第2話 夕暮れのカマかけと、最悪の早合点
六時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響き、ホームルームが終わると同時に、校舎全体が部活動へ向かう生徒たちの威勢のいい声や、寄り道の相談をしながら帰宅する生徒たちの賑やかなざわめきに包まれた。
窓から差し込む光は、すでに昼間の黄金色から、どこか切なさを孕んだ深い茜色へと変わり、ワックスの剥げかけた廊下に生徒たちの長い影を落としていた。
小春は通学鞄の持ち手を両手で白くなるほど強く握りしめ、本館から旧校舎へと続く、人通りの少ない一階の渡り廊下をゆっくりと歩いていた。
木曜日の今日、遥斗の所属するバスケ部は休養日だ。
そして、今日の彼が教室の掃除当番にあたっていることも、掃除を終えた彼が、昇降口の混雑を避けていつもこの旧校舎側の静かな渡り廊下を通って駐輪場へ向かうことも、十年以上隣にいた幼馴染の習性として、小春は全部知っていた。
渡り廊下の角の手前で、小春は一度立ち止まり、胸元に手を当てて深呼吸をした。
渡して、すぐ逃げよう。
「帰ってから読んでね」とだけ言って、鞄から封筒を出して押し付けるのだ。
フラれるかもしれない。
気まずくなるかもしれない。
それでも、自分の気持ちに嘘をついたまま、彼が誰か別の女の子のものになっていくのを指をくわえて見ているだけは、もう限界だった。
意を決して角を曲がったところで、探していた広い背中を見つけた。
しかし、小春のローファーは、リノリウムの床の上でぴたりと縫い付けられたように止まった。
遥斗は、一人ではなかった。
彼のすぐ目の前には、ゆるく綺麗に巻いた長い茶髪を揺らす、まるでティーン向けのファッション雑誌から抜け出してきたような華やかな女子生徒が立っていたのだ。
確か、隣のクラスで読者モデルをしていると噂の女子だ。
「ねえ、久世くんって、今好きな人いるの?」
「どうだろうね。
秘密かな」
「えー! ずるい、ちょっとくらい教えてよ! 私、久世くんのタイプ知りたいな」
女子生徒が甘えるように鈴のような声を弾ませ、上目遣いで遥斗を見上げながら、彼の腕に自分の華奢な腕を触れさせんばかりに距離を詰める。
ブレザーの襟元から覗くリボンも、甘い香水の匂いも、すべてが洗練されていた。
対する遥斗は、少し困ったように眉を下げながらも、決して相手を傷つけない絶妙な距離感で、どこか楽しげに、柔らかい声で笑っていた。
燃えるような夕日を背に受けた美男美女のシルエットは、まるで恋愛映画のクライマックスシーンのように完璧に完成されていた。
そこに、野暮ったい自分が入り込める隙間など一ミリも存在しないように見えた。
小春は咄嗟に近くのコンクリートの柱の陰に身を隠し、自分のブレザーの胸元をぎゅっと強く掴んだ。
肺からすべての空気が抜け落ちたように、息が苦しい。
制服のブラウスの下で、心臓がドクドクと嫌な音を立てて不規則に跳ねているのが分かった。
――私、何をしてるんだろう。
すぐ横の窓ガラスに、夕闇に溶けかけた自分の姿がぼんやりと映り込んでいるのが視界の端に入った。
分厚い黒縁眼鏡に、手櫛で束ねただけの地味な髪、毛玉ができかけたベージュのカーディガン。
あんな風に華やかに着飾ることも、彼の目を見て明るく笑いかけることも、彼の隣で堂々と顔を上げて歩くこともできない自分が、こんな柄にもない桜色の手紙なんかを渡そうとしていたなんて。
昔、毎日のように泥だらけになって一緒に遊んでいたから。
昔、前歯のない顔でお嫁さんにするなんて言ってくれたから。
そんな、とうの昔に色褪せてしまった子供の頃の記憶を後生大事に抱え込んで、今の彼にとっても自分が『特別な存在』かもしれないなんて、どうしてそんな風に思い上がることができたのだろう。
頭から冷水を浴びせられたような痛烈な羞恥心と、胸をえぐるような惨めさが、足元からどっとせり上がってくる。
目頭がツンと熱くなり、鼻の奥が痛くなった。
「……帰ろ」
声にならないほど掠れた呟きを床に落とし、自嘲と共に踵を返した、まさにその瞬間だった。
「あれ、小春?」
背後から、聞き慣れた、少し低くて耳に心地よい声が響いた。
小春はびくりと肩を跳ねさせて振り返った。
そこには、いつの間にかあの女子生徒と別れたらしい遥斗が、夕日の光を背負いながら、長い脚でゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるところだった。
女子生徒の前で見せていた「よそ行きの穏やかな笑顔」が消え、どこかホッとしたような、素の表情に戻っている。
「何してんの、こんなところで。
図書室の当番は?」
「きょ、今日は当番じゃないの。
べ、別に、ただ帰るところだけど」
小春は動揺を隠そうとして視線を泳がせ、無意識のうちに、桜色の封筒が入った鞄を自分の体の後ろへと隠すように持ち替えた。
すると、その不自然な動きを見逃さなかった遥斗が、「ふうん?」と面白そうに鼻を鳴らし、小春のパーソナルスペースにすっと音もなく踏み込んできた。
背の高い彼が上体を屈め、逃げる小春の視線を捕まえるように、顔を真正面から覗き込んでくる。
ふわりと、昔から変わらない、遥斗の家のシトラス系の柔軟剤の爽やかな香りが鼻をかすめた。
昔からそうだ。
小春が何か都合の悪いことを隠そうとしたり、下手な嘘をついたりすると、彼はいつもこうしてずるいくらいの近距離まで踏み込んできて、小春の逃げ場を完全になくしてしまうのだ。
「な、何よ。
近いんだけど!」
「いや、さっき俺と目が合った瞬間、何か慌てて背中に隠しただろ」
「隠してない! 遥斗の気のせいよ!」
「へえ、そうかなあ。
小春が嘘つくとき、いつも右の眉がぴくって動くの、まだ直ってないぞ」
遥斗の口元が、にやりと悪戯っぽく弧を描いた。
その表情を見た瞬間、小春の背筋にぞっと冷たいものが走った。
学校中の女子生徒が恋い焦がれる「優しくて完璧な王子様」の仮面の下にある、幼馴染の小春だけが知っている素顔。
小学生の頃、小春の筆箱にダンゴムシを入れようとしたときや、冷蔵庫にあった小春のプリンを勝手に食べたときにいつも見せていた、あの『何か良からぬことを企んだときの顔』だ。
「そういえばさ」
「……な、何よ」
小春は本能的な危険を察知して一歩後ろへ下がろうとしたが、背中はすぐに渡り廊下の冷たい壁にぶつかり、コツンと乾いた音がした。
逃げ場を失った小春を見下ろしながら、遥斗はズボンのポケットに片手を突っ込んだまま、ひどく軽い調子で言った。
「昨日、お前が俺に渡そうとしてた手紙、見ちゃったんだよね」
カチリ、と。
小春の頭の中で、世界を動かしていたすべての歯車が、乾いた音を立てて完全に止まった。
「…………え?」
窓の外を吹き抜ける夕暮れの風の音も、遠くのグラウンドから聞こえてくる野球部の掛け声も、すべてが潮が引くように遠のいていく。
頭の中が、まるで強い漂白剤をかけられたように真っ白になった。
見た? 手紙を? いつ?
昨日の放課後、昇降口の下駄箱の前で渡そうとして、結局勇気が出なくて鞄にしまい込んだ、あの瞬間を?
いや、待って。
それよりも――中身を?
どうしよう。
もしかして昨日、鞄にしまい込むときに落として、それを遥斗に拾われて読まれて、また鞄に戻されたとか?
パニックに陥った小春の思考は、冷静な判断力を失い、最悪の想像へと一気に暴走した。
あの中には、誰にも知られたくない、ずっと胸の奥底に二重三重の鍵をかけて閉じ込めてきた、小春の精一杯の、命がけの初恋が書かれているのに。
「いや、昨日さ、なんかお前が昇降口のところで必死な顔して鞄に――」
遥斗がくすくすと笑い混じりに何かを続けようと口を開いたけれど、耳鳴りが酷くて、小春の耳にはもう雑音のようにしか届かなかった。
ドクン、と心臓が大きく跳ね、沸騰したような熱い血液が一気に顔面へと駆け上がってくる。
恥ずかしい。
恥ずかしい。
今すぐこの廊下の床が底抜けて、地球の裏側まで落ちて消えてなくなってしまいたいほど恥ずかしい。
けれど、その猛烈な羞恥心以上に小春の心を支配したのは、心臓を直接鷲掴みにされるような氷の恐怖だった。
こんな重たい気持ちを知られてしまったら、もう二度と、今まで通りの「気楽な幼馴染」には戻れない。
それどころか、今の遥斗はどうだ。
小春の必死の想いを知った上で、あんな風にポケットに手を入れて、余裕たっぷりに、面白そうにニヤニヤと笑っているのだ。
さっきまであんなに綺麗な女の子と楽しそうに笑っていた彼が、地味な幼馴染からの身の程知らずなラブレターを見つけて、優越感に浸ってからかっている。
――ああ、そうか。
私が三日も徹夜して書いた一生懸命な恋心なんて、モテモテの遥斗にとっては、退屈しのぎのからかいのネタにしかならないんだ。
「……っ!」
「ちょ、小春?」
気がつけば、小春は遥斗の伸ばしかけた腕の脇をすり抜け、廊下を全力で走り出していた。
「おい、小春! 待てって! どこ行くんだよ!」
背後から、先ほどまでの余裕が嘘のように消え去った、遥斗の慌てた声が追いかけてくる。
革靴がリノリウムの床を激しく蹴る足音が迫ってくるが、振り返ることなんてできなかった。
眼鏡の奥の視界が、後から後から湧き上がる熱い涙でぐにゃりと歪む。
こんな惨めで、みっともなくて、ボロボロに傷ついた顔を、他の誰に見られてもいい、彼にだけは絶対に、死んでも見られたくなかった。




