第10話 桜舞う公園の『反省文』と、隠された二通目の手紙
玄関のサンダルを突っ掛けて外に出ると、二人はどちらから言い出すでもなく自然と、住宅街の奥にある小さな『ひばり児童公園』へと足を向けた。
そこは、小学校から帰った二人がランドセルをベンチに放り投げて、夕焼け小焼けのチャイムが鳴り終わるまで毎日駆け回っていた、一番思い出の詰まった場所だった。
春の暖かい風に揺れる大きなソメイヨシノの枝からは、すでに満開を過ぎた花びらがハラハラと散り始め、茶色い土の地面に淡いピンク色の絨毯を作っている。
緑色の塗料が剥げて少し赤錆が浮いた鉄棒も、風が吹くたびに鎖がキイと軋む二人乗りのブランコも、プラスチックの黄色が日焼けして褪せた小さな滑り台も、すべてがあの頃のまま、二人のために時間を止めているようだった。
日曜日の昼下がりだが、ちょうど他の子どもたちの姿はなく、公園には穏やかな風の音と小鳥のさえずりだけが響いている。
二人はどちらからともなく、一番大きな桜の木の下にある、白いペンキの剥げた木製のベンチに、拳二つ分くらいの微妙な距離を空けて並んで腰を下ろした。
風が吹くたび、無数の桜の花びらが舞い落ち、小春の黒い髪や遥斗のデニムジャケットの肩に、まるで祝福の紙吹雪のように降りかかる。
しばらくの心地よくも緊張した沈黙のあと、遥斗が膝の上に乗せていた黒のレザーのショルダーバッグのファスナーを、ジジ、とゆっくり開けた。
「……小春、これ」
遥斗がバッグから取り出して差し出した右手を見て、小春の呼吸がピタリと止まった。
彼の少し骨ばった長い指先に挟まれていたのは、一通の、折り目一つない真っ白で清潔な封筒だった。
小春の心臓が、ドクン、と耳の奥で警報のように大きな音を立てた。
「……え? これ、なに……?」
「いいから、受け取って。
今、ここで読んでほしい」
遥斗の声はいつもより少し低く震えており、こちらを向くその横顔は驚くほど真剣だった。
見れば、茶色い髪の隙間から覗く彼の耳の先端が、春の陽気のせいだけではなく、ほんのりと真っ赤に染まっている。
小春は、自分の指先が小刻みにカタカタと震えるのを必死に抑えながら、両手でそっとその白い封筒を受け取った。
手紙。
遥斗からの、手紙。
もしかして、これは。
先週の日曜日の夜、あの暗い遊歩道で私が泣きながらぶつけてしまった、あの不格好でヒステリックな告白に対する、彼からの正式な返事――?
『ごめん、小春のことは大切な幼馴染としか見られない』と書かれているのか、それとも……。
胸が苦しいほど高鳴り、息が浅くなる。
小春はゴクリと唾を飲み込み、裏返した封筒のシンプルな透明シールを爪先で丁寧に剥がして、中からきっちりと三つ折りにされた白い便箋を引き出した。
一度ギュッと目を閉じ、肺の奥まで大きく深呼吸をしてから、どんな結果であっても受け止める覚悟を決めて、パサリと紙を開く。
そこには、まるで定規を当てて測ったように真っ直ぐで、少し筆圧の強すぎる大きな文字で、一行目の真ん中にこう書かれていた。
『 反 省 文 』
「……………………」
小春の頭の中の思考回路が、木曜日の放課後に続いて、再び完全にショートして停止した。
……え?
はんせいぶん?
ラブレターの返事、とか、お断りの手紙、ではなく? 『反省文』?
小春はパチパチと何度も瞬きを繰り返し、ずり落ちた眼鏡の位置を人差し指で直してから、その衝撃的なタイトルの下に続く文章へと恐る恐る視線を滑らせた。
『一、このたびは、大切な幼馴染である篠宮小春さんに対して、相手の気持ちも考えない極めて軽率ないたずらおよびデリカシーのない発言を行い、深く傷つけてしまったことを心より反省しています。
』
「…………」
小春の眉がぴくりと動いた。
何だこの、警察の始末書か学校の謹慎処分みたいな硬すぎる文章は。
『二、今後は、小春さんの驚いたり怒ったりする反応が昔から可愛すぎるからといって決して調子に乗らず、いたずらや軽口を叩く前に一度立ち止まり、相手の立場になってよく考えることを固く心がけます。
』
「…………っ!?」
二行目を読んだあたりで、小春の喉の奥から、「ぷっ」と変な空気が漏れそうになった。
ちょっと待って。
なんだこれは。
生真面目すぎるお役所みたいな文面の中に、さらりと『反応が可愛すぎるからといって』などと、とんでもない本音が混ざっているではないか。
顔が一気に熱くなる。
『三、また、大切な幼馴染を学校のトイレで一人で泣かせてしまったこと、および両家の食事の席で逃げ出させてしまうほど悲しい思いをさせてしまったことについては、いかなる理由や誤解があっても、一人の男として絶対に正当化できない最低最悪の行為であったと、深く悔いております。
』
「……ふっ、くくっ……」
もう駄目だった。
小春の肩が、小刻みにプルプルと震え始める。
『以上の三点を深く胸に刻み、今後はより一層、篠宮小春さんに対して嘘のない誠実な人間になるよう、これから先の一生をかけて努力することをここに固く誓います。
令和〇年四月 久世遥斗』
「……あはっ」
小春は慌てて片手で自分の口元を押さえた。
しかし、お腹の底から込み上げてくる温かくておかしな感情の奔流は、もうどうやっても指の隙間からせき止めることができなかった。
「あははははっ!」
「……おい、小春」
「あははっ! ちょ、ちょっと待って、何これ! あはははは!」
小春は白い便箋を持ったままお腹を抱え、ベンチの上で体を二つに折り曲げて、春の公園に響き渡る声で笑い出した。
「何って……見れば分かるだろ、俺からの反省文だよ」
「反省文って! あははっ! だってこれ、書式が完全に、遅刻常習犯が生活指導の先生に提出させられるやつじゃない!」
「……うるせえな、どうやって謝ればお前が許してくれるか分かんなくて、俺なりにネットで書き方調べて、一晩中かかって真剣に下書きして書いたんだけど」
「だ、だって、箇条書きだし! 『心より反省しています』とか『深く悔いております』って、遥斗が自分の机であんな難しい顔してこんな硬い文章書いてるの想像したらっ……それに二番目! なによ『反応が可愛すぎるから』って! 反省してないじゃない! あははは!」
小春が眼鏡の奥に涙を浮かべて笑い転げる隣で、遥斗の整った顔が、首筋から耳の付け根、そして頬に至るまで、みるみるうちに熟れたトマトのように真っ赤に染まっていった。
彼は気まずそうに口元を大きな片手で覆い、視線を明後日の方向にある滑り台へと逸らす。
「……悪かったな、小春みたいに本読まないから文才なくて。
ていうかお前、いくらなんでも笑いすぎだろ。
人がせっかく真剣に書いたのに」
「だって、だって遥斗が! 小学生のときに私の栞を破っちゃったときの『ごめんなさい。
もうしません。
はると』の紙から、やってることが全然、一ミリも進化してないんだもん! 字が漢字になっただけじゃない! あははは!」
「……っ、もういい! そんなに馬鹿にして笑うなら、それ返せよ!」
遥斗が羞恥心に耐えかねたように顔を真っ赤にしたまま向き直り、小春の手から便箋を奪い取ろうと長い腕を伸ばしてきた。
小春は咄嗟にベンチの上でくるりと体を捻り、その白い便箋を自分のカーディガンの胸の真ん中に、ぎゅっと両手で抱きしめて守った。
「やだ! 絶対返さない!」
「おい、そんな強く抱きしめたら皺になるだろ……」
「だめ! 皺になってもいいの! だってこれは、遥斗が私のために一晩中考えて書いてくれた、世界に一枚だけの私の手紙なんだから!」
小春が胸に手紙を抱いたまま、顔を上げて力強く言い切ると、遥斗は虚を突かれたように目を丸くして、伸ばしかけた手の動きをピタリと止めた。
小春は手紙を大切に胸に抱いたまま、まだクスクスと幸せそうに肩を揺らして笑っていた。
笑いすぎて目尻に浮かんだ温かい涙を、片方の人差し指の腹でそっと拭う。
こんなに心の底から、お腹の底から、周りの目も自分のコンプレックスも何もかも忘れて笑ったのは、一体いつぶりだろう。
高校生になってからずっと、そしてここ一週間、胸の奥に鉛のように重く垂れ込めていた灰色の雲が、春の柔らかな風にすっかり吹き飛ばされて、跡形もなく青空へと消え去っていくのを感じた。
「……ありがと、遥斗」
ひとしきり笑いが落ち着いたあと、小春は桜の花びらが二枚乗った自分のサンダルのつま先を見つめながら、ぽつりと小さく言った。
遥斗は少しだけバツが悪そうに自分の鼻の頭を人差し指で掻き、照れくさそうに視線を逸らした。
「……別に。
俺が全部悪かったんだから、当然だろ」
「ううん。
私が勝手に勘違いして、あんなに酷い態度取って、ひどいこといっぱい言ったのに……。
私のために、こんなにちゃんと反省して、どうしたら私が笑うか、一生懸命言葉を探してくれたんだよね」
「……まあな。
お前には、泣いてる顔より、やっぱり笑っててほしかったから」
「すごく、嬉しい。
あのときのひらがなの手紙と一緒に、一生の宝物にするね」
その言葉に、遥斗が弾かれたように顔を上げた。
小春は、ベンチのすぐ隣にいる遥斗の方をまっすぐ向いて、微笑んでいた。
分厚い黒縁眼鏡の奥で、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳を優しい三日月のように細め、白い頬を舞い散る桜の花びらと同じ色にほんのりと染めて。
いつものように。
昔、遥斗がこの世界で一番好きだった、何の曇りも遠慮もない、小春だけの無垢な笑顔で。
遥斗は、自分の胸の奥が、まるで熱いお湯をたっぷりと注がれたように、じんわりと、そして激しく温かくなっていくのを感じた。
トクン、と心臓が大きく脈打つ。
ずっと、この顔が見たかったのだ。
この一週間、夢にまで見た笑顔だった。
学校でどれだけ他の綺麗な女子生徒たちに華やかな笑顔を向けられても、どれだけ周りから「王子様」と持て囃されても、決して埋まることのなかった胸の奥の隙間が、目の前の地味で不器用な幼馴染のたった一つの笑顔で、音もなく、完璧に満たされていく。
「……小春」
「ん? なに?」
遥斗は、先ほどまでの照れが消え、吸い込まれそうなほど真剣な熱を帯びた瞳で小春を見つめ、自分のデニムジャケットの胸元――内ポケットのあたりに右手を差し入れようとした。
今こそ、あの日曜日の夜の続きを。
自分の本当の気持ちを伝えるべきタイミングだった。
しかし、目の前の小春の、一週間の緊張から解放されたばかりの、あまりに無防備で、心からホッとしたような幸せそうな笑顔を見ていると、遥斗はふっと肩の力を抜き、小さく首を横に振って胸元から手を下ろした。
今日じゃない。
今、ここでいきなりあっちの手紙まで渡したら、この真面目でパニックになりやすい小春のことだ、せっかく戻ったこの笑顔がまたフリーズして、今度こそ熱を出して倒れてしまうかもしれない。
まずは、ちゃんと元の二人に戻ってからだ。
「……いや。
なんでもない。
小春とちゃんと仲直りできて、本当によかった」
遥斗はそう言って、学校で見せる「みんなの王子様」の完璧な笑顔ではなく、幼馴染の小春の前でだけ見せる、少し照れくさそうで、目尻に皺を寄せた無邪気な少年の笑顔を浮かべた。
小春も、その笑顔を見てつられて嬉しそうに笑った。
二人はそれから日が傾き始めるまでのしばらくの間、舞い散る桜吹雪の下のベンチで、小学生の頃に戻ったみたいに、最近読んだ本の話や、バスケ部の練習の話など、他愛もない話をしながらずっと笑い合っていた。
だから、このときの小春はまだ知らない。
隣で笑う遥斗が着ているデニムジャケットの内ポケットの、ちょうどドクドクと脈打つ心臓のすぐ上のあたりに、実は『もう一通の手紙』が大切にしまわれていることを。
それは、先ほど小春に渡したような、事務的で味気ない白い封筒ではない。
昨日の土曜日、遥斗が隣町の大きな文房具屋のファンシーコーナーで、女子中高生たちの視線に耐えて男一人で耳まで赤面しながら三十分もかけて選んだ、小春が持っていたのと同じ、淡い桜色の封筒。
しかも、封を閉じるシールには、不器用な彼なりに選んだ小さな赤いハートマークまで付いている。
さっきの『反省文』なんかよりもずっと、何十枚も上質な便箋を書き損じては丸めてゴミ箱に投げ入れ、自分の語彙力のなさと不器用さに頭を抱えながら、日曜日の明け方までかかってようやく書き上げた、久世遥斗にとって人生で初めてのラブレター。
『昔からずっと、他の誰でもない、お前だけが好きでした。
幼稚園の頃の結婚の約束も、一生守るって言った言葉も、俺は今でも全部本気です』
そんな、直球すぎるほど真っ直ぐな言葉を綴った「二通目の手紙」を、学校中の女子が憧れる無敵の王子様が、実はさっきから手汗が滲むほど緊張して、今日も結局渡す勇気を出せずにそっと持ち帰ろうとしていることを、隣で「反省文」を宝物のように抱きしめる小春はまだ知らないのだ。




