込んできた。
小春は力なく首を横に振り、開いた本の上に突っ伏した。
「……大丈夫じゃない。
今すぐ空気になって消えたい」
「ちょっと、昨日の放課後、久世くんと一体何があったのよ? あんたたち、幼稚園からの幼馴染でしょ? 喧嘩でもしたの?」
「何もない……ただの、私の勝手な勘違いで、自業自得だから」
「何もない人が、あの常に余裕しゃくしゃくの久世くんに、廊下を革靴鳴らして全力疾走で追いかけられるわけないでしょ! 昨日の久世くん、本当にすごい必死な顔だったって噂になってるんだよ?」
「知らないっ……きっと、からかいすぎて怒らせたから面倒くさいなって思っただけよ……。
お願いだからもう聞かないで、美咲ぃ……」
自分の腕の中に顔を深く埋めると、昨日の夕方の、あの遥斗の悪戯っぽい笑顔と冷酷な言葉が鮮明に蘇り、また目頭が熱くなりそうになる。
小春は制服の袖の中で拳を握りしめ、唇を血が滲むほど強く噛み締めて、必死に涙を堪えた。
同じ時刻、校舎の反対側にある二年二組の教室でも、遥斗がかつてないほど落ち着かない時間を過ごしていた。
「おい久世、お前、昨日隣のクラスの篠宮さんと何があったんだよ? 朝から女子たちがその話題で持ちきりだぞ。
『久世くんが泣いてる女の子を追い詰めてた』とか『いや、フラれて追いかけてた』とか、いろんな説が飛び交ってるけど」
隣の席の友人であり、同じバスケ部の直樹が、ニヤニヤと面白そうに遥斗の肩を肘で小突いてくる。
普段の遥斗なら、「いやあ、幼馴染にちょっと怒られちゃってさ」と爽やかな苦笑いで適当に受け流し、場を丸く収めるところだ。
しかし、昨夜一睡もできなかった今の遥斗には、そんな王子様の仮面を被る余裕など微塵も残っていなかった。
「……別に。
お前らには関係ねえよ」
「うわ、怖っ。
『別に』って顔じゃねえだろ。
眉間にすごい皺寄ってるぞ、無敵の王子様」
「うるせえ、ほっとけ」
遥斗は自分でも驚くほど低い声で苛立ちを吐き捨てると、机に肘をついて窓の外へと視線を逃がした。
直樹が「こりゃマジなやつだな……」と呟いて苦笑いしながら離れていく気配がしたが、構う気になれなかった。
窓の外では満開の桜並木が春の風に揺れているが、その美しい薄紅色の景色も、今の遥斗の目にはまるで灰色のモノクロームにしか見えない。
いつもなら、朝の登校中や移動教室の合間に小春の姿を見かければ、遥斗の方から自然と近づいて声をかけていた。
小春が恥ずかしそうに周囲を気にして早口で返事をするのを、どこか可愛いと思いながら見ていた。
けれど、二人の教室は同じ二階フロアとはいえ、校舎の東端と西端だ。
意識して会いに行かなければ、一日中すれ違うことすら珍しい。
そして今日、小春は明らかに、徹底して遥斗の視界から消えていた。
一時間目の休み時間、昨日のことを謝ろうと彼女の教室の近くまで足を運んだ。
しかし、廊下の遠くから遥斗の姿を認めた瞬間、教室から出てきたばかりだった小春は、まるで天敵を見つけた小動物のように弾かれたように美咲の背中に隠れ、そのまま反対側の非常階段へと駆け下りて消えていったのだ。
二時間目の休みも、三時間目の休みも、教室に姿はなかった。
昼休みに彼女のお気に入りの場所である図書室を覗いても、カウンターの中にいるのは別の図書委員だけで、そして放課後、昇降口で待ち伏せしようとチャイムと同時に教室を飛び出したときには、すでに一年生の頃から場所を知っている彼女の下駄箱から、上履きもローファーも消え去っていた。
昨日の夜から、スマートフォンで何度もメッセージを送った。
『昨日はごめん』『俺が悪かった。
ちょっとからかっただけなんだ』『少しだけでいいから話がしたい』『まだ怒ってる?』
しかし、トーク画面に並んだ自分の緑色の吹き出しの横には、残酷なほど「既読」の二文字すらつかない。
ブロックこそされていないものの、通知オフにされているのか、それとも画面を開くことすら拒絶されているのか。
「……何なんだよ、一体。
俺が何をしたっていうんだよ」
部活の仲間たちが体育館へと向かい、誰もいなくなった放課後の静かな教室で、遥斗は自分の机の上にスマートフォンをガチャンと乱暴に伏せた。
直後、ブブッ、とバイブレーションが震え、ロック画面が明るく光る。
画面には、他のクラスや他学年の女子生徒たちからのメッセージ通知がいくつも並んでいた。
可愛らしいウサギのスタンプ、週末のカフェや映画の誘い、『今日なんか元気なかったけど大丈夫?』という遥斗を気遣う優しい言葉。
昨日までの遥斗なら、それらに当たり障りのない丁寧な返信を返すことは、少しも苦ではなかった。
人から好意を向けられて悪い気はしないし、周りの求める「優しい久世くん」の期待に応えることで保たれる平穏で心地よい人間関係に、それなりに満足していたはずだった。
けれど。
今、遥斗が喉から手が出るほど欲しい返事は、そのどれでもなかった。
他の誰の優しい言葉も、ハートマークのスタンプも、全部どうでもよかった。
『遥斗のばか! デリカシーなさすぎ! もう絶交だからね!』
そんな、小学生の頃みたいな子供じみた怒りの一言でよかった。
いつものように黒縁眼鏡の奥の大きな瞳をツリ目にして、ぷうっと白い頬をリスみたいに膨らませて、自分の胸をぽかぽかと叩きながら文句を言ってくれれば、それでどれだけ救われただろう。
どうして、あんな今にもガラス細工が砕けてしまいそうな顔で泣かせてしまったのか。
そして、どうして自分は昨日の夕方からずっと、他の誰の声も耳に入らないほど、寝ても覚めても小春のことばかりを考えているのか。
「……分かんねえよ」
誰もいない西日の差す教室に、遥斗の低く掠れた呟きがぽつりと落ちた。
胸の奥にぽっかりと空いた暗い穴に、春の冷たい風がヒューヒューと音を立てて吹き抜けていくようだった。




