第1話 渡り廊下の片思いと、桜色のラブレター
昼休みの終わりを告げる予鈴がまだ鳴り響く前の、少しだけ時間の流れが緩やかになる昼下がり。
春の陽気をたっぷりと含んだ風が中庭の木々を揺らし、開け放たれた窓から校舎の中へと吹き込んでくる。
その風に乗って、一階の廊下からさざ波のような黄色い歓声と、熱っぽい溜息が幾重にも重なって広がった。
「久世くん、次の移動教室どこー?」
「ねえ、昨日のドラマ見た? 久世くんに似てる俳優さんが出ててさあ!」
「あ、ずるい! 私も久世くんに聞きたいことあったのに!」
そんな華やかで眩しい光景を、二階の渡り廊下からぼんやりと見下ろしている少女がいた。
篠宮小春。
肩まで伸びた癖のない黒髪は、朝起きてから手櫛でざっとまとめただけの無造作な一つ結び。
少し長めの前髪の下には、顔の半分近くを覆うような黒縁の眼鏡があり、指定の紺色のブレザーの下には、少し着古したくすんだベージュのカーディガンを着込んでいる。
小春はひんやりとした金属製の手すりに肘をつき、自分の体温で少し温まったところで、ずり落ちてきた眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと押し上げた。
アイプチやリップティントといった化粧にも、毎朝コテで巻く流行りの髪型にも、ベルトの上でスカートを二回折って短くすることにも、小春にはまるで興味がなかった。
同じクラスの友人たちからは、事あるごとに「小春は前髪と眼鏡で目を隠してるのが本当にもったいないよ。
まつ毛だってそんなに長いんだから、ちゃんとおしゃれすれば絶対かわいいのに」とため息混じりに言われてきたが、当の本人には誰一人として別の世界の住人の話をしているようにしか聞こえなかった。
朝、鏡の前で髪と格闘して三十分も時間をかけるくらいなら、通学鞄に入っている読みかけの文庫本の続きを、一ページでも一行でも多くめくりたいと思ってしまうのだ。
インクの匂いと紙の手触りだけが、人見知りで不器用な小春を優しく守ってくれるシェルターだった。
ただ、この世界にたった一つだけ。
どれだけ面白い推理小説のトリックよりも、どれだけ美しい純文学の比喩表現よりも、どうしても小春の視線を奪って離さないものが、今、目の前にあった。
「……相変わらず、人気者だなあ」
中庭に面した一階のガラス張りの廊下を歩く一人の男子生徒――久世遥斗の背中を見つめながら、小春は誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。
手の甲まで隠れるカーディガンの長い萌え袖を、自分の指先でぎゅっと握りしめる。
一八〇センチ近いすらりとした長身に、少し色素の薄い柔らかな茶色の髪。
誰に対しても分け隔てなく向けられる、春の日差しのように人懐っこくて穏やかな笑顔。
彼が女子生徒たちに囲まれ、まるで太陽のように華やかな輪の中心にいる光景は、この高校に入学してからもう何十回、何百回と見てきたはずだった。
それなのに、どうしても見慣れることはない。
見るたびに、胸の奥の一番柔らかい場所を、目に見えない細い針でちくりと刺されたような、冷たくて鈍い痛みが走るのだ。
久世遥斗。
学校中の生徒が「王子様」と呼んで憧れる彼だが、小春にとって、彼は雲の上の王子様なんかではなかった。
小春の脳裏に浮かぶのは、今の彼からは誰も想像できないような、もっと泥臭くて、汗くさくて、騒がしい記憶ばかりだ。
小学生の頃、理科の実験で使うからと嘘をついて、得意げな顔で精巧なゴム製のカエルや虫のおもちゃを小春の靴箱に仕掛けてきた、いたずら好きな男の子。
小春が悲鳴を上げて飛び退くと、お腹を抱えて涙が出るほど笑い転げ、最後には小春にランドセルで背中を思い切り叩かれていた。
夏休みの夕暮れ、耳が痛くなるような蝉しぐれの中で「小春に一番でっかいアメリカザリガニを獲ってやる!」と息巻いて用水路へ身を乗り出し、バランスを崩した彼のシャツを小春が掴んだせいで、二人揃って水しぶきを上げて滑り落ちたこともあった。
頭の先から泥と水草まみれになり、片方のサンダルを流されたまま手を繋いでトボトボと帰り、玄関先で双方の母親から文字通り雷を落とされた男の子。
小春が幼稚園の頃から飼っていた老犬の『マロン』を亡くして、庭の紫陽花の陰で声を殺して泣いていたあの日。
どこからか聞きつけて走ってきた彼は、膝小僧にかさぶたを作った泥だらけの半ズボンのまま、小春の隣にぺたりと座り込んだ。
余計な慰めの言葉なんて一つも言わず、ただ小春の小さな肩に自分の肩をぴたりとくっつけて、一番星が光り始めるまでずっと一緒に黙って座っていてくれた男の子。
そして――。
『小春! 大きくなったら、俺のお嫁さんになれよ! そしたら毎日、俺が小春の好きなプリン買ってきてやるからな!』
生え変わりで前歯が一本抜けた間抜けな笑顔で、燃えるような夕日に顔を真っ赤に染めながら、そんな大それたことをまるで「明日も遊ぼうな」と言うくらいの平気な顔で言い放った男の子だった。
「……ばか」
唇からぽろりとこぼれた言葉は、春の生暖かい風に溶けて消えた。
もちろん、ガラスの向こう、階下を歩く遥斗の耳に届くはずもない。
家が隣同士で、親同士も仲が良く、小中学校まではまるで双子のようにいつも隣にいた。
けれど、高校に上がってから、二人の間には目に見えない高い壁が少しずつ築かれていった。
遥斗は入学早々、その端正な顔立ちと気さくな性格、さらに運動神経の良さで一気に学年中の注目を集めた。
クラスも離れ、彼の周りにはいつもお洒落で社交的な男女が集まるようになった。
一方の小春は、騒がしい輪の中に入るのが苦手で、休み時間はいつも自分の席で本を読むか、静かな図書室のカウンターの中に引っ込んでいた。
地味で、引っ込み思案で、埃っぽい図書室の隅っこが一番似合う自分とは、もう住む世界が違ってしまったのだ。
高校生になってからの一年間、小春は何度も、何百回も自分にそう言い聞かせてきた。
幼馴染というプラチナチケットに甘えて、彼の華やかな世界の足を引っ張ってはいけない、と。
けれど、人の心というものは、頭で考えた理屈や綺麗事の諦めで、折り紙みたいに綺麗に折り畳めるようにはできていない。
離れようとすればするほど、遠くから彼の姿を目で追う時間が増え、胸の奥の熱は苦しいほどに膨れ上がっていくばかりだった。
小春は手すりから体を離すと、肩にかけた指定の革製通学鞄の中にそっと右手を滑り込ませた。
指先に触れるのは、上質なコットンペーパーの、少しざらりとした温かみのある感触。
そこには、淡い桜色の封筒が一通、折れ曲がらないように分厚い現代文の教科書の間に挟まれて入っていた。
三日前の夜、隣町の文房具屋まで自転車を走らせて買い求めたレターセットだ。
家族が寝静まった深夜の自室で、デスクライトの明かりだけを頼りに、何度も何度も書き直した。
書き出しの言葉を選んではペンを止め、自分の気持ちを正直に書いては「これじゃあ重すぎる」と顔を赤くして丸め、気づけばゴミ箱は白い紙風船でいっぱいになっていた。
結局、たった一枚の便箋を書き上げるのに、三日もかかってしまったのだ。
昨日の放課後、一度は下駄箱の前で彼を待ち伏せして渡そうとした。
けれど、友人たちと談笑しながら歩いてくる遥斗の姿を見た瞬間、足がすくんでしまい、どうしても勇気が出ずにそのまま踵を返して持ち帰ってしまった。
睡眠不足で少し重い瞼を閉じると、その裏には、自分が震える指先で綴ったばかりの文字が、まるで焼き印のように鮮明に浮かび上がる。
伝えたかったのは、回りくどい言い訳なんかじゃない。
たった一言。
『遥斗が好きです』
何でも言い合える気楽な幼馴染としてではなく、一人の男の子として。
ずっと前から、あなたのことがどうしようもなく好きでした。
小春は鞄の中の封筒を、角が少しでも潰れないように指の腹でそっと撫でた。
トクン、と心臓が早鐘のように打ち始め、春の陽気だというのに指先が氷のように冷たくなる。
「……今日こそ。
絶対に、渡すんだから」
逃げてばかりの自分自身を奮い立たせるように小さく息を吐き出し、小春は予鈴が鳴り始めた廊下を、自分の教室へと続く階段へ向かって歩き出した。
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